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文化審議会

2003年7月25日議事録
国語分科会国語教育等小委員会(第7回)議事要旨


国語分科会国語教育等小委員会(第7回)議事要旨

平成15年7月25日(金)
午後2時〜4時30分
霞山会館「霞山の間」

〔出席者〕
   (委員) 水谷主査,小林副主査,青木,井出,阿辻,沖山,五味,田村,藤田,藤原,各委員(計10名)
   (文部科学省・文化庁) 山口国語課長,氏原主任国語調査官,鈴木国語調査官,中神国語調査官,小椋専門職ほか関係官

〔配布資料〕
   1    国語分科会国語教育等小委員会(第6回)議事要旨(案)
   国語教育等小委員会の意見のまとめ(案)

〔経過概要〕
   1    事務局から配布資料の確認があった。

   前回の議事要旨を確認した。(担当調査官朗読)

   配布資料2について事務局から説明があり,その後,意見交換をした。小委員会で出された意見に基づいて,配布資料2に必要な修正を加え,「国語教育等小委員会の意見のまとめ」とすることが了承された。修正に当たっては,主査,副主査に一任することとされた。

   第15回の国語分科会総会は,9月9日(火)の午後2時から午後4時30分まで開催することが確認された。

   協議における主な意見は次のとおり。


   「具体的な目安」なのだから分かりやすく書くことが必要である。新聞が読めることは一つの目安である。新聞は「常用漢字+α」の範囲の漢字で書かれているので,新聞を読むために「常用漢字+α」の漢字を読める力が具体的な目安となる。
 
   具体的な目安を示すときには「前書き」が必要だと思う。そこに,例えば「新聞を進んで読み,広く情報を収集するとともに,読書に親しみ,適切な言語生活を送ろうとする」など関心や意欲といった態度的・情意的な言葉を入れてほしい。そこが入らないと,読む力,書く力などの技能を本当に身に付けることはできない。
 
   この部分は,これまでの議論で重要とされてきた「高次の情緒力」「論理力」「語彙力」を確実に身に付けるための目安になっていないといけない。具体的には,「意見のまとめ」の1〜10ページに書かれていることが,12・13ページで押さえられているかどうかを見て,足りないところを補えばよい。
 
   時代によって新聞の文章が変わるとしても,基礎力として,新聞が読めるということは目安として挙げておいた方が良い。今の子供たちは新聞を読まずにインターネットを見ているが,インターネットでは情報の信頼性が確かめられないという問題がある。そういう問題を指摘する意味でも,新聞のことは挙げておきたい。
       また,日本では,言葉の力に対する信頼が弱いという問題もある。明治時代に,西洋の文化を取り入れる際に日本語に訳したが,「リバティー」を「自由」と訳すような誤訳もあり,言葉への信頼感が弱くなったと思う。そういう歴史的背景を押さえて目安を提言する必要がある。高次の情緒力を養う素材として,平家物語や近松の作品を目安に入れるのがいいのではないか。小学校,中学校で扱うことのできる古文もあるのだから,現代文に限る必要はない。暗記しやすい文章を入れたい。
   
   以前に比べて,教科書から古典的な作品が姿を消しつつあるのか。
 
   そうとは言えない。中学校では各学年1単元・15時間程度の古典教材は入っている。高校の国語総合にも,もちろんある。小学校では短歌,俳句が入っている。
 
   漢文に関しては,中学校でも量は多くないが入っている。高校では経書類,史伝,詩歌が教科書に採られているが,採られている作品はかつてのステレオタイプ的なものではなくなっている。中国文学の立場からはいいことだと思うが,これまでの日本人が書いてきた文章の底流にあるような論語などの作品は余り教科書に出てこないことになる。文化遺産の継承という意味では弱くなっている。
 
   古典や新聞など文章の種類を中心とした柱立てにするのではなく,事柄を正確に書く力,内容を読み味わう力というふうに必要な力を挙げていったらどうか。
 
   大前提となる基本的な考え方は既に合意されている。基本的な考え方の大きなものとしては,小学校の低学年における国語の授業時間を大幅に増やすということがある。その中身を具体的に書くことが目安ではないか。小学校で国語の授業時間が増えたときに,教え方を考え直すとか,授業の中身をどうするかとか,そういう変えなくてはならないところを書く必要がある。この小委員会で,それが書けないのなら,こういうことを現場で研究してほしいと書けばいい。
 
