審議会情報へ

国語分科会

2002/11/18 議事録
文化審議会国語分科会第9回議事要旨


文化審議会国語分科会第9回議事要旨

平成14年11月18日(月)
午前10時〜午後1時
東京會舘「シルバースタールーム」

〔出席者〕
(委員)北原分科会長,青木,井出,臼井,沖山,甲斐,勝方,工藤,小林,齋藤,舘野,田村,手納,西尾,藤原,松岡,黛,水谷,山根各委員(計19名)
(文部科学省・文化庁)御手洗文部科学審議官,銭谷文化庁次長,寺脇文化部長,山口国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕
文化審議会国語分科会第8回議事要旨(案)
文化審議会国語分科会審議経過の概要(仮称)の作成方針について
国語の重要性とこれからの時代に求められる国語力について
3−1これからの時代に求められる「国語力」の構造(モデル)

〔経過概要〕
  事務局から,配布資料の確認があった。
  前回の議事要旨について確認した。
  前回の分科会で,分科会長預かりとなっていた小委員会の設置については,今後,議論を進めていく中で,分科会として意見の一致が見られた事項で更に内容を詰める必要があると認められる事項について,必要に応じて,少人数によるテーマ別の討議や小委員会を設置することとしたい,という分科会長の発言があり,了承された。
  事務局から,配布資料2,配布資料3,配布資料3−1についての説明があった。
  委員の間で「文化審議会国語分科会審議経過の概要(仮称)の作成方針について」及び「国語の重要性とこれからの時代に求められる国語力について」の意見交換を行った。
  「文化審議会国語分科会審議経過の概要(仮称)の作成方針について」は,最終的な結論が出なかったので,次回改めて検討することとした。
  「国語の重要性とこれからの時代に求められる国語力について」に関して,更に意見のある場合は,11月21日(木)までに,国語課に電話,又はファックス,Eメール等で意見を提出することとなった。
  次回の国語分科会は,11月26日(火)の午後1時30分から4時30分まで,東条会館新館「吹上の間」で開催することとされた。
  本分科会での意見の要旨は次のとおりである。

(1)「文化審議会国語分科会審議経過の概要(仮称)の作成方針について」の議論
(○は委員,△は事務局を示す。)

  来年の1月に概要をまとめた後,その後も同じように論議して,答申になるのか。中間答申みたいなものを考えているのか。その辺はどのように考えているのか。

  委員の任期が来年の2月4日までであるので,2月4日までの間に,一体どういうことをやってきたかということをまず国民に対して御説明することが必要ではないかということで,今回の審議経過の概要を考えている。当然,文部科学大臣からの諮問があるので,それに対する「答申」を最終的にはまとめなくてはいけない。したがって,それに向けて,2月以降も引き続き御議論いただくことになる。なお,最終的な「答申」の前に,「中間答申」という形でもう一度公表するかどうかは,その時の御議論によって決定されていくのではないかというふうに考えている。

  普通は,答申の前にパブリックコメントをもらうが,今のお答えは,パブリックコメントの手続を取らないかもしれないということか。

  パブリックコメントの手続は必ず取ることになる。「答申」という最終的な形になる前には,必ずそういう手続を行う。その前にもう一遍,同じような手続をするかどうかは御議論があろうかと思うが,2月4日以降は「答申」を目標に御議論いただくことになると思っている。

  参考資料の「子供たちに読んでもらいたい本」のリストは不要だと思う。審議会が,あえて子供たちに読んでもらいたいという本を挙げる必要はない。既に世間で,推薦図書というのは,いろいろな形で,各団体なり,組織なり,民間の会社なりで行われているので,分科会で行う必要はないというふうに思っている。
  どうしてもやると言うならば,個人の委員の方が,こういうものを御自分の責任で挙げたいというのを公表するということについては,あえて反対はしない。その場合に,
  それは飽くまでも審議会の委員ではなくて,それぞれの委員の方の個人の挙げた本であるということを明記していただきたいということである。そうでなければ,その本について,それを推薦するかどうかの議論をこの場でせざるを得なくなる。つまり,これを推薦すべきである,いや,それは推薦するに値しないという議論が起こると思うので,それはまた時間の無駄だと考えている。

  読書リストについては,先ほどの事務局の説明では,もともと「個人名を付して」という説明があったので,この分科会名で出すとは言っていない。また,分科会名で全体としてトータルに「これを勧めます」というふうには,最初から言っていないと思う。あえてしたい方がいらっしゃればという発言であったが,私はあえてしたいので,やらせていただきたい。
  というのは,読書する力の重要性についてはここで何度も出た話で,それについて具体的な何かアクションを起こすということが必要だと考えているので,それに対して,いろんなところがいろんな読書推薦リストを挙げているのは事実であるけれども,こういう公的なところが,それに対してアクションを起こしたという事実自体が意味を持つと考えている。もちろん,これはさっきの「任意で」という,そこをよくお読みになっていただいて,私は任意で出させていただきたいので,全面的にこの実施を否定されるようなことには反対させていただきたい。

  取り上げ方について,技術的な問題として,明治・大正・昭和に至って,古典的にだれでも熟知しているようなものの場合はいいかなという気はするが,ごく最近に出ているもの,あるいは余り目に触れていないもので,余り発行部数がないものについて,どういう処理をするのか,その点の技術的な問題をどうするのかということは,少し問題があるような気がする。

  これは小中高の子供たちに対するもので,余りマニアックなものになっても仕方がないので,基本的には文庫本を中心にするのがいいかと思う。その上で,非常にエキセントリックなもの,下品なもの,暴力的なものなどは除くという共通認識で進めれば,現在手に入る範囲での文庫本を中心にするという限定で,選択の節度というか,内容上の節度というのは,皆さんの良識に任せるということで結構だと思う。その上で,余りに新しすぎてすぐに消えてしまうかもしれないというか,余り定評のないものは,比較的避けるという認識でよろしいのではないか。

  今おっしゃった線は,一つ容認できるかなとは思うけれども,個人名をかぶせると言っても,審議会資料の参考資料として出てくるところに,私は問題があるのかなというふうにやっぱり思わざるを得ない。

