子どもの徳育に関する懇談会(第8回) 議事要旨

1.日時

平成21年3月27日(金曜日)15時~17時

2.場所

合同庁舎7号館東館3階 1特別会議室

3.議題

  1. 子どもの育ちをめぐる現状と発達課題について
  2. 社会構造の変化と徳育への影響について
  3. その他

4.出席者

委員

鳥居 泰彦 座長(日本私立学校振興・共済事業団理事長)
安彦 忠彦 委員(早稲田大学教育学部教授)
大野  裕  委員(慶應義塾大学保健管理センター教授)
押谷 由夫 委員(昭和女子大学教授)
加倉井 隆  委員(江東区深川第一中学校長)
河合 優年 委員(武庫川女子大学教授)
小泉 英明 委員(独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター領域総括)
馬場喜久雄 委員(板橋区板橋第八小学校長)
平野 啓子 委員(語り部・かたりすと,大阪芸術大学放送学科教授,武蔵野大学非常勤講師)
山田 昌弘 委員(中央大学文学部教授)
渡辺 久子 委員(慶応大学医学部小児科講師)

文部科学省

銭谷事務次官、玉井文部科学審議官、德久大臣官房審議官、森社会教育課長、
高口男女共同参画学習課長、高橋教育課程課長、
磯谷児童生徒課長、濱谷幼児教育課長、鬼澤企画・体育課長、塩原児童生徒課課長補佐 

(国立教育政策研究所)
中岡教育課程研究センター長

オブザーバー

天野保育指導専門官(厚生労働省雇用均等・児童家庭局保育課

5.議事要旨

 (1)開会

 (2)議事

 ※事務局より資料2、3の説明ののち、資料について議論。

 

【鳥居座長】 特に、ここだけはぜひ意見をいただきたいと思うところを申し上げる。1つは、資料3の2ページの下半分にあるように、徳育のとらえ方である。具体的な考えをいろいろ聞かせていただいて、それを事務局に吸収していただきたい。例えば、2ページの下のほうにある機能分類、内容分類、指導原理という言葉は、最終的な報告書の中では、おそらく、一般の人が読んでもわからないため、普通の言葉に変えていく必要がある。そういうところを、具体的な言葉で提案いただきたい。それを受けて、だれに向けて、「審議の概要」を取りまとめるかという基本的なスタンスを決めていかなければならない。
  それから、もう1つは、資料3の9ページの一番上から。非常に大事なまとめ方をしているように思う。「今日的な課題」と言っているが中身を見ると、かなり基本的なことを事務局で取りまとめているので、特に集中的に意見をいただきたい。
  そして、これは報告書、あくまでも事務局の立場で取りまとめたものであるから、全体的に、役所用語で書いてあるところもあり、いろいろな言葉があるので、気づきのところがあれば、用語等についても、修正の提案があれば提案いただきたい。
  1ページ目について解説させていただきたい。中央教育審議会をはじめとするいろいろな文部科学省の審議会があるが、その多くの審議会は、審議会の結論を受けて、最終的には、何年もかかる場合もあるが、文部科学省が制度として、あるいは法律として整備をしていくもの、あるいは、行政の基本方針として取り上げていくもの、いろいろな形で取り上げ、制度として最終的なおさまりをつけるものは、ものによっては国会にかける、ものによっては内閣が決める、あるいは、ものによっては文部科学大臣の基本方針とする、あるいは文部科学省の基本方針とする、そういうプロセスを踏む。それと同時に、社会に向けての発信という意味もある。それからまた、例えば、教科書の問題だと、教科書をこれからつくっていく人たちが、それを1つの灯台のような、方向を示すものとして受けとめてくださるというものもある。どの方向に、この「審議の概要」が向いているかというのは大事である。これはまた、もう少し議論を深めてから、文部科学省とも相談しながら、その性格を少しずつ決めていきたいと考えている。
  それ以外の、1ページの第1章「徳育に対する基本的な認識」と称するところから、2ページの真ん中の「徳育のとらえ方」あたりについて、意見をお願いします。

【安彦委員】  資料3、2ページ目の「徳育のとらえ方」に「要素」という言葉が使われており、下線の2行下の「その国、その時代の理想とする人間像を求めて行われる人格形成における要素」とある。この部分をもう少し説明いただきたい。

【鳥居座長】  どこの国にも、どの時代にも、その国、その時代が理想とする人間像がある。その人間像を求めて、人格教育がなされる。その人格教育、人格形成にとって必要ないろいろな徳目を指しており、言葉に置きかえたほうがわかりやすいため、置きかえたい。

【安彦委員】  もし「要素」という言葉を生かすなら、人格形成における要素というと、「徳育」というよりは、「徳目」のような言葉になってしまう。徳育は働きかけであり、「徳目」とは要素である。ある意味では、人格形成でよい。

【鳥居座長】  「における」も違和感があるため、「人間像を求めて行われる人格形成」でおしまいにするか、人格形成にとって必要な教えの中身とか、そういうものに相当する言葉を入れるか、いずれか。安彦先生のご提案は、「人格形成」で終わるということか。

【安彦委員】  徳育という言い方であれば、むしろそういう働きかけなので、人格形成でよい。その下に例示されているのが、わりと普通のやり方なので、これ以外のものを何か出していくというのもなかなか難しい。

【鳥居座長】  「審議の概要」を、今まとめようとしているわけだが、「審議の概要」というレベルで、例えば、今ここに出ている生活習慣の確立というところを、もう少し具体的におりるのか、それとも、ここでとめるのか。例えば、生活習慣というものの中に、具体的には、あいさつや感謝の気持ちをどう表明する、あるいは謝罪の気持ちをどう表明するかというような行動の具体例を書くところまでおりるのか、それとも、そこのレベルまではおりないで、この報告書を取りまとめるのか。その辺については難しいが、いかがか。具体例は切りがない。しかし、具体的におりないでおしまいにするのもいかがか。

【安彦委員】  難しい。

【大野委員】  機能分類としてと内容分類としてという違いがよくわからなかった。自己に関することについて、生活習慣の確立があって、もう一つ下のところに、具体的なものが入ってくるとか、他者とのかかわりに関することで、社会性、人間関係能力の育成というのがあり、どういうものかという並びのような感じがした。

