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言語力育成協力者会議(第1回)議事要旨

1. 日時
平成18年6月12日(月曜日)15時〜18時

2. 場所
砂防会館別館3階 「穂高」

3. 議題
児童生徒の発達段階に応じた各教科等を横断した言語力育成について

4. 出席者
(委員)
梶田委員,秋田委員,内田委員,大津委員,尾ざき委員,甲斐委員,角屋委員,三森委員,清水委員,直山委員,西原委員,松本委員
(文部科学省)
布村大臣官房審議官,常盤教育課程課長,田中主任視学官,井上視学官,石塚学校教育官
(国立教育政策研究所)
惣脇教育課程研究センター長

5. 議事等
(1) 始めに布村大臣官房審議官より挨拶が行われた。

(2) 事務局より委員の紹介及び配付資料の確認,説明が行われた。

(3) 梶田座長より挨拶が行われた。

(4) 三森委員,松本委員,清水委員の各委員から意見発表が行われ,その後,質疑応答が行われた。(○=委員,□=発表者)
<意見発表>
発表者  私が中学校2年生から高校2年生の時にドイツで体験した授業は,議論をして,文章を分析し,小論文を書くというものだった。そのときドイツ語の授業だけでなく各教科の授業においても,議論の観点が分からないと感じ,小論文を書いた時には感想文は不要であると排除された。
 その後,日本に戻ってきたが,国語の授業に困ることはなかった。これは,日本の国語の授業では,技術の積み重ねが行われていないということではないか。
 また,大学卒業後,就職した商社で,交渉相手の東ドイツ人たちは,過去の議事録や契約書などに基づき分析的に議論が行われており,日本人商社マンたちは,その場しのぎ的な言葉では議論に勝てなかった。
 ドイツの教科書を分析して分かったことは,システマチックで系統立てたシラバスに基づき,部分から全体へと言葉を操る技術がきちんと指導されていることである。
 ドイツでドイツ語といえば言語技術とテキストの分析と解釈のことである。
 言語技術教育の特徴としては,1部分技術から積み上げて総合力へつなげていくこと,2議論を中心とした授業(教員の教え込みではなくて,共に考え意見を言わせて,一人一人の中で考えを深める),3感想ではなく,論証に基づく創造的意見を述べること,4正答はなく,複数の考え方・複数の答が存在すること,5記述式の宿題と試験があって,穴埋め式の試験はなかったこと,6大量の読書を求められること,が挙げられる。ドイツの母国語教育のカリキュラムは,話す・聞く・読む・書くということでは日本と同じであるが,作文に関して言えば,次のような指導がなされる。まず,物語を聞き自分の力で再生する訓練,すらすら書く力と要点を聞き取る力を養う。また,視点を変え,何が認識できて何が認識できないかなどを考えさせる訓練が盛んに行われる。それと並行して,説明の訓練,レポート,議事録,手紙の書き方から小論文の書き方と段階的に教え,卒業時には大論文を書かせる。 一方,読む教育については,要約の指導をきちんとやる,物語・短長編小説の要約からテキストの分析と解釈・批判(クリティカル・リーディング,クリティカルシンキング)へとつながる教育を行う。
 技術というと型にはめたことを教えるというイメージがあるが,小さい頃には型を教える,そしてその型を使ってものを考えるうちに,それが身に付いてくると次第に型を崩して自分の能力として自在に使えるようになる。
 意見には理由があって初めて意見といえるのではないか。また,主語と述語をはっきりということが重要である。そしてこうした意見を述べるための型が身に付いて,初めてまともに意見が言えるようになる。
 言語技術はすべての教科の基礎である。国語については,テクストの分析と解釈は,文学であれ新聞であれ適用できる。特に歴史・現代社会・経済・倫理などでは,なぜそのような時代であったかを考えることにテクストの分析が有効である。理科では,実験レポート・観察レポートを書く際に,仮説を立てそれを論証するということを国語で学んでいれば,速やかにできる。英語に関しては,物語の説明・分析・比較などを日本語でできれば言葉を操るためにそうした技術を必要とする英語は,非常にやりやすい。美術においては,絵を分析する技術を通して,たとえば光と影の関係などを読み解く力を付けていく。音楽については,曲をただ聴くだけでなく,聞きながら分析することが重要である。体育においては,コーチングの手法に言語技術を導入し,思考と技術が関連することを教える。日本の母語教育はこのような国際社会の基準に見合うものに変わっていかなければならないと思う。

