ここからサイトの主なメニューです

史跡等の指定について

2003年11月21日
文化審議会

報   道   発   表   資   料



文   化   審   議   会   答   申




平成15年11月



文   化   庁

 


史跡名勝天然記念物の指定について

   文化審議会(会長   高階秀爾)は、11月21日(金)に開催される同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、文部科学大臣に対して、別紙のとおり史跡名勝天然記念物の新指定13件、追加指定等12件について答申する予定である。

(平成15年11月21日現在)
種別 現在指定件数 今回答申件数 合計(既指定件数と
答申件数との合計)
新指定 統合による減
史跡
(うち特別史跡)
1,514
(61)

(0)

(0)
1,521
(61)
名勝
(うち特別名勝)
324
(35)

(0)

(0)
326
(35)
天然記念物
(うち特別天然記念物)
966
(75)

(0)

(0)
968
(75)
合計 2,804
(171)
13
(0)

(0)
2,815
(171)

(備考)
   件数は、同一の物件につき、2つの種別に重複して指定が行われている場合(例えば、史跡及び名勝など)、それぞれの種別につき1件として数えたものである。
   なお、重複指定物件を1件として数えた場合、
     現在指定件数は、    2,700件  
  答申後件数は、 2,711件    である。
   統合による減とは、既指定の史跡3件を1件に統合したことによるものである。

 

「新指定」答申予定物件

【史跡】  9件

     きんけいざん
   金鶏山【岩手県西磐井郡平泉町】
経塚が営まれ、平泉の都市計画上の基準点、無量光院と一体の宗教世界を構成する歴史的な山
   
     こんだかんがいせき
   金田官衙遺跡【茨城県つくば市】
8世紀前半から9世紀中葉に常陸国河内郡に営まれた郡衙関連遺跡
   
     かまくらだいぶつでんあと
   鎌倉大仏殿跡【神奈川県鎌倉市】
鎌倉時代中頃に関東鎮護のために造営された、大仏の鋳造過程を示す遺構と大仏殿建物跡
   
     あらやいせき
   荒屋遺跡【新潟県北魚沼郡川口町】
旧石器時代末期の北方系細石刃文化の代表的な遺跡
   
     きょうごくしいせき
   京極氏遺跡
       きょうごくしじょうかんあと  
  京極氏城館跡  
  やたかじあと  
  弥高寺跡 【滋賀県坂田郡伊吹町】
  北近江の戦国大名京極氏の城館跡と軍事的に利用した山岳寺院跡
   
