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国語分科会

2002/07/24 議事録
文化審議会国語分科会第6回議事要旨


文化審議会国語分科会第6回議事要旨

平成14年7月24日(水)
午後2時〜4時30分
東海大学校友会館「富士の間」

〔出席者〕
  (委員) 北原分科会長,阿,阿刀田,井出,臼井,内館,沖山,甲斐,工藤,小林,舘野,手納,松岡,水谷各委員(計14名)
  (文部科学省・文化庁)   河合文化庁長官,銭谷文化庁次長,遠藤文化部長,山国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕
  1  文化審議会国語分科会(第5回)議事要旨(案)
  2  文化審議会国語分科会(第1〜5回)における主な意見  ―事項別整理―
  3  意見発表者紹介

〔経過概要〕
  1  事務局から,配布資料の確認及び簡単な説明があった。
  2  前回の議事要旨について確認した。
  3  永崎一則氏(話力総合研究所所長)から,諮問内容についての意見発表があり,その後,委員との間で意見交換が行われた。
  4  犬飼明子氏(こどもと本―おかやま―代表)から,諮問内容についての意見発表があり,その後,委員との間で意見交換が行われた。
  5  上記3及び4の終了後,自由討議を行った。
  6  次回の分科会は,前回確認したとおり,9月中に開催することが再確認された。具体的な日時は,事務局で日程調整した上で,改めて各委員に連絡することとなった。
  7  次回は,これまでの6回の国語分科会で出された意見と,各委員から8月10日までに送付していただくことになっている意見の両方を,事務局で整理し,それに基づいて検討することが確認された。
  8  本分科会での意見の要旨は次のとおりである。

(1)永崎一則氏の意見の要旨
  今日は,国語力について私の考えを申し上げたい。その中で「話す・聴く」という問題,それから,できたら学校の先生方に対する提案をしたいと考えている。個人差があるので,一概に言えないけれども,私のところのインストラクターの試験で,一番落ちる確率の高いのが学校の先生方である。
  ところで文化庁では「国語力=話す力,聴く力」としているようだが,私の場合は,「話力」という言い方で,その話力とは,話すことによって相手に与える影響力,ワード・ファクト・リレーションであると考えている。既存の科学であれば,ワード・ワード・リレーション,これは言葉と言葉の一貫性を研究する言語学である。それから,ファクト・ファクト・リレーション,これはサイエンスの世界で事実と事実の相関関係を研究する。私の場合は,ワード・ファクト・リレーションと言うが,言葉によって相手がどんな影響を受け,どのような行動を起こし,どのような価値付けをするかの関係を調べて,それでは逆に,話すときにはどうしたらいいのかという考え方をする。
  指導をする場合でも,全体的な体系が分からないために,ただ漠然と,「君の話は下手だね」とか,「何とかならないか」とか,簡単におっしゃるけれども,ではどうすればいいのかということは案外分かっていらっしゃらないのではないか。あるいは,そのことについて注目していらっしゃらないような傾向があるのではないかという気がしている。
  私どもの場合,話力というのは三つの要素から成り立っていると考えている。これは字引にはないが,まず「心格力」といって,同じ言葉を使っても,その人によって影響力が違うということがある。一言で言えば,その人の心のレベルみたいなものだと考えている。同じことを話しても,その人の内面が必ず出てくる。だから,言葉には温度がつきまとうと私は考えている。その人の心の温度であろう。それから,重みを感じさせる。調子がいいなと思う話もあれば,なるほどなと重厚感を持った話もある。さらに,色彩を感じさせる。これは,やろうという気持ちにさせたり,もう駄目だと思わせたりする。言葉には,その三つの要素があると考えている。最終的には,話の味はその人の味であろうと考えているわけである。だから,話し手が変わらなければ話は変わらない。最終的には人間そのものの問題であろうと考えている。
  人が良くて,お人好しで,職場などでリーダーシップを発揮しない人もいるが,どこに問題があるかというと,まず内容力に問題がある。語彙が豊富じゃないというのもあろうし,どういう表現をしたらいいのか,どのような配列で話したらいいのかが分からないということもあろう。そういった意味では,どんな配列で話すかが大切である。しかも,話というのは,後で申し上げるが,相手が効果の決定をするので,それに合った言い方をしなければならない。残念ながらと言うか,話は,誠実な人が嫌われる場合もある。事実を話していながら誤解をされることもある。なぜなのか。それは,相手がそう受け止めていないということである。したがって,相手がそう受け止めるような言い方をしなければならない。
  私どもの「話力」では,だれが話すのかということ,どんな内容で話すのかということ,どのように言うのかということ,話すという立場からすると,この三つの要素を掛け合わせたものを,話す力,表現力と言っている。聴く立場からは,心格力,内容力,そして聴き方,この三つを掛け合わせたものを聴解力と言っている。そういった意味で,話力というのは二つの側面を持っている。それから,文章力のことも随分問題になっているようであるが,文章の場合でも,私は心格力,内容力に,「書く」あるいは「読む」を合わせれば,それで通用すると考えている。話すというのは音声を伴った送り言葉,それから,文章は文字を伴った送り言葉だから,文章と話すということは相当重なっていると考えているわけである。

  ところで,現象として出てくる「話す・聴く」ということは,それが外に出てくるので,私どもはそれを通して評価をするということになるが,その話力の中の対応力としてどんなことを考えたらいいのか。まず,その一つは話というのはそこに目的があるということ,その目的が達せられなければ意味がない。あるいは極端に言ったら,逆効果になるようだったら黙っていた方が良かったということがある。その目的を私は八つに分けている。
  一つ目は,「知らせる」という目的。これは対応する機能というか,作用で言えば,「報告」あるいは「伝達」に当たるものである。人間というのは予見をして行動する。その予見はたくさんの資料や内容に基づいていて,それを通して行動を起こすわけであるが,個人で持っている内容は極めて狭いので,多くの情報を入れる必要がある。一言で言えば,報告の中で人間というのは生きている。だから,地味であるけれども,非常に大事である。しかし,案外これがおろそかになっている。
  二つ目は,「わからせる」という目的。これはどんな話にもつきまとってくるが,「わからせる」ということはなかなか難しい。なぜ難しいかというと,分かったということがどんな状態であるかが科学的に分かっていないからである。私は神経系の配列に関連しているのではないかと考えているが,まだ科学的に証明されていない。そこに難しさがある。もう一つは,分かっているつもりのことが案外分かっていない場合が多いということもある。そういったことが分からせるということの障害になり,隘路になる。しかも,相手が効果の決定をするわけである。
  3番目は,何かを「させる」ということ。この「させる」の内容は,行動させる,やめさせる,加速させる,それから,方向を変えさせるとか,いろいろある。これは,世間的に言えば「説得」ということになる。2番目の「わからせる」は「説明」である。
  それから,4番目は「改めさせる」。「君,それは駄目だよ」と改めさせる。これは「忠告」である。お互いに忠告をし合わなくてはいけない。忠告というのはしかるということにもなるが,なかなか難しい。大学でしかっていないために会社など現場では苦労している。ところが,あれは軌道修正を他律的にやるので,非常に抵抗がある。しかり方の得意な方はめったにいない。しかし,学生に,今まで一番しかってくれた人を聞いてみると,大概は,お父さん,お母さんを挙げる。愛するがゆえにしかる。愛とは捨てないことだと思う。一茶に,しかられないことの寂しさを歌っている句がある。「うたたねも/しかり手のなき/寒さかな」「しからるる/人うらやまし/年の暮れ」というのがあるが,しかるとは,そういった愛情を持っているからではないだろうか。ただ言えることは,しかり方が分からないと腰が引ける。「改めさせる」というのは「忠告」あるいは「警告」ということでもある。
  5番目は,今日の話はよかったなと感動させるということである。「感じさせる」というのは,「共感」ということである。
  それから,6番目の「ほめる」というときは「称賛」ということになる。
  そして,人間関係を作るきっかけになるのが,7番目の「あいさつ」である。あいさつというのは「おはよう」「こんばんは」「さようなら」ではなくて,そこにだれかいるという関心を示すことである。日常生活の場合でも,「どちらまで」などとたわいのないことを言うが,別に番地を聞いているわけではない。そのことは,相手も分かっているので,「どちらまで」と聞かれると,「ええ,ちょっとそこまで」などと答える。大体「そこまで」という場所はないわけであるが,それでも聞いた方は「ああ,そう」なんて簡単に別れていく。そういった無視しない努力が,人間関係のきっかけを作るのである。
  8番目の「人間関係を深める」のは,「会話」である。会話によって人間関係を深める。雑談のできない人は人間関係が深まらない。そういった意味では,先生方は生徒の中に飛び込んでいくことが必要だと思う。会話とは,話を合わせることである。合わせるすべを知らないから,何か極端な形で出てくるのである。「今日は随分暑いですね」と言ったら,「そうですね」と言えばいいのに,わざわざ逆らう人がいる。そうなると,人間関係がぎくしゃくする。

