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国語分科会

2003年10月14日 議事録
文化審議会国語分科会第17回議事要旨


平成15年10月14日(火)
午後2時30分〜午後4時30分
東海大学校友会館「望星の間」

出席者〕
(委 員)北原分科会長,阿刀田副分科会長,青木,阿辻,井出,臼井,岡部,甲斐,川島,小林,五味,齋藤,舘野,手納,西尾,藤田,藤原,辺見,水谷各委員(計19名)
(文 部科学省・文化庁)河合文化庁長官,素川文化庁次長,寺脇文化部長,久保田国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

配布資料〕
 文化審議会国語分科会第16回議事要旨(案)
 これからの時代に求められる国語力について(たたき台)

経過概要〕
 事務局から,配布資料の確認があった。
 前回の議事要旨(案)について確認した。
 配布資料2について,事務局から説明があった。
 事務局の説明を受けて,前回の論点を中心に,配布資料2についての意見交換を行った。その結果,次回の分科会までに,今回出された意見を踏まえて資料2を修正した「国語分科会報告案」を作成すること,その作成については分科会長に一任することが了承された。
 なお,更に意見のある委員は,事務局に10月20日までにファックス,メール等で具体的な修正案を提出することとされ,今回出された意見とともに,「国語分科会報告案」の作成に当たっての参考とすることが了承された。
 次回の国語分科会総会は,11月5日(水)の午後2時から開催することが確認された。開催場所は,東海大学校友会館の「阿蘇の間」が予定されているが,委員には,事務局から改めて通知することとされた。
 意見交換における各委員の意見の要旨は次のとおりである。


「高次の情緒力」にかかわる論点について>

(○は委員,△は事務局を示す。)

委員  先ほど,「感じる力」が「情緒力」であるというふうに「審議経過の概要」で書かれていて,それを基にして「高次の情緒力」と使われているので,ほかに書き換えようがないという説明があった。しかし,ここは,道徳で教えるべき内容にまで踏み込んで,特定のものを教えようとしているように思える。例えば,祖国愛を「高次の情緒力」というような言葉で教えようとするところに,そもそも無理があるのではないかと思う。
 これまで,個人として生きる力になるものとか,コミュニケーションに役立つものとかというふうに国語力を考えてきたのに,突然,国語教育の最大の目的として道徳的な,ある価値観を教え込もうというふうになると違うのではないか。「高次の情緒力」を教えることが国語教育の最大の目的であると書かれ,それは,例えばこういうものであると言って,最後に郷土愛,祖国愛(祖国愛というのは,私は愛国心に通じるものだと思うが)そういうものが書かれていて,それを教えることが国語教育の最大の目的となっている。それは今回の諮問にある,これからの時代に国語力をどうやって高めていけばいいのか,国語力として何が必要なのかというところから外れているのではないか。
 したがって,ここはどうすればいいかと言うと,例えば,「感じる力」あるいは「教養」という言い方でいい。国語力の四つの力を支えるべきものとして,教養とか価値観というものを書いているから,そういう言い方でいいのであって,あえて「高次の情緒力」と言わなくてもいい。しかも,「高次の情緒力」が特定の中身を教え込んで,それが国語教育の最大の目的というのは間違いなので,ここは削除すべきである。

委員  今回の諮問理由説明の中に,日本の文化や伝統を背景にして言葉の力を考えていくというような前提があって,そこを踏まえて,国語力を分析的にとらえたときに,「感じる力」「考える力」「表す力」などが考えられてきた。その流れの中で,「感じる力」の一つの在り方というようなことを前期から論じてきて,審議経過の概要を作り,その上に立って今期の議論を進めてきた。議論を進めるときに,「感じる力」については最大の目的ということではなくて,国語力の様々な力の一つとして考えられてきて,位置付けられてきたというふうに理解している。
 前回の総会で様々な論議をして,その上に立って,今回若干の修正を施して出すときに,「高次の情緒力」はそのままにして出すとの了解に立っている。ここのところは,3ページの「1個人にとっての国語」の3のところに書かれてあることの展開として受け止めていけばいいのではないかと思う。5ページのところの言い方であるが,前回の議論では,「感受力」とか,「情操力」とか,いろいろ出てきたけれど,この「高次の情緒力」の「高次の」を取った形での「情緒力」という形ではめ込んでいって,文脈を考えていく形で,些少の修正を加えていけば,ほぼこれまでの議論の流れの中でとらえられるものとなると理解している。
 そういうことで言うと,5ページの「さらに」の段落も,1行目のところの「高次の」を取って,「荒廃が,情緒力の欠如に」というふうに言っておいて,その次のところは定義をしているわけだから,「高次の」を取って,「ここにいう情緒力とは,例えば,……」というふうにすればよいのではないかと思う。5行目は,「高次の」を取って,「社会的・文化的な価値を持つ「情緒」を自らのものとして受け止め,理解する力」というふうにすれば,一応ここにいう情緒力とはこういうものだという定義になる。この定義を踏まえて,後のところの叙述を進めて,「高次の」を取る形で,部分修正しながらやっていけばよろしいのではないかというふうに考えている。

