子どもの徳育に関する懇談会(第7回) 議事要旨

1.日時

平成21年3月3日(火曜日)15時~17時

2.場所

合同庁舎7号館東館3階 1特別会議室

3.出席者

委員

鳥居 泰彦 座長(日本私立学校振興・共済事業団理事長)
鷲田 清一 座長代理(大阪大学総長)
安彦 忠彦 委員(早稲田大学教育学部教授)
天野 秀昭 委員(特定非営利法人日本冒険遊びづくり協会理事)
押谷 由夫 委員(昭和女子大学教授)
河合 優年 委員(武庫川女子大学教授)
小泉 英明 委員(独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター領域総括)
坂口 一美 委員(社団法人日本PTA全国協議会常務理事)
土井 真一 委員(京都大学大学院法学研究科教授)
馬場喜久雄 委員(板橋区板橋第八小学校長)
平野 啓子 委員(語り部・かたりすと,大阪芸術大学放送学科教授,武蔵野大学非常勤講師)
森田 洋司 委員(大阪樟蔭女子大学学長)
山折 哲雄 委員(国際日本文化研究センター名誉教授)
山田 昌弘 委員(中央大学文学部教授)
渡辺 久子 委員(慶応大学医学部小児科講師)

文部科学省

銭谷事務次官、玉井文部科学審議官、德久大臣官房審議官、森社会教育課長、
高口男女共同参画学習課長、高橋教育課程課長、磯谷児童生徒課長、鬼澤企画・体育課長、
池田青少年課長、塩原児童生徒課課長補佐 

(国立教育政策研究所)  
中岡教育課程研究センター長

オブザーバー

天野保育指導専門官(厚生労働省雇用均等・児童家庭局保育課)

4.議事要旨

(1)開会
(2)議事

1. 社会構造の変化と徳育の課題について

 ※ 事務局より、資料2、3、4、5について説明ののち、

<馬場委員より「心の東京革命 行動プラン」について説明>

 「心の東京革命」が始まったのは石原知事が就任してからだと思うが、公約の中に心を育てるという部分があり、行政関係の方々などで策を練って出来上がったものだと思う。お配りしたのは20年度の重点目標とされているもので、各年度でテーマが決められており、16年度は「あいさつ、声がけで子どもを守る運動」、20年度は「体験を通じて育てよう!あいさつ・チームワークのできる子どもたち」となっている。「心の東京革命」とは、次代を担う子どもたちに対し、親と大人が責任を持って正義感や倫理観、思いやりの心をはぐくみ、人が生きていく上で当然の心得を伝えていく取り組みのこととされている。都民一人ひとりの行動指針及びそれをサポートする行政の施策を明らかにし、社会全体の運動として展開することを提案するものであるということで、家庭・学校・地域・社会全体が連携するよう「心の東京ルール~7つの呼びかけ~」というものを提案しており、その取組原則として、親や大人が責任を持ち、社会全体で取り組む、基本的なルールを伝える、体験・経験を通じていくといったことがある。

《心の東京ルール~7つの呼びかけ~》

・ 毎日きちんとあいさつさせよう
・  他人の子どもでも叱ろう
・  子どもに手伝いをさせよう
・  ねだる子どもにがまんをさせよう
・  先人や目上の人を敬う心を育てよう
・  体験の中で子どもをきたえよう
・  子どもにその日のことを話させよう

 また、家庭への期待、地域への期待、学校での取組、社会全体での取組の4つが書かれており、右側には戦略1として普及啓発の充実、戦略2としてしつけをはじめとする親などの悩み相談体制の充実、戦略3として地域と連携した心の教育の推進と書かれている。この中で必ず行うこととして、戦略3の2番目に「道徳授業地区公開講座」というものがあるのだが、平成10年度から始まったもので、今は都内の全小中学校で年1回以上行われており、ほぼ全ての学級が公開している。授業参観後には、親や地域住民などが意見交換会を持ち、講師の講演を聴いたりしている。その下5番目に「トライ&チャレンジキャンペーン」、戦略1の4番目に「トライ&チャレンジふれあい月間」とあるが、いじめを起こさないためにどうするか、思いやりの心を育てるにはどうするか、学校全体としてどのように取り組んでいるのかといったことについて、集中的に11月に行っている。また、「あいさつは魔法の力」という標語をたて、学校では音楽の時間等でその歌を歌ったり、地域のお祭りなどでも都から来て話をしたり、一緒に歌を歌ったりしている。学校としてはあいさつを大事にしたいと思っていて、家庭への期待として「1日は、『おはよう』で始め、『おやすみ』で終わらせよう」というのがあるが、それは出来ると思う。家族団欒の食事について、「いただきます」という生命尊重の言葉があるが、ある学校では「お金を払っているのになぜ『いただきます』と言うんだ」と文句を言った親がいるとも聞く。学校でも命の大切さについて話しているが、子どもにも親にもそれを理解して欲しい。家族団欒、家庭全体での食事が本当に出来ているのか。私が大事にしたいのは「行ってらっしゃい」と「お帰りなさい」という言葉で、共稼ぎが多くなっているが、できれば子どもを送り出してから母親は務めに行って欲しい。子どもが鍵を閉めて出ていく、「ただいま」という言葉に対する「お帰りなさい」という言葉がない、果たしてそれでいいのだろうか。文部科学省が放課後居場所づくりを行っていて、子どもが元気に遊ぶのはいいのだが、家庭へ帰る時間が遅くなっている。保育園にも延長保育があって、早寝早起き朝ご飯と唱えているが、この時間に食べてこの時間に寝るといいというところまで出来ない状況で、疑問に感じることが多い。