   目安だから具体的なものをきめ細かく挙げるのは無理である。例を示すくらいでいいのではないか。ポイントが押さえてあればいいと思う。
 
   これからの日本人に求められる国語力として,高次の情緒力,論理力と言ってきたのだから,一人の国民として身に付けるべき内容をここで提示すべきである。
       読書活動等小委員会では,具体的な作品名を挙げずに,理念的な言い方で読書が大事だとしている。この委員会でも具体的な作品名を挙げるのは難しいので,軟らかく,説明的に目安を言うようにすればいいのではないか。
 
   コミュニケーションが大事なのだから,13ページの「4 話す力」に「話し合う」という要素も入れる必要がある。例えば,1の2に「相手の話を受け」という文言を入れると,話し合うという意味合いが入ってくると思う。
 
   すべてを網羅するということは,無理だし,やってはいけない段階である。このように考えられるという手掛かりを示せばいいだろう。
 
   情緒力,論理力,語彙力の三つの力に分けて,インパクトのあることだけを例示すればいい。そうすれば,前半の記述とも呼応する。例えば,語彙力については,小学校までに常用漢字のすべてが読めるとか,高次の情緒力については,高校までにもののあわれが分かるようにするとか,論理力については,自分の主張を文章や話として表現できるとか,その内容を簡潔に短く示せばいい。
       また,全体としては読書活動等小委員会の考え方と整合しないといけない。国民全般の目安として,この程度の作品は読めなくてはならないというようなことを示すのは個人差もあり不可能である。例えば,1日30分間は活字に目を通すというような目安を示して,前半と呼応させて書くのがいい。それから,当然と思われるようなことは書かない方がいい。小学校で常用漢字のすべてが読めるようにと書けば,小学校の国語の授業時間を増やすことにもつながる。そういうインパクトのあるものだけを書くことが重要である。
 
   情緒力,論理力,語彙力の下に「話す力」「聞く力」などを入れ込んだ形にすると,前半の記述との整合性を持たせることができ,分かりやすいのではないか。前半で既に具体的に述べていることを,改めて「具体的な目安」として,カテゴリーを変えて書こうとしているので混乱しているのではないか。
       また,国語力を向上させるには,学校教育だけでなく,生涯学習的な課題としてとらえる必要があるというようなことを書いておくといいと思う。
 
   細かな目安を並べるよりも,大方針を出して,現場で使えるような原則を示せば良い。それから,論理力については,自分の主張を論理的に書けるということだけでなく,相手の意見を論理的に分析して,自分の意見を論理的に述べるということも入れたい。日本人には,こういうやり取りの論理性が欠如している。
       1ページにある「国際化された世界とはオーケストラのような…」というのは,いいことを言っているが,誤解されるおそれがある。今は多様化の時代であり,一人の人間の中にも一つの文化だけでなく,いろいろな文化がある。そういう多様化の流れに逆行しているという誤解を受けないような書き方にした方がいいだろう。
 
   今の御指摘については,「自国の伝統,文化,自然を愛するという情緒を身に付けた人だけが他国の人々の同じような思いを理解できる」と書き加えればいい。
       目安の書き方については,軸が三つある。論理力・情緒力・語彙力という軸と,読む・書く・聞く・話すという軸と,小学校・中学校・高校という軸である。ここでは,三つのうち最も斬新な「論理力・情緒力・語彙力という軸」に沿って,大まかな方針を示せばいい。網羅的でなく強調したいところだけを例示したらどうか。
 
   「3   家庭・地域における国語教育」と「4   マスコミ・漢字・その他」の柱の立て方自体を検討し直さないといけないのではないか。特に,4でマスコミと漢字とが並ぶのはおかしいのではないか。
 
