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文化審議会

2003年7月17日議事録
国語分科会国語教育等小委員会(第6回)議事要旨


国語分科会国語教育等小委員会(第6回)議事要旨

平成15年7月17日(木)
10時30分〜12時30分
霞山会館「霞山の間」

〔出席者〕
   (委員) 水谷主査,小林副主査,青木,井出,沖山,五味,田村,藤田,藤原,松岡各委員(計10名)
   (文部科学省・文化庁) 山口国語課長,氏原主任国語調査官,中神国語調査官,小椋専門職ほか関係官

〔配布資料〕
   1    国語分科会国語教育等小委員会(第5回)議事要旨(案)
   国語教育等小委員会のまとめ(たたき台)

〔経過概要〕
   1    事務局から配布資料の確認があった。

   前回の議事要旨を確認した。

   配布資料2について,事務局の朗読及び説明があり,その後,意見交換をした。委員から出された意見に基づいて,配布資料2に必要な修正を加えるが,小委員会としては,基本的にこの形で国語分科会の総会に報告することが確認された。

   第7回の小委員会は,7月25日(金)の午後2時から午後4時30分まで,開催することが確認された。

   協議における主な意見は次のとおり。
(○は委員,△は事務局を示す。)


   「高次の情緒力」として「祖国愛」が出てくるが,この言葉は誤解を招くおそれがある。例えば「伝統を愛する心」と言い換えたらどうか。また,敬意表現との関係もあるので,「高次の情緒力」の例に「思いやりの心」を加えてはどうか。

   「祖国愛」については,前期においても議論があり,その中で残ったのだから,ここで外すことはできない。しかし,誤解を生む可能性はあるので,「祖国愛」の後に括弧を付けて「日本の文化,伝統,情緒,自然を愛する心」と注記すればいいのではないか。「愛国心」という言葉にはナショナリズムという要素が入っているので,それを切り離すために私は「祖国愛」という言い方をしている。

   13ページの「話す力」で「相手,場面」が出てくるが,それに加えて「目的」という言葉を入れてほしい。「相手や場面,目的に応じ…」のように入れられないか。

   「祖国愛」の根本は,自分を含めた人間の命を大切にするということである。それが広がって,「家族愛,郷土愛」となり,「祖国愛」まで行くのだと思う。自分の命を大事にすることは,人の命を大事にすることでもある。ここに「人間の命を大事にする」というような表現を入れられないか。

   論理力が大切であることは合意ができている。その次に,情緒力が大事だということになり,「高次の情緒力」が出てきている。「高次の情緒力」に代わる言い方がまだ見付かっていないが,この言い方のままでもいいのではないか。

   情緒力が情緒の持つ力ということなら,意味が分かる。しかし,論理力,情緒力と並べると,情緒力の「力」の意味が分からなくなる。「情操」は「情+操」ということで,感情と普遍的な節度の両方が合わさっている。「高次の情緒力」と全く一致するかどうかは分からないが,「情操」はかなり近い言葉だと思う。

   言い換えられる可能性はありそうだ。しかし,この「まとめ」の文脈の中で入れ替えるのが難しい箇所もあるように思う。

   確かにそのとおりである。機械的に入れ替えるのは難しい。

   諮問理由の第2段落に「豊かな感性・情緒を備え,幅広い知識・教養を持つことが極めて重要であると考える。」とあるが,この「豊かな感性・情緒」も「高次の情緒力」の言換えの候補となるのではないか。

   論理力は,頭脳の働きのことであり「力」を付けても違和感がない。情緒は感性であり,今まで自然に身に付いたものだから「力」を付けるのは不自然である。しかし,それが失われているのが現在の大きな問題である。それゆえ,「力」を付けて,意識化させ教育する必要がある。情緒にあえて「力」を付けることで,世の中に注目させることができるし,新鮮さも出すことができるだろう。

   公の報告書だから慎重にならざるを得ないが,説明を付けたり,カギ括弧を付けたりして,新しい言葉を出していくことも必要である。

   情緒の力が論理力を作っている,確かなものにしているということを明確に打ち出すためには,「力」という言い方を残した方がいい。ただ,「情緒の力」というように「の」を入れた方がいいのかもしれない。

   1ページに,「情緒力」が出てきて,それをキーワードにして展開しているが,「論理力」が抜けているのではないか。

   確かに抜けていると思うので,1ページの下から2行目は「高次の情緒力と論理的思考力の」とすべきである。また,1ページの「高次の情緒力」の例として,「懐かしさ」が最初に出てくるのは唐突な感があって分かりにくいのではないか。

   6ページの<言葉への信頼…>のところの下から3行目に「国語科教育」とあるが,これは「国語教育」ではないか。

   先日の総会で「聞く力・話す力・話し合う力の大切さを国語科の中で位置付けてもらいたい。」という御意見が出たので,「国語科教育」としてここに入れたものであるが,「国語教育」の方が良ければそのようにしたい。

