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国語分科会

2002/03/27議事録
文化審議会国語分科会第2回議事要旨

文化審議会国語分科会第2回議事要旨

平成14年 4月22日(月)
12時〜14時30分
東海大学校友会館「富士の間」

〔出席者〕
   (委員) 北原分科会長,青木,阿刀田,井出,臼井,沖山,勝方,工藤,小林,五味,齋藤,舘野,田村,手納,西尾,西村,藤原,松岡,水谷,三田,山根各委員(計21名)
  (文部科学省・文化庁)
    御手洗文部科学審議官,河合文化庁長官,銭谷文化庁次長,遠藤文化部長,山国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕
   文化審議会国語分科会(第1回)議事要旨(案)
  文化審議会国語分科会(第1回)における主な意見  ―事項別整理―
  委員からの意見
  委員名簿(平成14年 4月 1日現在)

〔経過概要〕
     事務局から,前回欠席した委員及び事務局の異動について紹介があった。
    事務局から,資料2及び資料4についての説明があった。
    前回の議事要旨について確認した。
    前回,時間の関係で意見を述べることのできなかった委員及び欠席した委員から,諮問事項についての意見発表があった。阿委員については,事務局が資料3を朗読することで意見発表に代えた。
    委員の間で意見交換を行った。なお,今回から行う予定であったヒアリングについては,委員の意見交換を優先する観点から,次回以降に行うこととした。
    次回の国語分科会は,5月29日(水)の午前10時から12時まで開催することとし,そのうち1時間はヒアリング,残り1時間は自由討議とすること,また,ヒアリングの人選については分科会での議論を踏まえて分科会長に一任することが了承された。
    国語を中心に理科や社会の現行教科書について,そのうちの幾つかを次回の分科会で回覧することとした。具体的な教科書の選択については事務局に一任された。
    本分科会での意見の要旨は次のとおりである。

  三つの観点から国語の重要性について申し上げたい。第1は,現在,政治とか,経済とか,いろいろなものが行き詰まっているが,この一つの大きな原因は,戦後,活字文化の衰退が起き,古典とか,思想とか,文学とか,芸術とか,そういうものの教養,言わば旧制高校的な教養が欠如したことである。それは,取りも直さず大局観の欠如を意味する。局所的,短期的な考えは,理性とか,論理とか,合理とか,そういうものだけで判断できるが,大局観はどうしてもそのような一見役立たずの教養を身に付けるしかない。それには,やはり活字文化に頼る以外になく,その意味で,基盤となるのが国語である。政治,経済を盛り返すには,これはもちろん対症療法的ではなく,即効薬でもなく,時間が掛かるが,国語を立て直さない限り駄目である。
  2番目の観点は,教育と社会,社会と言っても特に民心である。現在,教育に関しては全科目で学力低下ということが起きている。これは,やはり思考と言語が非常に似ているというところに重要な論点があるのではないか。例えば,「切れた」とか,「超むかつく」とか,そのような言葉しか発しない人は,言葉が悪いだけではなくて,思考自体がそうなっているのである。したがって,きちんとした語彙を増やさないといけない。それはやはり国語による。国語の力がしっかりしていないと,数学も全く駄目だし,外国語の習得もままならない。理科や社会も同じである。一方,社会における民心として,情緒力の低下が最近顕著である。例えば「もののあはれ」とか,美しいものに対する「感動力」とかは確実に低下している。こういうものも,国語を通して,文学作品や詩歌等を通して,あるいはそういうものの暗唱とか感動を通して得ていくものなので,やはり国語が最も重要な回復剤である。
  3番目の視点は文化である。20世紀の後半は,特にアメリカから発せられたグローバリズムに世界が翻弄され,日本はそれにどっぷりと漬かっている。しかし,21世紀は,行き過ぎたグローバリズムに対する反動として,ローカリズムの時代であると私は思っている。各国,各民族,各地方の固有文化が重要になる。そして,それを尊敬して育てるということである。その固有の文化とか,道徳とか,情緒とかの中核にあるのが言語である。母国語というのは,言わば民族の生命線である。国土や血液は生命線ではない。この点でも,国語が最も中核にあるということである。
  以上の3点から国語が大切なものと考えるが,国語というのは余りにも膨大な側面があるので,このままでは議論が発散してしまうと思う。要するに,焦点をきちんと合わせない限り,実のあるものは何もない総花的な答申になってしまうおそれを非常に強く感じている。
  私の考えでは,国語問題の最も中核にあるのは,やはり初等教育における国語である。これがすべての中心にある。すべての国民がそれを受けるわけだから。その質と量の問題であるが,量に関しては戦前の半分以下になっている。質に関しては,例えば,漱石とか鴎外がなくなっている。また,読書をしなくなった,作文をしなくなった,ディベートの問題,朗読とか暗唱の問題とかということがある。
  この分科会への注文としては,初等教育の国語を中心にどのように立て直していくかを検討するということである。それに付随して,中学,高校の国語の問題も当然あるし,成人教育の国語の問題も出てくる。それから,例えば小学校の国語に,古典を取り入れようとすると,すぐに漢字の問題をどうするか,当用漢字,常用漢字の問題ということになり,今度は国語政策の問題になる。情報機器の発達に伴って,そういうものは夢にも思われなかった昭和21年に作られた当用漢字表,その延長にある常用漢字表というのが本当にまだこのままで良いのか。ほかに小学校における漢字の学年別配当表の問題とか,ルビの問題とかも出てくる。したがって,国語の,特に小学校の国語を中心に話していくということで,各委員の独自の立場をそこににじませていくことができるのではないかと思う。