 

<質疑応答・意見交換>

 《天野委員》

 私がもしこれを標語で変えるなら、「毎日きちんと自分からあいさつをしよう」、「他人の子どもにも微笑みを」、「子どもに手伝いをと思った場合には、まず男親から家事を率先してやろう」、「ねだる子どもに対しては、子どもをターゲットにした市場に対してちゃんと目をつけよう」、目上の人については「敬われるだけの大人となっているか自問しよう」、体験については「子どもが自分で体験できるだけのゆとりと自由を返してやろう」、その日のことについては「まずは親からその日のことを子どもに話そう」となる。大人が十分な範を示していないというのが私の実感で、子どもにさせようという話が中心になっているが、子どもは大人のやっていること以上はやらない。人間は徳と不徳の両方を持ち合わせており、徳だらけの大人なんているわけがない。そのようなことも含め、どのようにしていいところを認め合っていくか、良さを伸ばし合っていくかということを考えることが重要。学校・地域・家庭の連携についてだが、三者は役割と性格が全然違うので、同じ価値観で物事を進めることに危険性を感じていて、むしろ違うからいいのである。家庭は暮らしの場なので、どうやって暮らしを伝授していくかということが課題。学校は、同年齢の人間が集められた異質な空間であって、だからこそ教えられることがあるが、出来ないことも沢山ある。テストのように1つの切り口で子どもを見れば、当然ながらそこに生じるのは競争と序列である。教師の力量の問題ではなく、構造的な問題がそこにあるため、すべてが学校的な価値観になってしまうと、子どもはすべて序列化されてしまう。それをしないのが地域であって、そういう意味では、同じマンションに警察と泥棒が一緒に住んでいる可能性があるというほど多様な価値観が渦巻いているのが地域である。その多様性こそまさに社会であって、社会と出会うために地域に力をつけていくということが大切なことだと思うのだが、これは、地域の教育力というよりも地域力だと思う。教育という言葉は学校以外には馴染まなくて、親や地域が教育力と言い出すと、子どもは逃げ場がなくなっていく。それぞれの価値観が全部違うということにこそ多様性があり、意味があるというのが、この30年間ずっと地域で活動していて強く感じているところである。

《安彦委員》  

 天野委員が言われたことに共感を覚えるが、特に親や家族向けに言うのがいいと思う。とりわけ行動面での力というのは、幼児期から考えると、やはり模倣行動である。模倣対象である大人の言動がしっかりしていなければ何の意味もないので、小さい頃からこうすべき、ああすべきと口で言うのではなく、むしろ大人は子どもがこういう状況のときこうすべきだというような大人に向けた一言を中心的なこととして入れるべきではないか。今の子どもたちが置かれている社会的状況は非常に良くなくて、社会が教師の権威を引きずりおろし、滅茶苦茶に叩いている。そういう意味では、権威を認められない教師に「しっかりしろ」と言っても無意味である。教師の権威、親の権威は社会によって与えられているわけで、社会が教師を尊敬するような雰囲気を作らないのであれば、口だけになってしまう。社会全体のこれまでの見方、あり方に対して、改めてはっきりと警告しなければならない。それを棚上げしてこうしろ、ああしろと子どもに言っても、何の意味もない。

 学校は、異年齢で多人数の集団を形成しているというところが大きな特徴になっていて、縦の関係をしっかりと子どもたちに経験させ、助け合いにしろモデルとなることにしろ、いろいろな意味での経験が出来る場である。そういう意味で、学校でこそやれる行動上の経験・体験というものを絞り込んでいただきたい。やはり学校は家庭とは違うので、公教育と私教育の違いもあるから、とりわけ学校での徳育的な面での特徴もはっきり出てくると思う。

 もう1点、何と言っても学校は、学力をつける固有の役割を持つところだと思う。徳育については、学校だけでは到底無理な話であり、それこそ社会全体で子どもたちに働きかけなければならない。学校は、学力形成を通しての人格形成、徳育を実現する場という視点をしっかりと持っていただきたい。学習指導要領に関わった者として言うと、生きる力のイメージ図があるのだが、豊かな心の中に確かな学力とすこやかな体が入っている。この図は非常に重要で、人格形成を重視していて、学力や体力がどれほど優れていても、それだけで悪いことに使われたのでは何の意味もないということがはっきりと表れている。そのような図式の中で、ぜひ学力を通しての人格形成ということを位置づけていただきたい。人格形成が究極の目的であるが、学校だけではできないため、他の力を借りて共同でやるのがいいが、学力については、先生方はそのために雇われているのだから、責任を持ってやらなければならない。その際、学力と人格とを切り離してはならず、それを部分と全体との関係としてしっかりと認識し、その全体に関わる徳育についてやっていく必要がある。