【鳥居座長】  せっかく機能分類、内容分類、指導原理と分類してくれましたが……。

【塩原課長補佐】  資料3の別紙をご覧下さい。例えば、学習指導要領における道徳教育の内容であれば、それぞれ内容項目を、どういった内容を教えていくのかということが指導要領の中に定められていくわけであるが、大きく分けていくと、主として、自分自身に関する内容、他の人とのかかわりに関する内容、自然や崇高なものに関する内容、集団とのかかわりに関する内容、こういうふうに分けられるのではないか。1人の自己を中心として、まず、目の前の人との関係ができ、さらには集団の関係ができ、社会との関係、さらには国家などにもつながっていく。一方で、そういった、人ではなくて、自然や崇高なものとのかかわりという分け方でよく内容を整理するという1つのとらえ方をここでは分類した。
  もう一方の機能というのは、そういったものを通じて、例えば、規範意識が形成される、道徳的価値観が形成されるという、中身というよりは、むしろそれでもって、どのような機能が果たされるかという、そういったとらまえである。

【馬場委員】  学校現場としてはこの表を使っているので、真ん中の分類としては、ある意味では大変わかりやすい。ただ、機能分類として、並べ方がばらばらなので、内容分類に合わせて、マトリックス的にそろえていったほうがわかりやすいと思う。
  それから、指導原理として、道徳教育としては、この3つ、よくわかるが、学校の道徳の時間としては、あまり、そこの知的側面、行動的側面をやっていないので、本質的にはもう一つ違う言葉があると思う。

【鳥居座長】  具体的に、知的側面という言葉のかわりに何かあるか。

【馬場委員】  よい言葉が思いつかない。

【玉井文部科学審議官】  これがぴったりかどうかは、もう少し議論をしていただければと思っている。結局、知識としてそういう大切なものがあるということに気づく。それが最後は行動にまで導かれるというのが、道徳におけるねらいとして常にある。わかりやすい例を述べると、心のノートをつくったとき、これは押谷先生のほうが詳しいかもしれないが、やはりそれぞれの大切な、小学校なら小学校の低学年の挙げられている項目、自分とのかかわり、他者とのかかわり、低学年なら低学年向け、それの大切なことがあるということにまず気づこうということである。気づいたら、今度は、それをもっと自分の心の中にしみ入るというか、わき出るようなものにしていき、それが現に行動としてあらわれるというところに導こうとして、心のノートはつくられている。そこは専門家である押谷先生からお話しいただければと思う。

【押谷委員】  先ほど、馬場先生がおっしゃった学校現場でどうするかというときに、やはり道徳的実践力と道徳的実践という、内面的な力と、いかにそれを実践していくかという、その2つを両輪としながら指導の具体化を図っていこうという形で取り組まれていると思うその場合に、道徳の時間というのは、内面をしっかり耕すということで計画的、発展的に行われるが、どうもそれが具体的実践となかなかつながっていかないというのが大きな課題としてあるように思う。その部分を、審議官が言われたような、子どもたちみずからが、そういう実践につなげていく道案内ができるような、あるいはヒントを与えていけるような、そういう媒介物として心のノートがある。
  だから、ここで機能分類と内容分類という、言葉がなかなか難しい。そういう内面的な力の育成と具体的な実践と、どう結びつけていくかというところを、少し前面に押し出しながら提案をしていくというのが、学校の現場の先生方も納得いく。
  それにかかわって道徳あるいは徳育というのも、結局それは人間の文化とものすごく関係している。その文化というのは、基本的には行動様式とか、あるいは、いろんな文化財とかそういうものの中に具体化されているわけであり、生活習慣の確立というそのレベルで押さえるのではなくて、そこから具体的に、文化、伝統として、こういう行為が我が国においてはずっと培われてきているとか、そういうことをしっかりと提案していかないと、結局、具体化しないという気がする。
  それと、もう一つ、指導原理としてのところで、知ること、信じ感じること、当然であるが、道徳教育において、やはり意志力。こうせざるを得ない、あるいはこうしようという強い意志力をしっかり育てていくということが、結局は行動、実践的側面へとつながっていくように思う。そのあたりの育成をどうするかということも大きな課題かと思う。

【鳥居座長】
  今まで発言を総合して考えると、今、機能分類、内容分類という書き方で、我々の頭の中で構造ができているが、一般の方がこれを読んだとき、もう少しわかりやすい表現があるかもしれないのでもう一回考えましょう。

【山田委員】  少し離れるかもしれないが、内容、行動という2つの側面があるということがよくわかったが、その先に、もう一つ、普遍化という側面を1つ考えなくてはいけないと思っている。ここに書いてあることの中身はほんとうにすばらしいことで、内容も常識的である。
 それが、なぜ今できなくなっているのかというのを考えるときに、ヒントになる事例を幾つかお話ししたい。ある卒業論文の中で、電車の中で化粧をするという行為について分析した人がおり常識的に考えると、電車の中で化粧をする人というのは常識がなく、非道徳的な人だと考えがちだが、いろいろ調査・分析をすると、そんなことはなく、つまり、身近な人の前で恥ずかしい顔をさらしたくないという非常に道徳的な人だったということである。ただ、電車のほかの人に対して、人だと認識してないという、ただ、そういうことだったわけである。
 あるシンポジウムで1つ例を取り上げたのは、借金を返すために強盗をするというのはどういう人なんだろう。つまり、借金を返さないといけないという規範意識はとても強いが、その結果、犯罪行為を犯してしまうという、そういうケースはよくある。つまり、これは、身近な人に対しては非常に道徳的に振る舞えるが、全く無関心、関係のない人には道徳的でなくなってしまう。つまり、内と外というか、仲間と非仲間において、いわゆる道徳的と非道徳的が切りかわるということが、問題である気がする。だから、ここに書かれているような中身について、多くの人は子どもについてわかっていると思うが、それが仲間と非仲間で変わってしまう。そこをどう、社会という、普遍的なものに広げていくか、そこが1つのポイントではないか。
 インターネットの問題に関しても、いろいろないじめに関しても、仲間に対しては義理がたく、仲間ではないとみなしたものに対しては異常に非道徳的だという傾向が見られる。だから、仲間だけではなくて、普遍的な社会というものを感じる、そこに広げるということをどうしていくかということにも、言及していただければと思う。だから、中身機能、そしてさらには広げるというところまで見通すことができればと思う。ただ、具体的にどういうふうにすればいいのかということに関しては、考えている最中である。

【鳥居座長】  要するに、仲間の間では義理がたい、非仲間については非道徳的でも構わないという新しい風潮が出てきているという話。仲間に対しては義理がたいので、その義理を果たすために、非仲間に対しては、非道徳的でも構わない。非道徳的ということは、普通の人間には、実は、道徳的か、非道徳的かの判断基準が別にあるはずである。それを、この報告書では教えてやる立場に立つのか、自分で考えさせろという立場に立つのか、そこはどちらか。