発表者  言語力について,教育的哲学の議論が必要ではないか。言語力には共通イメージがあるような錯覚があるのではないか。単に言語を運用する力なのか,個人に内在する力なのか,集団に内在する力なのかを考える必要がある。また,言語力を思考力など他の「力・発想」との関連性についても考える必要があり,「言語力を育成する」という指導目的と指導法,教材との関連性を吟味していく必要があるのではないか。さらに,教育に落とし込んでいくときに目標と指導の関連性やギャップにも注目する必要があるのではないか。現在は「個人の能力に焦点をあてて,集団に属している個への指導」が学習指導要領に明記されている。実際は「集団としての目標と集団に対する指導」を行っており,個人指導を行っているわけではない。言語指導やコミュニケーション教育を重視した指導を考えた場合,「集団としての目標」や「集団に対する指導」を学習指導要領に盛り込むべきと考える。現在の個人の能力を高めて集団の力を上げるという考え方では,学校教育は行き詰まってしまう。
 コミュニケーションの定義は常に変わっているが,現時点のコミュニケーションと言語の関係については,次のように定義している。1コミュニケーションとは,2名以上の人間が,言語・準言語・非言語を媒体として少なくとも1名がなんらかの意識的にあるいは無意識のうちに働きかけをしているか,あるいは他の人から影響を受けている状況。2コミュニケーション行為とは,言語・準言語・非言語によるメッセージの交換を通して互いに意味を創出しようとする動作。3社会との結びつきを創り・保つ動作・思考でもある。4コミュニケーション行為の前提は相手の言わんとしていることを,前後の文脈,経験,言語知識等を総動員して理解しようと志向し,わかったと思いこむことで,ひとつのコミュニケーション行為が完結する。5理解・誤解と言語は,辞書に掲載されている一般的な意味とは違う意味を意図的に,あるいは無意識のうちに言葉に込めて使用する。この意味のズレを受け手が理解しようとするか,あるいはできるかどうか。
 言語をコミュニケーションの道具として考える人たちというのは,コミュニケーションを伝達として捉えているところに問題がある。これはコミュニケーションを単純化して考えている。言語力・コミュニケーション能力を「個人に内在するもの」と捉えることの問題である。コミュニケーションの「関係性」「複雑さ」を前提としていないと,個人にその力が内在していると考えられがちで,指導内容が単純化されすぎるため,個人に対する指導が中心になって,クラス内のコミュニケーションの充実に貢献しない可能性が高い。そうすると,言語力やコミュニケーション能力というもうひとつの個人評価の指標をつくることになり個人の力を評価する傾向が強くなる。クラスの言語指導やコミュニケーションがうまくいっているというような,全体としての関係でどうかということを重視すべきと考える。コミュニケーションは統合的,総合的,協同的なものでなければならない。その結果,試験により結果を重視する評価になりがちである。よって,コミュニケーションの特質に矛盾することになってしまう。
 クラスや集団の言語力に焦点を当てた教育の可能性を考える方向性がよいと思う。学びの質が高まることを目的とした教育改革や施策を行い,言語を使ったコミュニケーションの体験を算数・数学,理科などで積むことは重要である。何に対して言語を使っているかが重要で,現実社会との結びつきを重視することにより,学び合う集団になり,他者との関係性を大切にする集団になり,個人の言語力やコミュニケーション能力が向上することを理想としている。
 そうすると今後の教育の在り方は,生徒どうしの関わり合いを重視し,発達段階に応じた意味あるコミュニケーション活動をどうすべきか,あるいは,教科内容と関連したコミュニケーション活動の研究が必要になってくる。
 また,そうすると推察,振り返りを重視した授業研究や教員研修の改善と充実も求められてくる。
 最後に言語力は発想や視座や分析力かもしれない。論説文等の場合は,読み手は書き手の言わんとしていることを理解しようという直接的なコミュニケーション行為であるが,文学作品の場合は,書き手が創造・構築した世界を作家と共有しようという別の次元のコミュニケーション行為である。文学作品のような作り上げた高い次元のものを発想や分析する力と言語力の関係を考える必要がある。
 私は,ディベート教育のポイントは判断を留保することであると考える。つまり,大事なことは,自分が「客観的」だと思い込んでいる判断を一時中止し,肯定もせず,否定もせず,一時的に物事を肯定と否定の両方から「主観的に」捉える。そして,主観的あるいは客観的に物事を見る両方の見方を子どもたちに意識的に使い分けさせ,このプロセスの客観性が言語を使いこなす上で非常に重要である。
 コミュニケーションにおける言語を考えて議論を進めていくべきである。

