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この答申の中には,学校教育にかかわるもの,あるいは読書活動にかかわるものがかなりあるが,実際に,この答申が具体化される場合にはどういう状況になるのか。
例えば,中央教育審議会や教育課程部会などに,分科会長なりが行って説明して,国語分科会としては,あるいは文化審議会としてはこういう意見であるから,こういうふうに考えてほしいということを言うこともあり得るのか。それとも,これは答申として出しっ放しで終わりということになるのか。
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文部科学大臣に対して,答申をお出しいただくので,大臣がこれを受けて,具体的に学校教育をどう変えていくかということについて,また新たに,今度は中央教育審議会に諮問をして議論していくことになろう。この場合,カリキュラムをどうするかということを考える委員会にかけていくということになる。
その際に,報告書は読めば分かるわけであるが,国語分科会からこういう答申が出ているということについて求めに応じて,分科会長なりにお願いをして,これをまとめるに当たって,こういう議論があった,あるいはこういうところが特に重要だと考えるといったようなことを,その場に出席して,御説明いただくというようなことも今後考えられることだと思う。
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これからの時代に求められる国語力として,論理的思考力と情緒力というものが主に議論された。もう一度読み返してみて,「これからの時代」というように限定した場合には,論理的思考力をもっと前面に出すべきであったと思っている。情緒力が出過ぎていることに後ろ向きなものと危うさをやはり感じている。今後は,情緒力の中に含まれている危うさが学校教育などで現実のものとならないように目を凝らしていきたい。
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漢字について早い段階から漢字表記のまま子供たちに触れさせる,あるいは小6までに常用漢字の大体が読めるようにという形で,かなり量的な部分に触れていることには決して反対ではない。しかし,コンピュータで使おうと,漢字が早く読めるようになろうと,やはり漢字も言葉なので,生活に生きて働く言葉として,あるいはその人の持っている語彙としてとらえていく必要もある。今回は情緒力ということを取り上げてやっているので,そういう意味では,漢字,言葉の指導,学習の質的な中身ということについても,今後問題にしていかなければいけないのではないかと感じている。
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まず,新聞・雑誌の活用ということについてである。図書館に行って本を読むというときの1冊という場合,雑誌がどのようなとらえられ方,扱い方になるのであろうか。単行本の割合の方が多いと思うが,刊行物としてどんどん消えていくかもしれない新聞及び雑誌の中に,相当の量の情報,新しい情報があるので,これも大切に扱っていくという考え方が必要ではないかと感じている。さらに,ITの時代,つまり瞬時に情報がどんどん広がっていく時代,情報は,印刷された刊行物だけではない。こういうものに対する考え方が,今後は必要になってくるのではないかと思う。
もう一つ,論理的な思考についてである。今回の答申は大変すばらしいものになったと思っているが,論理的な思考が一体どういうものなのかということについては書かれていないわけで,本当は,その辺りのブラックボックスも,国語の作文なり,読み取りの力の中なりで考えていかなければいけないのではないか。
例えば,数学や科学では「A=B,B=C,だからA=C」というふうなかっちりした論法がある。自分の意見や考えを言うときにも論法があるはずで,自分の意見や考えについての書き方というものは,今まで余り議論もされておらず,国語の教科の中にはなかったのではないか。その辺りを今度は考える時期ではないかと感じている。
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11月の分科会総会で,終わりの言葉が重要ではないかと申し上げた。「自ら本に手を伸ばす子供を育てる」,このことが,トータルでの今回の結論と言ってもいいのではないか。自ら本に手を伸ばすということは意欲的に読書を行うということで,そうした子供を育てるということである。意欲的に行うというところから見ると,言い方として少し弱いかなとも思うが,全般的にすばらしいし,最後の締めも大変すばらしい言葉で終わっているということで,大変うれしく思っている。