【山田委員】  難しいところである。知識ではわかっている。知識を教えるということでは、なかなか内と外というのは乗り越えられないという気もする。おそらく、ここら辺をどういうふうに教育の中で、社会というものの意識を培っていくかというところが、これからの教育の問題ではないかと思う。

【鳥居座長】  年寄り世代には、全く新しい世代が生まれたなという感想しかない。確かに、それは大問題である。

【安彦委員】  今の問題は、子どもの様子を見れば、内と外の関係というのは発達的に変わっていく。だから、やはり発達の様子に合わせて、内と外の関係をどうするのかということを決めていくような書き方でないといけないということ。ただ、一般的に、すべての年齢段階にこうあるべしと書くことはできないのではないかと思う。
  簡単に言えば、小さいときは模倣行動が中心だと思うので、そうすると、ある意味では、よし悪し考えずに、仲間や大人の行動をまねするという行動をとると思う。そういう意味では、まだ知的に考えるということよりは、むしろ、道徳的判断の前の段階のメンタルな性格が前面に出てしまうと思う。でも、やはり思春期あたりから一番クリアに出てくるわけだが、自分がやったことに対してチェックをかけるようになるので、そこではっきり葛藤が生まれてくる。だから、むしろある部分については心理学者のピアジェなどの発達の考え方をベースにしてはどうか。もっとも、発達段階の考え方が、多少今は変形しているかもしれない。だから、そういうものを、これまでここで教えてくださった心理学の先生方のものをベースにして、今の内と外の関係というのは、この時期はこんなふうですよ、こうしたほうがいいんじゃないですかというのを、ある程度、段階ごとに書いていかないといけないと思う。

【鳥居座長】  その点については、安彦先生のおっしゃることは、資料3でいうと、発達段階ごとに書いてあることは3章、6ページに書いているので、今でも、また後ほどでも、安彦先生をはじめ、ほかの先生方も点検いただいて、意見があれば、お出しいただきたい。
 もとの議論に戻りますが、具体的で、非常にわかりやすい議論の素材を山田先生が出してくださった。電車の中で化粧するというのは、私たちの世代から言わせると、人の見ている前でやってはいけないこと、あるいは、やったら恥ずかしいことの境目の線が動いたなという感じがする。人の見ている前で、セックスはしないが、人の見ている前で化粧はしていい。判断基準を、彼らは持っている。だから、電車の中でやっていいことが動いた、それがもっと動いてしまうという感じがする。

【山田委員】  今の点で、私は卒論を見る限りでは、動いたというよりも、仲間のうちでは、仲間の前でやはり化粧はしてはいけない。自分の知っている仲間の中では、その前で化粧をするというのは非常に失礼なことだという意識はある。だから、動いたというよりも、やはり電車の中の我々が人間じゃなくなっているというほうが、本質なのかなという気がしている。

【河合委員】  関係することかもしれないが、内と外の関係が変わったというよりも、同じようなことを私も、学生のレポートの中で読んだ。それはどういうことかというと、空気が読めないというのは、空気を読んでいるから空気が読めないように見えるんだということである。つまり、その人はクラスの中で、子どもに何かを教えているときに、隣の子どもはそれを聞いているはずだと書いている。隣の子どもはそれを聞いているから、同じことをできるはずなのに、自分に向けて話されていないことについては口を挟んではいけないと書いているつまり、関係性のルール、内と外との関係というものが、自分はそこにいるけれども、他者であるから、そのことがおかしいということがわかっていても、それに口を挟んではいけないということである。だから、そこで起きていることについて、おかしいということがわかっていたり、その場の空気というものがおかしいということはわかっていても、外の人間が加わるということはよくないという、そういうルールを獲得してしまっているのではないかと思う。
 だから、我々が持ってきた、いわゆる仲間という関係性は変わってしまった。内と外ではなくて、他人のことについて、わかっているけれども、それについて口を挟むことはよくないというルールがつくられてしまっている。昔は、隣で困っている人がいたら手を差し伸べましょう、同じように痛みを感じましょうと思っていたが、痛みを感じてはいけないというようなルールを今の子どもたちが習得したのである。だから、一見空気が読めないけれども、実は空気を読んでいるからこそ、空気が読めないような行動をするのだというようなことを学生が報告をしてきた。目の前で何かしていても、それは自分の中の人間でなければ違う。だから、内の人に対しては、かえって、お化粧してはいけないというルールをつくるのはあり得ることであるし、内の人の前では、お化粧してもいいというルールもつくり得る。しかし、そのつくり方が、今までのように1つのものではなくなった。私たちが感じているものではなくて、それぞれの文化やグループが持つものによって変わってしまったので、今、こういう、少し混沌とした状態になっているのではないかというように、別の視点から私も同じようなことを経験したので、報告をさせていただいた。

【鳥居座長】  今、非常に大事な議論をしていると思う。別の表現の仕方をあえてもう一回すると、今お話に出たようなもの全部、昔はお行儀のカテゴリーだった。お行儀を教えるというのを徳育だと考えるのか、山田先生と河合先生がお話しくださったように、お二人の解説のような視点で、若い人たちの新しい考え方を理解した上で、さはさりながら、我々として教えなきゃならないものは何かと考えるか、いろいろな立場がある。

【平野委員】 今の点については、お行儀ととっていいのではないか。その角度から教える方向に持っていったほうがいいのではないかと思う。確かに出てきた現象から見ると若い人たちの特徴といえるだろう。しかし、話を聞いていてふと思ったのは、「旅の恥はかき捨て」という言葉の旅という状況が、昔からあることだ。今の私たちの世代でも、旅先で平気で物を捨てて、どうせ私たちがどこのだれだかわからないからいいというような。そういうのは、旅に一緒に行っている人たちが、みんな一斉に同じことを行えば、そのグループの中では、知り合いであっても、そのグループがみんなで一斉に同じことをやるなら、それはいい。しかし、周りの知り合いがみんなやらないのなら、自分だけやるのなら、あの人はと言われてしまうのが嫌だ。さらに、そこに住んでいる、もともと旅先の住人は自分たちのことを全然知らないからいいというようなことなど、昔からあったと思う。それはやはりお行儀が悪いことの1つだったと思う。
  若い人たちにとっては、旅先ではないが、電車の中に人はたくさんいるし、人口が多くて、マンションだって知り合いの顔が少ないということで、どこもかしこも知らない場所を歩いているのに近いような状況ができているのだとしたら、お行儀が悪いという1つの角度から、現代の傾向を分析してみたらどうかと思うが、どうだろうか。