委員  5ページの「第2これからの時代に求められる国語力」の「1国語力の現状とその向上を目指す理由」のところが話題になっているが,7ページに行くと,「2国語力を構成する能力等」というのがあって,「(1)国語力のとらえ方について」という部分がある。「これからの時代に求められる国語力」という大きなテーマから言うと,国語力とは一体何かということを最初に出す方が分かりやすい。つまり,7ページの「2国語力を構成する能力等」というのを,「1」にする必要がある。そして,「国語力のとらえ方」を一番先に出した上で,以下,それについてどうしていくかを書けばよい。
 5ページの「1国語力の現状とその向上を目指す理由」というところは,3ページ,4ページのところに,「社会全体にとっての国語」,「社会変化への対応と国語」という形で1回出ていて,もう一度繰り返されている形になっている。7ページを最初に出すと非常にすっきりしてきて,3ページに書いていること以下を,どういうふうにしていくのかということの考えが沸いてくるのではないかと思う。

事務局  全体の構成は,まず「第1国語の果たす役割と国語の重要性」で分析していただいた内容を,「第2これからの時代に求められる国語力」ということで,これからの時代を見通したときに,重要性で触れた点について,それぞれこういうことが必要になるというような構成で,対応する形で記述している。したがって,第1と第2は連続するような形で考えており,その後に,国語力を構成する能力ということを示し,国語力の目安となる部分とも対応する形で記述しているところである。

委員  全体として,この「たたき台」はよくまとまっていると思う。入れ換えの件については,今の説明の方が説得力があると思うので,特に,入れ換える必要はないと考える。この「2国語力を構成する能力等」は,国語の先生にとっては非常に重要なことかもしれないが,一般の国民にとってはほとんど無関心のことであり,前の1の方が,一般の国民にとってはずっと関心が高いと考えるので,このままの構成でよいと思う。
 「高次の情緒力」の方に戻るが,「高次の」が分かりにくいというような意見がある。もともとこれは喜怒哀楽等の原初的な情緒と区別をするための言い方である。例えば,自分の悲しみを悲しむのは原初的な情緒で,他人の悲しみを自分の悲しみとするのは高次の情緒,そういうような意味で「高次」を使っているのだから,どうしても分かりにくいなら,これは取っても別に全体の価値を損なうようなものではないと思う。

委員  「高次」を取ってもいいということになると,この「情緒力」は,後で「感じる力」になるわけで,それと同じということでいいのであろう。そうすると,「情緒」というのは,ある辞書によると「しみじみと感じる」ということのようなので,さっき批判した「祖国愛」などというものは,ここでは不適当になる。だから,これも一緒に削っていただきたいと思う。

委員  「審議経過の概要」が今年の1月29日に出ているが,その時に3日間の激論の末,「祖国愛」はそこに残ったわけである。その議論の時も,これがある限りは絶対に許さない,削除を要求するという強い言葉でおっしゃった。それをまたここでやり出すと,これはイデオロギーの問題になるので,ほとんどお互いに説得不能ということになる。したがって,これについての議論は打ち切っていただきたい。

委員  5ページは,よく読むと,最初に都市化,国際化ということが触れられ,少子高齢化とか核家族化とかいうのがあって,「さらに」という今議論しているパラグラフに入っていくわけだが,やはり「高次の情緒力」というのは,一般の人には分かりにくいところがある。3ページの3では,人間として持つべき感性,情緒というような言葉を使っているので,それをここに使うか,「情緒力」という言い方を既に使っているので,「情緒力」のままで行くかというようなことで,もう一度修正案を用意したいと思う。
 「感性・情緒」は,2ページ,3ページで挙げた個人としての国語の中の一つであるので,そういう位置付けで,「情緒力」を身に付けることが国語教育の最も大きな目標だというのは少しトーンを落とした方がいいのではないかと思っている。


「国語の授業時間数」にかかわる論点について>

委員  この部分は,国語教育等小委員会で何日もかかってさんざん議論して,小委員会のまとめで「また,発達段階・学校段階を考慮すれば,国語教育の重要性についてもおのずとそこには濃淡が生じることになる。すなわち,小学校段階,中学校段階,高等学校段階の順にその重要度は相対的に低くなる。小学校段階は発達段階から考えて最も国語力の向上に重要な時期である。したがって,小・中・高全体のカリキュラムを見渡して,小学校では国語の授業時間を大幅に増やし,逆に,高校では個人差に応じて選択科目を中心にするといった考え方も必要であろう。」と非常に明快に述べていた部分である。本日の「たたき台」では,最初の2行は「また,発達段階・学校段階を考慮すれば,小学校段階,中学校段階,高等学校段階の各段階において,国語教育における重点の置き方がそれぞれに異なることは当然であるが…」となっており,小学校,中学校,高等学校で重点の置き方が違うのは当たり前で,これは全くなくてよい文章である。
 それはともかく,私が一番言いたいのは,小学校で国語の時間を増やすということはすごく大変だということである。要するに,増やすことは他の科目を減らすということで,大変な抵抗が予想される。そこで,やはりどこかで譲歩しないと,これは答申としての迫力が非常に減ってしまうわけである。国語の利権拡張にすぎないではないかというふうに取られる可能性が非常に高いわけである。数学の先生は数学のことばかり言って,歴史の先生は歴史のことばかり,英語の先生は英語のことばかり言う。これが日本の最も悪いところで,各学会が我田引水的なことばかり言う。
 小学校はすべての知的活動の基礎ということで,他教科とは比較にならないほど圧倒的に国語が重要であり,漢字をたたき込んで,そして本に自然に手が伸びるような子に育てる。これが小学校の国語教育の一大目的なので,そこをどうしても大幅に増やさなければいけないというのが,小委員会で考えてきたところである。それで,高等学校の方は選択科目を中心にしてということになったわけである。
 小委員会のまとめの「すなわち,小学校段階,中学校段階,高等学校段階の順にその重要度は相対的に低くなる」というのは事実であるが,確かに,言い方が露骨と言えば露骨ではあろう。だから,この部分を取ることは妥協してもよい。その上で,小委員会のまとめの方を採っていただいた方が良いのではないか,そのように提案したい。