  夏のアンケート結果について参考資料として添付するということだが,これは飽くまでも審議経過のための参考資料ということで,それに関して参考にされるのは一体どこなのか,いわゆる内部ということなのか,そこをお伺いしたい。あと,それをする場合には,もしも載せるとしたら,私は自分のものをもう一度きちんと洗い直したい,検討したいと思っている。
  それから,2番目の「子供たちに読んでもらいたい本」について,任意に出すという点であるが,任意に関してのやり方で,「読む」というのは,読書というのが主になっているけれども,「書く」とか「聞く」「話す」の部分も国語力の中で問われていると思う。任意に出すという形で,これ一本に絞られると,それだけが非常に強烈に印象に上る。私自身はちょっと提案したように,カルタを作る,カルタで遊ぶ,昔話を聞いて伝えていくという考えを持っているので,そういうのも「国語力」の中に含めて,本を提案する人もいれば,遊びを提案する人もいるという形で,ここには演劇の方とかもおいでになるので,本に限らないということで実施していただくとうれしい。私は,本もあるけれども,それよりも,もっと「語る場」,あるいは「書く場」の方法についての提案をしたいと思う。

  それは,審議経過概要の構成の仕方とかかわってくると思う。今までのだと,国語の重要性を述べる。それから,国語力を子供たち,大人も含めて身に付けるためにはどういう方策を採ったらいいかという,大きく分けて二つになると思うが,その方策の方に読書があるし,今おっしゃったカルタがある。それから,私は前回出席できなかったので,書いたものを配っていただいたのであるが,読む,聞く,声に出すなど,総合的な力を身に付けるために演劇というのはとても有効ではないかと思っているので,演劇を教育の中に取り込むということを提案した。そういうふうに,方策の中に,これこれの提案があったということをきちんと述べた上で,さらにその次の段階として,読書の重要性に関してはこういう本を推薦する委員があるということで,構成次第によっては,何も読書だけが強調されるということにはならないと思う。

  「子供たちに読んでもらいたい本」のリストについてであるが,私は是非賛成したいと思う。御存じのように,今,小学校から高等学校まで朝の10分読書指導というのが展開されていて,話を聞くと,既に1万校を超えているそうである。
  問題は,朝の10分というときに,例えば名古屋の大きな本屋に行くと,「朝読推薦図書コーナー」というのがあって,そこに何百冊かの本が置かれている。これは進んでいる地域だなと思ったけれども,東京ではまだ見ていない。そういう本屋に近い地域の学校は良いが,問題は遠い地域,子供が本を簡単に入手できない地域というのが全国に多いわけで,そのためには何かリストがあって,そのリストに載っているものを,例えば先ほど「文庫本中心に」と言われて,私も手に入りやすいという点ではそれがいいと思うが,学校がそれを用意しておく。用意してもらって,そこで読んでいくというようなことはどうかなというふうに思っている。
  というのは,私のかつての高等学校での教え子10人ぐらいと「朝読」について話したら,やっているけれども,本が大変集めにくいと言う。「家にないの?」と子供に聞くと,金魚の飼い方の本があるとかいうようなことを言う。これではいけないわけで,そこで「先生,何かないですか?」ということで自分が持ってくるのだけれども,それも何十人になると対応できないと教え子に言われた。そういう点で,こういう形を採っていただけると,私どもも個人の責任において推薦したいと思うわけである。

  これは,これをおまとめになった事務方というか,是非「リストを」と言われている委員への質問であるが,今回は,まとまらないから個人名のリストを出そうということにして,大きな流れとしては,来年度はもう少しきちんと検討して,分科会としての推薦リストを出したいという流れになってくる,そんなふうに理解してよろしいのか。

  そのように考えているわけではない。これが一応まとまって,その後,来年また御審議いただくわけであるが,その時点で分科会として御検討いただいて,どちらの方向にするかを決定していただく。今の時点で,こうしたいという方向性をお示しするということではなくて,これについての御検討はまた引き続きお願いをしたいということである。その意味ではニュートラルに考えている。

  最後まで個人名を付した任意の形がいいのではないかと私は思う。どの本を勧めるかについて,あと1年ここで議論してもまとまらないと思うので,それに関しては個人が最終的に責任を持つ。ここでの有志というか,それについて積極的な考えを持っている人が,名前付きで最終的にも出すというのが私のイメージである。先ほどの御意見のように,これは対策の中の一つ,「読書力を高める」ということである。先ほど出ていたように「朝読書」は非常に浸透しているけれども,どうしても読む本の程度が低くなっているのは事実であるから,読書力の対策の一つとして,これを個人名を付して出す。私は演劇も興味があるので,演劇のところでも何か,カルタもいいと思っているので,カルタのことも対策の一つに挙げて,そこにアイデアを盛り込むという形で並列していただいて,読書だけを取り立ててというふうに考えているわけでは全くない。

  私は,中間答申にしないで概要にするということを今日初めて聞いたのであるが,何のためにそうするのか全く理解できない。我々は文部科学大臣に諮問されているわけである。だから文部科学大臣に答えればいいので,どうして国民に問わなければいけないのか。そもそもパブリックコメントという言葉はひどい英語だと思う。そういう言葉は使ってほしくない。世論に問う,社会に問う,国民に問うで十分に通じる。
  我々は文部科学大臣に答申して,それを施行する際に,大臣が国民に問うなり社会の反応を知ればいいわけで,これだけ二十何人も集まって,なおかつ国民に問わなければ何一つ諮問に答えられないのか。これが,日本の行政の遅さというか,非常に遅々として進まず,何のためにこの分科会の委員がいるのかと感じている。
  しかも,何か方向が出て,その方向について国民に問うと言うのなら分かるが,何も方向が出ないで,個人的な意見の山積があるだけで,それについて国民に問うというのは,ほとんど信じられない話である。したがって,私はそんなくだらないことで時間をまた2,3か月つぶさないで,2年にわたらず1年半なら1年半で答申を出すように,なるべく早く話を収束させる。今のリストの問題もそうである。
  それから,まだまだ総花的になっているから,国語の本当の中核は何なのか。とにかく今日本は国語が落ちて,本当に政治も経済も何もかも困り果てているわけで,そのような,今までの国語審議会のようなやり方ではなくて,焦眉の急というか,忙しいというか,やはりここで一生懸命考えて,なるべく早く本質的な,しかも総花的でない,本質を指し示すようなものを出す。文部科学大臣も当然それを求めているわけで,総花的なものというのは別にこんな分科会でしなくても,どこででも既に全部出ている意見である。その中で,何がを選択することが,教育においては,国語に限らず一番重要である。その選択をここでする。その選択をまだ全然していないのに,国民に聞くことの必然性というか,必要性というのが全く理解できないということである。