  以上のように,私は話の目的を八つに分けている。これらの目的が達せられなければ意味がないと考えているわけである。ところが,厄介な問題は,話し手と聴き手との間に,話というのが成立し,聴き手の方が効果の決定をする点にある。だから,それにどう対応していくか。そう言うと,「迎合するんですか」と言われるが,そうではない。話す目的は,飽くまで話し手が主体であるが,話し方は聴き手が主体であるということである。
  これは極端な例だが,小さな子供さんには子供の言葉を使うはずである。「まさこちゃん,おんもに出るとね,ブッブーが来るから危ないよ」というようなことを言う。そういった意味では,話というのは話し手と聴き手の中に成立し,聴き手の方が効果の決定をする。それにどう対応していくか。そして対応するのは言葉だけではなくて,服装にしても,態度にしても,表情にしてもそうである。そういったトータルで,話というのはある。
  しかも,大事なのは,人間というのは感情の動物であるから,相手が好きか嫌いかによって随分変わっていく。つまり,話す・聴くことによって心的変化,心理的にも生理的にもプラスになれば,何て感じのいい人だろうということになる。それをベースに持っていると,話の効果は非常に上がりやすい。そして効果が上がると,新しい人間関係が出来上がっていく。それは,前の人間関係よりも好ましい形になった方がいい,らせん状で高くなっていった方がいいということである。そして人間関係によって,また話が変わっていく。話すことと人間関係と話の効果はらせん状で高くなっていった方が望ましい,というのが私どもの考え方である。
  いろいろあるけれども,この時間では「話力」とは何かということ,そして,その対応力の中で話すことと話す目的,それから人間関係と話の効果の結び付きについて申し上げた。

(永崎一則氏と委員との意見交換/○は委員,□は意見発表者を示す。)
  レジュメにある「私の提案」についても,少し時間を取って説明していただきたい。

  三つほど提案を書いた。まず,長期的な面で,(1)教員の採用試験の方式をお考えになったらどうであろうかということ。その試験の中で,具体的に話を聞いて採点をする。私どものインストラクターは現在120名いるが,ほかに独立したのもいるし,私自身ほかの団体にいて副所長と指導部長をやっていたので,そのころから合わせると,1090名のインストラクターを育ててきた。その経験からすると,採用試験の時の1回の話で,その人が将来伸びるかどうかはすぐ分かる。それから,インストラクターに向くかどうかもすぐ分かる。これには,まず前提として審査員を審査する必要がある。例えば,スピーチコンテストのときに,「おれ」とか,あるいは本当は話し言葉で話すべきところを書き言葉で話したり,文章的な朗読調でやったりする人がトップになったりするときは,私は審査員を審査すべきだろうと思っている。
  三つあって,一つは,今お話しした話す力をテストする。2〜3分の即題で話してもらうと,たとえその人が失敗しても,その人の伸びる余白が分かるので,まず,それを試せばいいと思う。次に,聴き取る能力をテストすること。3番目は,400字くらいの作文を書かせて文章力をはかってみたらどうか。これらは,長期的な課題として考えたい。
  (2)としては,再教育を徹底する。企業では,ひところは面白く眠らせないように話をするグッドスピーカーが歓迎されたが,トレーナーさえいれば何遍か繰り返すことで,2時間や3時間の話は大概できるようになる。特に学校教育では,一人一人の子供たちを育てなくてはいけないので,そういった意味でのトレーナーを養成する必要がある。私の体験では,企業の場合は大体係長クラスになる30歳前後が一番受け止めやすいと考えている。というのは,大学院を出て博士号なんか持っている人は理屈だけで考えてしまうので,もっと社会的な体験を経てからの方がいいからである。
  (3)としては,これからはただ話すだけでは何にもならない。行動を起こさなければ何事も起こらないので,分科会の先生方の中で,まず,三つぐらいお考えになったらどうだろうかという提案をしたい。その一つは,先生方の提案する理論を採用して,それを実際に試してみたらどうかということ。ただ,残念ながら,包括的な理論体系を持っている人は非常に少ないので,なかなか難しいとは思うが,これが一つ。それから,既存の教授法を採用して,それを実際に先生方でアレンジして,実施なさったらどうかということ。3番目としては,やり方として,その中からどれを採用するか。優先順位を決めるか,ないしは幾つか採用して並行してやってみるか。例えば,九州ブロックではこれをやる,関東ブロックではこれをやるというようなやり方がある。
  そして,実習などのやり方として簡単に話ができるのは,座ったまま質問をして答えさせるということ。小学校のクラスではこういった形が一番やりやすいと思う。いきなり前に立って話すと,なかなか難しい。2番目としては,具体的なものを課題として与える。「昨日あったこと」とか,「私の好きなお父さん」とか,何か身近なところを出す。そして,もっと上のクラスになったら,抽象的な課題を出す。「最近の世相」とか,そういった課題を出す。そして応用問題としては,目的に応じた課題を出す。例えば,○○について説明をする,○○を説得する,もっと上のクラスだったら,ユーモアのある話,あるいは感動させる話,こういったことをお考えになったらどうであろうか。
  私の提案としては,言葉や発声その他,周りの人と仲良くするあいさつや会話などは,小学校でいいと思う。それから,音声教育でナンバーワンの人の理論をお考えになってみたらどうだろうか。中学校としては,対話,それから目的に応じた話。例えば,さっき申し上げた分からせる,知らせる,感じさせる。それから,大勢の前で話すスピーチ,自己紹介等。高等学校辺りでは,問題解決,話合い,討議,ディベート。大学辺りでは,講演,講義の仕方。こういった段階を踏んでやられたら,どうであろうかと考えている。

  先生の今日のお話のような上手な表現力というか,話力が付くのは,知識とはまた別の訓練が必要ではないか。私などはこの年になってもうまくならないことを考えると,天性もあるのかなと思う。上手な人は上手だけれども,下手な人は幾ら指導されてもなかなか上手にならないということになると非常に悲観的になってしまうが,運用する能力としての話し方そのものを高めるというのは,何かいい方法があるのか。

