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文化審議会

2003年6月26日議事録
国語分科会国語教育等小委員会(第5回)議事要旨


国語分科会国語教育等小委員会(第5回)議事要旨

平成15年6月26日(木)
14時00分〜16時30分
霞山会館「霞山の間」

〔出席者〕
   (委員) 水谷主査,小林副主査,阿辻,井出,五味,田村,藤田,藤原,松岡,手納各委員(計10名)
   (文部科学省・文化庁) 山口国語課長,氏原主任国語調査官,鈴木国語調査官,中神国語調査官,小椋専門職ほか関係官

〔配布資料〕
   1    国語分科会国語教育等小委員会(第4回)議事要旨(案)
   国語教育等小委員会で出された意見の整理
   参考資料    文化審議会国語分科会懇談会(第1回)の概要
   (資料番号なし)    日本人として必要な国語力の目安について
(資料番号なし)    国語力に関し何らかの具体的な目安を明らかにしている例
(資料番号なし)    新「ことば」シリーズ16『言葉の地域差 ―方言は今―』

〔経過概要〕
   1    事務局から配布資料の確認があった。

   前回の議事要旨を確認した。(担当調査官朗読)

   配布資料2について事務局から説明があり,その後,「国語教育の在り方等について」及び「望ましい国語力の具体的な目安について」意見交換をした。

   次回の総会における国語教育等小委員会の報告については,具体的な報告案の作成も含めて,主査,副主査に一任することが了承された。

   国語分科会総会は,7月10日(木)の午後1時から3時まで,第6回国語教育等小委員会は,7月17日(木)の午前10時30分から午後1時まで,開催することが確認された。

   協議における主な意見は次のとおり。

   諮問理由の説明に「ワープロなどの情報機器の発達に伴い,手書きでは書けないが読めるといった類の文字が使われることが多くなっているなど,……」とあるが,この辺りのことは余り議論になっていない。国語教育のことに深く入ることは重要であるが,このような視点で漢字のことを取り上げていないのはどうかと思った。

   資料2を見ると,「国語力の向上を目指す理由」については既に十分である。「発達段階に応じた国語教育」,「国語科教育の在り方」,「他教科とのかかわり」,「家庭・地域の国語教育」の辺りは諮問に沿ってもう少し議論を深めていく必要がある。
   また,文学として習うだけでは不十分で,歌にして歌うとか,ドラマにして演じるということが大切である。これらは初等教育でも重要である。言葉の美しさを再発見するという視点を大切にしたい。暗唱しつつ,体で再現する教育を国語の総合的なもとしてやるのが良い。地域や家庭でも文化の継続という観点から取り組んでいくといいのではないか。

   国語教育ということには力を入れて議論してきたが,望ましい国語力の目安の議論が欠けていた。こういう能力が必要だということを出してもらいたい。

   書ける漢字については,学年別配当表で言えば,1006字は書けるというのが社会的な常識である。中学生・高校生になると,「憂鬱」「顰蹙」など書くことはできないが,よく使うという語彙を目にする機会が増えてくる。こういう語彙は,これまでは高級語彙であったが,今では一般化していると思う。このような常用漢字表にないがよく目にする漢字の扱いについて,その考え方を出す必要があるのではないか。

   具体的な目安を出すのは無理だと思う。しかし,例えば,古典を楽しむという目標を出して,みんなでそこに向かっていけばいいのではないか。今は,その目標が分からなくなっているということが問題である。小学校何年生までにどういうことを覚えるとか,新聞を読めるようにとかいった「物差し」を言っても,そもそも個人差があり,だれに向かって言うのか,それが見えない。それよりも,古典などを断片でもいいから読みたいと思ったり,面白いと思ったりする段階まで行くことが目標ということでいいのではないか。