  国民と言ってもいろいろな専門家がいるので,方向が決まった段階で審議経過を出して,御意見などを聞くことは,私は大事だと思う。例えば,新聞関係,マスコミ関係とか,学校の先生とか,別の考えを持っているかもしれない。そういうのを全部総花的に入れるわけではないが,ああ,こういう意見があるのだなということをくみ取っていくことは大切である。我々の意見は正しくないかもしれない,あるいは立場が違うといろいろな考え方があるかもしれない。そういうことは,やはりくみ取っていく必要があるだろうと思う。

  我々は正しい意見を求められているわけではない。我々の意見を求められているのである。正しいことを求められていると言われたら,これはもうえらいことで,数学以外のことで正しいことは何一つ,この世の中のことは証明できない。したがって,我々の意見を求められているわけである。
  それから,専門家は,マスコミは,と言われるけれども,ここに新聞関係も,放送関係も,ほとんどありとあらゆる,国語の専門家もいらっしゃるし,この上何をそれほど慎重にやらなければいけないのか,本当に私には理解できない。

  私がブックリストについてちょっと消極的なのは,それ自体の意義は十分分かった上で申し上げるわけだが,ある出版社が文化審議会のだれだれ先生の御推薦というようなことで,それを商業的に利用することも起こってくるかなということを思ったりするものだから,消極的になってしまうところがあるという気持ちをもう一度お伝えしたい。

  文化審議会の委員が推薦したブックリストとなると,公にされたものは,国民の人たちにお墨付きを与えられたというような印象を持たれる。例えばその本に帯がついて,「文化審議会何々先生推薦の図書」というような形で売り出されるということもあり得るわけである。ブックリストを出すことはいいこととして,そういうことが起きないような出し方というのはあると思う。
  例えば,文化審議会の有志のこれこれ先生はこういうのを出しているけれども,全国のそれぞれの地域のそれぞれの立場の人が,それに成り代わって自分たちでブックリストを作って,そして本を読む運動をしてほしい,飽くまでそのサンプルにしかすぎないというようなことをはっきりと書くことで,妥協点が見付からないだろうかと思う。

(2)「国語の重要性とこれからの時代に求められる国語力について」の議論

  大変簡潔に,また,きちんとまとめられたことに,私は大変敬意を表したい。
  今まで国語と国語力ということでずっと議論してきたが,よく考えてみると,「国語力」という言葉は,割と最近聞く言葉で,今までにはなかった言葉であろうと思う。また,すべての国語にかかわる問題を「国語力」という言葉一つで代替しようとしているところがあるので,これからの審議及び議論に当たって,もう少しその辺りをきちっと認識する必要があるのではないかと感じている。
  国語が,今回おまとめになったとおり,考える力,理性と感性と両方に分けられたことは大変すばらしいことだと思う。ここから敷衍していくと,国語力というのは,認識する力であり,また,伝達する力であり,表現する力というふうになる思うが,それをすべて「国語力」という言葉でくくってしまうと,話が分かりにくくなるので,「国語力」と言わず,例えば「国語能力」,又は「認識能力」とか,審議の中だけでも,その辺りをきちんとしていかなければいけないのではないか。それから,国語の中で,読むこと及び感じること,知ることによって教養が付くということだが,もちろん,教養は国語一つでできるものではない。だから,国語という言葉だけにこだわらず,例えば,理性の能力は「認識及び思考能力」,そして,それを表現するのは「言語能力」というようにもう少しきちんと整理していきたいと個人的には考えている。
  また,語彙や論理が国語によってのみ身に付けることが可能であるという言葉もあるが,ここは表現として,国語で表現されたものによって,こういうものが身に付くのであって,国語だけで,つまり教育課程における国語の中だけで考えるのではいけないのではないかというふうに思っている。そこで,前にも提案していたように,国語を今までの古典及び現代文学を通じて理解していくだけではなく,もっと科学も哲学も歴史もすべて入れた形でやっていかないと入り切らないと思う。この辺は,後の第3章の方にいくのではないかと思うが,分科会の中でも,「国語」と言うときにどこまで意識して言っているのかを整理していければと考えている。

  これまでのいろいろな御意見が漏れなく組み込まれていて,しかも構造的に集約されてきたというところでは,この分科会の進路についての御意見はいろいろあったのかもしれないが,手順とか方向性については進んできたなという感じがすごく個人的にはしている。分科会でお話をしながら,どこでまとめてくださるかというところで,その労をお取りくださった方が事務局プラス委員の先生方でいらしたということで,私は今日初めて知ったのであるが,改めてお礼を申し上げたいと思う。
  それで,「国語力」の構造(モデル)が多分一番核になってくるところだと思うが,これについて少し気が付いたことを申し上げたい。一つは,感性という言葉が両方に含まれている,感じる力という部分と基礎となるものに影響する部分という形で。この扱いをどうしていくかということが,この構造のモデルの整合性を考えていく上で重要になってくると思うので,皆さんに御意見を伺いたいということが一つ。
  それから,三つの関係,つまり受信されて「考える力」「感じる力」「表す力」の一くくりと,波線で書かれた一くくりの中に更に二つあるが,もしかすると,生涯を通じて形成されていく教養とか知識とか感性というのは,この中で,ある面で参考関係のように互いに影響し合いながら循環していくものであるという可能性もある。これだと,生涯を通じて形成されていく教養と知識の中だけでのやり取りという形になっているので,この部分のモデルを外枠で出した方が国語力を改めて定義付けて語っていく上で,理解しやすくなるのではないかというのが個人的な感想である。
  もう一つ,「感じる力」というところであるが,それが感性と感じる力を分ける一つの窓口になるかなと思って申し上げるのであるけれども,要するに,この「感じる力」は非言語情報をも含むというふうになっている。そうすると,非言語的な情報というのを我々人間が最初にどうやってキャッチするかというと,知覚なり五感である。目を通して入ってきたり,肌で感じたり,耳で感じたり,そういうノンバーバルな情報(自己が体験するすべての体験)を言語化して翻訳する能力がとても大事になる。つまり,痛みを感じたときに,これはどんな痛みなのかを言語で翻訳することによって,その人の体験の豊かさが違ってくるので,個人の体験を言語で翻訳する力が「感じる力」の中でとても大事なのではないかなと思ったということである。

