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「脳科学と教育」研究に関する検討会

2002/04/16
「脳科学と教育」研究に関する検討会(第2回)議事概要

「脳科学と教育」研究に関する検討会(第2回)議事概要

1. 日  時 成14年4月16日(火)17:30〜19:30

2. 場  所 文部科学省 分館 201・201会議室

3. 出席者
  (委  員) 伊藤座長、金澤委員、小泉委員、小西委員、佐伯委員、多賀委員、野村委員、長谷川委員、廣川委員、本田委員、無藤委員、山田委員
  (事務局) 山元科学技術・学術政策局長、布村教育課程課長、土屋基盤政策課長、田中ライフサイエンス課長、今里教育課程企画室長  他

4. 議  題
  (1)   「脳科学と教育」に関する研究計画について
  (2)   その他

5. 配布資料
  資料1   「脳科学と教育」研究に関する検討会(第1回)議事概要
  資料2   「脳科学と教育」研究に関する検討会要旨(多賀委員配布資料)
  資料3   「脳研究と教育」Brain Informed Education の可能性(無藤委員配布資料)

6. 議事要旨
  (1)   伊藤座長より開会の挨拶があった。
  (2)   事務局より配布資料の確認があった。
  (3)   多賀委員より資料に基づき説明があり、その際以下のような意見、質疑応答があった。



個体の生存に必須なものであれば、時期にとらわれずいつでも学習できた方が進化の面からは有利だと思われるが、臨界期が存在するのはなぜか。
生存に必要なものの学習に臨界期があり、そうでないものには臨界期がないというのは、正しい面と正しくない面がある。敢えて2つに分けて考えると、前者の意義は、生まれた後において環境に対してオープンにしておき、環境からのインプットを込みにして脳の構造形成をするという柔軟な戦略が進化的に有利だったということかも知れない。

脳の構造形成に必要な環境がその時期には必ず与えられていたということか。
環境の違いなど環境の質に応じて脳の構造形成が異なることが考えられるが、大まかに言えば、環境に違いはあっても何らかのインプットがあれば、それに対応しながら脳の発達が柔軟に進むということが臨界期の存在するメリットなのではないか。

「人の発達と学習」について、脳科学を抜きに考えられないものとして、医学、心理学、教育学、工学、その他と同列に扱われているが、ヒトの発達と学習に関して脳科学に対して問いかける部分があるのではないか。例えば、人と人とのコミュニケーションの取り方の能力について、脳科学で解明できることがあるのかという問いかけがあるはず。

例えばマウスでは遺伝的な背景によりデータに相当ばらつきが生じることがあり、ヒトを対象として研究する場合にも科学として客観的なものとするためには母集団の数が重要となる。
ヒトの子供を対象に科学的な研究をする際に何を直ちに行う必要があるかと考えた場合、今日話したようなことが一つの視点を与えるのではないか。
NIHでは、同じ日に産まれた赤ちゃん100人を10年間追跡するという研究があり、統計的にきちんとした結果が出る。
子供を対象に行動学の研究をすることについては、フランスではかなり協力的であり、オランダでも生まれた全ての子供のポリグラフを取り行動観察をする。日本にはそのような風土はなく、研究所のような組織的研究がないと研究ができない。

赤ちゃんの自発運動を基礎研究の側ではどのように考えているのか。赤ちゃんの行動は原始反射と考えているのか。
様々な種類の物質とレセプターとの量的・質的なバランスがある。それらに自発性があるものとないものがあると考えている。ある時期にレセプターを潰すと異常となるが、それ以降の時期に潰しても問題がないという実験結果があり、ヒトの行動は、様々な物質の秩序をもったバランスの上に成り立っているものと理解している。