委員  ある種の取引をしなくてはならないということは,これで3回くらい聞いているが,そのことを十分踏まえた上で今の結論が出ていると考えてもいいのではないか。確かにおっしゃるように,ここで主張しても,それが現場でなかなか受け入れられないということはあるのかもしれないが,諮問を受けた方は,そういうことは余り考えなくてもよいのではないか。国語として本当に必要であれば,それを訴えればいいので,例えば,社会科の中に国語的な要素を取り入れるという方法だってあるわけで,それは直ちに向こうの時間を分捕るという方法につながっていくことではない。答申というのは,そういう政策的なことまで余り考えなくてもよろしいのではないか。なかなか実現は難しいかもしれないが,ここで一つの総意を得たら,それでよいのではないかと考える。
 それから,小学校で非常に重要であるという意見はそれもそうかなと思うけれども,そこまで断定的に言えることかどうか。国語の専門家ではないので分からないが,自分の体験と照らし合わせても,中学校,高等学校において自分が受けた国語教育,あるいは国語について考えたことが,小学校の国語教育よりも重要でなかったとはとても思えない。小学校でできなかったことを,中学校,高等学校の中で十分取り返すこともできるし,そこでより高次のものを得たところもあるので,必ずしもそこまで断定していいのかなというふうに,私はその辺はちょっと疑問に思う。小学校では絶対に国語が大切であって,中学,高校はそんなに重要ではないというのは事実であるとおっしゃるが,事実であるという根拠は何なのかということも含めて,少しお伺いしたいと思う。

委員  まず,中学・高校では,例えば,漢字を覚えさせるということはもう不可能である。小学校でも本当は遅いという説もあるが,小学校で一番大きなことは漢字である。常用漢字まで読ませるようにするということと,本に手が伸びるような子供を育てる。本を一生懸命読むような習慣さえ身に付けば,高校の国語など全廃したって大丈夫である。
 それから,小学校で仮に3時間も増えたとすると,現在の時間にすれば,高校1年か高校2年までを中学校で終えることができるわけである。しかも,読書する習慣が付いていれば,そこまでやらなくても理科や社会の難しい本を読むようになるので,例えば哲学の本を読んでも,歴史の本を読んでも,結局は国語の読解を勉強しているようなものになるわけである。しかし,小学校では理科や社会の勉強をしても国語の勉強というほどまでは行かない。それをもっと極端に言えば,大学では国語を課しているところなど世界中ほとんどゼロなわけである。それは今言った理由による。高校は大学ほど極端ではないが,小学校と比べると,それは明らかに相対的に低くなっている。発達段階的に言って,そういうことだということである。

委員  一つは,中学・高校と相対的に低くなるとは思わない。それから,中・高を減らしてもよいから小学校で増やせというのは誤りであると判断する。三つ目は,小学校だけでなく,現状では中学校も増やさなければならない。これは前回も申し上げたことだが,小学校で幾らやったとしても,中学校で週3時間の国語の授業では不十分である。

委員  読書の小委員会では,むしろ中学,高校で本を読まなくなるということが問題になっていた。そういうことを考えると,中・高で国語の授業なんか要らないというふうに受け取られるのは間違いだと思う。やはり,中・高でもそれは非常に重要なことである。だから,取引ということで考えるべきではなくて,ここは小学校が大幅に増やすことも必要だろうということだけでいいのではないか。
 それと,国語科の授業の在り方を見直すだけでなく,小学生の国語の学力がきちんと付いているのかということを特に問題にしたいと思っている。ついでに言えば,さっきの議論の「高次の情緒力」などというものを教えるから時間が足りなくなるのであって,きちんと常用漢字を教えればいいということを繰り返し申し上げておきたい。

委員  14ページのイメージ図にもあるように,論理的思考力とかいろいろな力が国語力になってくるわけである。だから,各段階でそれぞれ国語力を向上させる重要なものがあるだろうということも意見として出てきていいと思う。ここは,小学校段階が極めて重要であるということをしっかりと言っており,ほかの段階も決して相対的に低くないという御意見もあったので,この辺りで行きたいと思う。