【鳥居座長】  平野さんから、同じ問題について意見があった。例えば、64年前に日本が戦争に負けた、その2年後に、ルース・ベネディクトが日本について『菊と刀』という本を書いたわけである。その中で、日本人が戦争に負けて、いかに腑抜けのようになった状態かということを彼女は表現して、ルースは同時に、恥を忘れた日本人と言っている。「旅の恥はかき捨て」の恥である。要するに、恥という文化を日本人は忘れたということを彼女は指摘した。不思議な人で、日本に1回も来たことがないのに、あれだけよく日本のことがわかったなと思うが、日本人が昭和22年の段階で外国人に指摘されたほど、大事にしていたのを忘れてしまった恥の文化。それを別の本では、今度は新渡戸稲造は、今から108年も前に書いた本の中で、「そんなことをしたら笑われるぞ」という言葉で子どもたちを教育したと表現している。要するに、日本のこれからについて、恥をかいてはいけない、もっと自尊心を持って生きなければならないという言葉をどう語りかけるかという問題に尽きるのではないか。

【大野委員】  それに関連して、先ほど、山田先生がおっしゃったどう広げるかというところで、意見を伺って思ったのは、内というものがどんどん小さくなっている、狭くなっているということ。昔だったら、国が内であったり、地域社会が内であったのが、仲間になり、何人かの友達になりと、どんどん狭くなっているから、内と外の境界というか、内が狭くなっているという感じだと思う。だから、外があるということ、外とどうかかわっていくかということを体験的に教えていくというか、教育していくというのはとても大事。境界を広げていくというのはどうなんだろう。

【加倉井委員】  もしかしたら、発達のほうの話になってしまうかもしれないが、1つは、内と外の話で、私は中学校のため、中学校の子どもの姿と社会との関係について感じていることだけだが、例えば、高校野球を見て、話を聞いてみると、すごく一生懸命やってかわいいねみたいな、一般的に、よく一生懸命やっている子って見るが、中側から、例えば、運動部で全国大会に出るような子は、大変な努力をしている。外から見たかわいいという雰囲気とは随分違う、そのギャップ、外から見たイメージ、それをとらえられていくギャップであるとか、本人たちが相当頑張っているが、外から見られる、簡単に、よくやっているみたいな、そういうギャップというのはとてもあると思う。
  それから、子どもが、社会から見られる中学生や高校生の像というのが、意外に差がある。子どもっぽく見たり、それから、たばこ1つ吸ったら、もう野球部なんか出られないというように、かなり厳しく見られたりという、そういうすごく差がある中で、やはり異年齢とかかわる体験というのはとても少なくなってくる。小学生ぐらいだと、子ども会みたいなところで大人と接しているが、中学校、高校になるとほとんどなくて、野球なり、運動部なんかで頑張ってやっている。職場体験、ボランティア体験でつながっているが、やはり大人社会と接していきながら他の文化を学んでいくというか、世代を超えた文化を学んでいくというのは、今、とても大事ではないかと思っている。やはり社会の中で社会性を学んでいくということをこれから大事にしていく必要がある。それが1点である。
  それから、もう1点、違う発想で申し上げる。何となく、学校で、規範意識、道徳などが欠けているところに対して、そこがだめだから何とかしていきましょう。内面を育てるのでも、偉い人や立派な人を見たり、自分はそんなにすごくないから、自分もそこに到達するように頑張ろうと、何となく義務的というか、反省的な気持ちでもってよくしていこう。そういう発想は、今の子はどうか。逆に、そういう人と同じぐらい、自分もそういうものを持っているんだという自信といいますか、そんなものが大事である。
  同時に、立派だ、立派だとおだて上げてやらないと、なかなかできない。何となく自分がおだてられているというか、すごい、すごいと言われて初めて自信がつくという、何となく根なし草的な自信というか、そういうところで動いている。そういうこともあって、自己顕示欲や、悪ぶってみるとか、そういうことが起こってくる。自分で結構いいところがある、結構いいことをしている、そういう自分自身みたいなものが肯定的に見つけられると社会ともとてもうまくいくのではないか、社会とも接していけるのではないかと感じる。
  異年齢というか、大人社会との接点をもっとつくっていくということと、何となく自分自身への肯定が、今、欠けているので、どうしても悪ぶったり、少し逸脱したりということが多くなって、規範意識みたいなところの問題が出てくるのではなかろうか。これは、思っているだけであって、実際に何かを調査したわけではない。

【小泉委員】  やはり、今、とても大事だと思われるのは、相手の立場に立つ、他者の立場に立つ、それから、思いやりということである。自己中心的なものが非常に顕在化している中にあって、相手の立場に立つ、他者の立場に立つということから、相手に対する行動というのも、倫理とか道徳に見合うようになる可能性があると思う。それから、社会規範というのも、単なる規範を守るということではなくて、他者のことを考える、社会を考えると、自分はどう行動すべきかということがおのずと出てくる。全体の潮流として、基本的に他者の立場に立つ、思いやりというのが必要だと考える。「倫理とは温かい心である」という考えもある。

【押谷委員】  昔の道徳教育、徳育ということで考えたときに、徳というのを大変重視したと思うが、例えば、「徳を積む」なんていう言葉がある。戦後の道徳教育は道徳性の育成と言うが、「道徳性を積む」というのはなかなか言わないような気がする。徳を積む、あるいは陰徳とか、日本の文化の中で、徳に対する独特なとらえ方がある。やはり相手の立場に立って、いろいろなことをしましょう云々と言われても、一体そのことが自分にとってどういう意味があるのだろうかというところが、子どもたちにしっかりと理解できると、それをしっかりやろうとなるのではないか。
  結局は、小泉先生がおっしゃったような、相手の立場に立って、困っているときに、いろいろ施しなりする、陰徳を積んだりすることが、実は自分を成長させていくことなんだよというような、そういう部分が徳育という言葉の中にしっかりと位置づけるような表現というのがいいのかなと思うが、いかがか。

【鳥居座長】  今、ものすごく大事なことをおっしゃっていると思う。事務局でも、ぜひテークノートしていただきたい。今の押谷先生のおっしゃったことに対する答えは、すぐには出てこない。