  二つに絞ってお話する。最近の若い俳優は,シェークスピアの言葉についていけない。それはシェークスピアの言葉が日常使っている言葉と余りにも違うからで,こんなことは言ったことがないから言えないというような反応が決まって出てくるのである。そういう場合,幸いにして一緒に仕事をしてきた演出家の方が,「じゃ,やめよう」とか,「カットしてしまおう」とか言わずに,その言葉を自分の言葉にするために想像力を働かせようという方向で持ってきてくれた。そのこと自体は大変有り難いのだが,私自身としては,それを,だからいいのだ,日常の言葉とは違うからいいのだというところまで説得する材料に欠けていると感じ続けてきたのである。
  去年の暮れに,シェークスピアの『十二夜』という喜劇が上演されて,終わってから演出家の中島晴美さんと二人で反省会をやった。そのとき,彼女がシェイクスピアを好きな理由として,「私たちの身の回りとか自分たちの語彙を考えると,知っているけれども,言ったことのない言葉がたくさんあるよね。シェークスピアにはそういう言葉がとてもたくさん出てきて,それを言えるから楽しいんだ」と言ってくれた。それを聞いて「あ,これだ」と思った。要するに,知っているけれども言ったことがない言葉,あるいは言ったことはあるけれども,こういう組み合わせでは言ったことがない言葉を言う喜びは,黙読や耳で聞くだけとは違う体験になるのではないか。様々な自分の中にある感受性を刺激する。この辺りは,既に出ている朗読とか暗唱とかの重要性にもつながるので,答申の一つの焦点となるように思う。
  今,朝日カルチャーセンターで30人ぐらいの方と一緒に,私の翻訳した『ハムレット』を読んでいる。声に出して言う喜びを皆さんに味わっていただくために,一つのせりふごとにどんどんバトンタッチしていって,長いせりふは三つか四つぐらいに割って読むということをやっている。メンバーは,大学の学生から定年退職をした方まで,経験も年齢も様々である。最初は「えーっ」というように引っ込み思案だった方も,回を重ねていくうちに,「かしこまりました,殿下」の一言で次に行ってしまうと,すごく不満そうな顔をするようになり,長いせりふが回ってくるととても喜んでいる。そんなわけで,初等教育はもちろんだが,全領域というか,年齢にかかわらず,日常的に,声に出して言うという体験をやっていいのではないか。
  知っているけれども,言ったことがない言葉を初めて口にするときの喜びというのは,自分の子供のころを思い出してみると,親や大人が言っている言葉を小耳に挟んで,どういうときに言ってやろうかと,すごくわくわくした記憶がある。それで思い出したのは,娘がまだ小さいころ,よそへ行って段飾りのおひな様を見てきて,ちょっとうらやましかったらしく,「いいな,私も段々になったおひな様が欲しいな。三人官女とか,五人囃子とか,二人羽織とか」と言ったことである。多分,「二人羽織」がおひな様の種類でないことは全然知らずに,ただ,三人,五人,二人というのを囃子と羽織とでつなげたのだと思うが,それを言うまでの気持ちのドキドキを考えると,やはり何かを声に出して言ってみるのはいい体験だと思う。黙読すれば知識で終わるけれども,声に出して話すと体験になる,そういうことが言えるのではないだろうか。
  もう一つは,ちょっとゆゆしいことだと思っているのだが,『夏の夜の夢』を演出した串田和美さんから伺ったことである。日大の芸術学部の学生とプロの役者,スタッフとで演じたのであるが,そのときに役者や若い学生たちで,相手の目を見て話すことができない人がたくさんいるそうである。これはちょっとゆゆしいことで,言葉の乱れとか,そういうこと以前の問題ではないか。話すときも相手の目を見る,聞くときも相手の目を見るのは,少なくとも私にとっては当然のことだと思っていた。データをとったわけではないが,将来役者になりたいという人たちの中で,相手の目を見て話したり,聞いたりできない人が目立つというのは,これはちょっと大変なことなのではないか。飛躍かもしれないが,携帯メールのせいかなと思ったりする。一昔前に喫茶店で,若い恋人らしい方たちが,お互いに黙って漫画を読んでいるという光景を見て愕然としたことがある。将来,もしかしたら恋人同士が向かい合っているのに,携帯メールを見て話をすることも起こり得るのではないかと思い始めている。
  以上の二つを考えて,演劇は,いい言葉も,悪い言葉も,激しい怒りや愛情も様々な感情を含めて一つのシミュレーションとなるので,教育の中に正式なカリキュラムとしてでなくともよいが,少なくとも人と話すときには目を見て話すというようなことから始まるワークショップ的なものも含めて取り入れていったらどうかと思う。