   漢字のことは,語彙力の「具体的な目安」として入れたらどうか。
 
   漢字の話は,諮問理由説明の「ワープロなど情報機器の発達に伴い…」の答えとして,ここに組み込まれているものだと思う。語彙力のこととしてまとめる方法もあるが,その場合,諮問理由説明との関係をどう考えるかが問題となろう。仮に,「3   家庭・地域における国語教育」を拡大するなら,4と合わせてはどうか。
 
   中国では漢字が負担になっているという意識があり,漢字を簡略化する方向で進んでいる。日本でも簡略化の方向が強く出すぎているということで,漢字の問題が諮問で触れられていると思う。そういう問題は指摘しておく必要があるだろう。
       最近,引きこもりが増えているという問題もある。その元は,自信がないということであり,何をやってもうまくいかないという発想である。その根本の一つは,日本語に対する信頼感がないことであるという仮説を私は持っている。意味が分からなくても,古典の作品を暗記するということを小学校でやることは大きな意味がある。国際化を余り前面に出すと自信のなさを加速させる危険性があるので,自信を持たせるような文化・伝統を伝える役割を国語教育が担う必要がある。そうすると古典を扱うしかない。日本語の力を復活させるには古典が大切だと思う。引きこもりの人たちに共通するのは,生きることに関心がないことである。
 
   国語教育で古典を扱うのは,それぞれの身の丈に応じて文化遺産を継承するということに集約できるだろう。個人個人が自分の能力に応じて,文化遺産を継承し,次の世代へと引き継ぐということは,現在要請されている国語力の中に入れるべきである。ともすれば,古典は文法等のスキルということで拒否感を持たれやすいが,スキルということを切り離して情緒力の中に取り込んでいくべきであろう。
 
   国の文化・伝統は国語,つまり文学作品に含まれている。したがって,文学作品を取り扱わなければならない。また,朗唱,暗唱に値するものは現代文にはなく,文語にしかない。古典の定義を少し広げて,戦前の詩歌なども含めた文語と考え,小学校から入れていく必要がある。また,古典は日本語の美しいリズムの源泉でもあり,朗唱,暗唱などを通して美しいリズムを身に付けていくことができる。こういうことをまとめの前半に書いた上で,具体的目安にも,情緒力の例として,小学校にも文語を入れるということを挙げたらどうか。また,そこまでやるから,小学校の国語の授業時間を増やす必要があると主張したらどうか。
   
   1ページの冒頭で,引きこもりのことなどを問題意識として示し,日本人を立て直すために,このようなことを考えているのだと書いたらどうか。
 
   情報化については余り触れられていない。新聞を正確に理解することは,国語の力として当然求められるが,正確に理解するだけでいいのかどうか。それだけでなく,情報について批判的に読み,自分なりの考えを持ち,自らの発信に生かす力が必要である。12ページの「読む力」の中に,「情報を正確に理解し,自らの考えを持つことができる」というような文言が必要だと思う。
 
   2ページの冒頭に情報化への対応として基本的なことはすべて入れてある。ほかの所でも入れられるところがあれば,加えて強調していくということになるか。
 
   引きこもりの大変さは切実である。引きこもりの人たちは,たくさん本を読んでいて論理力も際立っている。そうした知識を目の前の人と対話できる力に変えていくことが必要である。また,自信がなくて引きこもりになったというよりも,引きこもりが長期間にわたったことによる自信のなさが問題である。引きこもりという言葉を安易に「まとめ」の中に出すことについては慎重にしてほしい。
 
   6ページに「小学校では国語の授業時間を大幅に増やし,中学校では微増するが,高校では…」とあるが,小学校で大幅に増加と言った上で,中学校でも微増と言うのは論理的に合わない。中学校の国語の時間をどうするかということは小学校がどうなるかによることである。中学校のことは書かずに,「小学校では大幅に増加,逆に,高校では個人差に応じて選択科目……」と書くのがいい。
 
   引きこもりのことは,日本の古来の文化に対する信頼が生きる力を育ててくれるのではないかということで言ったものである。生きることに興味がないという状況を古典によって取り戻すことができないかということである。
 