  一言で言うと,どんな人でも上手になる。ただし,本人の意識や過去の経歴などがどれくらい広いかによって違うので,時間の差はある。私は自慢ではないが,小学校のころ,2回ほど学芸会で泣き出して,学芸会をめちゃくちゃにした経験がある。天性としては,そんなに話に向いている方ではないと思っている。だから,努力したら,あるレベルまでは必ず行くと思う。

  努力を効率的にやるというような方法はあるのか。

  まず,講義と実習とを交互にやる。これは指導要綱と言うのであるが,この中に,批評の用語も,どんな題を出すかというのも全部書いてある。これは外には出していないけれども,こういったことを勉強することによって,逆に批評用語から,どこに注目したらい いのかは大体見当が付いてくる。徐々に力が高まる。勉強したら必ず変わる。

  先生はそういう講義と実習を大体30歳くらいの人にしているようであるが,小学生からできるように,小学校の先生になるような方たちに教えてくださると,子供のころから上手になるような気がするのであるけれども…。

  それはそのとおりだと思う。ただ,先生が,その理論にかなった形でやっていらっしゃらないという大きな問題がありそうな気がしている。
  それから,国語の問題はその教科だけではなくて,ほかの先生もやはり参加しないと,あの先生はそのとおりにやっていないじゃないかということになる。いつか第3チャンネルで子供の指導についてディスカッションをしていたが,その先生方は服装はラフだし,「おれ」とか,女の先生が「だね」とか言ったりしていた。そういった形では全体が良くならないと思う。DNA,遺伝子と環境の中で人間は変わるので,もっと環境を良くしないといけない。先生方の再教育というのは,私は急務だと思っている。

  私も話すということに大変関心を持っているが,ずっと考えてきたことで,どういうふうにお答えいただけるか。お答えを聞いて,いろいろ考える糧にしたいと思うが,先生は日本文化の中に伝統的に存在している「沈黙は金」という言葉をどんなふうにお考えになっていらっしゃるか。

  必要なときに,必要なことを,必要なだけ,しかも必要な方法でというのが話である。だから,言ってはいけないときには黙るというのも一つの語りにほかならない。

  具体的に,話すということを進めていく中で,何となく,よく話すやつは大した者じゃないという考え方が日本の風土の中にはあるのではないか。つまり「沈黙は金」というのはたった1行の言葉であるが,そのことのもたらしている社会への影響というのは結構いろいろある。この辺りが本当にある程度カルチベイトされないと,話すという問題は解決されない,私は一番のネックがここにあるという気がしているのであるが,いかがか。

  話の勉強をしたら,しゃべり過ぎる人は話さなくなる。

  もう一つ重ねて伺う。話すことはある程度大事だなとは皆さんが思っていらっしゃるけれども,なかなかそのことに積極的にならない。話すことは中身さえあればそんなに重要なことではないという何か暗黙の意識が世の中にはあるのではないか,ということを私は非常に感ずるのである。先生は,そういうことに関して余り障害を感じたり,日本文化はそういうところがあるというふうにお考えにならないのだろうかということを伺いたい。

  おっしゃるとおりだと思う。ただ,話すべきときには話さなければ,これは相手に通じない。思いも表現しなければ通じない。だから,必要なとき,必要なことを,必要なだけ,しかも必要な方法でということであるから,しゃべらないのも一つの語りにほかならないと考えている。最高の喜びや最大の悲しみは,言葉にならないはずである。そういったことを含めて,私は「話力哲学」と最終的には言っている。だから,人間が変わらなければ変わらないので,最終的にはどう生きるかということと関連があると考えている。

  冒頭にお話になったインストラクターの試験では,学校の先生方が多く落ちるということであったが,その人たちの弱点,欠点というのはどんなものか。何か特徴があるのだろうかということと,なぜ先生方にそういう落ちる人が多いのかということについて,何かお考えになったことがあろうか。

  話す,聴くというのは日常的なことであるから,新鮮味がないのだと思う。それから,生徒は人質に取られているので,親が文句を言わないから,これでいいと思ってしまう。そういったことから,ロジカルに話す訓練ができていないような気がする。その辺は,今後,少しお考えになるともっと違うと思う。ところが,勉強した人は確実に伸びる。そういった可能性を持っていらっしゃる。余白が相当ある。だから,本人のためにも,社会のためにも非常にもったいないと思っている。文部科学省はそういったところに金を少しお使いになるといいと思うが,私どもは徒手空拳で,一切どこからも援助を受けていない。自分たちの資金でやっている。もう少し資金でもあったら,もっと外国などにも広げられる。私どもは身銭を切って,韓国や中国でも教えている。外国との民間交流と思ってやっているので,そういった面ではもう少し御理解をいただければ,何かお役に立つことがあると思っている。

  そうすると,先ほどお話があったが,日本社会の中で話せないということの原因としては,「沈黙は金」だというような考え方があるからというようなことがあったけれども,今のお話の中では,非常に優位に立つ,相手よりもはるかに強い立場に立ってものを言っている中では,話し言葉に対する意識は良くなってこないということであろうか。

  必ずしもそればかりではないと思うが,油断をしている面があるのではないか。それで間に合っていると思っているが,本当は間に合っていない。特に,PTAは別なことで騒ぐけれども,先生方の教授法などについてもっと建設的な意見を述べるような人が出てくれば,もっと考えられると思うが,子供のために黙っている人が多いのではなかろうか。

  なるほど。教師以外に,ほかの職業で,こういう人たちにも類似の共通の欠点があるというようなことを思い付かれたことはないか。

  文部科学省は例外にしないといけないが,役所が一番難しい。油断がある。

  心格力という言葉は面白いなと思った。それから,「話し上手は話し方上手とは違う」とあるが,「話し上手」と「話し方上手」の違いについてはどのようなことをお考えか。

  話し方は対応力の中の一つであって,本当は話力が必要である。世間で言っている話し上手は,話し方の技術が上手な人というのが私どもの考え方である。その奥には内容もあり人間性もあるから,話す力には,心格力,内容力,話し方の三つを掛け合わせた力が本当は必要であるので,こういった「話力」という表現をしている。内容が正しく,裏付けがあり,それから人間性が良ければいいのだが,それがアンバランスになっていて,話し方だけが随分たけているので,実害を伴う問題になると考えているわけである。

  まずは,話し方上手という人が育っていくのではないかという気がするのであるが。

  さっき申し上げたように,今まではアンバランスになっていた。人間性がよくて,内容を持っていながら表現できないために,うまく伝わっていないという考え方である。しかし,私は,最初から三つの力を平均化して持った方がいいだろうと考えている。だから,私のところでは「話し方教室」とは言わず,「話力講座」と言っている。

  もう一つ,論理的に話すということについて考えていて,お話に出ていた「沈黙」に関しては,私自身も「沈黙」は言葉の一つであると思っている。論理では,つまり話すこと,書くことでは伝え切れないものを伝えたいとする力や思いがあって,そういうときに,例えば詩というのは非論理的な言葉の使い方をして,何とか言葉には乗せられないものを出そうとするのが一つの役目だと思っている。話の八つの目的のうち,感じさせる,共感というのは,論理を超えたものもあるという気がしていて,そこら辺を一緒に包括していただけると大変うれしいと思う。