   先日の総会で,「これまでの国語科教育では読み・書きが中心だった。そこに,話す・聞くを入れてやっと芽が出たところである。それなのに逆戻りさせるのか」という趣旨の御意見があった。「読む・書く」に重点を置くということは変わらないが,「話す・聞く」を軽視しているという印象を与えてはいけないと思う。
   読む・書く・話す・聞くというように四つに分けて考えているが,もう一つの考え方としてそれらを統合することの重要性という観点を入れた方が良い。国語力はコミュニケーションを通じてしか発達していかないという面もある。演劇を取り入れたらどうかと言っているのは,読む・書く・話す・聞くを有機的につなげることができるからである。四つを分けずに統合することも重要であり,国語科教育だけでなく,国語教育でもそこが大事であるとはっきり出したらどうか。

   賛成である。コミュニケーション能力については重視してもらいたいと思う。
   2ページには,高校生の56%が1か月に1冊も本を読まないとあり,6ページには,高校では国語を選択科目にするとある。国語は生徒に余り好かれていない科目である。それを選択にすると,生徒が国語を取らず,ますます読書離れが進むことも考えられる。

   小・中・高で,国語のウェイトの置き方を変えるということには反対ではないと考えてよいか。

   ウエイトの置き方を変えるのは賛成である。
   推薦図書リストを資料として出したが,こういうものを出して読書指導をやっているが,足りないのは工夫である。現場の教師がもっと工夫していく必要がある。

   論理的思考力と高次の情緒力は大事である。そのために読書を何よりも大事にするということにも異論はない。ただし,国語の授業では,読む・書く・話す・聞くの四つのバランスが大事であるので,その点は,特に配慮する必要がある。それによって,論理的思考力も高次の情緒力も育つ。とにかく,先ほどの御意見のように四つがバランス良く行われるように押さえてもらいたい。

   このまとめがそのまま出ると,相当強烈であるので,気配りが必要である。「祖国愛」に注記を加えるだけでなく,「高次の情緒力」の例として,「他人の痛みを知ること」や「他人の不幸に対する敏感さ」といったことも是非入れてほしい。
   小学校における国語科教育を質・量ともに充実させるということを言うと,国語の利益代表と言われる可能性がある。これが一番恐れるべきことである。そう思われないためにも,譲るべきところは譲る必要がある。その意味で,高校では選択でいいと言わないといけない。そうしないと,主張の強さが激減してしまう。小学校の国語の時間が現状のままで,高校の国語の時間を減らすのは問題である。しかし,小学校で週に10時間もやったら,中学校の内容は小学校で終えることができる。そうなると,高校では選択にしてもそれほど困らない。
   コミュニケーション能力のことを余り言うと,小学校で国語を毎日2時間やることの障害になる。話す・聞くは他教科でもできるという話になるからである。小学校から英語を導入するという論に対して,国語を削って英語を入れるのは問題ではないかと言ったら,英語以外の教科は国語を使って授業をやっているから大丈夫だと高名な教育者に言われた。話す・聞くはもちろん重要であるが,このような配慮も必要である。

   国語科でやることは,読み・書き重視でもよいが,国語の運用能力を付けることは,それを超えた全体的なレベルでやるべきである。四つのことを統合する教育というのは別のレベルでやる。例えば,総合的な学習の時間がある。そこで,コミュニケーションとしての国語力を身に付けさせるのが良い。国語科の中であれもこれもというのでは効果がない。コミュニケーション能力としての国語が大事だから,家庭や社会,地域でもやるべきだということを国語科から発信していけば良い。

   国語科で,どう話すか,どう書くかを教える必要がある。言語の教育としての国語科ということを明確に打ち出す必要がある。国語科で基礎・基本を身に付けて,それを他教科で応用する。基礎・基本を教えるのは国語科ということを明確にしなければならない。

   6ページの「高校では選択」という表現が刺激的であることは確かだ。国語科教育の現状を考えたとき,高校で国語を選択にするというのは刺激的すぎる。小学校でやれば良いと言うだけではなく,中・高で繰り返すことにより身に付けさせるのが大事だ。高校で選択にするという言い方はやめたいと思う。

   高校で選択科目にするということにはこだわらない。中学校では現状,高校では軽くするなどの妥協はする。高校で軽くするということを入れないと,小学校で国語の授業時間倍増はできない。

   昔は,現代文と古文が高校3年間にわたって9単位必修であった。それが国語12が1,2年生で8単位必修となり,今は,高校3年間で,「国語総合」4単位か「国語表現1」2単位かを選択すればよいことになっている。必修単位は激減している。

   中学校は現状のままでいいと言うのはやめてほしい。中学校でも増やすとしてもらいたい。

   そういう意見が出ると,答申がまとまらない。小学校・中学校を現状のままにして,高校を減らすのは問題であるが,中学校も国語の授業時間を増やすと言うと,小学校の国語の授業時間を2倍にすることはできない。