【河合委員】  先ほど、鳥居座長がおっしゃった恥のことであるが、この委員会の、どういうふうなまとめ方をするかというところにも関係してくると思う。ゴール、つまり恥という、そういうことがゴールとして設定されている。それは、先ほど安彦先生が言われたような、要素という考え方とも関係する。恥というものを知りましょうとか、そういう行動を知りましょうというのがゴールなのか。そうではなくて、結果としてそういうものが出てくる。先ほどのマナーもそうだと思う。
  発達心理学の視点からすると、やはり環境は自分に対して応答しているんだと、人は見ているんだという結果として、さまざまな行動が律せられるという。最初は他律かもしれないけれども、やりとりの中で形成されていく。つまり、今の道徳教育の中で、この委員会がどういう発信をするかということになったときに、こういうものが欠けているからこうしましょうという考え方で、その要素を分析して、そこを補強しましょうとするのか、いや、人というものはこういうふうにあるべきで、あるべきであると言ってはいけないのかもしれない。人というのはこういう特徴を持っているので、今、我々が残してきてしまった、切り捨ててきてしまった人間関係というものを、赤ちゃんのころからもう一度構築することによって、結果として、私たちは、人の前ではこういうことはよくないとか、だから、ゴールとしてそこにあるのか、いや、結果として、我々がかくあってほしいという願いのようなものが自然発生的に出るのかという、その視点がどこかで、また、塩原さんのほうでどう考えておられるのかというのをお聞かせいただけると非常に助かる。
  そのことは、もう一つのこととも関係するわけだが、今起きている問題に対して私たちが提言できることと、次の世代の子どもたちに向けて私たちが備えることができるもの。だから、今ここで起きている問題に対して私たちが何かするということは、ある意味では、非常に型にはめて、こうしましょうという形で教育の中に組み込むということになるかもしれない。しかし、次の世代に育つ子どもたちに向けてということになると、むしろ渡辺先生や私がずっと一貫して言ってきたように、お母さんに対して、養育者に対して、子どもはこういうものなんだからこういうふうに接してください、こんな特徴を持っているんですよということを発信し続けて、その結果として、十数年後にその子たちがみずから律するような社会をつくってくれるかもしれない。この2つのところが、今ここで起きている問題に対して、そこのものを何とかしようという視点と、いや、次に備える我々がいなくなった後、この国をどうするのかということをゆだねることができる子どもたちにどうするのかと。そのあたりのところも少し整理していただけると、少なくとも私が何かコメントするときのよりどころになると思う。

【鳥居座長】  ただ、一方的に、どっちの話をしていると聞かないでほしい。要するに、我々は、語りかけるべき相手がたくさんいる。今の場合の話だと、母親に対しては、子どもを慈しんでやってくれという話をいろいろな角度からしなきゃいけない。と同時に、今度は子どもたちに対しては、母の愛を信じろということを言わないといけない。その両方を、この報告書の中でどう書き分けていくかということを、今、投げかけられたと思う。

【安彦委員】  今の、先生のおまとめの筋で私よいと思っているが、どちらかというと、両面ある。両方言わなきゃいけない。大人にもはっきり言っていただきたい。とりわけ大人に対して、まず、大人がそれで襟を正し、ある意味では大人らしい規範意識を持っていただかなければ、子どもは絶対によくはならないと思う。
  そういう意味で言うと、正直言って、初めからそう思っているが、まずは、道徳というのは、子どもの発達から見ても、社会的なものだと思う。そもそも社会的なものであり、初めから個人的なものではないと思う。勇気を持つとか、わりあい個人的なレベルへ、望ましい自分になるというのが価値のあることだとと思うのは、かなり後になってからだと思う。まずは、社会とのかかわりを望ましくやっていくというか、それが先だろうと思う。そういう意味で、逆に言えば、道徳というのは、1人で生きている場合には何の必要もない。2人以上の社会に生きて初めて、道徳性というのが問題になる。そういう意味では、社会的なものだということをまず押さえておきたい。そうすると、やはり大人。ここで、今日的課題の中に、社会構造、科学技術の発展とある。ここで、前からいい言葉がないので、ずっと気になっている。
  例えば、メディア、マスコミ、ゲーム、いろんなものが周囲につくられている。まさにこういう、いわゆる商業主義の中で、せっかく子どもたちをこう育てたいと思っても、すぐにそれを壊すような道具や考え方やシステムがどんどんつくられてきている。こういう部分について一言も言わないでおいて、子どもたちだけに、おまえたちはこうやれと言うことは一面的な話だと思う。改めてそういう意味では、一言で言えば、物をつくる人、あるいはシステムをつくる人の設計思想が問題だと思う。あるものをつくる、あるメディアをつくる、あるゲームをつくる、その設計者がどういう思想を持っているかということを問わないといけないと思う。ゲームをつくっている人、メディアをつくっている人、そういう人たちの設計思想そのものを我々が問わないと、道徳教育をやっても、子どもたちがほんとうに望ましい方向にはちっともいってもらえないだろう。そう思うと、改めてやはり、社会に向かって、特にものづくり、あるいはこういうシステムをつくっている人たちの考え方に対して問うことのできるものが中身にあってほしい、大人に向けて。
  改めてそう思うと、先ほどからおっしゃられているようなマナーの部分とか、子どものしつけ的なところは、一言で言えば、社会があるから、社会がそれを大事だと思っているから身につけなければならないわけでして、また、身につけろと言えるわけでして、今、ほんとうに、いろんなことについて、自信を持って、これを身につけろと言えるような社会的な、ある意味で共通のといいますか、価値規範というのがどれほどあるのか。価値観が多様だからといって、どれも相対化してしまっているから、、いずれにしても、そういう風潮の中では、先ほど言われた恥にしたって、望ましい価値にしたって、伝統的な日本の文化とかと言われても、今、それが日本社会にどれほどのものがあるかといえば、ない。もちろん一部にはあると思う。大事なものだということであるから、もしそれを教えようとするならば、またゼロから説明しないといけない。今は、社会をバックにそのまま教えることはできない状態になっている。そういう意味では、やはりかなり丁寧に、大人に向かっても子どもに向かっても教えるというか、わかっていただくような形で、状況全体を変えないといけない。
  それと関係して、直していただきたい。5ページの「個人主義」という言葉、個人主義は、辞典を見れば、決して、こんなマイナスイメージではない。だから、これは誤った個人主義であろう。括弧づきか何かにしていただくか、ちゃんと「誤った」と入れていただきたい。こういう利己主義的な個人主義はまずいということをはっきり言わないといけない。それは同感。でも、個人主義そのものをマイナスに見るのはおかしい。だから、今の社会がと言っているのもそういうことである。今の社会が思い込んでいるものについて、彼らが、社会全体が、大人がそう思い込んでいることについて気がつかせないとだめ。その辺をきちんと入れていただかないといけないと思う。