《森田委員》  

 地域社会、家庭、学校、あるいは社会の中にある様々な団体が連携し、総合的に子どもたちの徳育に関わるという視点は重要だが、それを担う主体としての学校教育のスタンスをどのように考えればいいのか。安彦委員の言うとおり、基本は確かに学力であり、それに対し、豊かな心というものを全体として捉えるのか、それを支え、学力を伸ばしていくものと考えるのか。今の学校教育の中には、機能として生徒指導と言われるものがあり、実態的には問題行動等に収斂しているという部分が強いわけだが、様々な教科、あるいは特別活動やキャリア教育、さらには総合的な学習の時間といったものを貫きながら、子どもたちの社会性なり豊かな心なり、人間性をはぐくみ、社会の資質あるいは能力を育てていく場として位置づけられている。その機能をもう一度徳育と絡め、どのように活用するのかを考えたい。

 前々回からヨーロッパの市民性教育など道徳教育の在り方が出てきたが、特設の時間で行うことや1つの教科として確立するということではなく、横断的に総合化し、担当するべき部門を考えていかなければならない。生徒指導でもそうであるように、学校の外との様々な連携を進めていくということも非常に重要なところである。規範意識や基本的な生活習慣など、あいさつについても先ほどから話に出ていたが、これらは現在そこで担われているところなので、それらを改めて再検討しながら総合化し、知識だけによらない徳育、あるいはそういった体験に依拠しながら、血肉化された徳育を考えていく必要がある。もちろん、今現在、生徒指導という機能を果たしている先生方は、生徒指導主事だけではなく、教育相談やキャリア教育、養護や様々な教科からの関わりの中でやっているが、それぞれをばらばらにしては問題があるので、それらを総合化し、子どもたちの徳育に関する教育も総合化していくという方向も考えておくべき事柄だと思う。

《山折委員》

 通常あいさつというのは、一種の身体行動を伴っている。あいさつに伴う身体行動は、相手によりけりという面があって、学校の場合、家庭の場合、地域の場合と、出会う人との関連においてあいさつの言葉も違えば、その違いに応じて身体行動も変わってくる。あいさつという行動を日常習慣化するためには、身体運動という側面から考えていく必要がある。身体行動には4つほどのパターンがあると思っていて、1番目は合掌、2番目が握手、3番目がおじぎで、おじぎにも軽いものや深いものといったように、スタイルも様々。そして4番目に抱き合う、ハグするというもの。例えば合唱に極言化すれば、教育現場等で様々な問題にされてきたわけであるが、様々なあいさつとそれにのっとった身体行動があるということを、選択可能性を十分にとりながらアピールしていくという考え方も必要ではないか。あいさつを言葉だけの問題に極言しないほうがいい。

《小泉委員》

 人間の生存の基本単位が家庭であるということがよく言われる。以前、日本医師会長をされていた武見太郎先生が繰り返し述べていたことであるが、医療の全体的なシステムを考えるとき、家庭というものの位置づけを明確にすることが極めて重要であり、教育についてもそれは同様である。しかしながら、家庭の位置づけについては、教育という範疇の中ではあまり研究されていない。企業の中で家庭教育研究所、それから家庭教育センターという2つで約30年間継続してやらせていただいているのだが、そういった種類の研究は、国の研究の中でも極めて少ない。全体の教育システムを考えるとき、教育というのがまさに生存の基本単位として、システムの中の原点を成すものであると考えているので、これを国の研究の中、あるいは国立大学の教育学部の研究の中でもきちんと取り上げていただきたい。家庭の問題は、長年にわたる地道な研究を重ねなければ明確にならないし、例えばアメリカのCATDが現在やっている発達コーホートのような形で、エビデンスベースでものを言わなければならない。時間も労力も大変かかる仕事なので、こういうことにこそ国が力を入れていただきたい

《押谷委員》

 安彦委員の意見に賛成である。教育課程部会での生きる力についての話で、10年の改訂の際は学力に関する部分、健康・体力に関する部分、豊かな心に関する部分が並列的に並んでいたかと思うが、今回は構造的に示されていた。豊かな心をベースとした学力とすこやかな体を同時に育成することが、人間としてよりよく生きるということに関わってくるという構造的な意味合いも含まれていたかと思う。そういった構造化は、改正教育基本法第2条の内容と一致していると考えるが、この部分をもっと強調する必要があるのではないかというのがまず1点。2点目は、学校・家庭・地域の連携で子どもの道徳性の育成を図っていこうとしたとき、一番大切なのがやはり社会性と集団性で、これをどう身につけるかということだが、例えば学区内留学や学校内合宿といったものを、もっと積極的に考えればいいと思う。学区内にはお年寄りだけで生活されている家庭があるので、そこに子どもたちを1週間なり預けるということをやっているところもある。学校内合宿というのは、学校そのものを宿泊施設として利用することで、それを通じて学校・家庭・地域が連携することが可能かと思う。3点目はカリキュラムに関わることで、おそらくこれからの教育課程の審議においては、評価の問題が出てくると思う。これは大変重要で、各教科の評価は、おそらく今の4観点である関心・意欲・態度、思考力・判断力、表現・技能、知識・理解がベースになると思うが、それらは友達と一緒に関わりながら高めていくという要素が非常に強いのに、その部分がなかなか前面に出てこない。そのため、評価の観点の中に道徳性に関わる評価を入れればどうかと思うのだが、これも抽象的なので、例えば、4観点にプラスして協力・助け合いといったものが位置づけられないだろうか。授業をする中において、お互いに協力し合い、助け合いながら授業をしているかといったようなものも、知識・理解、表現・技能などと同じレベルでしっかりと評価するといったような観点を打ち出してもいいのではないか。