発表者  算数・数学からみた言語力の育成について,例えば,PISA調査や教育課程実施状況調査が公表された。これらの調査の結果を基に小・中・高等学校の算数・数学科の課題と改善の方向を三つにまとめている。一つは意味理解の問題であり,実際の場面と結び付けて理解させる指導を充実することが必要である。二つ目は,数学的に解釈したり,自分の考えや推論の過程を数学的に表現したりすることに課題があり,考察し,見出したことを根拠をもって表現させることに力を入れるべきである。また,「日常の事象と算数・数学を関連付けること」に課題があり,その結びつきを図ることが必要である。これらのことについては,言葉を使って書いたり,話をしたりということが入ってくるのだが,いずれもうまくいっていないことに課題がある。
 半世紀前に,アメリカの数学者M.クラインは,数学の思想史をひもとき,数学の特徴を整理している。その中の「創造的な活動」としての数学における動機として,「社会的必要からおこる問題に応えること」,「自然現象に合理的な関係を与えること」,「知的好奇心と純粋な思考への興味」及び「美を追求する心」としている。現在教えられている算数・数学の内容をそうした視点から見ていくと改善の方向が見えてくる。
 これらの動機から,様々な疑問,問いが生じ,それを定式化して問題が設定され,探究が始まる。子どもたちは学びの過程でこの追体験をしている。
 数学を学ぶことについて,第一は「出会う」ということで「習得」の入口である。
 自分のこととして,しっかり身に付けるためには,実際に自分で生み出す体験と出来上がったものを使ってみることが必要である。そして,それらを通して,なぜ学ばなければならないかを再認識する。さらに,それらの営みに楽しみを見出してがんばることが大切である。
 算数・数学教育において,計算は一般に四則計算を指し,四則演算に基づいている。それらには,操作の意味があり,ものごとに直接的ではなくて間接的にはたらきかけて負担を減らすアイデアがある。計算の心というのは,直接的ではなく間接に処理することにある。それが操作の意味から派生してくると言われている。子どもたちは計算で様々なことを勉強するけれども,その背景には,そういうことに関心を持ってその手法を見出す,その繰り返しがなくてはならない。そうすると,そこで何を感じ,考えたかを説明できなければならない。間接的に処理することを可能にしているのは計算の対象である数である。それらの仕組みが十分理解できていなければならない。
 二つ目には,計算は計算のためではなく,事に処するためにやるものである。直接的ではなく間接的でやるのであるから,具体的な場面で正しい演算決定ができないと役に立たない。計算が働くためには演算決定,関係の判断が必要である。
 それから,算数・数学の世界では,単純化とか理想化が伴っている。したがって,その結果は一定の制約を持っている。元の場面に戻して,数学的に解釈する,あるいは,数学的に解釈したものを現場に置き換えて解釈しなおす,その解釈を抜きにすることはできない。
 数学を生み出すプロセスをうまく記述したものとして,G・ポリアの帰納は大変重要であり,数学を学ぶよりも科学的に物事を考える際の基本的な営みとして提案されている。
 数学をどのように見るのかについて,H・ポアンカレは『科学と方法』の中で「数学はいろいろな異なるものに同じ名前を与える芸術である。」と述べ,数学はものごとをより簡潔・明瞭・的確にとらえようとしていることを主に主張している。
 J.ヤングは「創り出す過程は帰納的であり,説明する過程は演繹的である。」と述べている。直接見えるものはほとんど演繹的な説明であり,教科書は演繹的である。理解するためには自分で帰納的なアプローチで追体験しないと,書かれていることの意味の半分も理解できないという。
 数学についてこれまで言われてきたことは今日の授業においても必ずしも十分に実現されていない。説明すること,あるいは説明することについての技術的なことをしっかり教えることが改善に資するのではないか。
 説明について,二通りの意味がある。一つはよくわかるように述べること。二つ目は根拠を明らかにしてそれに基づいて推論によって述べること。後者は算数・数学では証明に近いものである。説明はまた,新しいことを生み出すきっかけとして非常に重要である。
 授業ではプロセスが大事であると言われるが,プロセスとは何か。教育学大辞典での定義によると,何かが起こり,何かが生じることに過程らしさがあるといわれる。したがって葛藤とか対立が生起し,それらを解消するために議論が必要になり,論証が必要になる。その結果新しいものを生み出されたり,新しい問題に気が付いたり,その連鎖でもって認識が深まるのである。そこではコミュニケーションが必要となり,言語力が深くかかわる。