  なかなか面白いまとめ方だと思うが,ずっと読んでいくと,「国語」という言葉は,単なる言葉,あるいは単なる言語と読み替えることが可能な部分がかなりある。もう一方で,これはどうしても単なる言語,言葉とは解釈できなくて,日本語固有のものというか,日本語を前面に押し出している。多分この二つのものがあって,混然としているというか,整理されていない。
  例えば,最初の「個人にとっての国語」は,「個人にとっての言葉」あるいは「個人にとっての言語」ということで置き替えた方が多分分かりやすい。あえて「国語」という意味合いはないのではないかと私は思っている。ところが,一方で例えば「感性・情緒等の基盤」は,言葉・言語でもできるが,ここに突然「日本人のアイデンティティーの根幹」という,今,日本人のアイデンティティーとか,ここに書いている祖国愛,郷土愛というのは,文部科学省の審議会ではどうもはやりの言葉のようで,私ははやりの歌を歌っているような気がしている。中央教育審議会でも同じように,言葉は違うが,祖国愛とか郷土愛,日本人としてのアイデンティティーという言葉が出てくるが,これが非常に唐突に出てくる。そこは単なる言葉,言語というふうに読んでいると,突然,いや,これは単なる言語,言葉ではない,日本語としてのもっと違う意味があるというふうなことになる。そうすると,読んでいて非常に違和感があって,「感性・情緒等の基盤」はいいが,そこになぜ「日本人のアイデンティティーの根幹」というものが出てくるのか,ここは起草者側のきちんとした説明が必要だと思う。なぜ,ここに「日本人のアイデンティティー」が出てこなければいけないのか。
  それから,そこにある「勇気,誠実,礼節,愛,正義,信義,卑怯を憎む心」は,私はすべて賛成ではあるが,しかも「武士道精神,祖国愛,郷土愛」というのも賛成ではあるが,なぜ「国語力」のところで言語としての言葉を語っているときに,突然こういうものが出てこざるを得ないのか。例えば,「武士道精神」というのは,「情緒が形になって現れたものである」とあるが,これも是非起草者の説明をお伺いしたい。なぜ,「武士道精神」というのが現在あって,それが情緒が形になって現れてきているのか,あるいは祖国愛とか郷土愛がそうなのかということは,相当説明が必要だと思う。「これらも文学を通して教えることができる」というのは,一体どういう文学で教えるのか。宮本武蔵の『五輪書』で教えるのか。突然,武士道精神,祖国愛,郷土愛を文学で教えるというのはいかがなものか。しかも,文学というのは,必ずしも勇気,誠実,礼節,愛,正義,信義,卑怯を憎む心,武士道精神,祖国愛,郷土愛だけではなくて,さっきの推薦本のリストもあるが,やはり人間の暗い面とか,社会の矛盾とか,人間の悪の面とか,そういうことも多くの人は文学から教えられている。こういう書き方をすると,非常に一面的ではなかろうか。
  引き続いて言えば,その下の方に「母語としてのプライド」と,さらに「「日本人としてのアイデンティティー」を確立することが必要であり」というのも入れるならば,なぜこういうものが入ってくるのか,入る必然性があるのかということは,きちんとした説明が必要である。したがって,いろんな議論をまとめられたことは大変だろうと思うが,言葉,言語という意味合いと日本語固有のものというか,そこの部分が非常に未整理のまま置かれているというふうに思っている。さらに言うと,もう一つよく分からないのは,「国際社会の中で,日本語を使用したコミュニケーションが,今後多くなることも予想される」。これも突然出てくるが,むしろ英語の方が使われていて,日本語としてのコミュニケーションが今後多くなるというのは一体どういう意味なのか。こういうところも,とりわけ日本,日本語,あるいは日本人というものを前面に押し出してきたときに,論理的破綻があるとまでは言わないが,論理が飛んでいて,なかなか理解しがたい。それから,これも議論した方がいいと思うが,「社会全体にとっての国語」は必要なことであるが,「文化を継承し」というふうに簡単に書かれている。一体ここで考えている文化というのは何なのかということも一つ考えた方がよかろう。
  それから,飛んで申し訳ないが,「国語は,長期的な展望や大局観を形成する基盤となる」。もちろん私もそうだと思うが,「局所的,短期的な考えは理性や論理等により対応できるかもしれないが,大局的,長期的判断は,一見役立たずな教養を身に付けることでしか対応できない」とあるが,やはり論理が必要であって,単なる一見役立たずな教養だけで果たしてできるのか。この辺も余り論理的思考がなっていないというか,分かりにくいという感じがしてならない。以上,取りあえず問題提起をしたいと思う。

  確かに細かいところはおっしゃるとおりであるが,この案は,国語を真ん中に置き過ぎて,国語で何でもやるようなとらえ方があるかと思う。特に,日本人の子供にとっては,言葉の中核は国語,もっと極端に言えば,言葉と言ったら国語だということがあるかもしれないが,言葉全体の問題と日本の言葉という辺りは整理した形で,それを頭に置いて書く必要があろうかと考えている。
  もう一つは,言葉で何でもできるというか,感性や情緒などは,文学や詩歌を読むことでできるという記述も,芸術鑑賞辺りとどういう関係になるのか。国語だけが中心になるようなとらえ方をすると,間違いになってくるということがあるので,国語の位置付けを全体との関係の中で,どうとらえるかということが大事であろう。