     しみずやまじょうかんあと
   清水山城館跡【滋賀県高島郡新旭町】
琵琶湖西岸に位置する鎌倉期から当地に割拠した高島氏の惣領家の城館跡
   
     ちゃすりやまこふん
   茶すり山古墳【兵庫県朝来郡和田山町】
古墳時代中期前半の近畿地方最大の円墳。武器をはじめ豊富な副葬品が特徴
   
     みまさかこくぶんじあと
   美作国分寺跡【岡山県津山市】
美作国の国分寺で、主要な伽藍配置が判明し、国分寺造営の実態をよく示す遺跡
   
     きくちじょうあと
   鞠智城跡【熊本県菊池市、鹿本郡菊鹿町】
7世紀後半、大和朝廷が大宰府防衛のため築いた朝鮮式山城の一つ



【名勝】  2件

     いけだしていえん
   池田氏庭園【秋田県仙北郡仙北町】
東北の大地主池田氏の邸宅全体に営まれ、洋館と大型の雪見燈篭を配する園池の景観が独特
   
     やまてこうえん
   山手公園【神奈川県横浜市】
横浜の外国人居留地に関連して、明治初頭に設置された我が国最初の公園



【天然記念物】  2件

     さんべあずきはらまいぼつりん
   三瓶小豆原埋没林【島根県大田市】
縄文時代後期の三瓶山の噴火で埋まったスギを主体とする巨木林
   
     へいせいしんざん
   平成新山【長崎県島原市、南高来郡小浜町】
雲仙の噴火により形成され、噴火活動の一部始終が観察された火山






別   紙


平成15年11月史跡等の指定答申予定物件



《 史跡の新指定 》  9件

     きんけいざん
   金鶏山【岩手県西磐井郡平泉町】
   金鶏山は、平安時代末期に栄えた奥州藤原氏の拠点、平泉の中央西側にある小高い山。標高98.6m、山裾との比高約60mで、なだらかで整った円錐形の山容をみせる。
   昭和5年(1930)に、伝説の金の鶏を掘り出そうとして頂上付近が濫掘された際に、経塚に伴う銅製経筒や陶器の壺・甕などが掘り出された。これらはいずれも12世紀代の藤原氏の時代のもので、多くは12世紀半ばから末葉の、三代秀衡期のものであるが、二代基衡期あるいは初代清衡期の末頃にさかのぼるものも見られる。時期や遺物の内容から見て、藤原氏と密接に関係した経塚と考えられる。また、金鶏山は平泉の中にあって目立つ山容であり、基衡が造営した毛越寺や平泉の基幹道路を設定する際の基準点としての意味をもつとともに、秀衡が造営した無量光院の西方にあって一体的な宗教世界を構成している。
   このように、金鶏山は平泉において特別な歴史的意義を有しており、景観上も重要な位置を占めている。
   
     こんだかんがいせき
   金田官衙遺跡【茨城県つくば市】
   筑波山の南15キロメートル、桜川西岸の沖積低地を望む台地縁辺上に立地する古代官衙遺跡。幅約4m、深さ約1.3mの溝で区画された東西約110m、南北約310mの長方形の範囲に、礎石建物8棟、総柱の掘立柱建物3棟が並ぶ正倉院(金田西坪B遺跡)、その北西に展開する4群に分かれて品字状やL字状の建物配置をする約100棟の掘立柱建物・礎石建物、井戸、柵列などからなる官衙地区(金田西遺跡)、その西側隣接地で、基壇建物や四面庇の特殊な建物と多数の瓦の出土が見られた仏教関係施設(九重東岡廃寺跡)で構成される。これらは、それぞれ規模や構造を変えながらも、8世紀前葉から9世紀中葉に併存する。
   常陸国風土記の記載や近隣遺跡の出土品から、本遺跡は、常陸国河内郡衙関連遺跡と考えられる。正倉院、官衙地区、仏教関係遺跡を一括して把握できるとともに明確な郡庁、館、居宅などの機能を示す建物配置を持たずに官衙地区を構成するなど、郡衙の実態を解明する上で極めて重要である。
   
     かまくらだいぶつでんあと
   鎌倉大仏殿跡【神奈川県鎌倉市】
   鎌倉大仏は、鎌倉旧市街地の西端の谷部に所在し、露坐の大仏として親しまれている。『吾妻鏡』建長4年(1252)8月17日条に鋳造開始の記事がある。文永元年(1264)の鐘銘に「新大仏鋳物師丹治久友」とあり、これ以前には完成していた。同5年の日蓮書状に「大仏殿別当」とあることから、寺院名は大仏殿で、大仏殿建物もこの頃には完成していた。大仏殿建物は倒壊と再建を繰り返したが、応安2年(1369)の倒壊以降は再建の記録がなく、文明18年(1486)に大仏を訪れた漢詩人の万里集九は露坐であったと記している。
   鎌倉時代中頃に造営された大仏の鋳造過程を示す遺構と大仏殿の建物跡が、鎌倉市教育委員会の発掘調査によって確認された。大仏の周辺部で鋳型の周囲に順次土を盛り上げていった斜めの土層が確認されているが、この土層は大仏鋳造後に削平され、礎石を据えるために径約3m、深さ約2mの根固め施設が造られた。根固め遺構の配置から、大仏殿建物は東西約44m、南北約42.5mの五間四方の裳階付と推定復元された。
   鎌倉大仏殿跡は、鎌倉幕府が関東鎮護のために造営した寺院跡であり、大仏鋳造遺構、大仏殿建物跡が良好に遺存し、幕府の宗教政策を示す遺跡として重要である。
   
     あらやいせき
   荒屋遺跡【新潟県北魚沼郡川口町】
   信濃川と魚野川の合流点を望む段丘上に位置する旧石器遺跡。出土した約10万点の石器は、後期旧石器時代終末の細石刃文化期の典型的な石器群の様相を示す。
   多量に出土している彫刻刀形石器の多くは、極めて特徴的な形状をもち、荒屋型と型式設定された。本遺跡で確認された荒屋型彫刻刀形石器と楔形細石刃核の組合せは、当該期の北東アジアの旧石器文化研究上で重要な指標であり、この組合せをもつ石器群が約2万年前までにバイカル湖周辺地域で成立した後、後期旧石器時代の末期から新石器時代初頭に、中国北半部、朝鮮半島、日本列島、カムチャッカ半島、アラスカにまで拡散する状況が把握できる。こうした石器群の拡散の状況を寒冷環境に適応した北方モンゴロイド集団の動きと結びつけて考える学説も提示されている。また、本遺跡同様、荒屋型彫刻刀形石器と湧別技法をもつ石器群が、日本列島では東北日本を中心に分布するが、これらを保持する集団が北海道経由で東北日本に拡散することを想定する説もある。
   このように荒屋遺跡は、細石刃文化とりわけ北方系細石刃文化について日本を代表する遺跡であり、旧石器時代末期における人類集団の拡散を如実に示す遺跡である。
   