<質疑応答>
委員  言語の定義として,どういうものを言語と理解しているのか。

発表者  コミュニケーションという状況の中で,言語は狭義には媒体という理解である。コミュニケーション行為におけるメッセージ交換の媒体である。

委員  準言語,非言語のイメージはどのようなものか。

発表者  準言語とは,話しぶり,声の特徴や大きさ等であり,非言語は身振り手振りや視線等であり,それがコミュニケーションにおいて意味をもたせているのが言語である。

委員  コミュニケーションの定義として「2名以上の人間が…」と定義しているが,自分自身を問うこともあると思うがどうか。

発表者  ここでは表出することに注目しているので自己内コミュニケーションは入れず2名以上としている。環境と人間のコミュニケーションなどを考えると定義がさらに複雑になるため,この会議においては,動物と植物とのコミュニケーションなどには言及せず,定義を限定して考えている。

委員  環境と人間を考えた時,「言葉と体験」の体験の部分に入ってくることもあるのではないか。

委員  個人能力に焦点を当てた指導の批判をされていたが,集団の目標や指導についての方向性について具体的にどのようなものと考えているのか。

発表者  学習指導要領においては基本的に,一人一人の子どもに身に付けさせたい力として目標や方向性が示されている。一方,授業では,先生は集団に対して指導している。このとき,集団としての学びの組織態が学習指導要領では欠落しているのではないかと考える。言語を集団を結びつける媒体として考え,学びの集団の中で言語がどのような機能を果たしているのかを考えるべきではないか。個人を考え,比較してしまうと,集団性が欠落してしまうのではないか。

委員  論理についてはどのように考えたらよいか。

発表者  算数・数学教育に関して,小学校算数では筋道を立てる,中学校・高等学校数学では論理的に考えるという言葉を使って記述されてきた。その際,帰納的な考え方は,予測する時に大事になる。そして,予測が正しいことを示すために演繹的な考え方が必要になる。論理的に考えるというのは必ずしも演繹だけを指すのではなく,帰納や類推も含め筋道を示すことである。

委員  PISA調査について,ドイツでは言語技術を学んでいれば数学もできるはずだと思うのだが実際はそうではない。そのギャップをどのように考えているのか。

発表者  ドイツは移民の問題が強く影響している。つまり,ドイツ語を話せない移民の学力の問題がある。大学に進学する学校では高得点が出ている。ここにギャップが生じている。