《鷲田委員》  

 ご飯を食べることやあいさつをするということを子どもに要求する大人は、なぜ一緒にご飯を食べなければならないのか、なぜあいさつをしなければならないのか、どうして人々は昔からそういった習慣を大切にしてきたのかということについて、きちんとその意味を捉えておく必要があって、そうでなければ単なる教条のようになってしまう。「心の東京革命」の中に挙げられている例の中でも、あいさつやご飯というのは道徳の基本に繋がっている習慣だと思っている。責任と思いやりということに繋がっていると思うのだが、例えばご飯を一緒に食べなければならないという理由の1つに、味というものの感覚が共有できないという事実があると思う。見えるもの、においがするもの、聞こえる音などは体の外で感じるものなので共有できるのだが、体内で感じる味は、同じものを食べていても共有できない。つまり、一緒にご飯を食べるということは、互いに味を相手に聞き合う、確認し合うという意味で他者に思いを馳せる、あるいは他者への創造力をはぐくむという、さりげないが重いトレーニングになっており、これが思いやりをはぐくむということに繋がるのだろうと思う。あいさつに関して一番重要なことは、あいさつには必ずあいさつを返さなければならないということで、一方だけがして他方は返さないのはあいさつとは言わない。山折先生が挙げられた4つも全て相互的な行為であり、あいさつは、他者からのアクションに対してレスポンドするという練習だと思う。これこそがオバマ大統領がよく強調するレスポンシビリティー、つまり責任で、何かに対して必ず応答するという責任感覚のトレーニングに繋がっているのだろう。

《山田委員》

 現実を見ながら具体的なプログラムを立てなければ、絵にかいた餅に終わるというのがまず一つある。エビデンスを一つ挙げると、子どもを育てている家族の経済状況が、ここ10年の間で非常に苦境に陥っている。1994年から2004年まで未就学児を育てている家庭の約2割の収入が減少していて、子どもを育てている家庭が貧しくなっている。父親の収入が約80万円減少し、共働きの増加で母親の収入が10万円ほど上がり、その結果約70万円の減少になっている。遊興費を稼ぐための共働きと書かれてあるが、私から見れば、父親の収入減少で共働きをせざるを得なくなっていることの方が遙かに多いと感じている。少なくとも子育て中は経済的に心配しないで済むような状況をつくり出すことがまず第1だと思う。第2に、私立中学への進学率が約5%に達している中で、経済的に余裕があり、活動的な親ほど地域からいなくなってしまうという現状があり、そういうときに地域をどう考えるのかという問題。3番目に、コミュニケーション教育を体系化することが必要である。心理臨床のトレーニングを大学・大学院時代に受けたのだが、相手の目を見て話す練習や、相手の言うことを最後まで聞く練習などを繰り返し行った。そういったことを子どもの頃から体系的に行えば、コミュニケーション能力も相当高まるのではないか。

《鳥居座長》

 平成10年に中教審で分厚い報告書を出したのだが、この報告書は珍しく親に向かって語りかけるというスタイルのものであった。そこには本日各委員が言ったようなことが大体書かれているのだが、社会状況が変わり、そこに書かれてあることが出来なくなっている。この懇談会が最後にまとめをするとき、世の中も大分変わっているはずなので、とても難しくなるのではないかと感じている。

 

2.「審議の概要」の骨子イメージについて

※事務局より、資料6について説明ののち、

《鷲田委員》  

 この報告のスタンスについては、子どもたちにダイレクトにどういったことを教えるという中身について書くのか、それとも、子どもというのは家庭・地域・学校で、様々な形で多元的に学び、育つわけだが、それらの教育を国がどのように支えていくのかという視点から書くのかについて、まずはそこを議論しなければ、構成が変わってくるのではないか。

→ 事務局としては、まさしく鷲田委員にご指摘いただいたところを繋ぐというか、まず、今の子どもにどういった課題があり、どういった資質・能力を身に付けさせることが重要なのかということを整理するのが大きなひとつとしてある。その上でどこまで踏み込めるかというところはあるが、さらに社会全体で、もしくは国が取り組むべき今後の方向性というものを課題から繋げていくという両面を意識しながらやっている。比重の置き方については、懇談会での議論を踏まえて考えていきたい。

《安彦委員》  

 鳥居座長の言ったことがまずは大前提にならなければいけない。その場合に、学校に向けて言うのか、社会や大人がそういう観点を持たなければならないという方向にいくのかということで、意味が大きく分かれてくると思う。社会状況の変化によって条件が変わっているのは承知しており、その上でなお言わなければならないのは、親から何かを発して欲しいからである。政治家に向かって、この社会がおかしいということ、こういう状況では子どもが健全には育たないということを、親自身がはっきりと言うべきである。自分たちは忙しくてとてもそんな状況にはないという枠の中でしか対応しなければ、いつまでたっても子どもにとっていい社会、恵まれた社会というのは生まれてこない。小泉委員が先ほど家庭と言った意味は非常に深いと思っていて、家庭が今のような状況のまま崩壊し、それをどんどん促進するような社会構造がつくられ、そういった社会政策や経済政策がとられていった場合に、本当に子どもは健全に育つのかということを真剣に考えなければならないわけで、そこはむしろそういった政策をとってきた政治家がしっかりと考えなければならない。基本認識として、現在の状況を肯定したままで議論をするのか、一種の社会改造を必要とするという視点を入れるのかどうか、それに対して政治家は真剣に考えるようにというところまで、子どものために言うかというところである。教育再生会議にゲストスピーカーとして呼ばれたときに言ったことであるが、親や学校の先生は何をしているのかと言うが、それはおかしい。今、どうして地域や家庭から教育力がなくなったのか。全部とは言わないが、過半の責任は政治家がこれまでとってきた社会政策や経済政策の結果ではないか。その責任を認識しないで「親は何している、教師は何している。」はないだろうと。これからの日本の子どもにとってこの社会はどうなのかという観点からすれば、一種の社会改造が必要である。このような議論を、どこかにはっきり入れるべきではないか。