  今回,これからの時代に求められる国語力とは何かということと,それを身に付けていくための方策を考えるということだが,過去にも,こういった日本人の国語力というか,言葉の能力を作り上げていくために努力が必要だということは提言されている。しかし結果として,それらが実現しなかった根本的な理由は何だろうかと考えると,広く社会的な運動となるような仕掛けが用意できなかったからだろうと思っている。
  諮問内容の「求められる国語力」についても,例えば,論理的な言葉遣いができる能力が必要であるといったレベルの意見がよく出る。でも,もう一息突っ込んだレベルで我々は議論をしていかなければいけないのではないか。知り合いの人と話をする技術は当然持っているが,知り合いでない人に対しては,伝統的に,不幸なことに,それは持たされていなかったと思う。外国人に対する会話の中でも,どうしても何か引っ込みがちになる。よくノーと言えるような言葉の能力が必要だと言われる。ノーと言えるようになることは,もちろん必要なことだけれども,それだけではこれからの国際社会におけるコミュニケーションを成立させるための必要条件としては足りない。ノーと言えるだけではなくて,我々の持っている文化の中にはノーと言わない習慣があることを短い時間で伝えるという努力を私たちはしてこなかったのではないか。一生懸命頑張ってノーと言えるようになろうとしても,論理的に説明できる力が身に付いたとしても,しょせんは母語でなければ決して勝つことはできない。そういう冷たい事実に対して,もう少し私たちは注意していかなければいけない。我々が生きることに言葉がどんなかかわりを持っているかを突っ込んだ上で,議論を煮詰める必要がある。
  それから,諮問のもう一つの内容の具体的方策についてであるが,先ほどの御意見のように初等教育に絞って議論すべきだというのは大賛成である。そのときにどんなことを考えるかと言うと,ちょっと話が飛躍してしまうが,例えばということで結論から言えば,国語の時間を増やすというよりも,1年生,2年生辺りは国語の時間だけにしてしまったらどうか。もしあと入れるとすれば,算数の時間を入れればいいのではないか。
  というのは,今の教育内容,カリキュラムは余りにも分化し過ぎた。分析的に進み過ぎたために,1年生から理科もあり,社会もありという行き方になっているわけであるが,言葉の能力として求められているのは,存在する事実や人間関係の中で,それをどう把握するかということを言葉の形で身に付けていくことができることだと考えている。そのためには,低学年では,国語の時間の中に理科の内容も社会科の内容も入れるべきである。高学年では,逆の方向を採ってもいいかもしれない。むしろ,その方が,言葉を意識できる基礎的な力が付いているならば,効率的になるかもしれない。このことは,実は自分自身が小学校の1年生のときには理科も社会科もなかったものだから,実績がないわけではない。カリキュラム全体を考え直すような土台を用意すべきであろう。
  もう一つ,例えば紙による試験を全廃か,ないしは半分はやめてもらうという提案はできないだろうか。論理的にものを言うとか,思いやりを用意しながら人と付き合える,そういう言葉を使う力というのは主体的なものだから,その人自身あるいは生徒自身が使えなければ意味がない。知識としては知っているけれども,行動はできないというのが現在の大きな問題点の一つだろうと思う。それを考えると,人に向かって話ができる能力は,実際にそういう経験をする,しかも厳しい条件下でやらなければ付かないのではないか。
  ペーパーテストは確かに効率的だし意味があるが,そのほかに,先生と生徒による面接の試験,口頭試験というものを採用すべきである。そうでなければ,受け身の形で言葉を使う,発信型でない国語能力を持ったままで進んでいってしまうのではないか。そして,先生と生徒による口頭試験は,実は欧米の一部では伝統的に行っていることである。日本に,それがないことを私たちはちょっと知らなさ過ぎるのではないか。論理的にものを言うとか,ディベートをするとかいろいろ主張されても,裏付けとなっている基本的な言葉に対する考え方が日本に生まれていないことに根本的な問題があると思っている。