また,話が違うのであるが,12月20日に文化庁の事業で「「言葉」について考える体験事業」というのが地元で開催され,声優の方を派遣していただいた。このような取組を続けることによって,子供たちが言葉や読書に興味を持ち,だんだんと意欲が出てきて「自ら本に手を伸ばす」子供たちが育っていくことにつながるので,このような事業は今後とも続けていただきたい。
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二つのことをお話ししたい。一つは国語科教育について,従来から,言語の教育か,言語による教育かといったような対立した考え方があるが,これからの時代は二項対立でどちらというよりは両方必要であると思っている。やはり,言語文化の継承という面では,従来の小中高の国語科はバランスに欠けて,不足していた面があるのではないかと思う。情緒力というふうにストレートに言ってしまうよりも,国語科の一つの役割として,言語思考力というような流れ,言語コミュニケーション能力というような流れ,言語文化の継承というような流れ,の三つの流れで考えていきたいと思っている。
もう一つ,これは何度も申し上げたことであるが,規制緩和というか,多様化が進んで学校現場は大分変わってきている。かつて高校の国語の授業は,1年,2年,3年,各最低週5時間ぐらいずつ,15時間ぐらいはあった。これが現行では3年間で2時間でもいいというところまで進んできた。他の教科とのバランスはあるのだろうが,国語を3年間で週2時間でいいというのは行き過ぎではないかというふうに思う。このまま行くと,高校では,国語をやらない生徒はやらなくてもいいというところまで行ってしまうのかなと危惧を持っている。言葉の力とか国語の力というのは,小中高と繰り返して学んで身に付けていくというか,発達段階に応じて繰り返しながらレベルアップしていくのだと思っている。国語科教育で変えなければならないことはたくさんある。内部から変えていくための基盤を作るためにも,国語の学習が,小中高を通して十分に行われるような時間的な条件等も整えていただけたらと考えている。
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11月の下旬に,茨城県の水戸で,小中高の現場の先生方と指導主事の方のサークルにおいて,報告案の概略をお話しして御意見,御感想をちょうだいする機会があった。30人ほどだったが,全体的に非常に好意的で,現行の平成10年の学習指導要領の下で実践を進めている方々が,この内容について,非常によく分かるということで,勉強になったという受け止め方であった。
というのも,全体のトーンが,情緒力,論理力等を押さえてあるし,9ページ,10ページのところでは具体的な目安を示してあって,「聞く」「話す」「読む」「書く」のどういうところに力点を置くかということがある。さらに,その次の見開きの参考図も分かりやすく,そして,読書の大切さということにも及んでいるということで,小中高の指導主事の方々などの反応は大変良かったということを御報告しておきたいと思う。
それから,この2年間の中で,漢字の問題について随分議論がなされて,一つの大局的な今後の方向というものも示された。現行の小学校の学年別漢字配当表というのは,昭和20年代の当用漢字別表に発する形で作られたものを部分改定する形で来ているわけで,このままでいいのかという根本的な検討が,この際,必要になってくるだろう。
これは制限的な方向の中で漢字を使っていくという前提の下,義務教育の中で,読み書き一致で小学校で覚えていくという枠組みで作られたものを部分的に改定しながら,そのやり方については継承し,そのまま今日に続いている形になっている。義務教育は9年間あることを踏まえ,もっと根本的に,学年別漢字配当表を見直していかなければならないこともあるので,これから,ここで検討してきたものが生かされていくといいかなという考えを持っている。
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JISで扱う漢字の委員会でも,現代の社会における漢字の使い方,あるいは表外漢字字体表をコンピュータに載せていくという作業が進む中で,常用漢字,あるいは表外漢字の印刷標準字体の問題等で様々な細かい問題が出てくる。
今,おっしゃった学年別漢字配当表の問題もある意味では連動すると思うが,そのような問題の審議は果たしてどこで行われるのか。細かい問題,あるいは大局的な問題というのは文化審議会に投げていけばいいのか。どのような形で,これから先,行政としてフォローしていくのかが見えてこない。実際にこれから先展開していくときに,どういう形で対処していったらいいのかということを教えていただきたい。
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学校教育については,中央教育審議会で議論していただいて,具体化していくということであるが,それ以外の日本文化全般にかかわる問題については,この文化審議会全体でも,いろいろな形で折に触れて議論していくということはあるだろう。この答申が出た後も,国語分科会は引き続き存続するわけであり,様々な形で,国語について議論していくことになる。その中で,今度はこういうことをというような意見を聞きつつ,次の審議事項,また次というふうに,恒久的に進めさせていただければと思う。