  それもある。ずばりそのものでなくて分からせるということはあると思う。しかし,日常生活の場合は,文学の表現と実務的な表現とは少し違うかもしれない。そういった詩の場合であれば,漫画なんかで見ていると,ずばりそのものであるが,だれかもおっしゃっていたけれども,夏目漱石の『坊っちゃん』を読んだら,『坊っちゃん』の連想は,その人,その人によって違ってくる。そんな意味で,周辺から攻めていくということが必要かもしれない。そのものずばりでは,ちょっと分からせることは難しいのではないか。リズムもある。例えば,お経を読むと,何か訳は分からないけれども,手を合わせたくなる。だから,分からなくてもリズムで変わる場合もある。そういった総合でお考えになったらいいと思う。ずばりそのものでは,分からせることはちょっと無理かもしれない。

  まだ私も理解し切れないところがたくさんあるが,先生のおっしゃる話力というのは,一人の人間が一方的にするものではなくて,対話を通じて相互の人間の相関の力,それから問題解決とか,そういうものを対応させていくというふうに考えてよいのか。技術だけではないとおっしゃったけれども,話をするためには,分からせるためには,やはり技術というのも相当必要だと思うのである。それよりも相手の何かを引き出すという,そしてそれによって両方から働き掛けるというふうな理解でよろしいのか。

  話というのは一方的なことではなくて,対話が基本だと思う。例えば1対多のスピーチの場合でも,無声の反応と有声の語り掛けとがかみ合わなければ,本当の効果的な話にはならないので,それを察する能力というのが話し手には必要である。
  それから,世の中のすべてはペアで存在する。表もあれば裏もある。そういった意味でとらえたらいいと思う。どっちが正しいとか,どっちがいいということにはならない。常に何かを基準にしている。例えば,「白い」と言うが,これは何より白いか,何より黒いかという,そういった基準でないと決定的な言い方はできない。白と黒の間には無限の灰色がつながっている。そういった意味で,物を言うときには何かの基準によって,まずは考えたらいいだろうというのが私の考え方である。

  先ほど日本だけでなくて,韓国や中国でも教えていらっしゃると伺った。同じ理念や方法論で基本的にはやっていらっしゃるのだと思うけれども,そうすると日本だけでも個人差があると思うが,韓国や中国の場合は,日本との違いということはお感じになるか。

  私は,日本語の話し方ではなく,人間が話すときにどう話したらいいのかという面で,ワード・ファクト・リレーションと考えている。例えば,あいさつにしても,ぺろっと舌を出すところもアフリカではあるようだし,もっと違うのは,ペッペッとつばを吐いてくるところもある。日本人からすると,価値観が違うので,汚いと思うかもしれないが,私は最も親愛の情を示すやり方だと思う。例えば,母親が子供の傷をなめるとか,そういったものの原始的な名残りではないか。それは何かと言うと,一言で言えば,あいさつというのは無視しない努力だと考えたらいい。その基本がしっかりしないと,何か違うということになるかもしれない。人間が話すときに,どんな基準で話し,どのような原則を守ったらいいのかというので考えているのである。だから,日本列島で話すのは日本語という方言だと考えているわけである。英国だったら,英語という方言で話していると考えるわけである。だから,基本は全く同じだと考えたらいいだろうということである。


(2)犬飼明子氏の意見の要旨
  私は,35年間学校の教師をして54歳で退職したが,その直後から思いがけない成り行きで文庫活動にかかわった。その時から25年間,現在79歳であるが,一度もやめようと思ったことはない。本はもともと好きで,子供も大好きである。その二つ,子供と本ということで暮らしてきて,実は,読書推進をやらなければいけないと余り固く教師の時から考えずに,のんびりと自分が読書を楽しんできたという人間である。
  文庫というのは,そこに本があって,それを手渡して読む大人がいて,そうして子供が来るという小さな図書館である。これが世界的に有名な日本の文庫活動で,言わば日本の図書館教育の貧困が生んだ親たちの願い,地域の人間の願いというものが,そういう活動になったのではないかと思っている。この間もドイツの児童図書館から日本の文庫活動の資料が欲しいということがあって,私たちの本を送らせていただいた。ドイツなどは子供のための読書推進の組織というのが非常にできている。しかし,日本の場合には,私たち文庫にかかわる者が手弁当で子供と本を楽しんでいる。
  私がかかわった文庫活動には3種類ある。一つは家庭文庫であるが,我が家に本があって第1番にかかわった。なぜしたか。それは,子供がどんなにお話が好きであるか。しかも,読んで聞かせてもらうのが大変好きである。つまり,読書は耳から始まる,耳からの読書である。それを,私はその時に痛感して「読んで」と言われたら,「よしきた」と我が家で読んで,読みまくって13年たってしまった。教師をしていた時に,私は絵本というものの力を余り深く突き詰めて考えていなかった。自分が児童文学が好きだったので,児童文学はよく読んでいたし,高学年を持って国語の授業をしていたので,それはよく読んでいたけれども,絵本が子供の心の奥深くにまで何かを及ぼしているのを教えてくれたのは子供である。そうして,ああ,こんなことがあるのだというような新しい発見がある。私は年齢は79歳であるが,絵本年齢はまだ25歳,非常に未熟である。
  そういうことで我が家でやっていたが,家庭文庫は実にいいものであるけれども,個人の力には限界がある。最後の13年目に,家庭の事情で家庭文庫ができなくなった時,我が家に113人の子供たちが出入りしていた。幼稚園児から高校生までいたので,この子たちはどうなるだろうと思った。子供の生活圏に地区図書館はないし,公民館にも子供の本がないのである。そういう中で,子供たちは幼稚園に通い,小学校へ行き,中学校へ行っている。地域には,耳からの読書,まず読んで聞かせる人がだれかいなければいけない。子供たちはいろいろなことを話してくれる。その子供の言葉は実に面白くて,楽しくて,子供と言葉を交わすということがどんなにいいことか。しかも,本というものを仲立ちにして,深い,言葉にならないような言葉を交わすことができる。
  私はこれは1人ではできないと思って,今日一緒に付いてきてくれた横田悦子さんと相談して,吉備地域に地域文庫の「プーさん文庫」を設立したのである。一体どういういきさつで私が文庫活動にかかわったか,思いがけない成り行きというよりほかはなかったのであるが,もともと好きであった子供たちと本を仲立ちにしてかかわるということの面白さというのは,体験した者でないと分からないと思う。
  地域文庫の私たちの仲間は,PTA,お母さん,普通の家庭の親である。一緒に本の勉強をして,子供たちに読んで聞かせ,一体どうであったかという記録をとって,実践記録集として『絵本のあるくらし』を作った。これが1999年のことである。なぜそれを作ったかと言うと,プーさん文庫は地域の中でなくてはならないものであると思っていたので,次々に皆さんがかかわるときに,本選びをどうするか,どのように子供たちに読んで聞かせるかということを書き留めておいて,どんな人が私たちの仲間に入ってきても,「まず,これを見てやりましょう」というためである。そして,地域のお母さんがどんな絵本があるかということをよくお聞きになるので,それにも答え,さらに,広く一般に売って皆さんの指導と助言をいただきたいということであった。
  文庫活動のまとめとも言うべき本ができたころ,子供たちが文庫へ来なくなった。最初,読んでくれ,お話が好きだと言って大きい子供まで来ていたけれども,それがだんだん減って,1992年ごろは最初のころの3分の2ぐらい,そして1997年のころは最初にプーさん文庫を始めたころに70人近く来ていた子供が20人ぐらいに減ってしまった。そうなったころにやっと地域がプーさん文庫の後押しをして,補助金をくださったので,「出前文庫をいたします」と言って,小・中学校にも幼稚園にも出前に行った。『絵本のあるくらし』にそのいきさつが書いてあるので,御覧になっていただきたい。