【鳥居座長】  平成10年の中教審答申の目次第2章「もう一度家庭を見直そう」という章とその次、第3章が畳みかけており、「地域社会の力を生かそう」になっている。それだけで終わらないで、今、政治の世界、あるいはメディアの世界についても、もっとしっかりしてくれよという章を設けようかどうかで大激論があった。結局、ここでとまったが、思いがいっぱい残った。その残った思いはコラムにした。それが、3枚目コラム目次。それを上から拾っていくとよくわかる。例えば、上から2番目には「育児不安」、もう少し先のほうにいくと、ひとり親家庭、子どもの虐待の話、母子保健事業があって、中段ぐらいにくると、単身赴任の問題、あるいはアメリカで導入されているVチップ制度の問題。随分議論があって、そもそもそういう見てはいけないテレビをつくるやつのほうが悪いという話から始まったが、さはさりながら、見てはいけないテレビをあるものは見てしまうわけだから、とめるにはこれしかないとかいういろんな議論があったのを、全部コラムで残した。
  我々も、いろんな議論を伺っていると、いろいろな思いが残っていると思う。それが、例えば、平成10年答申ではコラムとして残したが、こういう手も1つある。

【安彦委員】  ほんとうによく残してくださったと思う。ただ、やはり10年たって、状況は一層深刻だと思う。お話があったように、子どもの心は非常に複雑に入り組んでいて、正直言って、ほんとうに自分でもどうしていいかわからないような状態になっていると思う。私は、さっき、先生が、親が愛していることを子どもに信じさせなきゃいけないとおっしゃった。いや、全くそのとおりだが子どもから見たら、この親は信じられるのかという状況。それはやはり一方にあるので、やはり大人をまず変えないといけないという部分がある。こんな難しいことはない。でも、それをやらなかったら、子どもは救われない。いくら、おまえは信じなさいと言ったって、子どもから見れば信じられない親が目の前にいるという状況は、まずは改善しないといけないという状況だから、ある意味で、このコラムよりも一歩踏み込んでいただきたい。これよりさらに、何らかの形で、一番大きいのは、今の政治云々というよりは、もっと広く社会全体の、メディアを含めた構造。こういう社会のあり方、社会システムのあり方というのが、ほんとうに子どもにとって、あるいは道徳教育にとってよい状況かといえば、まったくそうではないと思うので、まずは、そういう客観的な条件というか、社会的な条件というか、そちらに向けてはっきりと何か言わないといけない。

【馬場委員】  5ページの下のほうの、「『子どもを大切に』と声高に叫ぶ裏で、社会の実態は『大人中心』になっている」というか、母親とか父親でもいろいろ話していると、そういうところは大変感じる。今、発信していく、訴えていく中で、この辺はかなりしっかりととらえていってほしい。
  例えば、知り合いの若い女の先生、最近、子どもが生まれまして、私はバギーも乳母車も買いません。抱っこやおんぶして行きますということである。私は、大変いいことだね、頑張ってねと応援したが、やはり子どもと接する中で、おぶること、同じ方向を見ているということで、私は一番いいと思う。次に抱っこ、抱っこも、ある場所、方法でいろいろ違ってくると思います。最近、バギーが非常に大きくなってきて、それを持って電車に乗って、何でこんな迷惑かけているんだ。階段を上るにも、駅員さんを呼んで手伝ってもらっている親がいる。駅員さんは親切なのか、いや、そうじゃないんだと疑問があるが、テレビで、なぜそんなに頑丈になってきたのか、邪魔になってきたのかというのを見たら、なんと5歳ぐらいまで乗せている。そのテレビを見て、えっ! 子どものためにはちっともよくないと感じた。買い物に行って、子どもがあっち行ったりこっち行ったりするから、それに乗せて、結わいてしまって、親は楽に買い物していると感じた。そんな状況を見ていると、やはり子ども、子どもと言いながら、自分の思いどおりにやっている、そんなところを非常に感じる場面が多いので、このあたりは、非常にしっかりと述べていくとよいと思っている。

【鳥居座長】  少し飛ばして、9ページについては意見をぜひいただきたい。私も、最初から少し気になっているのは、上から2ポツ目「教えられたルールに従うこと」。教えられなくてもルールには従うというのが我々の世代の考え方なので、余計なことが書いてあるという感じがする。

【安彦委員】  2つ目の検討事項例のところの基本的な方向性というところ、最終的にどういう大人にしようという、発達段階から最後の段階で、成人になった状態で、どういう大人にしようとしているのかということについて、アスタリスクでいろいろ観点、例が挙がっているが、これはこれとして大事なことだが、これを全体として、最後の私たちが求める成人の姿といいますか、自立した成人の姿としてどういう人間を求めているかというのは、やはりはっきりと考えてほしい。少なくとも私は、「自立」という言葉は使ってほしい。自立した大人ということを言わない教育者も親も多いので。その場合の自立というのは、何に向けての自立かといえば、やはり「未来の主権者」としての大人である。未来の主権者としての子どもを、いずれちゃんと主権者として働けるような国民として育てるという、そこが1つ、字句として欲しい気がしている。表現はいろいろあり得ると思いますけれども、何かそういうものがないと、自立した個人というのを端的になかなか表現しにくいため、私の場合は、そうやって未来の主権者としての自立した個人というのを考える。そういう視点をどこか、方向性として、最後、求めているものは、中身はそれぞれ、またいろんな個人個人によって重点が違うような、個性の違うような人が育つと思うが、基本的な部分では、やはりすべてちゃんとわきまえているという意味で自立してないといけないと思う。その辺の方向を表現できるような何かを考えてほしい。

【鳥居座長】  そのとおり。ただ、問題は、国民共通の目標というのか、理念というのか、そういうようなものが、改めてここで書かないと消えている。アメリカの話を聞かせてもらったり、イギリスの話を聞かせてもらったりすると、例えば、建国の理念みたいなものは独立宣言にも書いてあるし、アメリカのリンカーンの演説にも出てくるし、身近なところでは、たった3行のアメリカの憲法の前文に出てくる。日本の憲法というのはやたらに長いけど、アメリカの憲法ってたった3行の前文で、その中に6つの理念が出てくる。それが建国の理想であり、国民共通の目標。まさに、今先生がおっしゃった主権者としてというのも全くそのとおりで、日本では、まず憲法の中に書いてあり、憲法の前文に書いてあり、それが子どもの頭、あるいは大人の世界では、もう空回りしている。大人の世界では空回り、子どもの世界にはもう存在しなくなっている。それを、もう一度訴えようという話。だから、とても大事なことをおっしゃっていると思う。