  私は,総体的に,これは非常によくできていると感心した。先ほどは徹底的に文化庁をけなしたけれども,今回は非常に感心した。確かに舌足らずなところやオーバーラップしているようなところがあるけれども,これまでの意見の本質をよく抜き書きしていただいたと思っている。
  それから,最初のページの「国語」は,「言語」では全く問題にもならない。「国語」にしないといけない。これは「母国語」という意味での国語である。ここに書いてあることは,アメリカ人にも,中国人にも,韓国人にも,そのまま当てはまる。「母国語」という意味での「国語」である。例えば,日本人にとっての英語というのは,このページのほとんどどれにも関係しない。母国語でないといけないわけで,そういう意味で,これを「言語」などとしたら,とんでもないことになる。
  次ページの「武士道精神」は確かに消した方がいい。なぜなら,書く必要がないからである。つまり,その前に書いてあることがほとんど全部武士道精神の中核である。勇気,誠実,礼節,愛,正義,信義,卑怯を憎む心,あとは例えば惻隠の情とか,他人の不幸に対する敏感さとか,名誉とか,恥とか,それでほとんどすべてである。武士道と言うと,とかく誤解を受けやすいから,これは消した方がいいと思う。
  先ほどの論理だけでは駄目だというのは,私の確信であって,例えば最近の政治・経済すべてが全面的に後退ぎみであるというのは,やはり論理がちょっと支配し過ぎているからである。特にアメリカニズムで,論理で割り切る,合理で割り切る,理性のみに従う。もちろんそういうものは非常に大切なものであるが,それだけではうまくいかないというのが現在の世界の現状なわけである。したがって,どうしてもこれは情緒力とか,そういうものを取り混ぜる必要がある。例えば,さっき言った他人の不幸に対する敏感さというものがあるかないかで政策の取り方すら全部違ってくる。論理的に幾ら良くても,そういう気持ちがあるかどうか,あるいはもののあはれがあるかどうか,そういうことによって全然違ってくる。そういうものは大局観とか長期的視野を作る上でどうしても必要である。それは,やはり文学とか,芸術とか,思想とか,歴史とか,一見役に立たないような教養,そういうものの裏付けによる。したがって,中教審でも教養というものをきちんと打ち出してきているわけである。
  日本人が最近長期的視野を忘れて対症療法に走っているのは,どうしても論理に頼るからで,論理というのは対症療法以外にできない。これも世界中の人が間違っているから,はっきりさせておかないといけない。なぜならば,最も人間にとって大切なことのほとんどは論理で説明できないということである。人を殺してはいけないということすら論理的には全く説明不能で,駄目だから駄目だというわけである。そのように論理ではカバーしていない。
  特に,今,対症療法と言ったけれども,論理,合理でやると,必ず対症療法になるというのは,論理というのは長くなれないからである。というのは,数学では世界はすべて黒と白しかない。例えば三角形の内角の和は180度と言うと,これは100万年後も100万年前も正しい。絶対に正しい。真っ白である。しかし,1+1が3と言ったら,真っ黒黒の黒なわけで,何億年後,地球が爆発しても黒なわけである。しかし,世の中には白と黒は一切ない。例えば人を殺すことは黒に非常に近い灰色であるが,灰色なのである。灰色というのは,数学的に言うと,確率的に0.幾つなのである。全く正しい白が1,真っ黒が0だというふうに計算する。例えば論理が長くなると,灰色の論理がどんどんつながって,「風が吹けば桶屋がもうかる」で,0.何×0.何×0.何×0.何,長くなると全体がほとんど信憑性を失ってしまう。本能的に長い論理というものに対して人間は警戒感を持っているわけである。したがって,すべて短い論理である。
  例えば,国際化だから小学校から英語を教える,情報化だから小学校からパソコンを教える,今行われている論理はほとんど一本の論理である。たった一本,ワンステップの論理で,こういうのはすべて深くなり得ないわけである。論理は重ねることによって初めて深くなる。そういう意味で,論理や合理に頼る以上は,さっき言ったとおり,風が吹いて桶屋がもうかった例がほとんどないのと同じように,話の信頼度が非常に低くなってしまうわけである。現在,日本だけでなくて世界が,産業革命以来,論理,合理,理性に傾き過ぎているから,これに対して一つ,それは非常に大事だけれども,それだけでは駄目なんだということをここで言っているわけである。そういう意味で,非常に良くできたまとめ方である。ただ,細部にわたっては今後随分詰めないといけない。
  私は,答申の第1,2章はほとんどこういう形だろうなと思ったが,この分科会の問題は3章以降の具体策である。これを受けて,第3章以降が非常に大切だと考える。

  この資料を事前にいただいて,ちょっと読んだ感じでは,うまくまとまってきているなというところである。もちろん,今御指摘のような問題があるだろうと思うが。
  私なりに,これは議論しておかなければいけないと思うことを述べたい。基本的に,歴史的な背景があって,国語が作り上げられてきているのだろうと思うが,歴史的な背景というと,例えばイギリスの例で言えば,大学入試にラテン語をどう組み合わせるかが非常に大きな議論になっている。今盛んにもめているけれども,大学教育が学校教育に非常に大きな影響を及ぼすという点では,全く同じだと思うが,ここで申し上げたいことは,イギリスの考え方はラテン語を外すという方向に行っていることである。
  日本の場合は,歴史的な視点から見て,日本語,国語という形で考えた場合に,国語が形成されてきた歴史をどういうふうに重点を置いて案分するか。これは国際化という問題が今あって,余りにもそれにかかわっていると,現在の流れに対応できなくなる面が出てくる。具体的に言うと,今の学生・生徒は,どちらかと言うと日本語よりも英語の方を大事にしているという面がはっきり出ている。英語ができる子が尊敬されるというか,日本語がうまくしゃべれるとか,きれいな日本語が話せるとか,そういうことが尊敬されているという風景ではないわけである。
  これからの時代を考えると,日本では,確実に英語に非常に重みを置いた形で言語生活が作られていくのかなというふうに感じるが,その際,国語という日本語―言葉を分けるのが意味があるのかどうか,よく分からないが―,従来の考え方で言えば国語ということであろうから,そこをどういうふうに位置付けるか。普通に生活している人たちは,この分科会の答申について,特にこれからという切り口で考えた場合は,そのことは指摘しておかなければいけないのではないか。よく書かれているように,「両方大事だけれども」という言い方ではなくて,ラテン語を外したというぐらいのことをやったイギリスに見習って,これからはこうだということがもし議論としてまとめられれば,大変意味のあることになる。それが外れた場合には恥をかくわけであるが,その辺のところまで議論が詰められるかどうか。今,御指摘になった問題点は,結局はそこに非常にかかわっているような気がしている。
  日本人の共通の欠点というのは,歴史的な背景というか,歴史的なバランス感覚みたいなものがなかなか持てないことである。それは本当に今までの私たちの行動でよく分かるが,そこを国語の問題にどう反映させられるかという視点に言及できると,非常に参考になる答申になるのではないかなと感じている。