  どの御意見も誠にもっともであるという気持ちで聞いていた。ただ,これを具体的にどうするかといったら大変に難しい。例えば,小学校の低学年では国語だけでいいのではないかと聞くと,ここではなるほどと思うのであるが,次の会議に行ったら違うことを言わないといけないような気がしたりして,現実問題としては大変難しい。だから,そのときに実現の可能性があって,しかも有効な手立てを考えていただければと思っている。
  この分科会では国語全般のことを審議しているので,小学校の国語科のことだけをやっているわけではない。そこを考えて,全部国語にするというのを逆の立場で言ったら,どの科目でも国語をやっているという言い方をしてもいいのではないか。そういう考え方でやっていただけないかということを理科とか社会科にも言うとかしていけば,今の御意見ともつながるのではないかと思う。
  外国に比べて,日本はちゃんと文章を書いてレポートを出すことが少な過ぎる。それの練習が余りにもなされていない。幸いにも,小学校の先生は一人の先生が全科目を持っているわけで,理科でも社会科でも全科目で,国語の力ということを考えながらやってもらって,常に国語のことを意識してくださいというふうな言い方でも伝わるのではないかと考える。
  それから,論理性がないとか,今の若い人の語彙が少ないとか,いろいろなことが出ているが,これは我々の若いときにも言われていたような気がする。自分で考えても,人前で自分の考えを論理的に言うことなど,ほとんどできなかったのではないかという気がする。日本人は,大体は自分の意見を言わない方が評判が良いのであって,ここを変えていくには日本人とか日本文化の在り方そのものを変えていかねばならない。そういう大きな問題も背負って,皆さんが話をしてくださっているという感じを持っている。

  女優として,36年間日本語と闘ってきた。演劇というのは,99%は本がお客の心をつかむかどうかが問題で,あとの0.99%が演出家。役者はいればいい。いればいいというのは, それを正しく覚えて伝える作業をしなければいけないのであるけれども, どうやって自分の言葉,覚えた言葉を相手に伝えるか,それから,相手の言葉をどうすれば聞けるかということで,36年間闘い続けてきたが,なかなかこれだという方法が見付かっていない。私自身の体の中では,これかなと思うものが見付かり掛かっているが,それを一つの形として言える段階にはまだない。
  実は,三十数年前から,高校教育の中に演劇の時間を入れてほしいということを,私た ちは文化庁にお願いに上がってきた。美術や音楽と並べて,選択科目の中に演劇を入れてはどうか。お互いに話をする,相手に話し掛けるという演劇の基本的なものを覚えることによって,子供たちの引きこもりがなくなるのではないか。そのための一つの手立てとして,演劇を一つの科目の中に入れていただくと大変いいのではないかというようなことで何回かお願いに上がったことがあるけれども,実現しなかった。
  最近,病院や老人ホームで,脳を活性化するために言葉を使う,言葉を探すということで演劇を取り入れているところがあるように聞いている。それから,幾つかの学校でも取り上げているようである。しかし,何回も文化庁にお願いに上がっているにもかかわらず,今は演劇を入れていただくことに自信がない。というのは,演劇が壊れかかっていると私自身が考えているからである。
  先日,チェーホフの『かもめ』をやったのだが,その時,新新人類と言われる20歳前後の人たちが,「うるさいわね」という言葉をどうしても「うっさいわね」としか言えないことを知った。「うるさいわね」だと言っても,それが分からないのである。本読みをやっている段階では,作家が文字に書いたものを読むので,「うるさいわね」と読むが,一たん本を離して立ち稽古に入ると,自分の生理に密着した段階で,どうしても「うっさいわね」になってしまう。それから,「何とかだしぃ↑」と語尾を上げないと言えない。また「私たちに今必要なのは,生きる力なのよ」というのが,思いが高まってくると「生きる,力なのよ」となる。「生きる力」という一つの名詞であって,「生きる」と「力」を離しては考えられない。言葉というのは論理的にとらえないと表現できないのだが,そういう訓練というか,経験のない人たちが,本を離した段階で自分の生理と合わせようと思うと,そういう語り口でしかしゃべれないのである。こういう経験をして,国語が崩壊するのではないかという危機感を持った。
  このような現状を考えると,やはり子供たちに国語の勉強をしっかりさせないと,本当に日本語が分解してしまうかもしれない。今は,みんな省エネで短い言葉を使う。電車の中で「シュウカツした?」と大学生ぐらいの人たちが話しているので,何だろうと思ったら,「就職活動はしているか?」ということだった。コマーシャルでも「だれとメールをしている?」というのを「だれメル?」とやる。そういうのがはやり出したら,いよいよそれは格好いいということになって,大人たちが理解できない言葉をしゃべる子供たちが登場することになる。どこかで,国語教育をしっかりやっておかなければ,確かに算数も理科も社会も駄目になっていくと思う。
  昔から「読み・書き・そろばん」と言うが,ちょっと疑問に思ったのは,読むという中に,声に出して読むことが入っていたのだろうかということである。私が,これからどうしても必要だと思うのは「読み・書き・話す」である。話す時間というのが,国語教育の中にきちんと取り入れられるべきではないかと思う。それで,一つの方法として考えたのは,例えば,「好きなこと」という題で,作文し,それを読んで発表する。そして,発表を聞いた人たちがその感想を話すというような時間が持てれば,言葉に関心を持つチャンスができるのではないかということである。討論ということを子供たちに押し付けると,言えない人が出てきたり,そういう意見はいけないというので,いじめにつながることもある。だから,感想を話すというようなやわらかい形で,お互いに話す力,聞く力を付けていく,これは論理能力とか理解能力とかにもつながるものである。国語の時間に,10分間教育みたいな形で,そういう時間を持ったらどうか。子供たちが,本を読むだけではなくて,話すことに触れていく国語の時間を持つということを何とか考えていただきたいと思っている。