委員  大変よくまとまっているのだが,1ページの「第1国語の果たす役割と国語の重要性」というところの書きぶりが少し軽いのではないか。それゆえに,後のところで相当重い記述が多くなり,分かりにくくなってくるのではないか。
 1ページの「第1国語の果たす役割と国語の重要性」には,個人にとって,社会にとって,また社会変化への対応ということがある。一番最初に出てくる記述が「コミュニケーション能力の基盤を成す」,その次に「知的活動の基盤を成す」,次に「感性・情緒等の基盤を成す」となっていて,これは三つとも大変大事な要素であるとは思う。しかし,もう一つ加えるか,この辺の順番を変えるということで,国語が,個人が人間として物事を認識して,理解して,考えて,思考力を養い,感性を養い,また表現力を養う,そして,これが人間としてすべての能力の基盤となるということをどこかできちんとうたっていただければ,それを受けて,今までのいろいろな議論も少しは収まるのではないか。一番最初にコミュニケーション能力が来るのは,ちょっと軽いように感じるので,その前に,すべての人間の能力の基盤であるということを言いたいと思う。

委員  2ページであれば,確かに個人にとっての国語で,個があってから交流があるわけだから,最初にコミュニケーション能力が出てくるのは気になる。2の知的活動の基盤辺りを1にして,コミュニケーションを2にするとか,少し考えてみたいと思う。

委員  小学校で国語が飛び抜けて重要というのは,要するに,中学校と高校では,国語は他教科とけんかしても勝てないということである。例えば,中学校では英語に負けてしまうし,高校では,理科とか,社会とか,数学とか,みんな強烈に主張してきて,国語はとても勝てないということを断言しておきたい。
 それはともかく,妥協するということで,「相対的に低くなる」とか,「濃淡が生じる」とか,そういうのは取って結構である。ただ,「また」の次の文章,「発達段階・学校段階を考慮すれば,小学校段階,中学校段階,高等学校段階の各段階によって国語教育における重点の置き方がそれぞれに異なることは当然であるが」までは,ほとんど何の意味もない文章なので,それを削除してしまえば,あとはそのままで,中学校・高等学校については全く触れない,それで仕方がないと思う。

委員  国語教育等小委員会の議論,総会での議論の中で,中学校段階,高等学校段階の立場を考えながら御自分の考えをお述べになっている方々が,それぞれの段階において国語の力を育て続けることの大事さをおっしゃっている。そういう御意見が繰り返し出されているということもあり,ある程度妥協の産物ということで,記述をトーンダウンさせるような形にならざるを得ないところはあるだろう。小学校段階は非常に大事だということを強く表現するとともに,やはり中学・高校の方も,御心配になっていらっしゃる方の御意見もある程度記述していくことはやむを得ないのではないかと私は思う。

委員  「学校における国語教育」の「(1)基本的な考え方」のところであるが,「発達段階・学校段階を考慮すれば,…」というところは確かにごたごたしている。別にこれを入れなくても,「小・中・高の発達段階における」というふうに持っていって,そのまま一番大事な最後の「現行の授業時間を大幅に増やすといった考え方も必要であろう」というところにつなげたらどうだろうか。この2行を削った方が非常にシンプルになるという気がする。それから,先ほどの御意見で,国語が基本であるということ,できれば小学校のうちに国語の時間を多くしたいということについては十分理解できた。

委員  14ページの記述では,3歳からの【土台作り期】の後に,「13歳以上【発展期】」がある。この【発展期】の部分に「論理的思考力の育成に努めることが重要である」とあり,【土台作り期】だけではなくて【発展期】というのも大事であると書いてある。今の御意見のように2行削るとすっきりするが,この14ページとの関係が気になる。各段階も大事だけれども,小学校は極めて大事であるという,両方に顔を向けた書き方をしているので,ごたごたした書き方になっている。

委員  相当数の「小学校は極めて重要である」という意見があって,それはそれとして認め,一方で,中学校,高等学校も大事であるという意見も少なくとも過半数に近い数あるので,その方にも顔を立てたのが,「異なるのは当然であるが」という表現になったわけである。この2行をもし取ってしまって,小学校だけが重要であるという意見に余り傾いたら,多分,この会としては相当の異論が生ずるのではないかと思う。


「漢字学習」にかかわる論点について>

委員  前回もちょっと言ったかと思うが,漢字に関しては,読みと書きに分けて,読みについては小学校教育から大幅にルビ付きで導入したいと考えている。私も小学生を何百人と教えているので,分かるのだが,読みに関してはルビ付きでやれば問題ないし,相当のものが読める。本に手を伸ばす・伸ばさないというのは,漢字に抵抗感があるかないかというのが非常に大きい問題で,書けなくても読めればいい漢字というのがほとんどなわけである。だから,今までの国語教育の考え方は頭が固すぎるので,本文もどうしても幼稚なものにならざるを得ない。それで,今のようなレベルの低い小学校教科書になってしまったと思う。だから,漢字の読みに関しては,学年配当の枠を外し,ルビを大幅に導入することで読書に対する抵抗感をなくしていく,読める漢字を増やすというような趣旨の文章を「漢字指導の徹底を考える」のところに入れていただきたい。