  ただ今の御意見と関係があるが,2の「これからの時代」と謳うからには,これまでとどう違うのかということを言語状況も含めて明確にしなくてはいけないということを感じる。今おっしゃったように,英語の重要性が強調されているが,外国語を学ぶ上でも母国語がしっかりしていないと駄目なのだとか,そういうことも含めて,これからを言うなら,これまでと違う状況が出来していることをはっきり言っておく必要がある。
  それから,「国語」という言葉に関しては,先ほどの御意見のように,この文章の早いところで,「母国語」という言葉を是非押さえておきたいと思っている。

  1点は,どなたかのお話の中に出てきたが,「国語力」という言葉はここで作られた言葉ではなくて,国語教育の方では,かなり以前から使っている言葉だということである。私が見たものでは昭和55年の『国語学大辞典』の中で野地潤家先生が「国語力」という言葉を使っているので,25年ぐらい前の文献の中にも出てきている。
  2番目は,「国語」という言葉は,確かに母国語というような気持ちで使ったり,世界の様々な諸言語の中の一言語である日本語という気持ちで使ったり,人によっては国家語というような意味合いで使ったり,国民の言語という意味合いで使ったり,いろいろであるので,あいまいであるかなと思うが,ある程度整理できるならば「言語」という言葉を使ってみたり,易しく「言葉」という言葉を使ってみたり,工夫することはできるだろうと思っている。
  3番目は私の意見であるが,「コミュニケーション能力の基盤を成す」というところで,コミュニケーションであるから,学習指導要領で使っている「伝え合い」,それから「言語運用能力」,世間で言われる「人間関係形成能力」とか,「プレゼンテーション能力」とか,いろいろな言い方をして説明されているけれども,もう一つ,○の三つ目というか,一つ目に来るのか,言葉を運用していくときの一番基本にあるのは,人間関係形成能力の更に根底にある人間性ではないかというような気がしている。それで,それを言い換えてみると,基本的人権尊重の精神というか,それに基づいて言語を運用していく能力が最も人間として大事であると思うので,そういう1項目があってもいいのかなと考えている。学校教育の方では,二十数年来,知・徳・体というような言い方などをしてきている徳の問題であるが,人間性,徳性,あるいは社会性,倫理観,いろいろな言葉で言えるかと思うが,基本的人権尊重の精神を基にして言語を発するということがコミュニケーション能力の基盤ではないかと私は考えている。

  今のお話とも少し関係するけれども,「コミュニケーション能力の基盤を成す」というところにある「伝え合い」の中には,察し合うということも含まれると思う。最近,よく周りの人が「何々さんは日本語が通じないのね」という話をしているが,それは言葉に表れていない部分の思いを察することができないということである。自分のことを伝えようとする努力はするが,相手が何を言わんとしているか,言外にある,表面に出てこない言葉をくみ取ることが非常にできなくなっている。俳句で言えば,17文字の後ろに響いているものを読む力,受け取る力がなくなっている気がする。是非「伝え合い」の中に,受け取る方の言語運用能力ということをもう少し強調していただきたい。
  もう一つ,美しいものに感動する心は,文学や詩歌等を読むことを通して育成されるというところである。私は,たまたま今年からある大学の国文学のゼミを聴講させていただいているのであるが,今の学生の発表を聞いていると,語彙とか,文法とか,表記とか,そういうことには本当に詳しく,ある一つの歌を掘り下げて研究していくのに,重箱の隅をつつくような研究はすごくよくできる。けれども,歌の作者は何にこんなに感動したのかというところに立ち返っている人がすごく少ないことに大変驚いている。読み取る力と,それを体感することはすごく大事だと思う。歌ができたときには,そこに風が吹いていて,花が香っていてという,体感しての感動が基になって作者が歌なり文学なりを作っている。そこを無視して,言葉だけの研究に走ってしまっているような気がする。非常に観念的に詩歌を解釈して,観念的な鑑賞に終わっている。もっと体感をして感じていく。一つの歌を研究していくのに,現場に一度も足を運ばないで,歌がはぐくまれた現場に一度も足を運ばないで歌の解釈をしている人が余りにも多い。それは私は実作者の立場から非常に危険なことだと思う。言葉に対して,あるいは作品に対しての敬意というものも教育の中で是非はぐくんでいただきたい。

  「これからの時代に求められる国語力」の総論のところで,言語情報に非言語情報も含むという表現がなされているが,非言語情報ということになると,私どもは情報分野の人間なので,絵とか,グラフィックスとか,そういうものを連想する。私は,ここでの議論の対象は,感情とか,考えること,そういうものを含めて,最終的には「言葉」というふうに集約されたというか,そこまでブレークダウンしたところでのことを議論しているとしたら,非言語情報も含むということをあえてここで明記する必要があるのかどうかということに関しては,ちょっと疑問に思う。
  それから,この図の書き方で,いわゆる発信して話す・書くということで一方の言語情報に行くのであるが,それがまた受信者側に伝わって,そこで一つのサイクルができる。こういうことがうまく行けば,日本語が有効にというか,うまく使われていくというようなことで,これだと片一方と片一方が全然つながりがないように思われるので,そこにサイクルが起こっているということを何か表していただけるといいと思う。
  それと,従来の審議会でいろいろ議論されていたこととこの分科会で議論していることがどこで差異があるかということを明確にする上では,「これからの時代に求められる国語力」というところで,先ほどおっしゃったように,従来と違って,今後の国語力はどう違うかということを明確にすることによって,我々にとって一番大事な方策を求めるところにうまくつなげることが大事である。多分,求められるところは方策のところで,朝読とか,10分間読書運動とか,そういう国民的な意味で本当に国語力をいかに増すかという成功ストーリーをこの分科会からどう出せるかというところが,最終的に一番大事なことだと思う。