     きょうごくしいせき
   京極氏遺跡
       きょうごくしじょうかんあと    
      京極氏城館跡    
       やたかじあと    
      弥高寺跡        【滋賀県坂田郡伊吹町】
     京極氏遺跡は、滋賀県北東部の岐阜県との境に位置する伊吹山の南山麓に所在する戦国期北近江に勢力を張った戦国大名の京極氏の城館遺跡等である。京極氏は、近江の豪族で鎌倉期から近江を初め多くの守護職を兼ねた佐々木氏の一族で、近江を一族の六角氏と分け、北近江を領した。16世紀初め一族の内紛を収めた京極高清が上平寺に新たに築いた城館は、大永3年(1523)の国人一揆により落城するまで戦国大名の城館として北近江の政治・文化の中心として機能した。
   館跡は、当主の居住する館跡と2ケ所の池と巨石を配する庭園跡が所在する。館地内には、弾正屋敷・隠岐屋敷等の地名も残り、隣接地には伊吹神社や京極家一族の墓所などが所在する。城跡は、伊吹山から南に延びる刈安尾と呼ばれる尾根の先端に築かれ、標高699mの場所に主郭を設ける。規模は、南北約450m×東西約150mを測り、最北部に大きな堀切を配し、土塁で囲まれた主郭を最高部に多くの曲輪が南に分布する。家臣団屋敷跡は、家臣に取り込まれた北近江の国人領主の屋敷跡で土塁を伴う。弥高寺跡は、古代を起源にもつ山岳寺院で、寺跡を戦国期に京極氏により軍事的に改修・利用したものである。
   このように戦国大名であった京極氏の遺跡が良好に遺っていることは、我が国の戦国大名のあり方を知る上で重要である。
   
     しみずやまじょうかんあと
   清水山城館跡【滋賀県高島郡新旭町】
   清水山城館跡は、滋賀県の西北部、琵琶湖の西岸に位置する高島氏の城館跡である。鎌倉期から当地域に割拠した近江源氏佐々木氏の一族であった高島氏の惣領家の城跡である。
   城跡は、標高約210mに位置する主郭を中心に北西・南西・南東の三方の尾根上に曲輪を配置する放射状連郭式の山城跡である。2ケ所に設けられている畝状空堀群は、永禄期以降の浅井・朝倉勢力の影響により技法が伝わったものと考えられている。東西約55m×南北約60mを測る主郭には、石段やかまど状遺構を伴う礎石建物が検出され、会所機能を兼ね備えた御殿と考えられている。また、主郭からは、調査の結果、国内産の陶器や輸入陶磁器、金属器、硯などが出土し、いずれも16世紀中から後半期のもので織田信長の高島郡攻略の時期とほぼ一致するものである。清水山遺跡は、南北に縦断する幅約10mの道状遺構が確認され、その両側に道や土塁で区画された曲輪が碁盤の目のように分布する。各区画には井戸が確認され、それぞれが生活単位であったことがわかる。本堂谷遺跡も堀と土塁によって区画され、井戸をもつものであり、清水山遺跡と同様の遺跡であったものと考えられている。
   このように清水山城館跡は、戦国期の在地の城館群を見る上で貴重な遺跡で、我が国の戦国期の有力在地豪族のあり方を知る上で重要な遺跡である。
   