委員  今,手では書けないけれども,割と簡単にワープロなどで表示できる「憂鬱」というような漢字が多くある。そういう漢字に関して,28ページの「その考え方を国語施策の面から打ち出す必要があるのかどうか検討することも考えられる」というのではなく,これは今後の国語教育にとっては結構重要な問題であり,ITがこれだけ進んできて,漢字に関しての表示や書き方に関しての新たな問題が出てくると思うので,もう少し先にでもいいが,「今後検討していく必要がある」と明記していただけたら有り難い。

委員  「ゆううつ」などというのは変換キーを押せば「憂鬱」という文字しか出てこないし,「ひんしゅく」だって「顰蹙」しか出てこない。しかし,もっと問題なのは,同訓語・同音語である。例えば「みる」というのは,たくさんの漢字が出てきて,どれを当てたらいいのか。今の御意見は振り仮名の活用で難しい漢字をという話だが,ワープロで漢字が出てくるだけに,易しい漢字でも使い分けに困ってしまう。これを教育でどういうふうにするかということは問題である。

委員  17ページの「漢字指導の徹底を考える」と28ページの「「漢字の扱い」と「振り仮名の活用」」というところで,漢字のことが教育上と一般とで分かれて書かれているので,両方読まないと,この「たたき台」の中での漢字の問題というのは頭の中でうまく結び付いてこないような嫌いがあるのではないかと受け止めている。
 それで,小学校の各教科の教材においての漢字の提出の仕方,書く学習ではなくて,常用漢字の大体が読めるようにという在り方の中で,交ぜ書きをしないでルビを付けるとか,まだ学習していない漢字でもルビを付けて提出するとかというような記述が17ページの方にもあった方が,分かりやすく読めるのではないか。要するに,17と28それぞれのページの漢字の記述については,必ずしもドッキングできないところがあるので,二重に同じことを書くようなことになっても多少手当てした方がいいと思う。

委員  漢字についての記述は全部で5か所ある。一つが16ページの1行目,次に17ページがあって,25ページの上から二つ目の段落に「振り仮名を振れば小学生でも読めるので」とあって,その下の段落の5行目にも「一般向けの本に積極的に振り仮名を活用することで」というのがあり,そして,28ページにある。
 この中で,是非とも書換えをお願いしたいことがある。それは,17ページの<漢字指導の徹底を考える>というところで,3行目に「現在の「漢字学習の在り方」について検討する」というのがあるが,これまで常用漢字をどうするか,学年別配当漢字をどうするか,配当漢字の学年の入換えをどうするかというときには,必ず国語研究所にその調査というものが振られ,いろいろ調査をしている。この場合の「「学習漢字の在り方」について検討」というところも,是非全国的な調査を国語研究所でやってもらいたいと思う。これをしない限り,先ほどの読みと書きの分離学習ということも,学年配当を外し,小学校でどういう漢字をどう教えるかを言うことも難しい。ルビというのは,昔,山本有三氏が振り仮名廃止論というのを提言して,それから半世紀以上たっているということがある。また,教科書に学年別配当漢字以外の常用漢字が載っている場合は交ぜ書きにしないということが提案された。それは別として,「漢字指導の徹底を考える」の2行目に「常用漢字の大体が読める」とあるが,「大体」という言葉が生きてくると大変恐ろしい結果になる。
 一方には調査研究をすること,もう一つは,例えばスーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクールというのがあって,実験的に今英語教育をやっているが,例えばどこかの付属小学校にこういうルビ付き漢字をやらせてみて,効果があるのか,あるとすればどういう効果があるのか,影響はどうなのかというようなことを少なくとも2,3年は調査すべきである。漢字配当というのはよほど慎重であってよいと思っている。

委員  この会自体が調査してからというふうな会ではないので,この会は,この会の判断を示して,それに従って調査が必要であればすればいいと考える。
 もう一つは,振り仮名を付けることによる弊害がどのくらいあるのかということである。振り仮名を振っておけば,読むことについては漢字の右側の振り仮名を読んでいけばすべて足りるわけである。だから,害があるというようなことはあり得ない。害がないのにプラスがあるということだから,読みに関しては大胆に枠を撤廃して,振り仮名を大きくしても構わないから,教科書本文中に漢字をどんどん入れていく。そのことによって今までの教科書より情報がマイナスになるということはあり得ないというふうに考えるので,是非そういう文章を入れてほしいということである。

委員  国語教育の中で「漢字指導の徹底を考える」と言っても,限度があるような気もするので,読書はむしろ国語教育から解放してやって,そこではルビを付けたものを提供したりして,どんどん読んでいくような形にする。読書だったら,ルビの付いた本を作れば,25ページの「広い分野から大人向けの本格的な内容のものを小学校や中学校の段階から読ませていく」ことで,少々難しい言葉や漢字が出てきても読み飛ばしておけばいいというような形で漢字を開放することになるのではないか。ルビをもっと増やすということについてはあってもいいと思っている。
 ついでに言えば,25ページの3行目に「副読本等」とか,5行目に「教科書に掲載する教材」とか,読書をさせると言いながら,教科書の中で読書をするようなとらえ方をしたり,最後のところで「教科書等の内容について,もう一度見直す必要があるのではないかと考えられる」と書いてあったりして,読書を全部教科書で間に合わせるように読める。その辺りと漢字指導の辺りとをもう少し整理した方がいいような気がする。