   諮問には答えなければならない。特に教育現場における手掛かりも必要であると思うので,ある程度の目安は示したい。

   「ワープロなどの情報機器の発達」という現状を踏まえて,常用漢字表の漢字以外に読めるだけの漢字が必要となっているということを答申に書いて,それ以上のことは後の人たちに任せたらどうか。

   表外漢字字体表について審議している時,委員同士の雑談の中で,第2常用漢字表が必要ではないかと話したことはある。コンピュータ時代における,国語施策の面からの新しい漢字の規格を模索すべきだと答申に書いたらどうか。

   表外漢字字体表では,世の中で比較的頻度高く使われている漢字として1022字を選定した。それを第2常用漢字表とすると,常用漢字表と合わせておおよそ3000字となる。しかし,小学校で扱うのは1006字で,中学校では,書くことに関しては,小学校の繰り返しでしかない。常用漢字の残りの939字は読めればよいという扱いである。こういう現状を考えると,小学校から中学校で常用漢字の読み書きができるようにするというのが現実的である。さらに,表外漢字はルビ付きで出てきているが,その中からよく使われるものだけを選んで,学校教育で身に付けていくようにすることも考えられる。

   諮問にあるワープロと漢字に関することは,何年も前から私がさんざん言ってきたことだ。様々な文化の中で,漢語文化のみが制約を受けている。一般社会では常用漢字表を廃止し,ルビの完全復活を考えたらどうか。ルビを振ることは,それだけで漢字の勉強になる。子供はルビの振られた漢字を5回も見れば,その漢字を覚えてしまう。ともかく漢字制限をやめて,漢字文化を復活させるべきである。

   表外漢字字体表を検討する際の資料の一つとして,凸版印刷が作成した漢字の出現頻度数調査があるが,そこで出てきた漢字の種類はおよそ8500であった。同じ時期にやった読売新聞の調査では4500という結果が出ている。出版社でも常用漢字以外の漢字はルビ付きで示している。常用漢字表があっても,実際には野放しになっている。

   新聞では自己規制がある。ルビの復活を言えば,大きな影響力がある。小学校で常用漢字を読めるようにするということを提案すれば,国語の授業時間の増加を訴える際の理由ともなる。小学校で常用漢字を読めるというところまでは行きたい。一般社会においては常用漢字表をなくす方が良いのか,第2常用漢字表を作る方が良いのかについては,よく分からない。

   読める漢字と書ける漢字の一致にこだわる必要はない。具体化するには別途詳細な検討が必要であるが,読める漢字を発達段階に応じて入れていくことも考えられる。

   GHQが漢字の廃止を考えたのは,タイプで漢字が打てない,漢字が難しすぎるというような理由による。しかし,今はワープロによってこれらの問題は解決している。GHQの本当のねらいは漢字を廃止して,ローマ字化しようということだった。この分科会で漢字施策のことを出せば大きな提言になる。漢字のことは重要である。

   これまでの時代の日本は,欧米に追い付くことだけを考えており,日本文化の内在的価値に気付いていなかった。これからは,日本文化をどのように世界に発信していくかが重要である。

   私には「これからの時代に求められる国語力」の具体的な姿がまだ見えない。どういう国語力が求められているかが分かれば,どうすればいいかということも分かる。ターゲットを絞って検討し,まず,求められる国語力の全体像を描く必要があろう。
   この分科会の答申で,昔の日本語の良さを述べてもだれも付いてこないだろう。現実を見ると,テレビなどのメディアが普及し,読書をしなくても生活できるようになっている。そういう状況にどう歯止めを掛けるかが重要であって,昔はこうだったからと言っても仕方がない。「常用漢字+α」は読めるようにするとか,中・高が英語重視となれば,小学校では国語重視ということを言ってもよいかもしれない。しかし,余り高い理想を掲げても現実的ではない。物が書けなくなっていること,言葉が乱れていることなどを阻止する方向を打ち出すべきである。何も考えずに「千円から…」などと言っているのを阻止する方向に世の中を動かしていくことが大切である。