  第22期国語審議会において「表外漢字字体表」の作成に関与させていただいた経緯があるので,今回の分科会でも漢字の問題を中心に考えたいと思っている。
  「表外漢字字体表」が作成された背景には,パソコンなどの電子機器による国語表記が急速かつ広範囲に普及し,かつての手書き時代とは様相を異にした文字文化が現前してきたという事実がある。この電子機器を使っての国語表記は,今後一層推進されることが確実である。国語表記に使われる漢字は,昭和56年制定の常用漢字表によって「日常の文字使用の目安」が定められている。しかし,常用漢字表が制定されてから既に20年以上の時間が経過し,この間に日本の文化はいろんな面で極めて大きな変化を遂げている。電子機器による文章表記という,常用漢字表制定時には全く想定されていない行為が日常化しつつあり,小学生ですら携帯電話による電子メールを駆使する時代である。
  このような時代において,かつての「目安」が果たして今もそのまま有効に機能し得るのかという点について,問い直す必要があるのではないか。これからの日本において,文字,主として漢字は一体どのようにあるべきか。この問題を中心に考えたいと思う。

  私も,初等教育を中心に,目的を限定して,効果のあることをここで決めていくことが非常に大切だと思う。
  それとは別に,今の言葉の乱れを考えるとき,民放テレビの存在,その影響というのは極めて大きい。民放というのは,確かにCMでやっていかなくては駄目なので,言葉がひどかろうと,とにかく視聴率を取れるタレントを重用していこうというのが基本的な姿勢である。そういうことだから,今の時代の国語問題を考えるときには,民放を中心とするテレビというメディア,それに携わっている広告媒体,これも言葉を非常によく使っている,言葉を武器としている方々だけれども,こういう方面への関心を一層強めておく必要があるだろう。
  テレビの側からの発言や広告媒体も私は非常に大事だと思っている。省略語なんかはほとんど広告媒体を通して出てきているし,むしろ,そういう現場で言葉を扱っている方々に,これからどんどんこういうところで発言してもらいたい。そして,その方たちもここの意見を持ち帰って,自分たちの放映を通じて,国語の問題に良識的な判断をするということを是非考えていただきたいと思う。テレビ界からの大いなる発言を期待している。

  言葉の乱れというのは,今やテレビによる乱れが相当大きい。実際に,今,民放の言葉の乱れ,特にタレントによるものはどうしようもないし,アナウンサーについても一ころに比べると大分力が落ちている。しかし,タレントが若者の言葉をしゃべらないと,タレントとしての生きがいがないものだから,どんどん言葉を独創的に作って,それを流していく。確かに日本語の面から見れば,毒を流しているのが民放であると言われても仕方がない部分はあると思う。
  ただし,一方ではそうではない,いいナレーションの番組もあるし,言ってみれば,新聞社でも,週刊誌があり全国紙があるというように,テレビも,ニュースもあればバラエティーもある,いい番組も悪い番組もある,というもう少し広い観点で御覧いただければ有り難いなと思っている。
  日本語について,民放の責任,特にCMの責任だと追及されると,私は,言葉の問題,CMの表現の問題などについてもアドバイスをしているので他人事ではない。広告代理店の方とも,「倫理的にも,こんな言葉をテレビで放送できるとあなた方は考えているんですか」というような議論をよくする。非常に有名な大手の代理店ほど,センセーショナルであればいいという感覚の作品が増えている。その辺を我々は何とか阻止しようと思っているが,景気が悪くなると,少々のことは認めてしまえという営業要請と称するものがあって,これがまた日本語を悪くしているわけである。
  最近は,NHKのアナウンサーでも,ああ,このような発音をするようになってしまったのかと非常に悲しくなることがあるが,日本語を悪くしている原因が民放にあると言われても確かに致し方ないと認めざるを得ないと思う。
  それではどうしたらいいのかというところを幾ら考えても,やはり社会のシステムとしか言いようがないところがある。私が勝手に思っているだけであるが,言葉を悪くした原因は,経済成長,高度成長とリンクしているのではないかと感じている。かつては非常に礼節を重んじて,皆さん,非常に丁寧な敬語を使うことができたが,今や立派な敬語がしゃべれる方が少なくなってしまった。これからよほどまじめに取り組まないと,本当にきれいな日本語をしゃべる方がいなくなってしまうのではないかと考えている。