委員  教育実践に実際に関わっているドイツ人に話を聴くと,ドイツでゲーテなど古典的な文学を読み,技術の問題と合わせて何を読むかという作品にある哲学を持っているのだということを言っていた。技術の問題と内容の関係をどのように考えたらよいか。

委員  ドイツでは義務読書というものがある。「ゲーテ」などを読まないと卒業できない。日本のように一部分ではなく,1冊を扱っている。ドイツでは,教養として必要なものは教材に入っており,教材をどう読むのかというところで技術を教えている。それを議論することによって意見を共有し,個人でもう一度考えて論文に集約するということを行っている。

委員  ドイツでは,言語的教養と言語的技術を教材で一体として考えているところが一つの特徴である。

委員  どういった内容とリンクさせていくかが問題ではないか。日本で,今の国語の教材を見たときに言語技術の教育はうまくいくのか。それとも教科書そのものを作り変えなければならないのか。言語構造が欧米と日本では違うが,ドイツでの言語技術教育のようなやり方を日本で取り入れることが可能なのか。

発表者  教材はすべて作り直し,もっと文学作品を重要視すべきである。あまりにも日本文学が蔑ろにされている。また,日本の教材は翻訳が雑である。その雑なものを読まされて日本の子どもたちはテストを受けているという状況である。外国人に日本人を分かってもらうためには,言語技術をきちんと学ばなければならない。国際社会で最終的には外国人と日本語で話をしてもよいわけであるが,しかし,お互いに理解できるツールとして,日本人は自国の文学をしっかり知る必要がある。教科書は,文学やエッセイなどの読み物と説明や報告書を書くための言語技術とに分ける必要があるが,文章に関しては1冊の分厚い教科書を作り,しっかりとした内容を入れる必要がある。また,言語技術として,説明や報告のためのスキルを順番に積み上げるための教材が必要である。

委員  言語とかコミュニケーションパターンの類型を考える時に,ドイツでは言語化するところでコミュニケーションを厳密に行う。一方,日本はその反対で,お互いに分かっているという前提があれば,言語化しないというコミュニケーションパターンを持っている。すなわち,言わないで察することに高い価値を置いている。日本語そのものの持っている性質の違いをどのように克服したらよいのかというところを伺いたい。

発表者  私は,ドイツ人が全てを言葉にしているとは考えていない。むしろ,非言語で理解し合うという部分は非常に日本人と似ていると考えている。私が文学作品を使う時には,ドイツの超短編小説を扱う。これは省略だらけであり,行間は自分自身で分析して解釈して埋めていく必要がある。超短編小説の場合,内容自体が省略されているため,書かれた文と文の間の行間を論理的に推論しながら考えていかねばならない。その意味では,ドイツのクリティカルリーディングの手法を使って日本の古文を読むこともできる。

委員  三森委員はドイツ人に対して発言したことが感想だと言われたそうだが,国際的に感想だと思われてしまうということに我々が気が付いていないところに問題があるのではないか。

発表者  感想だと言われたのは,書かれた事実に基づかないで,「こう思う」とか「ああ思う」というような表現しかできなかったからである。日本では書かれた事実を証拠として示しながら 行間を読む方法は教わっていなかった。自分の意見が文章のどこにある根拠に基づいているのかがわかっていれば,しっかり議論ができる。感想と根拠に基づく意見とは違うということをしっかり教えるべきである。

委員  ドイツでは,日本と違って教育格差が顕著で,大学進学率が三割であり,ハウプトシューレのようないわゆるサラリーマンになっていくような学校では,言語技術教育は難しいと思う。義務教育を終了していない人が一割もいるのが実情である。そのような問題はどのように考えているのか。日本はすべての国民に平等な教育水準を求めている。ドイツにおける義務教育終了時にはすべて言語技術は身に付いていると言えるか。