《河合委員》 

 事務局として幾つか整理していただきたいところがある。1つ目は、ゴールに向かうための行動をつくりだしていくということが教育であり、変えるのであれば、行動変容の仕方というのが明確である。「東京革命」のケースでもそうだが、意味はわからなくても、まず行動を変えるということ。2つ目は、なぜ行動しなければならないか。行動するということの意味づけ。3つ目は、ゴールに到達することは楽しいことなのだという感情への変容。行動、認知、感情のどれかを操作すれば、行動は変わっていくと思う。教育の中ではそういった方法が重要だが、同時に仕組みが必要で、先ほどの議論もそういったものを形成するための方策であると思う。それにはどういう教育課程が必要か、どういった方法が必要かを考える必要がある。私が加えていただきたいのは、もうひとつの仕組みである。社会が変わっても、子どもの学ぶ仕組みというものは変わっていないと思う。赤ちゃんが生まれて最初に形成される母親との間の関係性というものは、まさしく動物として持っている特性であり、環境は自分に応答するという仕組みを養育者、保護者にきちんと伝える。モデルの創出、声の創出、そういうものが応答性の希薄性を生んだのではないか。したがって、変容の方法と同時に、世の中がどういう状況であっても、子どもの持つ特性をうまく理解し、それに応えてあげることによって変えることができるのだという、めりはりのあるしつけというか、説得力のある説明原理をどこかに加えておかなければならなくて、それは、偉い先生方が言うべきことである。シンプルな言葉で、どういう環境であれ、応えるということが大事なんだということを、どこかに加えて欲しい。親に向かって発信するとき、変容の方法ではなく、なぜそうするのかということをきちんと説明できるようなものを加えることが、動物しての「ヒト」が「人間」になるプロセスにおいて非常に重要だと思うので、そういったことも加えていただきたい。

《渡辺委員》  

 日本の現状の負の脈絡の中で傷ついて生きている子どもと日比接しているのだが、経済格差は、直接的に子ども集団の中のいじめや、教師による子どもたちへのネグレクトなどに繋がっていて、また、例えば先天性心疾患といったような、その子どもには罪のない病気を持って生まれた子どもたちの学校での扱いは、平均的には非常に残酷である。もちろん、いい学校もたくさんあるが、手のかかる、動きの悪い子どもたちを扱う教育現場や地域の対応はかなり悪いと思う。現在の非常にペースの高い工業化社会の中で、よくぞ幼くて非常に壊れやすくもろい命が生まれてきているなという気持ちがしている。その命の、私たちの社会や環境への人生の信頼を裏切らないことが、人としての子どもたちに対する徳の本質だと思う。単純化すると、大人の定義というのは、みずからの要求や欲望があっても、自分よりも幼く、自分で自分を守ることができない命の信頼を裏切らず、その発達を守るという責任、思いやりを優先するということだと思う。どの親も我が子に対してそれを持っていながら、いい育児、いい教育、いい家庭生活ができない裏側には、大人たちの置かれているすさまじい経済状況や格差社会がある。日本には痴漢や小児ポルノ、あるいは幼稚園や学校の教師による性被害が実はすごく多くて、一度そういった被害にあった子どもの人生はずたずたになる。欧米諸国から30年遅れていると言われていて、全ての問題は大人集団の中に置かれた子どもたちから発せられているわけなので、文化国の日本として最小限しなければならないところから始めていく必要がある。例えば、小児ポルノを保持している人は、教員免許を持っていたとしても保育園や幼稚園などに接近してはならないといったことや、子どもたちの性被害をきちんと受け止めるための小児科が全国にあるかといったことが挙げられる。これらは極端なことかもしれないが、もう少し身近な例を挙げると、学校で発生する外傷やいじめなどの被害がある。先生達が忙しすぎるからなのかもしれないが、人として子どもに「おまえ、大丈夫なのか。その後はどうしてるのか。」と声をかけることができない。私がそういったことに大人として関わるとき、先生方を信頼したくても、子どもにひどい教師だと言われれば、私はそれを代弁せざるを得ない。1989年に国連で批准した子どもの権利条約の基本的な部分、つまり、どの子どもも安心して学校で過ごせるということ、学習意欲を満たしてもらう要求を出していいということ、それらが家庭環境や経済状態によって明暗が分かれてしまっているような国を、これ以上放置していいとは思えない。フィンランドの何がいいかと言うと、不妊治療も含め、育児・出産費用が大学まで全て無料であり、親が安心して子どもを産み、育てられる環境が整っているということである。日本の親がなけなしの給料で、我が子のためにと思い塾やお稽古ごと、家庭教師に投入しているものを中立機関がプールして均等に分配すれば、子どもに対する教育費はフィンランド並みに出せると思う。教育が産業化して商業主義でいるということが、子どもにとってどれほど迷惑なことであり、子ども間に溝をつくり、子ども同士の遊びなどにも影響するものなのかといったことを、大人が本気になって考えなければならない。大人は後回しで良いので、高齢化社会になっても、もっと子どもの側に予算を投入してほしい。