   シンガポールでは,30年前にマレー語を英語に切り替えた。しかし,現状はシングリッシュと呼ばれるような英語で,本当の英語にはなっていない。また,シンガポールの悩みはシンガポール文学が生まれてこないことである。その国の文学が生まれるまでには長い時間が掛かる。このようなシンガポールの現状を我々はよく考えてみる必要がある。
   言葉は変化するという前提に立って,言葉の根幹の部分を守るという発想が必要ではないか。言葉の変化は止めようがない。その意味で,この答申でもこれが本当の日本語であるというものを示す程度でよい。中学生で平仮名,片仮名が満足に書けない子供もいる。日本語は本来こういうものだと示して,警鐘を鳴らすことはできても,それ以上のことをするのは無理である。

   言葉が社会や文化に支配されるという面もあるが,逆に,言葉が社会や文化を作るという面もあるだろう。

   諮問理由説明の中に「インターネットや情報機器の急速な普及など…略…おのずから変わってきている」とある。そういう状況の中で,国語はどうすべきかという認識が必要だと思う。現実と理想との間をどう橋渡しするか。現実を考えた上で,こういう理想を出したというように書きたいと思う。何か歯止めをしないといけないというのは,そのとおりである。これまでの教育は内容を易しくして,進度の遅い子供たちを救おうとした。しかし,これからは意欲のある学習の進度が速い子供たちをどうするかも考えていくべきである。

   総ルビの復活ということを答申で言えば,大きな提言になるだろう。目安として新聞を読めるようにと言っても,新聞も時代により文章のレベルが変わる。現在は昔よりもレベルが落ちているだろう。目安は動かないものでなければならないのに,新聞を読めるということを目安にすると,その目安が動くということになる。
   今までの意見をまとめると,目指すところは自然に出てくる。国語科教育では,読む,書くに重点を置いて,話す,聞くは国語科と他教科で一緒にやろうと提案すれば良い。以前から申し上げているように,演劇を国語の授業に入れると,読む,書く,話す,聞くのすべてが有機的につながる授業ができる。言葉は本来有機的につながってこそ使えるものである。また,考えを整理する上で書くことは良いことであり,考えることの鍛錬にもなる。話す以上にはるかに考える訓練になる。そこを強調したい。

   ある百貨店や,あるファーストフード・チェーンで,「千円から」とか「〜の方」という言い方は駄目だと,社員に教育しているのをテレビで見た。積極的にマニュアル言葉の再考を促すような提言をした方が良い。また,マスコミも積極的に活用したい。テレビで「ややこしや」が大ブレークしているように,古典のような古い言葉であっても提供の仕方によっては,子供たちに相当浸透していくはずである。

   シンガポールには,様々な言語があったが,シングリッシュに統一した。その結果,シンガポールは国のアイデンティティーを失った。この委員会では,日本をシンガポールのようにしないためにはどうすればよいかを真剣に考えなくてはいけない。文化・伝統を守るためには国語を守ることが必要である。今や,日本もシンガポールになりつつある。それを阻止するのが,この委員会の基本である。

   書くことが大切であるという意見は全くそのとおりだと思う。書くためには基礎になる技術が必要で,それがないと書けない。また,翻訳者のレベルをもっと上げる必要もある。今の翻訳者は日本語の素養が足りないのではないか。こういうこともこの委員会で指摘すべきことであろう。
   資料2の1ページに「日本人としての情緒力,すなわち…」とあるが,これこそ目指すべき国語力の目安ではないか。これを目安ととらえていけばよいと思う。ほかに目安としては漢字検定などもあるが,例えば,中学校何年生で「平家物語」のある章段が分かる,あるいは分かるように徹底させるということなども入れ込んだらどうか。

   国語科教育は,書くを中心としながら,読む,聞く,話すを組み合わせていくという考え方を重視すべきである。自分の考えを書くということに限定せずに,やっていくことが必要である。早く書けて,書くことがおっくうでなくなれば,話すことも上手になると思う。作文を書くことに限定せずやることが必要である。