委員  <漢字指導の徹底を考える>というところは非常に重要な部分だと思う。「自然に本に手が伸びる子供を育てる」,これがある意味で国語教育の一番の目的であるが,読書に対する抵抗感の非常に大きな部分は漢字である。漢字が多いだけで嫌になってしまうので,まず,漢字を小学校の早いうちから徹底的にたたき込むことが重要である。
 そのために,交ぜ書きのこととか,ルビのこととか,あるいは学年別の漢字配当表のこととか,そういうものについて取り入れるとか,廃止していくとか,これに触れざるを得ないと思う。2年,3年実験・研究しなければと言ったら,これ全体にわたってすべてそうであって,そうしたら何一つ研究していないのだから,全部葬り去られるわけである。やはり我々の見識から,これが一番いいだろうということをやればいい。
 今の17ページの文章を見ても,こういう調子でも仕方ないかと思うが,「こうすべきだ」というふうにはっきりしていなくて「……について検討することも考えたらどうか」と非常に柔らかい表現で書いてある。それから,ほとんど漢語文化に対する侮辱のような交ぜ書きを廃してルビを活用する。ルビというのは,どうしても読みを学ぶために必要なものであり,教科書等の質を高めるためにも必要なものである,そうすると,自然に学年別漢字配当表にも議論が及ぶ,そういうことを,ここに「検討することも考えたらどうか」という語尾でよいから是非入れてほしい。

委員  本に手を伸ばす子供を育てたいということで,漢字に対する抵抗感が非常に大きいとおっしゃったが,余り書かれていないことで,もう一つ大きな問題は旧仮名遣いというのがあると思う。つまり,子供たちが夏目漱石を読めない,芥川でさえ読めない,読みにくいというのは漢字のせいだけではない。旧仮名遣いの問題があり,あれはどうにもかなわんというのである。それを,現代表記にするということはいろいろ著作権者からのことなどもあり,また,それが見識として適当であるかどうかということもあって,若い人たちが,芥川や三島辺りだって読めなくなっている。今回は全く触れていないが,若い人たちが手を伸ばさないのは,漢字ももちろん大きいけれども,旧仮名遣いという問題もあると思う。これをどこにも取り上げてこなかったのはどうかという気がする。

委員  漢字のルビについては,子供たちの教育のためという前提が強いけれども,生涯学習ということを考えたり,国語を大事にする文化を育て直すということであれば,例えば28ページに載っている振り仮名を付けるという提案については,子供たちのみならず大人にとっても大事なことである。そういう意味で,振り仮名の付いた出版物がたくさん出されていった方がいいというふうに思う。
 もう一つは,「望ましい国語力の具体的な目安」の一言一句を読むと,大変な宿題を背負ったというような感じで,各々がそれに向かって努力すべしというふうに出されていても,インターネットから的確な情報を収集しつつ漢文に親しむ毎日というのは自分には到底考えられない毎日である。要するに,これは,国語を大事にする文化を育てるための目標であるということが単発的にはたくさん書かれているが,どこかにもう一度入れ直していただけるといいような気がする。それは,9ページの「努力するための目標」という部分,11ページの「国語を大切にしようという意識が国民の間に共有されることが必要であることは言うまでもない」という部分,それから生涯学習ということが18ページに少し載っているが,これら三つの場所をもう少し強調して,つながっているように書いていただきたい。
 文化については,やるべきことというふうな高い位置からではなくて,もっと大衆に近いイメージで大事にしたいものなので,どこかに,生涯学習としてやるべきもの,プラス文化を作るというようなことを書いていただければいいかと思う。

委員  漢字学習についてのところで,どうしてもこのディスカッション自体に違和感を感じている。確かに,漢字を先習させると読書等に導きやすいという感覚は,我々の見識としてあるけれども,やはり根拠がないと思う。だから,調査を並行して行わない限りは答申自体が信じられないというふうに理科系の人間には思えてしまう。
 ただし,先ほどの御意見のように,介入をこちらから入れるということを前提としたコーホート研究というのは,今はやってはいけないことになっているので,どちらかと言えば,漢字先習をしているような教育施設の子供たちの現状と普通の教育を受けている子供たちの現状をコーホートの形で比較して,読書活動の頻度といったようなものを調べるということであれば,数か月の研究でできる。そうすれば,この答申が出るころまでに根拠のある数字が出てくると思うので,是非その方向での調査を行うということを提案したいと思う。


その他の論点について>

委員  「望ましい国語力の目安」については,手を付けたら大変だと思う。どういう辺りを終着点にするのか,どのくらいの知的水準を対象と考えるのかということで,みんな変わってきて簡単には言えない。これは文化の有りようとして,一つの理想のあり得べき姿であるというようなことを前段に書いて,もしこれについて検討するとすれば,それなりの相当慎重な委員会でも作って議論せねばならないとかいうところに持っていかないと,時間的なことやいろんなことを含めて,とてもここでやれることではないような気がする。そういう前段の下で,答申するという方向でいかがだろうか。