  放送にいる立場から言うと,責任を痛感している。ただ,言葉というのはある面で生きもので,乱れて,乱れた果てに,結局,落ち着くところへ落ち着くという形であって,日本語というのは,いつの時代でも,これが正しい,これしかないというのは余りない言葉ではないかと現場では感じている。
  例えば,10年前に,私と一緒に司会をしていた男性アナウンサーに赤ちゃんが生まれて,番組の中で「初めて赤ちゃんにミルクをあげる」と言ったら,「自分の子供にミルクをあげるとは何事だ」という抗議の電話が殺到した。ところが,今「赤ちゃんにミルクをやる」と言うと,逆に乱暴だという抗議が来るような状況がある。
  私自身も,歌手に「さん」を付けるか,付けないかで非常に悩んでいる。私は今までのマスコミ言語の在り方として「さん」は省くのが常識だと思ってきたし,基本要項の中でもそうなっているので,ずっと「さん」を省いていたら,『深夜便』という番組をやっている間は抗議が殺到した。世の中の流れに対して,マスコミにおける自分の言葉は,どういうスタンスを取り続けたらいいのかについていつも悩んでいる。
  そういう意味で,乱れというか,若者言葉は一つの文化の元気のバロメーターであるという面があると感じている。先ほどの初等教育が大事だというのは,だれもが同意することだと思うし,私も全くそう思う。ただ,私が申し上げたいのは,学校教育に限らず何とか地域教育の中で,幼年期,少年期の子供たちの言語環境を整えることができないだろうかということである。家族の形態がこれだけ今までと変化してきて,家族の中で,人間の情緒とか,作法とかを身に付ける機会が少なくなっている今,家族を補完するような機能を持った人の存在というのがすごく大切ではないかと思っている。
  この間,文化芸術振興基本法が成立したけれども,これを活用して,各市町村,各地域ごとに言語インストラクターみたいな人を置く。そういう人が,学校の教育とか,成績とか,そういうこととは全く離れた場所で子供たちと話をするというか,私は前回も世間話を何とか教育の中に取り戻すことができないだろうかと申し上げたが,会話がいかに人間にとって心地よいものであるのか,会話はこんなにおいしいものなんだという,会話のおいしい味を小さいうちに覚えさせたい。地域ごとに,言語インストラクターを育成することも必要になってくるが,育てるまでには非常に時間が掛かるので,とりあえず,言語に携わっていた方とか,周りから見てこの人の言葉はきちっとしているから,うちの子供の面倒を見てほしいと思われるような人材を探し出して,各地域に配置したらどうか。
  以前,うちのテレビ番組で大村はまさんがおっしゃっていたのだが,「司会者が子供たちに『あなたはどう思うの』『どうだったの』『それで』『それで』と聞いてばかりいる。子供たちに聞いてばかりいても,子供は決して心を開いて語らない。自分が語るべき言葉を持っている人が語り始めれば,子供は自然に寄ってきて,「僕ね,こうだったんだよ」と自然に子供の方から話し掛けてくるものである。」とおっしゃっていた。イメージとしては,そういう存在であり得る人物を育てていくということが,学校教育と同時に進めていくことができたらいいなと私は思っている。

  二つほど感じるところがある。一つは,子供のうちに初等教育の中で国語教育をしっかり行うのは当然のことだが,このごろ感じるのは,子供たちは言葉以外のことに反応するエネルギーがあり余り過ぎているのではないかということである。当然,教育というのは知育,徳育,体育であるが,体育とか知育に対しても表現することをすべて言葉でしかやっていないのではないかと感じるのである。感受性があり余っているので,子供たちは,大人の知らないところでの話し方とか,それからテレビのCMやタレントの言っていることがちょっと変わっているから格好いいとか,そういうことで,私どもが幼少期を過ごしたときに比べて子供の能力が余っているがゆえに,余計に過度に反応しているのではないかと感じている。したがって,言葉での表現ということを,ただ国語教育の中だけで考えていてもいい方向へ導くのは難しいのではないか。これはもっとほかの意味で,例えば何か仕事を与えて達成させるとか,達成感や成就感がないと,すべての意味で,どんなレベルでも人間の向上,教育としては難しい。この分科会では,そういうふうなところまでも敷衍したようなリコメンデーションを出していくのかなという感じもしている。
  それから,今のお話で,いろいろ抗議の電話が来るというのは,大人の中では,敬語とか丁寧語に対する感受性は今も大変大きいと思う。その中で,物事をもっと深くとか,広くとか,あるいは物事の本質がもしも変わっているなら,今の言葉でそれを盛り込んでいるのだろうかとか,その辺の形や言葉にならない不満が,すべて丁寧語とか敬語とかに対するコンプレイントになるのではないかと思う。
  それと,初等教育の中で基礎を身に付けても,実際にはどの社会の中でも,そこでの身の処し方や言葉の使い方を新たに覚えなければいけないわけであるから,国語の教科だけに頼っていてはどうにもならないのではないかと考えている。この間,生物学の先生の話を伺っていて,大変興味を覚えたのだが,人間のゲノムを研究するにしても,人間だけを見ていたのでは分からないそうである。ほかの動物のゲノムの配列と比較することによって,人間のことがよく分かる。だから,これがほかの教科であるのか,ほかの社会分野であるのか,またはよその国であるのか分からないが,国語の教科の中だけで考えずに,視野をもう少し広くして,どこに焦点を当てるべきかということも,これから討議しなければいけないのではないかと思う。