     ちゃすりやまこふん
   茶すり山古墳【兵庫県朝来郡和田山町】
   但馬南部に広がる和田山盆地を望む細い尾根の先端に造営された大型の円墳である。播磨と但馬をつなぐ交通の要衝にあたるところに築かれた。北近畿豊岡自動車道建設予定地を発掘調査に着手したところ、重要な内容をもつ古墳であることが判明したことから、計画を変更し現状保存することとなった。
   墳丘は長径90m、短径78mの長楕円形の円墳で、近畿地方では最大、全国でも4番目の規模である。墳頂平坦面では2基の埋葬施設がある。二つの主体部の副葬品を合わせると、青銅鏡4点、玉類2,000点、武具類では甲冑2組と盾7点、武器類では鉄刀・鉄剣・鉄矛など85点と鉄鏃400点、農工具類では刀子・斧・鎌など80点あまりが出土した。遺物の依存状況は良好で、畿内地域以外では初めての出土となる三角板革綴襟付短甲など特筆される遺物が多数ある。
   茶すり山古墳は近畿地方最大の円墳であり、武器を始めとする副葬品は豊富で遺存状況もよく、傑出した内容の副葬品をもつ。古墳時代の社会や政治動向、とりわけ畿内の中央政権と地域の首長の関わりを知る上で重要である。
   
     みまさかこくぶんじあと
   美作国分寺跡【岡山県津山市】
   美作国分寺跡は、岡山県東北部、吉井川近くの台地上に所在する古代寺院である。調査の結果、南から南門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、中門と金堂を回廊で連結し、その東南に塔が位置するという、典型的な国分寺式の伽藍配置をとることが明らかとなった。また、講堂北方には別の礎石建物があることと、寺域はほぼ2町四方であることも判明している。年代は出土遺物から、天平13年(741)の国分寺建立詔からほどなく造営され、平安時代末には衰退したものと考えられる。出土遺物では、創建期の軒瓦の文様が平城宮東区朝堂院上層の礎石建物所用瓦と酷似することが注目される。
   美作国分寺跡は主要な伽藍配置が判明し、特に金堂、塔周辺の石敷など、遺構の残存状況は良好である。出土した瓦からは、中央政府との強い関係が想定され、国分寺造営の実態をよく示すとともに、古代美作国の政治情勢を示す上でも重要である。
   
     きくちじょうあと
   鞠智城跡【熊本県菊池市、鹿本郡菊鹿町】
   鞠智城は、東アジア情勢が緊迫の度を増した7世紀中葉以降に、大宰府防衛のため大和朝廷が築造した、『続日本紀』等の国史にも散見する著名な古代山城である。城跡は、有明海に注ぐ菊池川の河口から北東に約27キロメートル内陸に入った菊鹿町米原の標高160m前後の丘陵地に位置し、総延長約3.5キロメートルの土塁線や急峻な崖線で囲まれた面積約55haの規模を有する。
   昭和42年度から始められた発掘調査によって、掘立柱建物・礎石建物、鼓楼ともいわれている八角形建物跡2棟、貯水池跡、貯木場跡、門跡等が見つかった。遺構変遷として、7世紀中葉から7世紀末、7世紀末から8世紀後半、8世紀末から廃絶までの大きく三時期が考えられている。多数の遺物が出土したが、注目すべきものに「秦人忍□五斗」と書かれた米の荷札と思われる木簡、百済系の単弁八葉蓮華文軒丸瓦等がある。このほか、炭化米や礎石表面の火災痕跡等、国史に見える火災の記事と合致するような遺構、遺物も見つかった。
   鞠智城跡は、遺構等の保存状況も良好であり、同時期・同種の物件である大野城跡・基肄(椽)城跡と並び重要な遺跡である。



《 名勝の新指定 》  2件

     いけだしていえん
   池田氏庭園【秋田県仙北郡仙北町】
   池田氏庭園は仙北平野のほぼ中央部に位置し、約4haの敷地は東に奥羽山脈、西に神宮寺岳、南西に鳥海山を遠くに望む広大な田園地帯に囲まれている。近代における東北三大地主として知られる池田氏の第13代当主文太郎により明治後期から大正にかけて本邸に造られた庭園である。敷地は池田氏の家紋に倣い亀甲の形状を有し、周囲を石垣を伴う濠及び土塁によって囲み、流れ及び水路を巡らせ園池を設けて主庭園を成す。
   主庭園は中央に中島、西岸に巨大な雪見燈籠を配した浅い園池を中心とし、南畔には洋館を設けている。洋館は秋田県下で最初の鉄筋コンクリート造で、白い壁と赤い屋根の外観を基調とした優れた意匠・内装等を有する2階建ての建築であり、大正12年(1923)に私設の公開図書館として建設された。雪見灯籠は高さ及び笠の直径ともに約4mを測り、他に類例を見ない巨大なもので、当時の有産階級の趣味を反映しているとともに印象的な主景物となっている。その他、邸内には各所に小さな築山及び滝口を設け、石燈籠、景石のほか、プール、運動広場などを配して、散策や運動を楽しむ構成としている。
   また、本庭園は近代造園の祖、長岡安平が関与した現存する事例としても重要である。
   