《押谷委員》  

 徳育というものをどう捉えるかということに関連すると思うが、人間としての生き方を自分なりに追い求めていくということを考えるとき、社会変化がマイナスの影響を与えているという部分と、その一方で未来に対する夢や希望といった部分をしっかりと押さえておかなければならない。メディアや科学技術の発展を通じて夢が広がっていくということを考えるとき、子どもの発達段階ごとの特徴と、それぞれの段階で重視すべき課題、チャレンジ精神あるいは未来に対して希望が持てるような徳育のあり方的なものの提案といったものも強調する必要がある。

《天野委員》  

 私が昔母親から言われていたのは、例えば体の障害のように、人の努力では何ともならないことに対してはいろいろ言ってはならないということと、弱い者は助ける必要があるということであるが、今の社会はそれらに対して不徳である。努力しても何ともならないことを、努力していない者が悪いと言い、弱い者をさらに追い立てるようにして、もっと何とかしなさいと言う。要するに徳のない社会で、大人が子どもに対して不徳の限りを尽くしている。ニートやフリーターと言われている人たちの世代の親はいわゆる団塊の世代で、バブル時代に社会を作り、バブルが崩壊してその子どもたちが就職する時期には就職氷河期となった。人数が多くて社会が吸収しきれなくなり、溢れてしまったということが背景にあるのだろうと個人的に感じているのだが、少なくとも本人たちの意思だけではなかったことが沢山あるのに、それも彼らの不徳な話にされていく。大人社会の不徳に対する反省は聞いたことがないのに、自分たちが徳で君たちは不徳だというのは通じない。不徳に対する反省が口にされた上で、一緒にやっていこうという話であればまだわかるのだが、もともと徳がないので、徳が通じないのである。ここはせっかくの徳育の場なので、徳とはなんぞやということで、弱い者を助けられるような社会にするのが徳だろうということを高らかに歌いあげる必要があると思う。大人自身が自分を問い返し、振り返り、そこから襟を正すということをやらない限り、子どもに示せる範がないと感じている。

《山田委員》  

 まず、基本的な認識や徳育をめぐる今日的課題もしくは「はじめに」の部分に、なぜ今徳育が必要なのかということに関して書き込むところが出てくるかと思うのだが、そこに入れて欲しいのは、等身大の目線に立って提言をしていくということ。道徳や社会性というのは、他人や社会とうまくやっていく能力・技術だと思っているので、それを身につけることが子ども本人にとってもプラスであるが、それがなかなか出来ていないといったことを盛り込んでいただきたい。

《馬場委員》 

  まず1点目として、働く女性が優遇されていて、専業主婦が優遇されていない法律などが多い。学校現場でも育児休暇が優遇されてきているのだが、子どもを育てる現場として、その措置に対しての教員の数といったところが何も保障されていない。2点目に、経済が苦しくて共稼ぎしている方が多いといわれる一方で、海外旅行など、遊ぶために学校を休んでいるということも見られるということもある。3点目として、フィンランドがいいとよく言われるが、何故いいのか。本当にいいのであれば、なぜあの国は自殺が多いのだろうかという疑問がある。

《渡辺委員》 

 私も、フィンランドがあのような不利な条件の中で、なぜあのようないいデザインができて、次から次へと子どものシステムが良くなっているのかということが不思議でたまらないのだが、そこには、子どもがうまく育たなければ国や民族が滅びるという危機感がある。我々人類は、そのような危機感の中で生き延びてきていて、例えば病院の中で苦しんでいる親の危機感と同じだと思う。生まれた以上、幸せにしなければ親として生んだ責任を子どもに果たせないという、生きる基本のところをきちんと捉えた上で、商業的なものやITを使う、主体は人間にあるという原理が、フィンランドでは見事だと思う。もちろん人間社会なので問題はいろいろとあるが、例えば小児や乳幼児の精神保健学会では、やはりフィンランドの革命を世界中の皆が学ぼうとしている。そこには非常にシンプルな命の原理を踏まえた、謙虚だけれども自らに厳しい大人社会がある。そういう意味で、日本はフィンランドに負けないよう、日本的なものでいいので、もっと子どもたちを大事にするべきだと思う。例えば病院という異様な集団の中で闘病生活を乗り越えた子どもたちが、医者や看護婦などになったりする。その期間が短くても、自分たちのために一生懸命にしてくれる大人から感化されているのだろうと思う。我々が真剣になれば、目の前の手の届く範囲の子どもたちは絶対に良くなる、幸せになれる。そうであれば、学校は先生の目の届く範囲の人数にすべきだし、子どもたちの生活も自分がこなせる範囲にすべきで、そういった本質的な子どもの成長や幸せを大人が考えていくという議論をしなければ、空虚なものになってしまう。目の前の子どもが半年や1年単位で明るくなっていくようなシステムを作らなければならない。