委員  今のお話の線で行けばいいのではないかと考える。7ページのところに二重線枠で,12というふうに示してある。現在の学校教育の一つの枠組みというのが,「聞く・話す・読む・書く」という音声言語と文字言語の内容というとらえ方の中で,この12をドッキングさせて考えるとどういうふうになるかというのが,9ページ,10ページに示されていると見るわけである。それが隣の見開きの「構造モデル」にもなっていくわけだけれども,一応「聞く・話す・読む・書く」という形で,12をドッキングさせたら,こういうことだということで,取りあえずは行かざるを得ないと思う。

委員  私は「話す力」のところで違和感を覚えた。これはどうやって話すかという話し方であり,何を意図しているかということがここで述べられているが,「話す力」の中には,例えば,正確な表現ができるとか,語彙力とか,省略をしないきちんとした言葉遣いができるとか,崩した表現をしないとか,そういうふうなことも入ってくるのではないかと思う。その辺が抜けているので,もしもここに入れるとすると,「読む力」「書く力」のところでもいろいろ変わってくる可能性もあるが,今回,国語力の場合はどのような環境でどのように話すかということ以外に,言葉そのものの力とか,美しさとか,そういうふうなものも考えなければいけないのではないかと感じている。

委員  全体としては結構詰まってきていると思う。問題点は,9ページ,10ページと28ページをどう詰めていくかということで,これによって出来上がりが変わってくるのではないかと思う。9ページ,10ページの今問題になっている部分については,これはこれなりにある程度網羅していると思うが,今御指摘があったように,まだまだ我々の知恵が及んでいないことがある。だから,この報告案の完成がいつになるかということとも関係するけれども,周知を集めて,例えば,皆さんからこの枠組みの中で気付かれたことをどんどん出していただいて,ここへ挙げていって,未完成ではあるけれども,より内容を豊富にしていくということが一つあると思う。
 もう一つは,一番最後の28ページのところである。全体は結構説得力のある内容になってきていると思うが,おしまいが,この形で「その他の」ということが付いていて,何か少し寂しい。こういう終わり方はちょっと残念なので,こういう内容も含まれていていいけれども,やはり提言として結びの部分を何か用意した方がいいのではないか。
 例えば,先ほどから話が出ていた漢字についての問題でも,今の状態を調べる調査・研究や,政策に対する提言みたいなものを我々はやる責任があるのではないか。その前に述べ立ててきたことを実現させるためにこういう政策が必要だ,その一つに,調査・研究活動があるだろうというような形である。マスコミに対する働き掛けなどは,前の方に入っている。しかし,全体のまとめとして,それこそ常用漢字の問題一つにしても,常用漢字の今の内容を前提にして私たちはやるべきだ,覚えさせるべきだと書いているけれども,全部覚えさせていいのかどうか,一生使いそうもないような漢字まで入っているという感じだって多少するので,そういうことの再検討がいる。現在,ワープロやテレビでたくさん言葉が外へ出ていくようになっていて,送り手の方が使いたいということで漢字を広げるという方向へ行くけれども,受け止める人たち,子供たちが勉強している中で,限られた時間の中でどれだけ学習できるのかということもきちんと検討をやり直さなければいけないのではないか。議論があって,教育漢字ないしは常用漢字を6年間でやるのは無理だという意見も出たけれども,本当にそれが無理かどうかというようなことを検討し直してみるような教育政策的なことも含めて,おしまいに,政策的な提言に近いようなものをまとめてとして入れたらどうかと思っている。

委員  この目安についてはどうも自信がないので,時間の限り,例えば報告案を作るときにもう少し検討しなければいけないし,皆さんの御意見も文書などでちょうだいしたい。
 例えば,10ページの3行目に「話すことによって人間関係を深めることができる」とある。これはそのとおりだが,具体的にはどういうことなのかとか,話すことによって人間関係を深めるという辺りは,非常に目標が高くて具体性に欠けるとか,いろんなことがある。ちょっとお知恵をちょうだいして,ここはもう少し深められればと思う。
 それから,最後であるが,今年1年は読書活動と国語教育だけに絞って議論してきてしまったので,第3の「その他の方策」辺りは,啓発活動をもっと継続・発展させていくというようなことがあったり,新しい案としては,○で書いてある「言葉の専門家」を作るということや「言葉の日」を設けるということがあるくらいで,地方自治体で啓発活動に取り組んでいるところもあるから,更にやってほしいとかいうことにとどまっている。この辺りはもう少しボリュームを付けて,あるいは「啓発活動」というふうにまとめないで,もう少し分けて書くような方法もあろうかと思う。