   私自身,そういうものに支えられた時期がある。外国に行ったとき,日本の古典や詩歌を暗唱してみると自信が出てくるものである。祖国愛ということが書かれているが,それをどのように教育するかが問題である。祖国愛などは自然に出てくるべきものである。どうすれば自然に出てくるかというと,すばらしい文化,伝統に触れる,特に古典に触れることで出てくるのである。祖国愛,郷土愛ということを書く以上,古典によって情緒力を育てるということを入れておく必要がある。
 
   1ページにある「人心の荒廃……」をもっと具体的に書くといいのではないか。日本人が自信を失っている,そういう時代であるという現状認識の下に答申を出すのだということを書くといいのではないか。
 
   ここで国語について議論するのは,国語教育ではなく,日本をいかに再生するかということである。どのように日本を再生するかということの中核に国語教育がある。国家の再生が大きな問題になっている。
 
   人間関係をうまく築けない子が多くなっている。中学1年生の終わりごろから,そういう子が増加していく。これは,コミュニケーション能力が十分身に付いていないことにも起因している。また,根拠を踏まえて書いたり,発表したりするという論理的な力が十分身に付いていないということもある。5ページには,13歳以上は発展期ということで,論理的な思考を行うことが可能になるとあるが,そのような発達段階に合った国語教育が重要である。言葉の力をしっかり身に付けていく観点から,中学校の国語の授業時間も微増でもいいから,増加としてほしい。
 
   小学校で国語の授業時間が倍増しても,中学校で増やさないといけないのか。
 
   発達段階ということがあるので,やはり中学校でも増やしてもらいたい。
 
   それでは意見がまとまらない。中学校の国語の授業を増やすとすると,どの教科の授業時間を削るのか。
 
   それは,この小委員会で論ずることではないと思う。
 
   小学校の授業時間の増え方と無関係に中学校の国語の時間を微増とするのは,論理的に理解できない。小学校が微増なら,中学校を増やすべきだとは思うが…。
 
   小学校の国語の授業時間を増やすことには賛成であるが,発達段階ということもあるのだから,中学校でもそれに見合った形にしてもらいたい。
 
   授業時間の問題は,この小委員会だけではなく,文部科学省の方針も絡んでくることになろう。我々の思うことを実現させるためには,この小委員会を通してだけでなく,別の方法を考える必要もあろう。
 
   9,10ページで家庭,地域,マスコミとなっているが,これらを一本化するのがいいのではないか。個人をめぐる環境の中では,学校は大きな環境であるから,一つの章として立てる。そのほかに,子供を取り巻く言語環境として家庭,地域,マスコミを一本化するという整理の仕方もできる。先ほど話題になった漢字のことはここから外して,ほかに回すことができるだろうと思う。
 
   2が学校に限定されているので,3は「学校以外の社会一般における国語教育」として,まとめてはどうか。
 
   「学校以外の」というよりも「家庭や社会における国語教育」としたらどうか。
 
   6ページの授業時間についての記述は,「中学校も高校も選択科目を設けて,個人的に十分でない力を補強する」とすればいいのではないか。中学校の場合の必修科目が少なくなっても,いろいろな科目が選択科目として用意されている中から,生徒が各自の能力を判断しながら取っていけばいい。中学校でも高校と同じように選択科目をたくさん設けられるようなカリキュラムを工夫すればいいと思う。
 
   必修の国語と選択科目の国語とでは,内容もかなり違ってくる。基礎的な部分については,必修の時間を増やすことが求められると思う。
 
   「中学校・高校では個人差に応じて選択科目を中心に充実を図るといった考え方も必要である」とするのはどうか。
 
   「充実」とするのは問題である。それだと,小・中・高すべてで国語の授業時間を増やすということになる。
 
   「中学校」は除いた方がいい。中学校のことには,一切触れない方がいい。
 
   小学校の授業時数がどうなるかが不明なのに,中学校のことに触れるのは論理的におかしい。中学校の授業時数のことには触れないのが一番いい。
 
   中学校の授業時間についての心配は残るかもしれないが,逆に,微増と書いてしまうと制限される可能性もある。ここは,中学校のことは書かないことにしたい。
 
   個人的には中学校でも増やすということに触れてもらえれば有り難いと思うが,この小委員会の大方の流れが書かないという方向であるならば仕方がない。


(文化庁文化部国語課)

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