  そういうことで文庫活動を進めてきて,問題になっている小学生の国語力,読書力について余りはっきりしたことは申し上げられない。なぜかというと,私たちが小学生のところへ行って本を読んで聞かせて,まだ2年7か月しかたっていないからである。地元で後押しをされ,幼稚園や親子クラブへ出掛けながら,小学校へ行くのがなぜ遅れたか。実は,岡山市は13年前から全校に学校司書が配置されている。司書教諭はもちろん,現場の学校図書館には有資格者の司書がいて,図書館の整備ができている。だから,私たちが行っても余り出番がないのではないかとのんきに考えていて,ついつい行かなかったのである。
  ところが,PTAの方と地域の教育について考える会があった時に,この話が出て,ちょうど『絵本のあるくらし』ができた12月に第1回で行って,今日まで大体68回,小学校へ読みに行った。行ってみたら出番がないことはなかったのである。学校司書の先生と連携して,事前に何を読むということをいろいろ言って,私たちが30分間子供たちにきっかけ作りをする。何をしたかというと,詩を読む。言葉遊びをする。なぞなぞをする。言葉で遊ぶということ,言葉の響き,詩,これは本当に子供が大好きで,いつもそれを読んで,それから絵本を読み,本の紹介をするという形を取る。終わった後で,学校司書の先生が「今日の本はこんな本ですよ」と言って,図書館にそろえてくださると,吉備小学校の子供たちは886人いるが,大体その10分の1の,80人から100人の子供たちが昼休みに自分の気持ちで図書館へ行って,お話や詩を楽しんでくれる。
  子供が自分の気持ちで読むところから,読書は始まるような気がするが,それではそういう気持ちにならない子供はどうするのかと言われても,今,吉備地域ではその手立てはしていない。私たちの友達でも学校側の依頼で朝読書の時間に授業の一環として,小学校へ読みに行っている方もいる。そういうことをすると,余りそうではなかった子供も,「あっ,面白い」というふうに思うかもしれない。そういうことについては,吉備小学校の「学校図書館とボランティア」という資料を見ていただきたい。私たちのチームと相談しながら,一緒にかかわっている松田暁子先生がこれを書いていらっしゃる。それを御覧いただくと,私たちは小学校でも出番があったことが分かるのではないか。そして,貸出数も岡山市は全国水準よりもかなり上回っている。貸出数が多く,たくさん読むことが読書かという問題もあるので,その辺について私たちはお互いにいろいろ考えたり話し合ったりしている。
  しかし,私が吉備小学校の教師であった23年前に比べて,専門の司書がいらっしゃるということがこんなに違うのかと思った。それは学校図書館にある1万7000冊の図書がきちんと整備され,こういうことをやりますと言うと,その先生がすぐ出してきてくださる。そして国語教科書の関連の本も全部そろえてある。本当にびっくりする。私が教師のころ,こういうふうな学校図書館があれば,もうちょっとましな授業ができたのではないかと思った。そして子供たちが昼休みに学校図書館へ集まってきて,楽しそうに本を見ている。友達と一緒に来たり,また一人で来たり,高学年の子供は資料を探しに来たり,学校図書館に司書がいるということはどんなにいいことかと思っている。
  私は,短い時間,昼休みに行っているが,『子どもと読書』という資料には,授業時間に学校側の要請で校内に入って本を読んでいる文庫の仲間の実践記録が載っている。これを見ると,本当によくやっていらっしゃる。学校側も熱意があるなと思ったが,一つ欠けているものがある。それは学校司書である。学校司書がいない学校は,PTAやボランティアの人がこんなに苦労するのかという思いもする。吉備小学校や,岡山市の私たちの仲間の鹿田小学校と比べてみたとき,専門の学校司書がいらっしゃるということは非常に重要なことであると思った。そういう私の文庫体験の中で,一つの地域文庫だけでは駄目だという思いもあって,2000年の「子ども読書年」に仲良しが集まって「こどもと本・おかやま」という会を立ち上げた。児童図書館研究会の機関誌「こどもの図書館」の中に「活動の中から生まれた『あかちゃんの絵本箱』」という題で,私が書いているが,是非お読みいただきたい。今,子育てに悩む親が大変たくさんいる。その中で,絵本の果たす役割,生まれた時から絵本があって,そしてまだ言葉が伝え合いの道具になっていない時から子供と言葉を交わす,心を交わすということをするならば違うと思ってこの本を作ったのである。3歳前の子供にとって絵本は非常に大切で,それにかかわる大人が是非必要であるという本である。
  そういうことをして,私は,0歳から,今は小学生だけであるが,昔のことを考えると,
高校生までかかわった25年間を思ったときに,文庫で出会う,自分で私のところにやってきて,お話を聞かせてほしい,貸してほしい,この本は良かったと言って話してくれる子供たちの姿から,国語の真の学力とは生きる力であると思う。そして,それは言葉というものの豊かさ,子供が言葉を体験することである。それから,お話,特に子供時代でなければならないファンタジーである。ファンタジーのお話というものを深く自分が体験することによって育てられるものであると信じている。

  そこで,提言であるが,これは今度出た「子どもの読書活動の推進に関する法律」に書かれて,この6月に出された策定方針にも書かれているものである。
  一つはハード面の整備・充実。資料の面からも人の面からも,学校図書館の整備が必要である。特に司書教諭と学校司書が二人,学校図書館には必要である。子供の読書推進をする場合に必ず要るものであるというふうに思っている。そして,それを是非財源の確保をして実現していただきたい。2003年に司書教諭が日本中に配備されるということであるが,学校司書も同時にというふうに立法措置をされることをお願いしたい。
  それから,ソフト面であるが,文庫活動は一つの市民運動である。みんながかかわりやすくなるために是非考えてほしいことは,ゆめ基金というものをいただいて岡山でも大変喜んでいるが,その用途が限られているので,ゆめ基金を市民が使いやすく,望むように使わせていただきたいということである。少し活用方策や活用の幅を広げられたらと思っている。今,子供と一緒に本を楽しんでいくことが非常に楽しいという方はたくさんいる。そういう方が一緒にできやすい方法,特にお金の面で考えていただきたいと考えている。

(犬飼明子氏と委員との意見交換/○は委員,□は意見発表者を示す。)
  二つだけお聞きしたい。一つは,先生のようなグループがほかのところでどういうふうにして作れるか。先生は非常に立派な方で,しかもだんだん出来上がってきたのが現在のすばらしい会であるけれども,こういう会をいろんな地域に作っていくときに,どういうふうにすればできるのかということ。もう一つは,いろいろな本を読んであげるわけであるが,どういう本を読ませたらいいのか,本を選ぶのはどうするのかということである。