《安彦委員》  

 学校教育の場合、義務教育と義務教育以後とで分けたほうがいいのではないか。義務教育が中学校までできちんと切られているという前提は、現場の先生方も甘く考えていて、義務教育でどこまで育てるのかということについては、徳育の面でも十分に自覚されていない。高校まで入れるならば、準義務教育という認識で高校までの徳育というものを考えていただきたい。教育課程部会である委員がマナーとモラルを分けてはどうかと言われたが、マナーは時代や社会、民族によって違うが、今の日本ではこれがマナーだとはっきり言えるものである。しかしモラルについては非常に多様な価値観がある。徳育における共通の内容として、社会的、常識的ないわゆるマナーとしてのレベルは決めてもいいと思う。例えばあいさつをするということはマナーのレベルだと思うので、コミュニケーションを円滑にするのに必要ということで、共通に学校ですべての子どもに身につけさせるということをやってもいいと思う。しかし、微妙な部分やモラルに関わるような部分は、こうすべきだ、ああすべきだといったことを言うべきではない。

《平野委員》  

 同じことでも幸せに感じたり感じられなかったり、その時の受け取り方や心の状態にもよるが、人にはそれぞれ差がある。例えば、人にしてもらったことへの感謝、自分の身の回りに物があることへの感謝、そういったことを当たり前だと思わずに「よかった」と思えるかどうかというように、受け取る時の気持ちで自分をコントロールできると思う。感謝の気持ちを抱く念がなければ、ないものねだりがすごく強くなってくるような気がしてならない。向上心に繋がるものも中にはあると思うが、我慢ができないという方向にばかり行ってしまう場合もあるかと思う。何でもかんでも感謝しろとは言わないが、例えば食べ物が目の前にあることを当たり前と思わず、それをいただけることを感謝する、そういう感謝の念を抱く心をはぐくむということをどこかに入れていただきたい。

《小泉委員》 

 公教育に関する費用の問題について、先進国と言われる国の中で、日本はGDPに対する公的な教育費の支出が低い。例えばドイツやフランスでは、大学までの費用は全部国が負担してくれる。教育は国家レベルの問題だという意識が日本の場合は薄いような気がしているので、徳育も含め、公教育に対する重要性の認識というものを主張できればいいと思う。また、フィンランドについては、PISAの点数がいいために教育が優れているとされているが、PISAはごく一部の学力の評価である。実際、フィンランドにいる方も何が原因で教育レベルが高いと言われているのかよくわからないと言っているのだが、教師の方たちの待遇がとてもよくて、尊敬されている。そのため、当然ながら試験も難しくなっており、その結果としてマスターでなければ通らないというのが現状である。最後にまとめの部分について、徳育をまとめるというのは大変難しいが、やはり政策として何かやる場合には、それがほんとうに機能したか、効果があったのかということの評価が可能な形になっていなければ、やったきりで終わってしまう。具体的に中身について、常に評価ができる内容になっているかという視点が必要であると考えている。

《山田委員》  

 フィンランドのような人口500万人の国を見習えるのかという問題もあるが、統計的には、旧ソ連のように社会主義が解体した国と日本が世界の中では自殺率が高く、もちろん北欧も低くはないが、フィンランドの名誉のために一応訂正しておきたい。また、困った親がいる野も事実で、大学にも自分の子どもがきちんと授業に出ているのかを問い合わせるような親もいるのが現状である。

《土井委員》  

 懇談会としてやってきているので、当然ながら最後には報告という形をとるのかと思うが、あまり結論を急がないほうがいいのではないか。例えば、ここに今日的課題と書かれてある科学技術の進展や社会思想の潮流背景という課題は、我々大人ですら解決ができていない課題であり、どのように社会として対応していくのがいいのかということがよくわからない。大人が途方に暮れているものに子どもが途方に暮れるのは仕方がないという部分があるということを考えると、何が問題なのかということをしっかりと考えていく必要があって、ここで議論しているということをとっても、子どもに直接意見を聞いているわけではないので、子どもたちが何を感じ、どう思っているのかといったことを我々が本当に理解しているのかといったこと自体がそもそも課題なわけであり、徳育という事実をはっきりしなければならない。私自身、徳育というのは、おそらくは答えの出ない永遠の問題であって、この問題を問題として社会が正面から捉え続けている間は社会としてもつと思っている。こうすれば立派な子どもが育つといったマニュアルはないと思うが、一つ一つの問題については、当面はこのように対応しなければならないという部分はあるだろうから、当面対応できる問題について書き込んでいくのは必要かと思うが、結論を急ぎ過ぎれば問題を捉え損ねる。私自身が法律などをやっていて思うのは、結論を急げば誰も反対しない。いい結論は出るのだが、問題はその結論をどう実現すればいいのかがよくわからないということである。結論だけが出てしまうと却って逆効果になることもあるだろうから、問題は問題として抱えて指摘し、みんなで考えていくしかないという姿勢を示すことのほうが先決なのではないか。

《天野委員》  

 阪神淡路大震災のすぐ後、若者達を連れて遊び場を作りに行った。大人の暮らしすらまだ成り立っていないところで子どもたちを集め、「一緒に遊ぼう」といったことをしていたので、相当奇異な目で見られたが、子どもも被災者であって、避難所に子どもたちが追いやられ、とにかく遊び場を確保しなければ子どもたちが回復できないということもあり、遊び場の確保を行った。一方トルコでは、トルコ沖地震の後、避難所をつくるのもそこそこに、まずは子どもの遊び場を作ったそうである。その最大の理由というのは、悲惨な状況であれば尚更、社会の未来である子どもたちが生き生きとできるような状況をつくらないで何が社会かと考えたからだそうである。大人の社会がちゃんとしない限り子どもも安定しないから、まずは自分たちの避難所を先につくるのだという考え方もあるが、そうではなく、子ども自身がまず安心できるような場所をつくっていこうという考えもある。どちらの考え方をとるのかというのがまずひとつある。