【山田委員】  私も今の意見に賛成である。先ほどからの話とも関係するが、やはり自分が社会をつくっている、参加しているという感覚が最近弱まっているという気がする。おそらく、アメリカというのはとてもわかりやすい国で、アメリカをつくりたい人がつくった国なので、自分たちが社会をつくっているんだ、だから、「Yes we can」というのがすごく響くと思うが、日本のように、いつの間にかできてしまっている国というのは、自分たちが社会や国をつくっているというような意識がなかなかわきにくいという気がする。
  家庭においても、学校においても、地域においても、自分がそういうものをつくっている一員だというようなことを示せば、自然と道徳というものはわいてくるものだと思うので、参加という視点、家庭への参加、学校への参加、地域への参加、主権者としての参加という点も含めてもう少し強調していただければ思う。

【鳥居座長】  社会の側から言うと、彼らがインボルグする力があるかどうかであろう。

【山田委員】  大人自身があまり参加という感覚がないところに、子どもに参加しろと言うのも、なかなか言いにくいという気がする。

【鳥居座長】  そのことも触れたほうがよい。。

【渡辺委員】  やはり私たちは、戦後の60年間の、日本人としての大変な試行錯誤の中に、今日ここに至ったという感じがする。私自身はベビーブームに生まれて、親の試行錯誤の中で、いろいろな育児といろいろな実験もされ、例えば、スポック博士の育児を私たちは受けたけれども、今、私たちの時代になったら、むしろ日本の抱っこやおんぶというふうにして、日本はやはり大戦敗戦をきっかけに、大きな課題として、生き延びていく。アジアの文化国として品位を持って生き延びていくかという課題の中で、ほんとうにあらゆる世代が試行錯誤してきて、その結果として、今、もちろんITも発達しており、商業主義もあるが、同時に文化もまだ残っている。そういうときに、これから先、もっと多様化する、もっと外国の人々が、特にアジアやアフリカの人々が日本を慕って来る国になってきたときに、どのように新しい多様化の社会に向けて、自分たちが覚悟していくかということとも重なると思う。
  そうすると、いろいろな原理があるし、いろいろな文化があるが、やはりみずからの与えられた命や人生をみずから最終的には責任を持って展開し、展開したその結果をよく吟味して振り返って、いろいろな新しい気づきを次の後輩に残していくといった、日本人が今までやってきたと思うが、戦後、攪乱されたと思う。敗戦国として屈辱を味わい、形として、日本は文化国であるということを再度示さなければいけないために、父親は残業をしたり、単身赴任に乗っていたが、その背景の中で地域社会は壊れ、親子関係は廃れ、夫婦のコミュニケーションも途絶えてきた。そういうことを踏まえて、もう一度、いろいろな背景の子どもたちが集まってくる学校でこそ、一人一人の子どもの言い分を丁寧に聞き、かつ、伝えたいものをきちっと整理して伝えていくような大人と子どもの関係、そういうものに向けて、子どもに何かという前に、大人同士がもっと、家庭のレベルで、夫婦のレベルで、職場のレベルで、あるいは、こういう審議会のレベルで、それぞれの多様な意見を尽くしていくという、振り返って気づいて尽くしていくという、それ抜きにして、先に先に進んでいくということはもうやめようといった意味の含まれた徳のトーンが、よい。
  先ほどからとても気になっているのは、例えば、日本は生殖補助医療がものすごく進んでいる。不妊のカップルに対して、技術的に命をつくっていく医療では、日本は一番だと思う。この一番である地位を保つために、技術ばかりを追っていって、結果的には、命から生まれる子ども、それを育てる、生殖補助医療というのは、親以外の卵子や精子によって命ができて、それを親御さんたちが育てていくという営みをめぐって、例えば、この審議会のような、いろいろな文化的な観点から、あるいは社会学的、精神学的、発達医学的観点から、子どもと親にとって一体いいのかどうかという論議をほとんど尽くさないまま、一部分の医療はひとり歩きしたりしている。こういった生き延びるために先を急いでいくという競争主義も、まだまだこれから国際的に続いていくが日本というのは、やはり自然と一体に生きていったり、細やかな文化というものを大事にしてきた。そういう日本人として、やはり少子化であっても、今生まれてきてくれた子どもを、仮に親の精子や卵子がなくとも、あるいは障害児であれ、どんな子どもであれ、日本に生まれて、丁寧に品位を持って育てられる、そういうことを共同作業でやるような大人集団をつくりましょうというトーンが大事だと思う。
  お行儀ももちろん大事だが、やはり大人側が、この間の大変な忙しい、ラッシュアワーみたいにして生きてきた60年間を、一度とまって本気で、もっとシンプルに、だれでもわかるような形で、自分の責任、そして、相手に伝えるべきものを伝えて、相手にも責任を喚起し合うといった相互の活性化というものをやっていこうというような、そういう呼びかけのある徳育の報告書だと、楽しみである。

【大野委員】  少し具体的なことになるが、9ページ、先ほど、座長先生がおっしゃったところで、これからの徳育等においての部分に「うまく生きること」と書いてある。これは具体的に何か。表現の問題だが、うまく生きることというのは、自立をして生きるということもあるかもしれない。協力し合う体験というものが少し薄いように思う。もう少しはっきり書いた方がよいのではないか。協力し合いながら、自立心を持つというあたりが、このうまく生きるかなという感じがした。
  もう一つ、その3つ下、「メディアとの接し方・使い方についての新しい常識」。新しい常識と古い常識とは、どういう意味か。、いずれにしても、このメディア、ないしはインターネットをどう使っていくかということを身につけるという、そういうことか。表現の細かいところだが、気になったので発言した。