  一つは,こういうふうなボランティアのチーム作りであるが,それは苦労して作らなくても一杯できている。筑波大学の辺りにも「お話の心」とか,いろいろあって,私の親類の者もいる。今,そういうことを何かしたいと思っている親はたくさんいる。
  もう一点,本の選択については,これはとても大事なことである。ボランティアの人は自分の好きな本をたくさん読んで聞かせる。そうでなければ言葉に心がこもらない。そういうボランティアに入る方は本が大好きであるから,広く読む場所があれば必ずお読みになる。私たちのところで『絵本のあるくらし』という本を作って,これには456冊の本が紹介してある。こういうふうに選ぶということは非常に大事で,実践によって私たちが選んだものであるが,このようにしてくださいというものではない。それは,図書館や地区図書館がある場所とない場所とで違うからである。地区図書館が子供や子供を持つ親の生活圏にある場合とない場合とでは,選ぶ幅が非常に違ってくる。
  例を申し上げると,岡山市で,私のところには地区図書館がないが,鹿田小学校にはある。鹿田の子供たちの育ち方,これはすばらしいものである。鹿田小学校のボランティアが読みに行っていて,本が非常に楽しいものであると子供が思うと,今度は自分で読んだ楽しい本を人にも教えたくなる。学校図書館が中に入って,「としょかんだいすきの会」というのをしている。自分の大好きなお話の本を持ち寄って,みんなに「これは面白かったよ」と薦める会を子供たちがしている。そういうふうになるために,鹿田小学校は非常に良い場所にある。吉備小学校は合併地域で,子供の生活圏に地区図書館がない。
  資料面の充実ということは,公が考えなければいけない。子供の目に触れ,手に届くところに,私たちが体験で考えて,これだと思う本を置いておいた場合には,子供は必ず手に取って,そして「読んでくれ」と持ってくる。それは限りなく個人差があって,子供の体験から選ぶ本が違う。その時にそれを受け止めて,読んで聞かせる大人が必ず必要であるから,資料面の充実は欠かすことができないのである。

  読んで聞かせる大人が必要だということは,多分そうなのだろうと思うが,岡山の犬飼さんの周りの家庭では,父親や母親は子供に本を読んでいないのか。

  読んでいる。ただし,その重要性がどんなものであるかという認識の度合いには,深い,浅いがある。子供に本を読む場合に,いわゆる字を覚えるというようなことを目標にして読むのか,それとも人間と人間との関係,深いつながりを言葉で交わすときに非常に良いものであるから読むのか。そういうことを話し合うような場がある方がよろしいと思う。家庭でも,このごろ絵本が必要だ,必要だと言われるので,皆さんしっかりと読んで聞かせていらっしゃる。しかし,子供の声に耳を傾け,親が聞いたり話したりして言葉が行き交っているかどうか,子供は何を面白がっているのかということの受け止め方,そういうことはもうちょっと一緒に考えなければいけないと思っている。

  たまたま私が指導をしている愛知県岡崎市の一つの小学校がやはり毎週4日,20分間の読み聞かせ指導をして25年になるので,ちょうど一緒だなと思って聞いていた。
  お話を伺って,もうちょっとお聞きしたいと思ったのは,そこの学校は各学級で担任がとにかく好きなものを読んで聞かせるということをやっていて,もちろん毎年推薦すべき本はこれこれということをするのだけれども,担任はそれにとらわれないで,最も良いものを選んでやっている。先ほどおっしゃったように,集めて,子供たちのつぶやきを聞いて,朗読でない読み聞かせのスピードでやっているから,大変面白い。わずか20分であるから,後の感想交流というのも短くて,これも簡潔で良い。
  ただ,今日の先生のところで言うと,相手が小学生でも学年が1年生から6年生まで交じるわけである。私もその学校の指導をやっているけれども,学年交流というのはやったことがない。そこのところ,つまり,1学年だけのある学級でするときと異学年の子供がいるときでは,どう違ってくるのかを教えていただきたいと思う。

  そういうように学年別に読んだという体験はないが,私の考えを申し上げると,絵本とか物語とかというものは下限はあるが,上限はないと思っている。だから,小学生でも,例えば赤ちゃん絵本を持っていって読んだり,これは幼稚園の子供の本ではなかろうかという本を持っていったりしても,その子供が年齢にかかわらず面白いと思う場合がある。赤ちゃんには分からない絵本があるが,赤ちゃん絵本が分からない子供はいない。その辺は,私たちが異年齢集団に読み聞かせてみた経験である。
  例えば,私の文庫に来た小学校2年生に『ひとまねこざる』を読んだことがある。これは,熱心な親だと,「そんな平仮名の付いとる本ばっかし読まずに,小学校へ上がって漢字も習ったんだから,もうちょっと物語の本でも読みなさい」と言いたくなるような平仮名ばかりの本であるが,自分の気持ちで,それを何回も何回も1年間愛読した。小学校2年生がそういう絵本を読んでもいいではないかと思って見ていたら,その子が突如として3年生になって読み出したのは,『いたずらだっこのロッコ』という本であった。それから,『北極のムーシカミーシカ』も読んだ。これはムーシカ文庫を作った方の名作で面白いから,お父さんとお母さんにも読ませたいと言ったら,親が一緒に読んだ。その時の親の態度にも私は感心したが,それから,どんどん6年生まで読んできた。そこのところを考えると,必ず学年別に考えなくてもいいと思うのである。特に詩を読むような場合はそうである。私たちは,吉備小学校へ行って言葉遊びをする。例えば,カッパカッパラッタ,カッパラッパカッパラッタ,トッテチッテタというような,日本語が生き生きする言葉や詩を子供たちと一緒に読んで遊んでいる。そういうわけだから,逆に,学年別にできたらそれは非常にすばらしいと思う。それがもしできたら教えていただきたい。

  先ほどの永崎先生のお話でもそうであるが,小学生の時は非常によく発言をしたり,授業中も活発に意見の交換をするのであるが,中学生になると,かなり羞恥心が強くなって,授業中の発言もどんどん減っていく。それから,読書量も,いろいろな調査でも明らかになっているが,小学生ではかなり読んだ子も,中学生になるとほとんど読まなくなる。これは,学校の努力不足も確かにあると思うけれども…。
  これから司書教諭が配置されることによって,期待が持てるようになると思うが,学校だけではなくて,今のように,地域の方とかボランティアの方の協力を得ながら,中学生についても読書活動が推進できればいいと思っている。中学生にかかわってのそのような活動の例等があれば,教えていただきたい。

  私の文庫には,高校生の文庫の世話人が二人いる。その子が世話人になったのは中学生の時である。その元は何かというと,プーさん文庫である。私は小学校の読書,中学校の読書を考える場合に,その時に問題にしたのでは遅いと考えている。赤ちゃんで生まれた時から,それは大変大切なことで,読書環境というものを整備しなければいけないと思っている。もしも子供の心の中に感動体験があり,面白かったという言葉を出した時に受け止めてくれた大人が周りにいる場合は,中学生になったらもうちょっと整った形で,読書についての意見とか,いろいろな行動とかができるのではないかと思っている。
  先ほど小学校2年生の子供が『ひとまねこざる』が大変好きだと申したが,最初に幼稚園に入った4歳の子供に持っていって読むと,やはり大変好きである。あれはいたずらをしてもしかられないお話である。資料の「〈おさるのジョージ〉を紹介します」の中に書いてあるが,幼稚園の子供があの本を読んで,私が道を歩いていると走ってきて「今日,面白かった」と私に言った。その「今日,面白かった」という一言に込められた子供の気持ちというのは,翻訳できなるならば様々な意味がある。本が面白かったとか,ジョージのようにいたずら遊びをしたかったとか,また読んでねとか,読んだ私のことが好きになったとか,いろんなことがあったと思う。その子供の一言がとても大事なのである。そういう言葉を子供が一杯話してくれる。それを赤ちゃんの時からずうっと受け止めて,教えるという立場でなく読書仲間ということで,話をする人間が周りにいたならば,子供はどんどん自分の言葉を持ち,そして中学生になった時には本についての自分の考えも持つというふうになるのではないか。
  私の文庫で,中学生になって世話人に入った子供のきっかけ作りになったのは,『からすたろう』という絵本である。それが資料の「文庫の春祭り」に書いてあるが,私の文庫が春祭りで「おにぎりパーティー」をしたときに,『からすたろう』の本を紹介したという事例を書いている。その子はそれに大変引っ掛かって,小学生の高学年になったら,人権問題,差別問題,人間はどのように生きていったらいいのかというのを言葉で意識しないでも感じている。その時に『からすたろう』の本に出会って,長い間たった後に,私に話し掛けてきた。「あの本について,ずうっと考えとるんよ」と。そして貸してほしいと言って,その子はずっと文庫に来るようになった。私は取り立てて子供が思っていることを深く追求しない方であるが,「本というのは面白いね」と言って一緒にやっていく。
  その子は今高2であるけれども,文庫の世話人で前のようにはできないが,私たちの一番若いメンバーである。自分の心の中に持った問題に対して何か思い当たるものが本の中にあり,そういう本を愛する文庫の集団の人たちがいて,その中に自分もいたいという思いがあるのではないか。『からすたろう』の本について,その子が人生を生きていく上でいろんなことをこれから考えると思うけれども,折りに触れ,時に触れて思い出す本ではないかというふうに思っている。