   学習指導要領では読む,書く,聞く,話すを平均的にやるようになっているが,やはり書くことを中心にしたい。読んで書く,聞いて書く,書いて話すというように書くことが中心になるからである。読むだけでは身に付かない。まとまった話をするためには書くことが必要である。作文に限らずやっていくことが必要であり,また,国語科だけでなくほかの教科でもやっていくことが大切である。

   今のお話は,自分の思いや考えを正確に表すためには「書く」を軸にする,また,読むことや他人の話を聞くことにも「書く」を入れていくというように,国語科を構造化したらどうかという提案だと思う。

   今の御意見のとおりだと思う。先ほど,聞く,話すを他教科でもやるべきだと言ったが,書くこともやるべきだと言いたい。メモでもいいから書くとか,ノートを取るということを強調したい。それを他教科でもやるように発信したい。具体的には,作文は国語科でやるが,書くというのは作文だけではないので,その作文以外の書くということを他教科でやるように働き掛けるということである。自己表現としての「書く」は国語科,実生活での「書く」は他教科ということになる。

   現場の状況から言うと,例えば,昔は教師が板書し,それを生徒が書き写すという授業が良いとされたが,今は生徒と言葉を交わしながら授業をすることが求められる。書くことを中心にする授業は生徒には評判が悪い。書くことを中心にした場合,子供たちが拒否反応を起こすのではないか。

   私は教師に書けと言っているのではない。話を聞く側が書くことを習慣にすべきだと言っているのである。

   私は,ふだん授業で板書をしないが,学生たちはメモを取っている。そういう訓練はできているように思う。

   いろいろな大学の状況を聞くべきであろう。実際には,今の御意見にあったような学生ばかりではない。

   書くのを嫌う状況は,すべての大学等で見られることである。子供たちが書くことを嫌うのは我慢力が不足しているからである。私が読む,書くを中心にすべきだと言っているのもこのためである。「読む,書く」はつらいことだが,「話す,聞く」というのは楽なことである。我慢力を付けるためには,どんどん子供に我慢をさせ,子供を苦しめる必要がある。我慢力を養うには家庭でのしつけが大切であるが,今の親もそういう訓練を受けていないので,子供に我慢をさせることができない。親や先生も今や子供の友達であり,我慢を教えることができない。そういう状況の中で,私の最後の結論は国語しかないということである。我慢する美しさ,耐える美しさを描いた文学作品を読んで,そういう情緒を体に入れる。国語でそれを育てることが必要である。読書離れも理数離れも我慢不足に起因するものである。作品を読んで,忍耐,我慢を感動の涙とともに体の中に入れ込む。それしか方法がない。本に向かわせる以外にない。そういうことで,私は情緒力が重要だと言っている。

   社会の現状は問題をたくさん抱えている。そのことを答申の冒頭で書いて,その上で提案していくということになろうか。高次の情緒力は,提案のキーワードになるので,どういう言い方をするかについて決着を付けたい。良い言葉はないか。

   資料2の7ページの括弧内の表現はうまくまとめている。ただし,例えば,忍耐を是とするのは日本だけではない。イギリスでも忍耐は大きな徳目である。こういう重要な情緒は大体世界共通のものであり,そこだけが気にかかる。

   「心の力」とか,美的・社会的感受性という言い方はどうか。

   美的感受性と社会的価値観と言ってもよいか。

   具体的な目安についてまとめていく方法についての意見を聞きたい。

   諮問理由説明には「「読む・書く・聞く・話す」などの能力に関し,どの程度の力を身に付けていることが望ましいのかという,具体的な目安を…」とあり,事務局でまとめてくれた「日本人として必要な国語力の目安について」を中心として議論していけばよいだろう。たたき台として,この二枚紙はよくまとまっていると思う。



(文化庁文化部国語課)

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