   全体の記述が総花的になるのは仕方がないが,全体の分量を大幅に減らす必要があろう。余り親切に書きすぎると,かえって分かりにくい。国語教育でのウェイトの置き方はこうすべきだとか,小学校で常用漢字を読めるようにすべきだとか,特色のあることを前面に出すと注目を集める。そういう答申を出しても,現場の先生や学校では均等にならして受け取ってしまうのが常である。その辺を考えたい。
   脳の発達のことについては,3歳と小学校高学年ぐらいで急激に伸びるということであった。それに合わせてどうすればよいかを書くことが必要である。そのことだけに絞った方が良い。

   確かにメリハリを付けた方が良い。発達段階に応じた国語教育ということはメリハリになる。脳の発達と学校段階とは,つながっていないということを明確にすることが大事だ。今の書き方では学校段階に寄りすぎていると思う。5,6歳にならないと,教育の対象にはならない。読み聞かせもそこでやるのが良い。5,6歳から中2,中3までは一つの流れであり,アイデンティティーで悩まない時期である。また,訓練に適している時期でもある。読書と言っても,発達段階によって違ってくる。5,6歳から中2,中3までの間は乱読し,それによって読書の習慣を身に付けることが大事である。13,14歳から青年期にかけては,自分に関心のある本しか読まなくなるので,読書量が少なくなるのは,ある意味当然である。

   読む・書く・聞く・話すの有機的な統合が大切であるが,総合学習では,言葉を意識して授業を組み立てるという発想がない。それはもったいないと思う。読み・書きの充実は子供が楽しんでやれば良いが,教授法の見直しが同時に必要である。今のままでは国語嫌いな子供が増える心配がある。総合学習の中に,国語を意識したものを入れる。例えば,演劇などは美しい日本語を統合するという意味で良い。国語を意識した教育をやる方向が必要である。

   今の教授法のことは,6ページの辺りに入れておく必要があるのではないか。

   総合的な学習で国語を意識するということではなく,国語の力がないと総合的な学習がうまく行かないというとらえ方が大切である。国語科で基礎的な話す・聞くの力を付けておく必要がある。バランス良く指導し,国語力を付けておかないと,総合的な学習もできないだろう。

   7ページの音読の重要性のところであるが,音読によって初めて見た漢字の読みを間違って覚えるのを防ぐことができる。集中して音読することにより,読んだことをしっかりと覚えることもできる。音読の重要性にこのことも入れてほしい。

   朗唱により国語力にかかわる脳の場所が活性化する。それは前頭葉であるが,前頭葉は独創性にかかわる。理系に進む人には,読み・書き・朗唱ということが大事である。国語力だけでなく,独創力にもかかわると入れてもらいたい。
   小学校の国語を増やすということが大きな具体的な提言になる。しかし,一定の枠の中で時間を増やすということはほかを減らすことになる。そうなると,他教科から反対が出る。そのことを意識しないと,答申が無視されることになる。

   そうであれば,6ページで,なぜ小学校の国語が重要なのかを書く必要がある。

   初等教育段階でなぜ国語が重要かというと,発達段階ということがある。暗記力は小学校の時が圧倒的に良い。情緒力の発達もこの時期である。論理力は4ページのイメージ図にあるとおり,後になってから発達していく。理科や社会科には論理力が必要であるから,小学校でやるよりも,中学校・高校で充実させる方が良い。発達段階に応じてというのは,小学校で国語の授業時間を大幅に増やすための根拠になるということを書く必要がある。

   これから中学・高校では英語のウェイトが高くなる。それゆえ,中学校までに国語を集中的にやると言えばいいのではないか。

   諸外国の初等教育段階における「国語の授業時間」は多かったように思う。

   フランスでは,初等教育の70%が国語絡みの授業であると聞いたことがある。

   今の件については,教育政策研究所にデータがあれば,出してもらいたい。
   6ページについてだが,言語能力の身に付け方には個人差がある。基礎・基本は小学校で身に付けるということには納得できる。中学校,高校では個別化を図り,十分能力の付けられていない子供については,様々な内容の科目を用意して補強すると言った方が良い。

   アメリカの連邦教育局は,これまでほとんど存在感がなかったが,最近はクローズアップされている。提言の仕方が実にうまいからである。書き方一つで世の中が変わってしまう。答申の書き方が大事である。例えば,「音読が大切」というのを「素読の復活」とするだけでも随分印象的になるのではないか。

   4ページで,3歳までの記述が軽い。0歳から3歳までの間に,言語の能力がかなり蓄えられるという説がある。「親が子供に心を開く」というだけでなく,語り掛けることが大事である。語り掛けることにより,3歳までにコミュニケーションの基本を作ることが大事である。


(文化庁文化部国語課)

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