発表者  確かにクリティカル・リーディングの部分はエリート教育の方に入っていくが,幼児教育の段階でも絵本を使ったクリティカルリーディングを行っている。絵本を読み聞かせながら,感想を聞くのではなく,「この次どうなると思う」と聞くような簡単なクリティカルリーディングの手法を使っている。また,職業系学校では,言語技術である説明や報告,アピールの方法,履歴書の書き方などをきちんとやっている。

委員  ヨーロッパやアメリカでは平均点としては下がったとはいえ,上位層は多い。教育の構造が異なることは前提としつつも,日本では,最低保障として身に付けさせるべき事柄についてはしっかり学ばせるとともに,上位層をのばしていかなければならない。

(5) 児童生徒の発達段階に応じた各教科等を横断した言語力の育成について,意見発表の内容も踏まえ,出席の各委員による意見交換が行われた。(○=委員)
委員  日本の学習指導要領は最低保障であり,また,先生や学校,地域の力,そして本人の志で,上は吹き抜けである。ここに二重性があるということは念頭において議論していく必要がある。

委員  言語力と国語力の違いを明確にしてほしい。資料の論点案では,言語力は国語力の中の一部として取り扱っている。国語科で使う言語力とは,思考や論理,伝達のような国語力の中の一部を切り取って使っている。国語力にはさらに情緒や感情があると考える。私は国語科においては,感想は否定すべきものではないと考えており,読書感想文も人間性を高めていく上では必要なものである。国語力の広がりと言語力を支えていく経験としての基礎的な力を国語科においては考えていく必要があるのではないか。
 相手意識,目的意識との兼ね合いで言うと,私は言語力は個人能力であると考えている。感情や,相手を認識しそれとの協働活動があるのではないか。

委員  人が言葉をもち,使う時の3つの側面がある。思考や論理に伝わっていく言語の側面,人間関係を構築するという側面,そして,精神を高揚させ,感性を磨くというような,いわゆる言語の機能としては大切であるが,方法論が立てにくいため強調されない,国語が主として担うべき言語の重要な側面がある。感想や批判に対しても方法論が立てられるべきであり,到達目標を段階的に学習指導要領に示していくことが必要ではないか。

委員  欧米人の感受性や精神性,情緒性は日本人に劣るのかということを問題提起したい。表面的にみると,言語技術は技術であり訓練であると見られ,情緒性や感性が育たないと見られがちである。しかし,文学作品を徹底的に議論すると,書いてあることを自分の身に当て考えたり,経験したこと述べたり,人の意見を聞きながら最終的には非常に深いところまでいく。これは精神性や感受性,情緒性と言えるのではないか。

委員  キーワードは普遍性と多様性ではないか。思考の結果,感情を表出する。普遍的なものと多様性や個別性が反映されたものがある。表出のひとつの形態としてテキストとか文章による表現があり,その時にも普遍とか個別の部分はある。
 ドイツ文化の中での表出の仕方と日本文化の表出の仕方で,どの部分が普遍になっていてどの部分が違うのかを追究すべきではないか。

委員  テキストの空間,書き手の空間,読み手の空間の3つの空間を考える。日本の国語教育では,テキストの空間を置いて読み手の空間ばかりになっている。これまで書くことに偏りがちであったテキストの空間できちんと読み解く力を付けていければ,これは理科であろうと算数・数学であろうと,使えるのではないか。

委員  テキストを読み解くことを,どういう形で子どもの中に育むかが重要ではないか。良い授業では「理解し,書く」ことが入る。それは国語だけではなく,数学では数学の言葉で読み解く。そして,自分の考えをまとめて議論することで集団の力が高まる。「習得」と「探究」の間の「活用」に関して,これにあたるものは,教科の言葉で自分なりに書き表し,それをコミュニケーションすることで深めることではないか。ただ話し合うのではなく,テキストと自己内対話して,その上で議論するという構造が言語力では重要ではないか。

委員  他教科で国語にかかわることを束ねて国語でどう整理するのか,逆に国語でどう整理しておくとコミュニケーションがうまくいくのか,というところをはっきりさせておくべきではないか。