  大変きれいにまとめていただいたが,冒頭でも,国語力とは何かという定義が必要ではないかという意見が出ていたので,その件について申し上げたい。
  国語力とは,先ほどの御意見のように,母語,母国語のことを言うとなると,これはとても大事な基本的人権の観点から,日本中いろいろな人がいて,地域ごとに言葉も違うし,また外国人もいるということで,その人たちすべてに平等な国語力という定義がなされなければならない。この文章の中で,方言というのが取って付けたように何度か出てくるが,地域によって言葉が違う。それぞれの地域で母語があるという認識,バリエーションがあるという認識の下に「国語力」を定義していくと,一人一人を大事にすることになる。そして,その人の感性も地域のバリエーションの中ではぐくまれると言える。何も言わないでいると,文部科学省の出すものは,昔からの影響もあるので,共通語のことを言わずもがなにみんな思ってしまうので,そういう誤解のないような扱いがとても大事であると思う。
  ついでに申し上げると,文化審議会でも語っているが,アイヌの言葉や文化,沖縄の文化や琉球の言葉,そういったものは,世界的なレベルで見ると,今,科学研究費特定領域研究で危機に瀕した言語の環太平洋地域の調査のための大きなプロジェクトも走っているし,ユネスコに提言する国際会議が今週のウィークエンドに京都の国際会議場であるが,そういう中で見ていく必要がある。このまま放っておけば,言語のバリエーションが,今6000あるが,この21世紀の間にはほとんどなくなってしまう。何百というレベルまで落ちてしまう。そういう危機感の下に,バリエーションを大事にしなければいけないということが今述べた提言などに謳われているが,国語を語るときに足元からそこに目を配る必要があるのではないかと思っている。

  先ほどの「相手の基本的な人権を尊重する」という文言を入れたいという御意見に,私も全く同感である。そういう意味で言うと,一つは,こういう言葉を付け加えたらどうかということであるが,「考える力」のところにある「自らが置かれている状況を的確にとらえる能力でもある」というところに,同時に,相手の立場を尊重するとか,相手の置かれている状況を理解するとか,そういう言葉を入れたらどうか。そうすれば,自らだけではなくて,相手についてもということがはっきり分かると思う。
  もう一つ,それとのかかわりもあるが,「国語力の中核としての考える力,感じる力,表す力等」の中で,二つ目の感じる力の中に,想像力が入っているが,これについてはどうか。私はむしろ考える力,相手の置かれた立場等を想像する,言葉から更にそれを広げて考えるということ等から判断すると,考える力の方にも入るのか,あるいは考える力の方に入れる方がいいのかなと思っているが,この辺,もしお考えがあってのことであれば教えていただきたい。

  「これからの時代に求められる国語力」のことであるが,資料のモデル図を拝見すると,言葉に求められる力が非常に明快に書いてあるので,分かりやすいのであるけれども,これはいつの時代も変わらず求められ,非常に普遍的な大切なことが書いてある。ただし,もうちょっと具体性が欲しい。そういう意味では,重複するかもしれないが,前の「新しい時代の変化に対応する上での国語」の項目をかなり整理して,これからの時代をどのように認識しているかということで,この図に入れてまとめたらどうか。
  また,国際化,情報化というのはいつも言われることであるが,是非入れていただきたいと思うのは,家族とか家庭の形が昔とはすっかり変わってきて,家庭の中での言語教育能力が失われている今の時代に,私たちは何をすべきか,より良い社会を形成する上で個人がどう生きるべきか,社会に対してきちんと発言していける人間を育成していくためにはどうすればいいのかといったようなことを,このすばらしいまとめの後ろに付け加えていただいたらどうだろうかと考えている。

  図は二つ作ってもいいのかもしれない。言葉についての構造のとらえ方で,これからの時代に求められる国語力はどういう点を重視するようなものでなければいけないかというようなものを「入れ込んだ図」と「現在の図」の二つである。情報化,国際化もあるが,以前,国語審議会で都市化という言葉を使ったのであるけれども,都市化という言葉が適切かどうかは分からないが,国語を考えるときに,国際化の前に都市化という変化をとらえることが大事ではないか。

  この資料を読んで,取りあえずのたたき台はできたなというふうにお送りいただいた時に思った。ただ,全体の構成とか文体,スタイルはこれを倣って,もうちょっとここのところは書き込んでほしいなとか,ここのところはこの言葉を使うのは今回はやめた方がいいんじゃないかとかいうふうに感じたところが大分あった。皆さんが,今それを個別に言っているが,あと3回で間に合うかどうか。もし時間があれば,これをたたき台にして,短く,ここのところはこういう言葉を付け加えた方がいいとか,意見表明というか,アンケートをもう一度書くような機会がいただければ,私も何行か,ここはこういうことを書いた方がいいと言えるかなと思っているところである。

  私も最後の方で,そんな形でお願いしようかと思っていた。次の回には第3章も議論しなければいけないし,ちょっと発言し切れないところがあるだろうと思う。

  今日ずっとお話ししながら,アイデンティティーという言葉が突如出てくるということがやはり非常に気になって,いろいろ考えていた。それで一つあるのは,この資料の本文の中で,国際化という言葉が使われているが,例えば,国と国の文化なり国家制度なりがきちんとしていて,国家間で交流するという時代を今超えてしまって,統合,グローバル化ということになっている。つまり,自分たちが意識して自分たちのことを主張しなければ,日本はどういう国なのかということを主張しなければ,自動的に大きな波に統合されて,小さいものはなくなる危険がある。そういう統合される側に我々がなる危険もあるということで,そこが今の時代の一番大事なところである。自分たちが飲み込まれるものに対して反統合で闘えばいいんだということではなくて,むしろこういうふうに意識しなければ吸い込まれてしまう部分がある。それでもいいのかというところで,国語がとても大事になってくるという認識が必要だということと,それがきちんとした上で,外国について学んでみるとか,世界の人とやり取りをするとか,そういうことが大事になってくるのだということで,時代に求められる国語力というのは,今まで求められてきた国語力を付けるために大切だったものが一層強く大事になっているのだという認識が一つと,新しいものを付加するということの2本立てなのだと思う。
  この資料に書かれているオールマイティーな大事さというか,それをあえて書くことが大事だということも,このまとめの中に含めていただく価値があると考えている。