  今の御発言に触発されて意見を申し上げる。最近,息子と議論していて,「おやじの意見はとても民主主義で,ベタだからな」と一言で言われた。「ベタ」って何だろうと思ったが,若者にはそれで通じるのである。つまり,平板である,いつも同じことを同じ理屈で言っているという感覚なのである。これを批判しても余り意味がない。というのは,時代は全然違うし,一々事細かに挙げて説明を聞くようなことをしていたのでは,若者同士の中では意見交換ができないだろうから,そういう新しい言葉を考え付いて日常的に使う。これを国語の乱れと言っていいのかなと率直に思って,難しい問題だと感じた。初等教育をきちっとやるという御意見には私も大賛成だが,その際には,今の話とはまた別の問題として,考えていく必要があるのだろうという気がする。
  しかし先ほど,若い人が「うるさいわね」と言えずに,「うっさいわね」としか言えないということが出ていたが,これは国語の危機だという気がする。つまり国語教育のテーマというのは,恐らくこれだと思う。実は,私どもはブリティッシュスクール・イン・東京という400人ぐらいのイギリス人の幼稚園,小学生,中学生の子供を教育している学校を経営しているが,小学校にやはり国語に当たる授業,イングリッシュがある。私もその時に初めて知ったのが,アルファベットのAの発音を,イギリス人は13種類ぐらい子供たちに教えるのである。Aには一つしかないと思っていたら,発音が13種類あるというので,それをある時期に徹底的に教える。恐らくそれが国語教育の基礎ではないか。今まで,その辺のところをかなりいいかげんにやってきたような気がする。
  それから,教科書を見ると,小学校の前段階の教科書で基本的に使われている言葉は,日常生活にかかわる言葉しか使っていない。語数が非常に限られているが,全部子供たちの日常生活にかかわる言葉で教科書が作られているのである。このこともすごく大切なことだという気がする。だから,初等教育の国語教育というのは,もちろん一色ではないと思うけれども,ある段階では本当に基礎的なところをしっかりと教え込むというか,訓練するという部分があるべきだろう。そこのところが今までちょっと欠けていたのではないか。これをほうっておくと,日本語が本当に乱れてしまうと思う。
  若い人たちが自分たちの文化を伝えるということで,大人が分からない言葉を使うのは,私は日本語の乱れではないと思う。だから,その辺のところをきちっと区分けして伝えていかないと,若い人たちは受け付けてくれないだろうという気がする。

  今,新聞業界で話題になっていることの一つは,新聞を読まない人たちが増えているということである。我々の世代だと,大体新聞は読むものだと思っているが,読まない人がどんどん増えているわけである。つまり,新聞を取らない人が増えている。
  私なんかの感覚だと,さっきから古典とか,文学とか,いろいろと国語力の問題が出ているが,新聞を読める力というのは,多分日本の国民として最低限必要な力だろうと思うのである。つまり新聞を読んで,理解ができる。それでものを考える。社会とか日本の在り方について考える基礎的なものをそこで得るのだろうと思うのであるが,新聞を読む力がだんだんなくなっているのではないかと感じている。
  学校教育の中で,新聞を利用して教育しようという試みをしている先生たちがかなりいるが,そういう先生たちが新聞を読んできなさいと言うと,必ず「うちは新聞を取っていません」という子供がいるのだそうである。10人のうち1人ぐらいは,教室の中にいる らしい。ということは,小学生とか中学生を持っている親で新聞も読まない方がいるということである。その方たちも多分テレビは見ていて,それでいいということだから,恐らく古典や文学という以前に新聞を読む力もかなり落ちているのではないか。それに,あと10年ぐらいたつと,新聞を読まない人たちがどんどん増えていくように思う。そうすると,果たして10年,20年単位で見たときに,日常的に何を読んで,どのくらい読む力があるのかというのは非常に危うい。新聞を作っている側からすると,一体読んでくれるのがいつまで続くのかなという感じがしている。