     やまてこうえん
   山手公園【神奈川県横浜市】
   山手公園は、明治6年(1873)の太政官第16号による他の多くの公園に先駆けて、山手地区の外国人居留地において明治3年(1870)に開設された我が国最初の公園である。居留外国人は 「パブリック・ガーデン」、日本人は「山手公園」と呼び、フラワーショー、英国連隊のバンド演奏、幻灯会等の様々な催しが行われた。明治11年(1878)日本政府は居留外国人が組織する私設団体「レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ」に山手公園を貸付け、同クラブが公園の管理並びに地代の納入を行うこととなり、山手公園は日本におけるテニス発祥の地ともなった。
   現在も公園全体の変化に富んだ地形、雛壇上のテニスコート及び日本に初めて持ち込まれたとされるヒマラヤ杉、豊かな緑陰等、開設当時から継承する多くの諸要素が一体となって、優秀な風致景観を形成しており、学術上、観賞上の高い価値を有する公園である。



《 天然記念物の新指定 》  2件

     さんべあずきはらまいぼつりん
   三瓶小豆原埋没林【島根県大田市】
   三瓶小豆原埋没林は、活火山である三瓶山の北麓の島根県大田市三瓶町小豆原地区にある。昭和58年土地改良事業に伴い最初の埋没木が発見された。平成10から14年度にかけて島根県景観自然課による本格的調査により、スギの巨木を主体とする埋没林の全貌が明らかになった。
   埋没林は、谷筋に成立したもので、3,500年前の縄文時代後期の三瓶火山の噴火に伴う土石流や火砕流等の堆積物によって埋没した。スギの樹齢は500年を超え、直立した樹幹の根元から10数メートルの高さまでがそのまま保存されている。この埋没林には、スギの他トチノキ、ナラ類、カシ類、シイなども混生している。当時の表土も残されていて、なかには植物の葉や草、種実、花粉、昆虫化石などが含まれており、まさに縄文時代後期のタイムカプセルといえる。
   三瓶小豆原埋没林は、「三瓶小豆原埋没林公園」として公開されており、直立した埋没林を目の当たりにすることができる。火山国である我が国を代表する自然現象を現すものとして重要である。
   
     へいせいしんざん
   平成新山【長崎県島原市、南高来郡小浜町】
   長崎県島原半島の中央にある現在の雲仙火山の活動が始まったのは、およそ50万年前である。雲仙火山は遠くから見るとひとつの山に見えるが、実際は、普賢岳(ふげんだけ)などの溶岩ドームから構成される複成火山である。
   今から約200年前、寛政4年の噴火の際には、大津波が対岸の肥後(熊本)を襲った。我が国の火山災害史上有名な「島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)」である。平成2年11月17日、雲仙火山の最高峰である普賢岳は、198年ぶりの噴火を開始する。噴火は、水蒸気爆発から始まり、やがて溶岩ドームが出現する。地下のマグマ溜まりから次々と供給される粘性の高い溶岩は、斜面にせり出し、ついには先端が崩壊し火砕流を発生させた。ことに平成3年6月3日に発生した火砕流は、多くの犠牲者を出し、火砕流という用語を市民に印象づけた。さらに、谷沿いに堆積した大量の火砕流堆積物や火山灰は、土石流となって流れ下り、ライフラインを破壊した。平成7年5月25日、足かけ5年にわたった噴火活動が終息し、この間に成長した溶岩ドームは平成新山と名付けられた。標高は、雲仙火山の最高峰であった普賢岳を上回る1,486mに達した。
   平成新山は、我が国を代表する火山現象として、また、生成が目撃された火山活動の証として極めて重要である。



《 特別史跡及び特別天然記念物の追加指定 》  1件

     にっこうすぎなみきかいどうつけたりなみききしんひ
   日光杉並木街道附並木寄進碑【栃木県日光市、今市市】
   日光東照宮への参詣道として江戸時代初期に整備された街道。杉並木の樹根保護のため、並木敷の両外側各20mの範囲について継続して行っている追加指定である。