【押谷委員】  9ページ、前に書いてあることが踏まえられてここへと来るのだろうが、やはりここでも、徳育というのをどうとらえるかというのが大変大きなポイントになろうかと思う。徳育というのを、知育、徳育、体育の横並び的なとらえ方では今までと変わらないといおうか、本来的な人間教育のベースとなる徳育の提案ということにはならないように思う。そのあたりを考慮したときに、それと具体的な方法等を考えたとき、例えば、観点例で、「乳幼児期からの基本的生活習慣の形成」とある。基本的には、基本的生活習慣、ある意味では、道徳的習慣を身につけ自分のものにしていくというのが一生かかって行うことかもしれないが、特にその場合、乳幼児期などにおいて、言葉のしつけといおうか、言葉そのものがうまく使えるようになっていく、そういう習慣をしっかり身につけていくことからまず始めていこうというような、もう少し具体的なところが欲しい。
  それと、例えば、下から2つ目の「学童期からの自己有用感の育成」、確かに、自己有用感、自分が人の役に立っているとか、そういう部分というのはしっかりと押さえていかないといけないが、やはりそこで自分を成長させようといろいろ取り組んでいる、そのことにかかわる自己達成感というものも、同時に押さえておかないといけないと思う。
  それと、ここで言うならば、目指すべき子ども像といえば、この部分では、「自らの生き方・在り方を選択する力」であるが、基本的には、人間としてのみずからの生き方、あり方の自覚を深めながら選択する力を育てていくというような部分を少し強調する必要があると思う。
  というのは、最後に、「各発達段階にわたる豊かな情操の涵養」、大変大切なことであり、情操を育てることがベースにあるが、目指すものはやはり、どう生きるかという、その部分が徳育において一番重視しなくてはならないことと思う。

【小泉委員】  以前、南アフリカのケープタウン大学の女性の学長先生と夜中まで類似のことで議論した。その方はアパルトヘイトとずっと闘ってきた人で、ケープタウン大学の学長になられた。そのときに、強い実感としておっしゃっておられた「権利と義務」。これは2つでセットになっているが、先生の経験からすると、ずっと闘士として闘ってきたときに、「権利」の主張についての教育というのはそんなに難しくなかったと。ただ、「義務」というのをどうやってみんなに教育で根づかせるかという、ここはものすごく難しくて、いまだにその回答を得てないということを何年か前におっしゃっていた。オバマ米国大統領の演説にも類似の視座がある。
  だから、今回の徳育こそ、大変重要なことで、同時に非常に難しいことにチャレンジしているというのが現実だと思う。全体の書きぶりとして、骨子のイメージは随分よく考えていると思うが、これが現実に学校や社会に出ていった場合、どれだけ実際の効力を持つかという、そこの予測も非常に重要と考える。報告書に実質的な力を持たせるために、全体の工夫がこれからなされる必要があるのではないか。今の子どもたち、あるいは大人の方も、こうすべきだと言っても、聞く耳を持たないケースが非常に多いので、できるだけ、なぜこういうことが必要なのかという論理を中に書き込んでいくということ。これは非常に難しいことではあるが、そこにこそ知恵を注ぐ必要があるのではないか。

【鳥居座長】  聞く耳を持たないという、もう一つの大事な問題を今提起されたが、ここについてはいかがか。これは大人についても言えることだが、特に子どもの場合、深刻な問題である。せっかく今、我々が議論し、答えを出したつもりでも、聞いてもらえないと仕方がない。

【河合委員】  聞く耳を持たないというのは、確かに大学で授業を教えていても最近はよく感じることである。観察学習というか、モデリングを提唱したバンデューラという研究者の考えであるが、要するに、私の姿を見て、学生に1つのモデルにしてもらえるかどうかというのは、幾つかの要素がある。
  1つは、私がそこで授業しているというモデルの存在。もう1つは、聞く耳をもつためにはモデルが魅力的でないといけない。だから、今はワールド・ベースボール・クラシックで上がってきた人たちが、子どもたちにこうだよという。原監督の言った言葉は皆さんも耳に残っておられるかと思うが、やはり魅力のあるというのが、私たち自身にどうなのか。
  もう1つは、学生がそのスキルを持っているか。例えば、私がやっているのを見て、私の分析の方法とか研究の手法というものを、彼らはスキルとして持っているかどうか。ここは彼らの側も問題である。
  もう1つは、彼ら自身がモチベーションを持てるかどうかということ。聞く耳を持つか持たないかというときに、おそらくは、こちら側の問題と、彼らが持っている技能と、やろうという動機づけ、達成感、達成欲求のようなものとの、その部分であって、聞く耳を持たぬというときに、私たちが聞く耳を持たせることができなかったのではないかという、私自身が聞く耳を持たないというよりも、聞かせることができなかったのではないかというような、逆の側からの考えを持った。

【鳥居座長】  いろいろご意見を伺って思うのは、この報告書の冒頭がいいのかどうか、適当なところに、このまま国民の間に共通の公徳心みたいなもの、あるいはマナー、あるいはルール、そういうものがなくなって、てんでんばらばらになったら、あと何十年後かの世の中はほんとうに混乱するのではないか。私たちの孫の世代に、国民全体としての共通認識とか協働していこうとか力を合わせていこうとか、そういう気持ちが失われた社会というのは恐ろしい状況になるのではないかということを呼びかける必要があると考えながら、ずっと話を聞いていた。、そういうことについて意見があれば少しいただいて終わりにしたい。

【安彦委員】  全く同感で、大人に向かってははっきり、皆さんはどういう社会を目指しておられるんですか、つくろうとしておられますか、今のようなこういう社会でいいのですかと問いかける必要がある。あるいは、皆さんはどういう人間になろうと思っておられますか、そういう問い、今ごろ、自分でそう口にすると何か新鮮に聞こえたりするが、最近はそういう問い自体をあんまり聞かなくなっている。立派な人間になろうなんていう言い方をしたら白けるので、だれも口にしない。
  しかし、それを言わないで来てしまったために、すっかり考えなくなってしまっていて、もうなるがままという状況である。それについて一言言わなければ、大人が今のような状態のままでは、子どもに向かって、おれの背中を見ろなんて到底言えるものではない。それをほんとうに大人が言いたければ、きちんとそういう人間らしく、行動や態度を示せと言ってよいのではないかと思う。そういう意味では、やはり問いかけをしていただきたい。ほんとうに日本の社会をどういう社会にしようとしておられますかということ。こんな思いやりのない社会がいいとはどなたも思わないと思うが、そういう点を反問する形で対応して、こういう社会を目指しませんかと。そのためには、人間としてどうあらねばならないかということを考えましょうといって、少し提案していくようなものが私のイメージである。参考までに。

【鳥居座長】  この後のスケジュールについては、いかがか。

【塩原課長補佐】  本日、特に徳育のとらえ方についての部分、さらに徳育充実の基本的な方向性の部分を中心に、今日の論点整理のペーパーをもとにしたご検討もいただいたが、それ以外にも、例えば発達課題の部分、もしくは社会構造変化の影響の部分等々、まだこのペーパーについてご議論いただくところはあろうかと思うので、引き続き検討をいただきたい。その上で、私ども事務局のほうで、出た意見をもとに、さらに審議概要の具体的な案の検討につなげていければと考えている。次回については、4月中にまた1回開催をいたしたい。

 

                                                                         

 

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