(3)自由討議における意見の要旨(○は委員,△は事務局を示す。)
  犬飼先生にお伺いしたいことでもあったし,あるいは事務局のだれかが関係していらっしゃるのかもしれないが,今,司書教諭と学校司書というお話が出た。その二つが必要であるということを聞いて,そのことともかかわりがあるのかなと思うが,私は図書館員をやっていたこともあって,それも随分遠い昔のことであるが,そのころの感じだと,学校における司書教諭というのは大変微妙な立場であった。本来,司書教諭というのは,制度的に申し上げると,教員の資格と司書の資格と両方持っていなければ司書教諭にはなれない。これは今でもそうだろうと思う。必要な資格を二つ持っている方が一つ持っているよりは本来的には偉いという言葉が適当かどうか,分からないけれども,そういうものだと思うのであるが,学校という現場は生徒に教える人が非常に偉いわけで,司書教諭というのは,司書であると同時に教員の資格を持っている人でありながら,何となく脇の方にいて,そんなに学校では力を持っていらっしゃらないような実態が少なくとも相当前まではあった。その辺りは改善されているのかどうか。
  司書教諭と学校司書を分けねばならないということは,司書教諭は二つの資格を持っている方なのだから,教頭クラスの,学内においてほかの教科もあまねく支配できるような方が司書教諭となって,総合的に学校の図書の方から援助したり,いろいろなことがやれたりするような立場になる。そして,事務的な本当の図書館の整備をして,図書館を充実させるのは学校司書が担当するというのがきっと理想なのだろうと思うが,その辺は制度的に実態的に今どうなっているのかということをどなたにお聞きしていいのか,分からないのであるが,いかがであろうか。

  私も学校現場についてはそれほどよく知っているわけではないが,確かにおっしゃるように司書教諭は教諭をもって充てるということである。しかし,図書館にずっといると,結局,授業を持たないことになるので,そういう先生にもやはり授業を持ってもらった方が効率的な学校運営ができるということで,実際には授業を持っている先生が司書教諭も一緒に兼ねてやるということになっていると思う。教職員間の連携については,今では,例えば事務職員の人たちでも職員会議に出てもらうというふうにして,もちろん司書教諭の人も出てもらうようにしていて,昔のように,事務職員の人は排除するとか,そういうことは最近はないと思う。それから,この前の読書の推進計画の中でも,特に司書教諭と事務職員の配置の促進ということと,教職員間の連携,学校司書と司書教諭と教諭の連携をもっと促進するようにということが書かれている。実態については,先生方のどなたかにお教えいただければと思う。

  もう少し御説明させていただくと,学校図書館については,学校図書館法という法律があって,国としても力を入れるべき課題であるが,今まで,そこが十分だったかどうかは大きな問題になっているところである。
  まず,司書教諭の問題であるが,これは教諭の中から司書教諭を充てる。そして,司書教諭は基本的には司書教諭の講習会を受けて,一定の司書教諭の資格を持った方を充てるというのが制度の建前である。しかし,現実的には司書教諭の資格を持って学校の先生をし,かつ司書教諭だということで発令を受けると,ずっと図書館の仕事をやらなければいけないのではないかといったこともあって,司書教諭の講習会を受けて資格を持っても,それを名乗り出ないというか,隠してしまう。そういうことがあって,司書教諭の発令がなかなか進まないというのが実態としてあった。それで,現実の学校ではどうしているかというと,司書教諭の資格がある,ないにかかわらず,学校の校務分掌と言うけれども,例えば生徒指導担当とか,進路指導担当とか,そういうものと同じように,学校図書主任というような名称で,学校図書館の担当の先生を発令というか,校長が命ずるという形で図書館担当を決めるというケースが圧倒的に多いというのが実態である。
  先般,学校図書館法の改正をして,平成15年の4月から一定規模以上の学校では必ず司書教諭発令をしなければいけないことになった。現在,計画的に司書教諭の講習を進めているが,来年4月からは一定規模以上の学校は司書教諭の発令が行われることになる。それは特別に教員定数を増やしていくというわけではないので,教諭をしながら司書教諭の発令を受ける。恐らく,発令を受けた方の授業時間とか,学校の校務分掌とかの負担を少し軽くして,やっていくことになるのではないかなと思っている。
  それから,学校司書は,いわゆる司書の資格を持っている方にお願いするのであるが,これの定数も必ずしも十分ではない。実は,学校司書は事務職員の扱いになるので,これも一定規模以上の,例えば,小学校では事務職員を複数にするということを昔やった。今も続いているが…。それで,二人目の事務職員は,学校図書館担当の事務職員であるということで,事務職員の定数措置をずっとしてきたが,現実には学校の事務全体が忙しいものだから,学校図書館の方に回らないで,いわゆる事務室にいて事務処理をするというパターンがどうしても多い。そういうわけで,なかなか図書館専任のいわゆる学校司書と呼ばれる事務職員の配置が進まないという実態がある。それで,今,現実に学校司書でお入りの方は,国がきちんと経費を負担する国庫負担の事務職員ではなくて,それぞれの市町村がお雇いになったり,あるいは非常勤で時間を限ってお願いしたりする,そういう学校司書の方が多い。これも一つの大きな課題だと思っている。

  今のお話は,小学校から高校まで全部同じなのか。

  今申し上げたのは,司書教諭は小・中・高,もちろん全部共通であるけれども,学校司書,図書館の事務職員については,小・中学校が今言ったような感じである。高校になると,学校図書館担当の事務職員がかなり配置されているという状況である。したがって,小・中学校がなかなか図書館担当の事務職員を配置できないということである。

  小・中学校の図書館というのは何なのか。大学の図書館は教育研究の支援機関だと承知しているが,小学校などでは,図書館としてどれぐらいハードの上でも体制の上でも独立し,それと教科がどういうふうにかかわるのか,あるいはかかわらないで独自の活動をするのか,その辺はどうなっているのか。今の,ボランティアの協力を得て,読書活動をどんどんやっていくというのも,図書館が教科から独立してやっていくという点から考えると,非常に分かるのであるが,そういうものなのかどうか。

  基本的には,学校図書館の位置付けは「学校教育情報センター」ということになっている。教職員及び児童・生徒が学習活動を進める上で,必要な視聴覚資料を含めた学習情報が集積されていて,そこで様々な活動ができる場というのが基本的な位置付けである。