委員  全般に,どういう視点から見ても,どのような意見も一応は取り入れられているように感じる。しかし,衝撃を与えるような何かインパクトのある,もう少し緩急の付いたものができると,もっとすばらしい。やはり,まとめのところで,そういうような文言があればなという気がする。例えば,漢字学習についてどうするかとか,小学校の国語の授業時数を大幅に増やすとか,そのためならば中学校,高校の国語の授業時数は減らしてもいいんだというような大胆な意見がほしい。もちろん,この意見が本当に妥当かどうかというのはまだ相当検討する必要があるけれども,こういうような意見をはっきりとどこかに打ち出さないと,インパクトのあるものにならないという気がする。
 最後に政策的なと言われたが,そのようなことでも,何か結論付けるようなことができればいいと思っている。「その他の方策」のところでもいいのだけれども,「その他の方策」というよりも,やはり全体的なことを少しまとめた文章,かちっとしたものが最後に欲しいということである。

委員  章立てについては,既に御承認いただいているわけである。それと,個人個人の方は非常に先鋭的な御意見であってもいいと思うけれども,答申については,必ずしもそんなに特殊なものでなく,中庸的なものでいいという考えを基本的には持っている。

委員  「その他の方策」のところにでも,もう少しまとめとなるような何かを付け加えてくださればいい。何かというのは,それこそ国語力を身に付けるための方策である。全体的なものはみんな大体分かるのだけれども,その中の強調する部分がないとインパクトがないと感じる。最後が「身に付けるためのその他の方策」ということでなくてもいいのではないか。全体の流れの中で,まとめの部分がないような気がしてしようがない。

委員  議論が残っているところが一つある。24ページの「「読書指導」を考える」のところの通知表の問題である。これは,読書小委員会で通知表に読書の欄を設けて載せる,通知表の所見欄に読書をやったかどうかを載せるというのはずっと議論があって,自分はこんなことは駄目だと言って反対していたところである。小委員会のまとめでも両論併記になっていた。先ほどの説明では,成績を付けるわけではなく,誤解もされないと思われるので,「たたき台」のまま行きたいということだったが,私は誤解されると思うし,その上には,連絡帳等に「読書の欄」を設けるというような記述もあるのでそれで十分だと思う。むしろ,ここで「通知表」という言葉を入れることで,成績を付けるというふうに先生や保護者が誤解してしまうということで,この3行については削除すべきであるというふうに考える。

委員  連絡というのは,例えば,プリントを配って親に渡すというようなことで,そういうことにしてしまっては意味がないということは小委員会でも言われていたことである。これを取るのだったら,余りになし崩しになり,全く今までの議論は意味がなくなる。そういうことをこの期に及んで言い出すというのは良くないと思うので,両論併記なら併記で結構なので,この「通知表」という言葉は入れていただきたい。

委員  25ページの「教科書に載せる文章については,時代に対して少し後向きなくらいでもよい」というのは,非常に印象深い言い方であるけれども,何か舌足らずかなと思う。
 もう1か所,25ページの<関係団体との連携・協力」を進める>の3行目,「また,高等学校段階では,古典への入門となる「易しく書かれた古典」のように,本格的な作品への「橋渡し」となる読書入門としての本がないのも実態である」は,どうもよく分からない言い回しになっている。高校で古典を読むのでは遅過ぎるから,例えば,中学校,高等学校段階で,現代語訳で書かれた古典のように,古典への橋渡しとなるような本がないとか,何か適当に言い換えていただければと思っている。

委員  16ページの<教科内容をより明確にする>というところの「国語科の根本の部分にあるのは感性に基づく情緒力の育成であり,これが大きな領域となっているが」という部分について,感性に基づく情緒力が国語科の根本の部分にあるというふうになるのは違うと思うので,少し言い方を直したいと考えている。

委員  問題点の指摘をしたい。16ページの<教科内容をより明確にする>の中に,「国語科教育は明確な主張を持っていることが大切であり,その観点から,教科書教材にも主張があるものを入れる必要がある」とあるが,ここは自分で読んでもよく分からなかったので,これを読む人も分からないのではないかというふうに思う。
 それから,同じページの<指導の重点は「読む・書く」にある>という中に,「我慢や忍耐を描いた文学作品に触れることも大切である」とある。これもそうではあるけれども,子供が我慢と忍耐だけを押し付けられるのが気になる。もう少し明るい未来も見たいだろうし,世の中をもう少し良くするということも読みたいだろうから,我慢と忍耐をこの分科会が押し付けているような表現になると問題であろう。その後の「中学校や高等学校の国語科においては授業内容が教師による個人的な感覚の押し付けにならないよう」も,何を言っているのか,学校の先生は分かるのかもしれないが,自分にはよく分からなかった。
 もう一つ,その次の<演劇などを取り入れた授業を>は中身はいいのだが,初等教育という言葉は,「小学校」というふうに分かりやすくした方がいいのではないか。
 それから,17ページの一番下から5行目の「他教科では用語及びその意味用法が国語科と違うものがかなりあるので,国語科は他教科の用語まで考慮していくことが求められよう」というのも,自分には何を言っているのか分からない。これも学校の先生には分かるのかもしれないが,意味があるのならばもう少し分かりやすくしてほしい。
 最後であるが,19ページに,スポットを流すのもいいみたいなことがあるのだが,これはだれが15秒のスポットを流すのか,主体がはっきりしなかったという感じがするので,考えていただきたい。


(文化庁文化部国語課)

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