 次に、先ほども感謝の話があったが、今までのところ、道徳というか徳育の勝利だと思っていて、それはなぜかというと、「迷惑をかけるな」という言葉や「自律せよ」ということが子どもたちの間に非常に浸透していて、そのことが今、ものすごく彼らを追い込んでいるからである。例えばこの30年、遊び場にいる子どもの間で大きく変わってきたのがリストカットやオーバードーズといった自傷行為、援助交際、摂食障害、思春期うつといった子どもの数が猛烈に増えているということ。あの子どもたちは大体の場合は至って真面目で、大人の教えをちゃんと守ろうとする。迷惑をかけないようにと言われ続けているので、最後まで人に迷惑をかけないように自分の痛みを抱え込んでいくのである。最も知られたくない相手は親であって、親には知られたくない、迷惑をかけたくないと言うのである。親も多分そうで、真面目にしっかりやろうとしている親ほど子育ては親の責任ということを真に受け、その結果どんどん孤立していく。そうではない子や親がいるのは承知しているので、その問題は切り分けて考えていく必要がある。非行の時代には大人は慌てて力による鎮圧を図ったが、彼らの問題は今のところまだ放置されている。大人はその問題についてしっかり取り組もうという姿勢を見せてはいないし、手を打とうともしていない。そのことについてきちんと考えていく必要があると思う。

《坂口委員》  

 徳育に関しては、家庭が、学校が、地域がと切れるものではないと思うが、学校現場を見ると、公教育の場で家庭教育をもしなければならないという現状がある。保護者の立場から言えば、学校は、学校のできる範囲の中のこの部分はしますというものが明確にあればいいと思う。例えば家庭教育だけでははぐくめないものを、地域の人たちが応援し、その中で色々なことを教えてもらう。その教えてもらったものが本当に大事なことだということの裏づけは、教育としてきちんと学校で教えるべきであると思う。学校で教えられるもの、家庭で教えるべき事、その立ち位置をしっかりと分けた形の答申があればいい。鳥居座長から保護者に向けた平成10年の答申についての話があったが、ここでのこういった論議が保護者には伝わりきっていないという現状があるので、具体的に学校はこうすべき、家庭はこうすべきといったものを簡単に教えていただければありがたい。家庭、学校、地域の役割分担をきちんとしなければ、全てを混在させて物事を進めていけば皆があっぷあっぷしてしまうし、保護者が学校化して先生と同じ事を子どもに言ってしまっており、自尊心を傷つけている。戦後教育の在り方や安彦委員が言ったようなことが背景にあると思うが、ここで踏ん張って変えていかなければ日本の教育、家庭教育は変わっていかない。

《山折委員》 

 日本の社会がこの二、三十年の間に大きく変化した。その変化の中身は色々とあるだろうが、徳育に一番深い関わりのある変化というのは、急激に高齢化社会になってしまったということではないか。平均寿命80年にいつの間にかなってしまったが、二、三十年前までは人生50年でやってきた。織田信長から江戸時代、そして昭和の時代までは人生50年でやってきたのだが、その長い期間にわたり日本人は「死生観」という価値観を作り出し、これが日本人の心の支えになってきた。「死生観」の人間に対する考え方の特徴は、一言で言えば生きることと死ぬことを同じ比重で捉えているということである。ところがここ二、三十年の間に一挙に人生80年になってしまい、その結果として生と死の間に老と病の問題が割り込んできた。これは非常に大きな社会問題であって、社会の変化に大きな影響を与え始めている。死そのものの意味が失われてきたのと同時に、老病死という重大な問題が社会変化の一番底辺の部分に大きな影響を及ぼし始めている。戦後、日本の教育を主導してきた教育軸の1つの重要なメッセージに生きる力があると思う。これは、文科省を始め、日本の地域社会、教育現場、共同体などあらゆる分野に浸透し尽くした命題であるが、果たしてその一本槍でいいのかどうかという問題が、深層の問題として突きつけられているという気がする。生きる力はもちろん大事であるが、死をどう引き受けるのかという問題を考えることを通して初めて、人間は命の大切さというものを体で納得できるのではないか。そういう教育施設に変えるべき時に来ているのではないかと思う。徳育の問題に関しては、まず国民に問いかけ、論議を起こす。そういった議論に時間をかけるということが必要で、結論は急ぐべきではないと思うが、もう、日本の社会が生きる力の一本槍では限界に来ている。我々の先祖が400年の間、生きる力一本槍で死生観という人生モデルでやってきたが、その根本的な価値観をひっくり返すような社会変化が起こっていて、生と死の比重を同等にとまでは言わないが、その2つの問題をどう考えていくのかといったあたりに踏み込むべき時に来ている。それが徳育ということを考える場合の最も基本的な課題ではないか。

3.その他


※ 次回会議の日程について、事務局から説明があった。
~ 次回会議日程については、3月27日に開催、会場は未定。

4.閉会

 

お問合せ先

初等中等教育局児童生徒課

電話番号:030-5253-4111(内線3054)
ファクシミリ番号:030-6734-3735