  先ほど,想像力を「考える力」の方にという御意見があったので,私が思っていることをお話ししたい。どういう概念でこの言葉をここに入れてあるかということである。
  「考える力」というのは,括弧の中に「分析力」,「論理構築力」とあるように,私の説明の仕方で言うと,根拠や理由を明確に挙げて考えていくというか,科学性,客観性の傾きが強いものと思っている。「感じる力」の中に想像力を入れたのは,感性とか情緒力というのと一緒で,こちらはどちらかと言うと,個人の主体的な,主情的な,それこそ情緒的なということになるが,そういう個人が感じたり思ったりするということで,つまり,自由奔放に自分の頭の中,心に浮かんだところを繰り広げていくということで,想像力がこちらに入っている。主観的,情緒的ということなので,こちらに入っているというふうに整理していると見たらよろしいのではないか。
  想像力を「考える力」へとおっしゃったのも,一つの整理の仕方としてはあり得るとは思うが,ここではそういうような一つの考え方,概念の与え方で,「感じる力」の方に想像力が入っているというふうに考えていいのではないかと私は思っている。

  それに関しての提案であるが,想像力というのは,私はある意味で考える力,感じる力,表す力以上に大事なこと,少なくとも同等に大事なことではないかと思っている。考えたり,感じたり,表すのは,多分うちの猫でもやっていると思うが,想像するのはやはり人間だけで,先ほどから,惻隠の情や察し合う心が大事だというのもあったけれども,その基になるのはやはり想像する力だと思うので,むしろ考える力,感じる力,想像する力,表す力という4本立てにすることを提案する。

  今のお話と少しダブるかもしれないが,考える力というのは「何」に属すること,感じる力に入っている中身もどうやら「何」に属することのようだと思う。ただ,最初にこの図を拝見した時に,感じるという言葉から,これは「どう」の方に入るのかなと思ったが,明らかに表す力は「どう」に入る。だから,このカテゴリーは一つ穴が開いていて,もし仮に「考える」と「感じる」のところが「何」に属するのであれば,「どう」に属する方に「受け止める力」と「表す力」と両方要るのではないか。先ほどの御意見にあったお話は,その部分のところを指摘なさったのだと思う。
  それで,今話題になった想像力というのは,その意味では,「表す力」に入れるか,新しく立てた方が全体としては整合性がとれるのではないか。図の「感じる」という言葉は,本文の中で使っている感性とか,情緒力とか,そういった言葉の方が,中身をきちんと表していると私は思っている。

  このまとめを読んで感心した。非常によくポイントを突いている。中教審の論議もそうだったが,こうやってきちんと字に直すと本質が浮かび上がってくる。正に活字文化に頼る以外にないというところに思いをいたした。
  基本的にいい方向が示されているし,主張も出てきているし,その主張がなぜ出てきたかという背景も読み取れると思う。先ほどの御意見のように,これをたたき台にして作業を進めればいいのではないか。ここに関しては,こうだという意見がいろいろあると思うが,それを個々に出し合うのではなくて,みんながFAXでもいいし,メールでもいいし,持ち寄って,それをもう一遍事務局の方でまとめていただくと,作業が深まるなというふうに思っている。
  私個人としては,いまだ考え付かないけれども,全体を貫く一つのキーワードが「アイデンティティー」だと思う。キーワードと片仮名で言うのもしゃくに障るが,この核となる言葉を片仮名で言うのがまたどうにも気になるし,気に食わない。アイデンティティーという言葉は,様々な解釈があるし,日本語にもいろいろ訳されている。エマーソンの本を読んでも分かったような分からんような気もするが,片仮名で表すことが何か誤魔化している感じもする。これをもう一度日本語としてぴたりと言い表せないものか,その辺を知恵を絞っていけないものかと思っている。

  私は「日本人のアイデンティティー」について,これが唐突でない形でここで提案できるような形に文章を持っていきたいと思っている。
  今,「アイデンティティー」の日本語訳の話をされて,この分科会の中にも実は国立国語研究所の外来語委員会の委員の方が何人かいらっしゃるが,「アイデンティティー」は今度提案する語に入っている。例えば「日本人としてのアイデンティティー」というのを外務省の平成14年度の白書では,「社会的・文化的同一性」という言葉で言い表している。これをもっといい言葉にできないかというのが私ども委員会の務めで,12月25日にまとめ上げてと今思っているわけである。言い換えは別として,とにかく日本人としてのアイデンティティーというのが今取り上げている国語力の追求で言うと,大変重要な課題であるというふうに私は思っている。

  「これからの時代に求められる日本語力」ということで内容が出ているが,よく読んで,よく考えてみると,これは今までにも到達していなければいけない当然のことではないかというふうに感じる。それがまだきちんと確立していないというところで,まだ不備なところを追い掛けている状況ではないか。これからの時代に求められる国語力,また理解力,理念構築力,表現力というものについては,もっと違ったものを本当は入れるべきではないか。内容については,これからいろいろ個々の委員のインプットというものも入れて,事務局の方でおまとめいただくことになると思うが,これについて,もっとしっかりとした考えをみんなで持ち寄らなければいけないのではないか。
  今までは,どういうものを含みたいという希望的な,期待される国語力を作ってきたわけで,その中にアイデンティティーも入っているけれども,膨らませることばかりやっていると,実際,どれが一番大事なもので,不可欠なものであるかというところが分かりにくいと思うので,できれば本当に必要になってくるもの,例えば国際化,情報化,また都市化という中で,何を自分が表現として,伝達として持っていなければいけないのかという,その辺の認識とか,何を説得したいのか,どういう情報をみんなに伝えたいのか,その辺りがまだ掘り下げ不足ではないかなというふうに感じている。

  この原案を拝見して思ったことの一つが,最初に話題になった教材の問題,そことの距離が余りにも遠い。これを何とかしなければならない。いろいろな事情で最初に出てきた積極的に教材を出すというやり方は,新しい行き方だと思う。日本社会がどれだけそれを受け入れるか。公平性などを前提にすると,非常につらい面がある。しかし,やれる可能性は探らねば前へ進まないので,その方向と結び付けるような何らかの手当てをこの本文の中にちょっと入れて,少しでも建設的な方向で結果が出たらいいなと思っている。面倒な仕事であるけれども,その方向でやっていただけると有り難い。

  ここにもし読書リストを入れるとなると,何かしら「読書する力」の重要性というのをもっと強く1か所入れていただきたい。そのときに,資料として,高校生で月1冊も読まない者が67%もいるということをここで大々的に知らせてほしい。国際比較においても,圧倒的に読書をしない国なんだという認識を徹底的にパブリシティーして広める。これは実際に危機である。67%というのは異常な数字で,高校生は月平均の冊数も1.1冊なわけである。これでは駄目だろうというところに持っていきたい。

(文化庁文化部国語課)

ページの先頭へ