自発性と目的性というのが生物の特徴。反射のように刺激により起こるものと、刺激はなくても内発的に起こるものがある。下等な生物は両方がバランスしているが、進化の途中で反射の方がウエイトが高くなり、自発性が隠れてしまう。最後まで残っていて人間の創造力に繋がっているという考え方がある。
逆に、自発運動の中に反射運動があり、自発運動の中である特定の刺激に対するものが原始反射に過ぎないのではないか、つまり原始反射そのものが本体ではないか。

(4) 長谷川委員より資料に基づき説明があり、その際以下のような意見、質疑応答があった。

大きな母集団を計測することが必要であるが、対象に影響を与えずに計測することは難しく、先端的な科学技術で取り組むべき課題であり、そのための研究組織や研究所が必要。
双子研究においては、日本では2%以下しか回答が得られないが、フランスでは60%。研究所などにより組織力をもって研究を進めないと追いつかない。
新生児や赤ちゃんを安全な方法で計測したいとお願いすると、日本では概ね2%程度しか了解してくれないが、フランスでは6割から7割が了解してくれる。
我が国では、研究の意義や楽しさについて、一般の人たちに対する研究者自身のプレゼンテーションが下手。また、上手なサイエンスライターもいない。これらが重なって日本では社会のコンセンサスが得難い。研究者が地道に努力を続け、積極的に訴えていくことが必要。脳科学と教育のような大きなプロジェクトを行う時には、研究の意義、内容等に関する情報発信をプロジェクトの一部とすることが必要だと思う。

研究者個人が新生児等を対象に研究をさせて欲しいと依頼するよりも、研究集団(組織)として依頼することの方が受け入れ易くなるのではないか。

感情・情動の発達のようなものでは、環境の質によっては臨界期も変わってくるのではないか。実験により単純化すれば結果は出るが、人間は非常に複雑であり、環境の質を構造的にどう捉えていくかが重要。
人間の進化史を考えると、単純な刺激だけによる子供の生育、特に情動の発展はあり得ない。社会のネットワークを査定しながら生きていくことで脳が大きくなったのではないか。

発達における臨界期については、いかに良い環境を作ればよりよく発達するかということが環境の質と教育との関係で問題になることだと思うが、大して努力をしなくても自然に発達する部分と、非常に努力をして環境を整えることで変わっていく部分との差異を冷静に考えることが必要。特に、個性をどう育てるかということが問題になっている中で、教育において多様性をどう作るかや個性をどう考えるかというところが本質的な問題になると思う。

(5)無藤委員より資料に基づき説明があり、その際以下のような意見、質疑応答があった。

一生の間に使える時間とエネルギーは限られているので、例えば成長に多くの時間とエネルギーを使うと繁殖には使えないというトレードオフの関係が存在するが、学習の研究においてそのような立証的研究というものは存在するのか。
幼児教育で言えば、文字をたくさん教えることは可能だが、それに使う時間を考えると、子供の遊ぶ時間とか体験する時間を失う危険があるとの指摘はある。しかし現実的には、毎日塾に行くという極端な話を別にすれば、文字を多く覚えた子供に発達的な問題があるとの証拠はない。一日30分使う程度が現実であるが、その程度でトレードオフになることはない。ただし、一日に余りに多くの時間を使ったときにトレードオフが出るかも知れないし、それが一年後に分かるならまだいいが、10年後に分かったのでは遅いではないかということを多くの人が心配している。そのため、研究の成果としてここまでは大丈夫ということが分からない場合には、今の乳幼児教育を大きく変えるのは困るというのが多くの関係者の反応。

教育の分野で脳の記憶容量についての議論はあるのか。
長期記憶については制限がないという仮定で問題はない。知識を詰め込んでも脳が困ることはないが、1日は24時間なので、詰め込み教育を行うとトレードオフが起こり、他の子供と遊ぶとか人間関係がカットされることとなる。現実の教育場面でいえば、子供達の体力や運動能力が落ちてきているが、これは外で遊ぶ時間が減ってきていることが原因であり、ある種のトレードオフが現実に存在している。体力であれば測定が簡単なのですぐに分かるが、心や頭の面については測定が困難である。

