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文化審議会

2003年5月9日議事録
国語分科会国語教育等小委員会(第2回)議事要旨

国語分科会国語教育等小委員会(第2回)議事要旨

平成15年   5月9日(金)
14時   〜   16時30分
霞山会館   「霞山の間」

〔出席者〕
    (委員)水谷主査,小林副主査,青木,阿,井出,沖山,川島,五味,田村,藤原,松岡各委員
       (計 11名)
  (文部科学省・文化庁)大槻教育課程課長,山口国語課長,氏原主任国語調査官,鈴木国語調査官,中神国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕
       国語教育等小委員会第1回議事要旨(案)
     初等中等教育における国語科教育について
〔参考資料〕
       これまでの分科会における主な意見(学校における国語教育関係)の概要
     小学校学習指導要領解説      国語編
     中学校学習指導要領解説      国語編
     高等学校学習指導要領解説   国語編

〔経過概要〕
       国語課長から,事務局の異動について報告があった。

     事務局から,配布資料の確認があった。

     前回の議事要旨を確認した。(担当調査官朗読)

     教育課程課長から配布資料2「初等中等教育における国語科教育について」の説明があった。それを受けて,質疑応答及び意見交換が行われた。

     参考資料1について事務局から説明があり,その後,学校教育における国語科教育の今後の在り方について意見交換をした。なお,委員からヒアリングの提案があり, 実施する方向で事務局からヒアリングの候補者に連絡することとなった。また,主査から,意見のある委員は随時事務局に提出するよう提案があり,了承された。

     第3回の小委員会は,5月22日(木)の午後に開催することが確認された。

     協議における主な意見は次のとおり。


       現在,国語分科会の議論は各論に入った段階であるが,総論は「審議経過の概要」で既にできているのだから,現場の先生にも紹介し,学校教育でもそれを参考にしてほしい。
     
     児童生徒の学習状況として,「漢字を読んだり書いたりする力などは比較的身に付いている」とあるが,その根拠は何か。私はこのような見方には若干懐疑的である。また,設定通過率の根拠もよく分からない。最初の根拠を誤れば全く違う方向に議論が行ってしまうので,慎重に考えていくべきである。
     
     設定通過率というのは,理系の人間には信じられない考え方なので,もっと客観的なデータを示すべきである。また,現行の学習指導要領では「話す・聞く・書く・読む」の四つが同等に扱われており,国語の重要性が正確に把握できているとは思えない。このような考え方では国語縮小論が出ても仕方ない。
     
     現行の学習指導要領は,子供たちの学習したことが実際の生活に結び付いていないという危機感が根幹にあって改訂されたものだ。また総合学習は,学習に対する興味や関心を引き出すためにあり,各教科で習ったことが実際に役立つことを実感させるねらいがあった。このような方向は間違っていないと思う。今までの教育はある意味で教えすぎていたと思う。意欲があれば学力は伸びるはずで,文部科学省も意欲を育てることをもっと前面に出してほしい。
     
     現行の指導要領への変更は比較的穏やかなものだったと受け止めているが,今回の国語分科会の検討ではドラスティックな改革案を出せるのかどうかが問われていると思う。強い提言を出すには確実な情報が必要である。大改革をやるのか柔らかく変えていくのか,我々の態度を早急に決める必要があろう。
     
     論理的な力を付けるには言語を通してやるのが一番いい。日常生活の論理は言葉の論理でもある。したがって,論理的思考の育成を考えるのであれば国語が主力になるべきであり,何かを主張させると良い。手紙を書いたり,記録を書いたりするだけでは論理力は育たない。また,中学校や高等学校の国語では文学を中心にやるしかないと思う。生徒が国語を嫌いになるのは文学教材が問題ではなく,教師による個人的な感覚の押し付けが原因であると考えている。
     
     社会が変化する中で,子供たちの実態は大きく変化しており,意欲がどんどん欠けてきている。以前も紹介したが,藤沢市では30年前から中学生を対象にアンケートを実施しており,「もっと勉強したいか」という問に対して,30年前は70%近くが「はい」と答えていたのに,最近では24%しかいない状況になっている。それだけ実態が変化し,現場も苦慮している。今回の学習指導要領の改訂はこのような実態を踏まえてなされたもので,現行の指導要領自体は良くできていると思っている。
       総合学習については,以前勤めていた学校での例であるが,3日間の職場体験とその事前・事後の指導として,あいさつの仕方・言葉遣い・礼状の書き方・発表の仕方・新聞作りなど,段階を踏み様々な体験を通して生徒の意欲に結び付く学習活動を実施した。これはかなりうまく行ったが,目的を明確にし意欲を喚起していくことが大切である。また,総合学習は国語科との関連や全課程の中で位置付けていくことが必要である。教師の資質向上も欠かせないが,最近は研修の機会も充実し,教師の意識も変わりつつある。
     
     学習指導要領は総花的であるが,何でも書いてあるということは何も書いていないというのに等しい。国語を立て直すためには総花的にすべてを網羅するのではなく,国家的な観点から何が最も重要なのかをこの分科会で指摘すればいい。そのポイントは論理であり情緒である。そして,そのためには国語の授業時間を2倍増,3倍増にするとか根本的に考えることである。
     
     ここは国語教育等小委員会であって,教科としての国語科教育だけを対象にしているわけではない。我々はもう少し大きな文脈で国語教育を考えていきたいと思う。
     
     大学で英語を教えている時,学生から国語の先生のようだと言われてきた。同じ言語という観点で授業をしていたわけだが,その気になれば国語の授業でなくてもできることはある。論理的な文章を書くとか,発表するといったことは他教科でもできるだろう。例えば,社会科でレポートを書くこともその一つである。教科の縦割りを超えて,横軸で切ってみるのが総合学習のポイントであろう。
     