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漢字教育や国語教育,あるいは漢字はどうあるべきかということは国語分科会の非常に大きなテーマだろうと思う。国語審議会は,一名,国字審議会と言われ,文字のことしかやらない審議会だったような時期があるぐらいなので,いわゆる教育漢字や常用漢字がどうあるべきかということは,正にこの国語分科会のやるべきことだろうと思う。いろいろな漢字をめぐる問題があるので,それは是非ここで審議しなければいけないのではないかと考えている。
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先日,ある地方の中学生の女の子の作文を読んだ。そこには,「私たちの村では地域の人たちがとても子供のことを真剣に考えてくれ,いろいろな行事を年間を通して設けて温かく子供たちを育ててくれる。私たちの村には非行の少年たちがいなくて,とてもいい村です。」と書かれていて,心温まる思いがした。
新聞で携帯電話を取り上げた記事があり,その中で「あけおめ」とか,「ことよろ」とか,非常に簡略された言葉が,若い人たちの間で非常に広く日常的に使われているとあって,この村の少女の作文とのギャップを改めて感じた。人と人とのかかわり方,つながり方というのが現代の社会では急激に変わってきているように思う。それが携帯を通して作られる人間関係であったり,インターネットで作られる関係であったり,何かの趣味を通じてということで,同世代が親密になる半面,異世代とのかかわりというものがどんどん弱くなってきているように思う。したがって,言葉も,「あけおめ」「ことよろ」ではないが,限定された仲間同士で使われるケースが多くなっている。言葉の信頼性がなくなるというのは,一例として,そんなことなのかなと思っている。
中学校だけではなくて,今,国語教育では伝え合う力ということを大きな目標にして指導を進めている。言葉で伝え,また理解し,そしてそれによって人間関係をより深めていく,人と人とがつながっていく,そういう言葉の力を育てていくということを大きな目標にしているわけである。これが今後ますます重要になると思う。
そういうときに,地域というのは一つのキーワードになるのではないか。多くの学校で,地域にある職場に行っていろいろ体験させたり,地域の方が読み聞かせをしたり,最近ではいろいろと学校にかかわって,協力し,子供たちを指導してくださっている。こういう地域の人たちとかかわる中で,言葉の力を育て,心を育てていくことが,国語科の中だけでなく,同時に重要なのかなと思っている。
論理的な力も,伝え合う力をはぐくむ上ではとても重要で,これも力を入れて指導している。根拠に基づいて,文章の組み立てを工夫し,伝える,書く,筋を明確にする,結論あるいは書き始めを工夫する,そういう指導は日々しているところであるが,なかなか十分な指導が徹底するところまでは行っていない。今後の大きな課題ではあるけれども,伝え合う力というのはますます大事になると考えている。
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私は国語審議会に長年かかわってきたが,今回の答申は初めて一番の本質的なところに真っ正面から立ち向かって,国語とは一体人間にとって何なのか,それはどうやって身に付けることができるのか,社会においてどういう役割を果たすものなのか,という一番大事なところを定義し,くさびを打ち込んでいただいた。こういう意義のある答申を初めて出せたという気がしている。意見募集の意見の中には,感激したという言葉も出ていたが,感激するような文章になったということは本当に有り難いと思っている。
それで,残された問題について考えてみたい。第22期の国語審議会で三つの部会があり,一つが敬語,二つ目が漢字の字体であった。三つ目が国際化の中の日本語ということで,その中で大変いいことを言っている。今回の答申では,日本人にとっての日本社会の国語について語ったわけであるが,これから21世紀,10年,20年,30年,この一世紀をずっと生きていくときに,日本社会がどうなっているかということを考えると,ますます国際化,国のボーダーラインが低くなっていく時代になろう。
日本の中においても多言語社会化,国際化している。その中で,どういうふうに社会としてやっていかなければいけないかという問題が残されていると感じている。今回出す国語力を,国際化の中で,多言語社会になりつつある日本の中においてどうするか。この中で中心的に語られるべきものが国語の論理力だと思う。論理と言っても,英語で言っている言葉の論理とは少しずれがあると思うが,そのようなことについて,今まで真剣に考える場所はなかったと思うので,残された問題として,次の諮問があるとすれば,そういう広い視点からの言葉の問題,日本社会における言葉の問題が浮かび上がってくるのではないかと考えている。