《 史跡の統合・追加指定・名称変更 》  1件

      いま じゅくこふんぐん    
   (新) 宿古墳群       (旧) 丸隈山古墳
      まるくまやまこふん    
      丸隈山古墳   大塚古墳
      おおつかこふん    
      大塚古墳   鋤崎古墳
      すきざきこふん    
      鋤崎古墳    
      いいじふたつかこふん    
      飯氏二塚古墳    
      かぶとづかこふん    
      兜塚古墳    
      やまのはないちごうふん    
      山ノ鼻一号墳    
      わかはちまんぐうこふん    
      若八幡宮古墳    
         【福岡県福岡市】
   4世紀半ばから6世紀前半までの約150年間、連綿と前方後円墳が築造された古墳群。同一地域の中で古墳時代を通して前方後円墳が築造されており、全国的にも珍しい。既指定の3基の前方後円墳を統合し、4基の前方後円墳を追加指定し、名称を変更する。



《 史跡の追加指定及び名称変更 》  1件

      とちもとはいじあと             
   (新) 栃本廃寺跡 (旧) 栃本廃寺塔跡
         【鳥取県岩美郡国府町】
   鳥取県東部の山間部に所在する7世紀末から10世紀初頭の寺院跡。2基の塔をもつ山陰地方では極めて珍しい古代の寺院跡である。寺域が確定されるとともに、金堂・講堂の詳細が判明したことから追加指定を行う。



《 史跡の追加指定 》  8件

     かばさきてらあと
   樺崎寺跡【栃木県足利市】
   12世紀末から15世紀の足利氏の氏寺跡、廟所跡。発掘調査で確認されていた北側の僧坊跡と南東側の寺務御坊跡のうち、条件の整った部分を追加指定する。
   
     たきざわせっきじだいいせき
   瀧沢石器時代遺跡【群馬県勢多郡赤城村】
   群馬県の北部に所在する縄文時代早期から晩期にかけての遺跡で、径30m以上の大規模な環状列石が確認され、土偶、岩版、石棒などの遺物も出土し、祭祀空間をもつ集落跡である。調査によって遺跡の広がりが確認された部分を追加指定する。
   
     まんぎょういせき
   万行遺跡【石川県七尾市】
   古墳時代前期初頭の、これまでに例のない規模の大型掘立柱建物跡と方形区画が検出され、能登地域を越えた勢力が関わった可能性も示唆される。古墳時代の政治状況や社会を知る上で極めて重要であり、条件の整った部分を追加指定する。
   
     たじまこくぶんじあと
   但馬国分寺跡【兵庫県城崎郡日高町】
   発掘調査によって金堂跡、中門跡、塔跡等が見つかっており、出土品の年代測定から伽藍の完成は遅くとも766年頃と判明している。南門推定地、講堂推定地などのうち、条件の整った部分を追加指定する。
   
     あすかいなぶちきゅうでんあと
   飛鳥稲淵宮殿跡【奈良県高市郡明日香村】
   稲淵川(飛鳥川)左岸に位置する、7世紀中頃の宮殿跡。4棟の細長い掘立柱建物が整然と配置され、石敷遺構も見つかっている。「飛鳥河辺行宮」に比定する説もある。条件の整った部分を追加指定する。
   
     はぎじょうあと
   萩城跡【山口県萩市】
   萩市街地北西部に位置する長州藩毛利家36万石の城跡である。三の丸地域のうち、条件の整った部分を追加指定する。
   
     おおともしやかたあと
   大友氏館跡【大分県大分市】
   北部九州最大の戦国大名であった大友氏の守護館跡。西国の戦国時代史の重要な中心地のひとつであり、方2町の守護館の典型例でもある。条件の整った大型中心建物跡周辺、東門跡付近、北東隅部付近、庭園跡の西側部分の各一部を追加指定する。
   
     おおしまはたけだいせき
   大島畠田遺跡【宮崎県都城市】
   宮崎県東南部の都城盆地にある平安時代の有力者層の居宅跡。居宅跡は東西約70m、南北80m以上の規模があり、中心は大型建物で中島を備えた池などがある。条件の整った居宅の北半部を追加指定する。



《 名勝の追加指定 》  1件

     おざきしていえん
   尾崎氏庭園【鳥取県東伯郡羽合町】
   江戸時代中期の山陰地方における造庭技術の発達を示す豪農の書院庭園。石組みの池とマツ、ソテツなどが植栽された低い築山からなり、書院から庭園の東と南を画する築地塀越しに園外の山並みを眺望できる。屋敷地の全体と山並みの範囲を追加指定する。

(文化庁文化財政部伝統文化課)

-- 登録:平成21年以前 --