     「審議経過の概要」にある「国語力の構造」モデルを見ると,国語力とは単なるスキルではなく,話す・聞く・書く・読むが複雑に絡み合った思考力そのものである。単に一つ一つを積み上げるのは無意味で,組み合わせて考える必要がある。国語力を単なるスキルとしてとらえるべきではない。国語力を測るテストでは,知識の定着度だけを見るのではなく,総合的な力を測ることのできるものにしてほしい。
       私の娘は小学校入学後,国語嫌いになったが,その理由は同じ文章を何度も音読させられたからだと言う。その娘が3年生になり音楽の授業で習った歌を繰り返し歌うようになり,ほとんど歌詞を暗記してしまった。それは,歌と同時に手話を取り入れたり,また,何度も繰り返すことで歌詞の意味が見えてくるような歌だったからのようだ。その意味で,教授法にとらわれすぎてしまうのはどうかと思う。
     
     音読の授業がうまく行くかどうかは,子供たちのモチベーションを教師がいかにコントロールできるかどうかで決まる。音読の効用をきちんと話して,納得させることが重要である。そこが理解されれば,小学生でも大学生くらいに集中して取り組むことができる。先ほどのお話はそのモチベーションの部分で失敗したのだと思う。
     
     国語教育は主張を持っている必要があり,教材も昔の教科書に載っていた「最後の授業」や「松阪の一夜」のように主張があるものを入れておくべきである。教科書は厚い方が良く,教える先生がその中から教材を選んで授業を行うのが良い。また総合学習では教科との関連を大切に,子供たちに知的刺激を与えるようにすべきである。
     
     学校現場では方法としての音読の良し悪しというより,もっと違う要素(教師の力量等)が介在している。そこを踏まえて,積極的に取り組もうとしない子供たちに,これだったら動くというような指針を示す必要があろう。
     
     学習指導要領は国語力向上に関するほとんどのことを網羅しているが,これまでも言ってきたように,我々はどこに重点を置くかという考え方で議論を進めていくべきである。その重点化という観点から,言葉による論理性と感性・想像力の陶冶の2点がクローズアップされているが,これに加えて,私は漢字・漢語を含め国語の語句・語彙力の育成が大切だと考えている。
     
     言葉にかかわる国語教育の問題は学校だけに限定できるものではない。より大きな言語的インフラの問題で,教科書をいじって解決するようなものではない。社会全体の問題として大きくとらえ,そこに我々の知恵を絞るべきである。
     
     検討の枠組みとして,前回出ていた乳幼児期の子供たちにおけるコミュニケーションの重要性なども踏まえて,乳幼児期,小学生期,中学生期,あるいは家庭,地域,学校というような枠作りを考えてみたらどうか。
     
     地域の読み聞かせの活動には,子供たちも喜んで参加している。地域・家庭・図書館それぞれの役割分担を明確にし,読み聞かせを行う時期や重点となるポイントなども明らかにしていくべきだ。
     
     国語力をどこで身に付けるかを考えるとき,学校・地域・家庭があるが,人間関係なども含め様々なことが学べる放課後の時間が今の子供たちにはない。また,家庭教育も大事だが,家庭や地域が以前担っていた教育の部分を,今は学校が背負い込んでいるのではないか。国語が文化の基本というなら,地域のだれもが子供たちに対して教える責任を持つことが大事だと思う。
     
     地域や家庭というような場の問題に余り行ってしまうのはどうか。基礎となるスキルは家庭,地域,学校を通じて身に付けることになるが,論理力は言わば応用力であり,学校で教えるのが基本であろう。応用力とスキルとは分けて考えるべきである。
     
     論理力と情緒の重要性に絞ることは賛成である。ただし,例えば高校生はどのくらいの論理力が必要なのかといったことをもっと具体的に明らかにしないといけない。今まではその辺が不明であった。答申の中ではそこを具体的に述べる必要があろう。
     
     私の学校ではマスコミ経験者を呼んで国語表現の授業を行っている。毎時間文章を書かせることが生徒たちの論理力を育てることに大変役立っている。また,国語と英語とは論理の組み立て方が違い,同列に論じることはできない。
     
     論理と情緒に加えて,私も語彙が大切だと考えている。人間の思考は言葉で考える以上,その人の所有する語彙の範囲を超えられるものではない。語彙の半分ぐらいは漢語であり,そうなると漢字の問題が絡んでくる。また,語彙の獲得には読書が一番いいので,読書を柱として,国語教育を読書活動にどう結び付けていくかという視点で考えていけばいいと思う。小学校の国語で何を教えるべきかという柱を決めることが,まず第1に大事である。
     
     学習指導要領は総花的のままでよいというような考え方には反対である。この分科会で答申が出たら,それに沿って中身を変えていただきたいと思っている。
     
     国語科は明治以来,文学教育が主流であるという傾向があり,昭和40〜50年代もそうであった。近年は,国際化・情報化の進展によって学校教育の中でも論理性の育成が強く要求されるようになったが,今でも文学的なものを底流としながら,その上に,論理的なものがかぶさっているのが国語科の実情である。
     
     子供たちへの携帯電話の普及や言葉の乱れも顕著であり,答申では,実態を踏まえた意見を述べるべきである。
     
     これからすぐマトリックス作りに入りたいと思う。次回は,そのような資料を用意してほしい。


(文化庁文化部国語課)

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