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読書活動等小委員会で何度も出たのが,各自治体の,あるいは学校の長の意識改革という問題であった。今後,全国に答申の趣旨を普及していこうと国でもお考えだと思うが,できるだけ協力させていただきたいと考えている。地方公共団体などにも出掛けていって,意識改革を図る,つまり,この答申の内容をできるだけ普及させる,考え方を広げていくということが大切ではないかと思っている。
また,国語力ということについても,やはり同様で学校の先生方の意識改革が必要なわけである。一方では,中央教育審議会等にゆだねなければいけないこともあるけれども,国語分科会が考えてきたものをできるだけ広げていきたい。そのためには,やはり勉強会とか講習会とかをいろいろなところで用意していかないといけないと思う。
それから,公用文の書き表し方の基準について,基準であるから守るべしということであるが,そのときに具体的な細かな事例になってくると,世間で通用している部分と少しずれている部分が出てくる。そういうずれている表記の問題等については,どこかで取り上げていただきたいと思う。
それと,先ほど学年別漢字配当表について御発言があったが,常用漢字については,もっと増やせということになると困るから,申さないけれども,学年別漢字配当表については,3割ぐらい入れ換えたらよいのではないかと思っている。次か,その次か,分からないが,やはり漢字について何とか取り上げていただけると有り難い。学年別漢字配当表については撤廃すべきであるという考え方も世の中にあるけれども,教育の段階ではやはり必要だと思っている。
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発達年齢に応じた指導というか,言葉に限らず,13,14ページに出てくる部分をこれから先,是非深めてほしいという気がする。この部分は,本当に画期的だったなと思っている。1960年代から,日本人は変わったとよく言われる。具体的に言うと,社会力というか,社会のつながりみたいなものがどんどん薄れて,その中で育った世代がもう親になっているわけである。幼稚園の例で言うと,遅刻してきた親子が保育をしている先生に一言もあいさつをしないで,子供をさっさと押し込んで帰ってしまうのが普通になっている。一言話し掛けるということができなくなってきている。
言葉というのは,ソーシャルペーストというのか,社会の中でのつながりを形成するものであるが,60年代以降,日本では文化の伝承は別として,少なくとも日常生活の中での国語が,社会的な力,ソーシャルマグネットという言い方もあるようだが,そういう部分ではかなり機能を低下させている。これが繰り返されて,どんどん広がっていると言われている。発達段階をどういうふうに理解していくかということをきちっととらえて,国語の問題はこのようにかなり危機的な状態なんだということを,国語分科会で意識してやっていただけたら大変うれしいなと思っている。
答申そのものを拝見して,本当に良くできているということで感心しているのだが,これから先の問題は,こうした社会的な状況に対して,国語という切り口でどう立ち向かうのか,その部分はこれからのテーマになるのかなと考えている。
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子供たちが本に手を伸ばすようにというのであるが,ひしひしと感ずるのは,書き手が「子供たちが手を伸ばすような本」を書かなければ駄目だということである。自分にも,それから自分の仲間に対してもそれを言いたい。自分に言うことも相当大変だが,同時に,しち面倒くさい,やたら難しい漢字を使う作家や,ものすごくややこしい文章を書く作家などが現にそばにいる中で,どうやってこの答申を仲間に生かし,自分自身でも子供たちが手を伸ばす本を書けるかということを考えて,そういう本を市場に置くということが,自分たちに課せられている一番大きな使命だなと感じている。
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先ほどから,この答申がどうなるのかというような発言もあったが,これを受けて,是非いろいろ具体化し,実践していただきたいと思う。それをお願いしたい。
例えば,国語教育の在り方なども提言しているわけで,これは中央教育審議会を通すなり,また,いろいろな施策を講ずるなりして,是非実践の方向に向かっていただきたいし,教員の質の向上ということも提案しているわけで,これも積極的に施策として取り組んでいただきたい。先ほども出てきた地域と家庭が国語力の向上に取り組むべきであるということも言っているわけであるが,それを具体的に支援するなり強化するなり指導していただくというのも,答申を空論にしないために大事だろうと思う。 |