人間は長い進化の過程で最適化されたシステムであり、現在の近代化、工業化された社会の中でその最適化された状態から外れてきている部分があるのではないか。脳科学と教育についての研究は、本来の人間のあるべき姿を脳の構造から明らかにし、そこに近づけるためにどのような環境が必要かということを明らかにすることが重要な点ではないか。
脳科学により人間の全体像の様々な側面を明らかにしていくことで、直接的にこうすべきだという結論が得られなくても、気をつけながらやらなければならないという程度の示唆が得られることでも重要ではないか。

脳研究の知見を教育で応用することを考えるに当たっては、自己と他者との関係についても取り上げるべきではないか。
教育で最も重要な問題は、例えば家族関係、親しい人間との関係やもう少し広い社会的関係であり、取り上げた方がよい。

脳研究の知見を教育で応用することを考えるに当たっては、動機付けについても取り上げるべきではないか。
自己学習のレベルを高くしていったときに自分で課題を選ぶとか自分で課題を作り出すということは、動機付けと深い関係がある。このようなことが脳研究との繋がりで検討できればいいと思う。

(6)本日の研究会全体を通じた議論として以下のような意見、質疑応答があった。

脳のモジュールは、得手不得手と関係があるか。
モジュールをどのようにどう確定するかということについて研究者の間でコンセンサスはない。最もコンセンサスがあるのは視覚についてであるが、高次の機能についてはモジュールがどのようになっているかについてコンセンサスがあるわけではない。しかし例えば、他者の心を読むといったモジュールに関し、視線検知や表情の読みとりにそれぞれ特化した神経系があるのではないかと考えられる。また、三次元空間認知に関しては、様々な研究からいくつかの候補があげられている。

得手不得手の問題については、英才教育とは繋がってこないのか。
高度な数学や音楽については、進化の過程でヒトが接してきた仕事ではないので、数学や音楽のモジュールがあるかどうかは分からない。いろいろな能力のモジュールを合わせて数学や音楽を構築しているのかも知れない。例えば入れ子構造的に論理を把握する言語のような能力が科学の推論に応用されているのかも知れない。能力と言われているものが、生物学的にそのままの能力モジュールであるとは限らない。
数えることについては世界中どの文化にも存在する。分数の計算はできなくても数えることを忘れることはなく、数えることは学校教育がなくてもある程度のレベルには到達する。そこから飛躍して考えると、数えるという程度の脳のモジュールはあるのではないかという発想があり、現在、多くの研究で詰めてきている。数えることは、多少の早い遅いはあっても大体どの人も普遍的に持っていて得意不得意はあまり関係ないが、その先については、恐らく他のモジュールとのインターラクションがあり、高度な数学に展開するような部分については、得意不得意があるかもしれない。

ヒトを対象とした研究所を作るとしたら、本日の議論の外にどのようなものが研究対象として存在するのか。
ラットの研究や分子レベルの研究についても、本来全て必要なもの。そこまでいうと全部やるということになってしまうし、教育の方についても全てを含むこととなる。それでは現実的ではないので、例えば正常な子供の発達だけを対象とするとか、障害を持った病気のケースを対象とするといったように、焦点を絞った形にすることが考えられる。障害を持った病気のケースは、脳科学や医学の面から研究がしやすいので、それと教育との関係は対象としやすい。普通の子供がどのように発達し、その時に脳がどのような状態であって、環境をどのように整えていかなくてはならないかということを研究することが一番難しい。
人間をサイエンスとして研究する手だてを準備することが重要。米国は早い動きをしており、NIHの中にNIBIB(National Institute of Brain Imaging and Biomechanics)という国立研究所を最近作った。これはNIHとして初めての工学系の研究所であり、人間を測ろうというもの。そのような視点まで含めて考えることが今後は必要。

以  上


(科学技術・学術政策局基盤政策課)

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