  学習というのは,教科のことであるか。

  教科も含んだ広義の学習だと思っていただきたい。例えば,最近特にこの4月からは,小学校,中学校,高等学校に総合的な学習の時間が週2時間から,小学校の場合は週3時間程度の時間数が導入されているので,そういう総合的な学習の活動の場としても極めて重要視されている。今,小・中学校の場合に決まっているのは,「学校図書館図書標準」というのを先般決めて,本で言うと,これだけの本の冊数は学校でそろえましょうということで,地方交付税で措置をしているわけである。かつて5年間やったが,今年からまた5年計画で,毎年,金額的には130億円ずつきちんと学校図書を整備する計画が進行している。ただ率直に言って,学校図書館の図書の整備は不十分で,標準的な図書の冊数にまだ達していない学校が非常に多いというのが実情である。この辺りも一生懸命やらなければいけないというふうに思っている。

  8月10日までの宿題として私どもが今いただいている国語力のことであるが,送付されてきた用紙では,話すことから読むことまで四つに分けて,どの程度にという「程度」という言葉が使われている。ただ,例えば読むということでも,今話題に出ている総合的な学習の時間に,ある問題を抱えて図書館に行って,どういう本を検索して,どこからどのように運用するのかというのも「読む」にかかわることだと思う。しかし,これは程度ではちょっと言いにくい。読むというと,ちょうど入試における読解問題などは「程度」で非常に言いやすいわけであるが,この辺りのことをもう少し親切に示してほしい。

  文部科学大臣から出された「これからの時代に求められる国語力について」の中には,「国語力を生涯を通じて」という言葉が出ているが,どのレベルを担当したらいいのか。例えば,私は大学の教師であるので,大学レベルだけをお答えすればいいのか。どの角度から何を書いたらいいのか。先ほど,永崎先生がおっしゃったように,相手に伝わらなければ意味がないので,相手の意図は何なのかをもう少し具体的に教えていただかないと,書けないと思っている。

  関連して,私もプリントを見た途端に,どうして読むとか書くとか分けて書くことを指示したのかなというふうに思った。総合的に,国語力ということだけで何でも思い付きを書くということだったら,かなり書きやすかったのかなと思うのである。毎回,分科会での主な意見というのを整理してくださっているのも,大変分析的に書いてくださっているのはよく分かるのだけれども,これは読むとか,書くとか,聞く,話すとか,そういうことではないので,何でああいう分類項目になったのか,それが私にはよく分からないということで,私も質問したいと思っていた。

  まず,どの程度の段階,大人なのか,子供なのかについては,諮問で求められているのは,基本的には一般の成人である。成人と言っても,多分,高校卒業ぐらいか大学卒業ぐらいを想定している。ただ,そうは言っても,そういうレベルは生涯,40歳,50歳になっても変わっていくかもしれないということで,子供についてだったらこういうふうに書けるということがあるならば,それを書いていただければということで,「日本人として必要な国語力の目安」という下に,括弧して「子供の時期に身に付けておくべき国語力についても御意見があれば,記入してください」と書いているのである。だから,高卒,大卒程度のレベルを念頭に考えてはいる。
  それから,具体的にどういうレベルなのかについては,例えば,読む力であれば,例示的に漱石や鴎外が読めるとか,古典の何々が読めるということは分かりやすい。しかし,おっしゃったように,確かに読む力以外の書く力や話す力がどの程度なのかというのは,私どもの中でも,例えば書く力については新聞記事のような明確な文章が書ける力とか,そういうような例示があり得るのかなとも思っているけれども,特に聞く力や話す力については,実際にどういうような具体的な目安が考えられるのかも含めて,御意見をいただければと考えている。ただ,今まで国語力については,例えば書く力については論理的な文章が書ける力というような抽象的な目標概念しかなかったので,それに代わるような具体的な概念がどのように出せるのかということを御意見としていただきたいと思う。
  それから,四つの力については,おっしゃったように,確かに明確に分けられるものでもないし,例えばこの前の御意見にもあったように,文章構成力とか,そういうような形で分けられても,別にそれは構わない。明確に読む力,書く力というふうに分けて書けないというものであるならば,それはそのような形で書いていただければと考えている。

  ちょっと補足させていただくが,四つの力は分けても書けるし,合わせても書けるように,回答欄に線を入れていないのはそういう意味であるが,そこは御自由にお書きいただきたい。ただ,四つの点を考慮に入れていただいて,できるだけ満遍なくお書きいただければ有り難いと思っている。それから,どの年齢層で書くかについては,実は省内でもいろいろ議論があるが,今回出していただく目的は,秋にお諮りするたたき台を作ることであるので,先生方もそれぞれ,私は小学生なら分かる,中学生なら分かる,大学生なら分かるという得意年齢をお持ちだと思うので,ある程度自信を持って書けるところで,まずはお出しいただく。その際に,どのぐらいの年齢ないし層を想定しているかをお書きいただいて,その上でまとめていただくのが一番現実的かなと考えている。
  それから,「程度」という言葉については,私どもの言葉不足で,コミュニケーションができていなくて申し訳ないが,先ほど出されたように,単に読解力の程度だけではなくて,こういうことができる,ああいうことができるということも一つの程度とお考えいただいて,お書きいただければ幸いである。

  送付された用紙の「読む・書く・聞く・話す」は,文部科学大臣諮問理由説明の3ページに書いてあるのを写しているわけで,これは議論を避けて通るわけにはいかない。私も苦しいけれども,笑われるのを覚悟でたたき台を出そうと思っている。「どのような国語に関する知識・素養・能力が必要となるか,具体的な検討をお願いします。その際には,『読む・書く・聞く・話す』などの能力に関し,どの程度の力を身に付けていることが望ましいのかという,具体的な目安を示すことについても併せて御検討をお願いします」と大臣からお願いされている。先ほど事務局が弁解していたけれども,別に事務局が弁明しなくてもいいので,大臣が諮問されているので,少なくとも過程としては私もこれでお願いしたいと思っている。じゃ自分が書けるかというと,自信はないが,いずれにしても,ここで急に事務局が作文したというわけではない。
  私が心配したのは,時期によって,小学生段階では,中学生段階ではということを考えていくと大変だということである。だから,出来上がった人間,世の中に出ていく年齢ぐらいの日本人に必要な国語力の目安を考える。「目安」という言葉が「程度」という言葉であると考えている。最後に皆さんにお示しする時は匿名ということにして,最初は内輪であるので,恥をしのんで好きなことをお書きいただくということでよろしいか。
  私は,諮問理由説明の「これからの時代に求められる国語力についてであります」というところからが核心だと考えている。我々にできるかどうかはやってみないと分からないが,ここが決まらないと,方策も決まらない。もちろん,程度が決まらなくても,充実の方向で,方策は方策としてできるかもしれないけれども。まとめたときには,かなり抽象的なものになるかもしれないが,議論の段階ではやはりぎりぎり詰めて,そこを総合してまろやかなものになるということもあると思う。是非,御協力をお願いしたい。

  もう一つ質問である。国語課の方たちが今までの国語分科会の主な意見をきれいにまとめてくださっているが,これを加味して書いた方がいいのか,無視して書いた方がいいのか,その辺りをお聞きしておくと書きやすいと思う。無視してというか,ここにないものを書いてほしいのか,これを読んだ上でまとめた方がいいのか,そこの辺りである。

  今までの御議論をお読みになった上で,別にそれを踏まえなくてもいいし,踏まえてもいいし,それは御自由である。

  皆さんの御意見にあったように,私も大変難しいことだと思っている。みんなで知恵を絞ったけれども,できなかったというのも一つの答えかなと思っているくらいである。抽象的なレベルでなく,具体的に書き込むのは確かに難しいと思うけれども,できるだけ,よろしくお願いしたい。


(文化庁文化部国語課)

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