委員  M.クラインの考え方はすべての教科の根本にあると思う。各教科の専門用語はある程度,国語科で対応すべきである。これは,教科書には載っているが授業でうまく扱われない場合がある。全国の学校で手当てするため,学習指導要領や指導書に盛り込んでほしい。

委員  現場の視点から言えば,教師が授業をする場合の導入がきちんとなされていないのではないかと感じている。
 導入をどのようにするかというときに,子どもたちに自分の生活や言語能力そのものを振り返らせるということをやっていれば,子どもたちのやる気や自分自身に対する自己評価をし,学習に臨んでいけるがこれがない。観察と説明の間に「なぜ」ということがあれば,説明があり,知恵が働くということを子どもたちが発見する。子どもたちがなぜその学習をやる必要があるかを理解して,意欲を持ってやることが重要ではないか。これは国語科だけの問題ではない。

委員  個人に対して評価するのか,学習集団に対して評価するのかということに関しては,個人に還元されると思う。アドバイスをされても個に還元されなければ意味をなさない。プロセスを含みこんで自分なりに評価していく。自分の考えとグループの考えをもう一度考え直し,比較しながら自分の考えをどう高まっていくのかを自覚した時に,集団としての思考が高まっていくのではないかと考える。

委員  言葉は,子どもがもつイメージや意味を構築する過程で言葉が定型化し,具現化すると考える。それは,朗読や劇化,書くという形で具体化し,精神内の活動にもっていって,語形の学習が起こり,様々な他の人のアクトアウトの仕方を見て,自己内対話が起こり,個人に帰って個人の中でイメージが進化する。集団にいくだけではなく,何度も行ったり来たりで個人の中のイメージが進化していくという整理がよいのではないか。
 幼児期からのクリティカルリーディングについて,子どもの認知発達を考えた上でないと厳しいのではないか。私は幼児期は分析的ではなく,美しいリズムや言葉をしっかりと体に刻むような読み聞かせが大切ではないかと考える。子どもの認知能力の発達の節目は110ヶ月〜1歳ではイメージを認知する,25歳後半では情報処理の能力が向上する,39歳では抽象的な論理で言葉の力を借りて操作することができるようになる,のように分けられる。大きな流れとスパイラルということを踏まえた上で,どういう技術を用いるかということは内容,教材との関係で配列していくことが必要ではないかと考える。

委員  教師の責任を感じている。教師がどのくらい教材研究をしているかどうかに係る部分が大きいのではないか。目の前にある教材で教えることが当たり前になっているのではないか。与えられるばかりでなく教師自身が教材と子どものことをしっかりと考えなければならない。

委員  言語の力を全教科に入れるとなると教師の再教育が必要である。教師が言葉に対して,見るべき視点や付けて欲しい力,工夫すべき点を出していくことも重要である。

委員  「分析的」の捉え方は様々である。私の考えでは,絵本を読み聞かせているときに,子どもが発する何気ない発言をうまく取り上げ返してやるかということの捉えである。

委員  絵本は,絵の大きさ,言葉の刈り込みなどを考えて作成している。注意深く見て,じっくり聞かせ,考えさせるようにできている。

委員  文章に書いていないことを絵から見つけ,子どもがふっと発言したことをうまくコミュニケーションに使うことを「分析的」と言っている。その結果子どもたちがどのように変わるのかということを議論すべきである。

委員  具体的な教育の方法は発達段階に応じて変えていかねばならないところはある。

委員  この会議は学習指導要領の改訂に対して提言していくにあたり,抽象的な学習指導要領と現場で行われることとのギャップをどうやって埋めるのかということを提案し,学習指導要領をどう書き換えるかということになってくるのではないか。

委員  学習指導要領の改訂に反映させていきたい。また,指導書への反映や教師の研修や力量向上への措置にも反映させたい。具体的に,教室での授業を変えるようなことをしたい。提言を現場に届かせたいという思いがある。

(6) 最後に事務局から次回の日程について説明があり閉会となった。

(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)


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