  私のところで「筑波フォーラム」というのを開闢以来出していて,現在61号だが,そこで「日本語力を考える」という特集をしている。そこに,新聞のことが書いてあって,正確に調査したわけではないが,学生に手を挙げさせたところだと,500人ぐらいの学生を持っている国語の先生の話として30%から40%が購読している,それくらいだと言う。私はもっと率が高いと思っていたが,そんなものだという数字が載っていた。
  読書30冊というのも大事であるけれども,新聞をどれくらい読んでいるか,新聞社で調査して教えていただけると有り難い。学生はどれくらいが読んでいるかとか,どういう新聞を読んでいるかとか。これは商売の上だけではなくて,やはり新聞ぐらいは読まなければいけないだろうと我々は思うわけで,実態がどうなっているかというのは,日本における国語力の問題とも関連して非常に大事だと思う。そういう調査はないのか。

  あると思う。これは新聞を売るという商売に直結しているので,そういうセクションはあるように思う。探した上で,また御報告したい。

  提案であるが,一つは,初等科教育つまり小学校時代にポイントを置きたいという御意見がかなり多いので,そこでは一体どんな教科書を使っているのか,どんなふうに教科書が変わってきたのかをまず共通認識として持つのはどうだろうかということである。教科書が今一体何種類あるのか,どんなふうに使われているのか,また指導書や副読本などもたくさん出ている。私は短くて簡単な詩や文章を書いているせいか,教科書の採用率が多くて…,本当に無難で短くて簡単というのが教科書である。おかげで,いろんな形で先生や生徒さんたちとかかわっている。もしも初等科教育をポイントにして,つまり保育園,幼稚園の時代から小学校卒業までの子供時代をポイントにして,国語教育を考えていく,そして,その結果として,お母さんたち,地域の人たち,あるいは先生たちというふうに広げていくのであるとしたら,例えば,次回,現行の国語,社会,理科の教科書がどうなっているのか,一応それらを見て共通認識を持ちたいなと思う。
  もう一つは,こうやって伺っていると,なるほど,そういう見方もあるのかと大変感服する。私自身,自分の分野での具体的な出会いがある。そういうのを感想として伺うだけでは非常にもったいないので,こういう事態が自分の周りで起こっているとか,こういうデータを知っているとか,それこそ文書として毎月おみやげのように,是非いただけるものならいただきたいなということである。私の方も,自分のこの詩を読んで何歳の子供がこんな手紙を書いてくれたというような,かなりうれしい具体的な例を持っている。ここでのお話をずっと聞いていると,だんだん気が滅入ってくる。みんな嘆かわしいとおっしゃる。崩れていくとおっしゃる。もう駄目になるとおっしゃる。そんなふうに思っていたら,多分, 若い人たちは駄目になるしかないのではないか,期待にこたえて。だから,やはりこんなうれしいこともあるよ,こんなすごいセンスもあるよというデータもないわけではないと思うので,嘆かわしいのも含めて,それも,おみやげとしていただくという形ができると,うれしいなという提案である。
  最後に一言,省略というのは多分日本語独特のもので,江戸時代,あるいはもっと昔もあったと思う。私は今66歳だけれども,小さいころ「トテシャン,トテシャン」とうちの兄たちが言っていた。ドイツ語の「シャーン」と日本語の「とても」で,かなりの美人というのを「あいつ,トテシャンだよ」と使っていた。今の省略の中にも,そういうユーモラスな面白い言葉が出てくるので,私は捨てたものではないなと思っている。

  今の御意見に関連してだが,実は今出ている『文學界』は国語教科書の特集号で,その中で,齋藤委員と阿川弘之さんが対談していらっしゃる。そこに,中学校,高等学校の国語教科書の全リストが出ていて,同時に,いろいろな文学者の方たちがその教科書に対する感想も述べていらっしゃる。例えば,中学校のどの教科書にも「走れメロス」が出ているが,これに対する感想とか,その特集自体が,お二人の対談も含めて大変面白いので,その部分をコピーしておみやげにするのもいいかもしれないと思う。
  それから,言葉の省略に関しては,今の御意見に同感で,言葉というのは何にも増して面白い遊び道具であるという面があると思う。実は今年のお正月の初めに,姪と娘が面白がって「アケオメコトヨロ」と言っていた。これは「あけましておめでとう。今年もよろしく」というのを省略して,ほとんど確信犯的に戯れている。だから,そういう言葉のおもちゃとしての面で戯れているのは,「トテシャン」につながるような遊びで,それに関しては私は余り心配していない。むしろ乗ってもいいなと思っているが,先ほどの「うるさい」という言葉が言えない,言おうとしても言えないというのは,それは感受性としても,発信する場合でも,表現の幅が非常に狭まってしまっているということで,大変ゆゆしい問題だと考える。
  だから,ほうっておいても大丈夫という部分と,ちょっと本気で考えなければいけないという部分とを明快にする必要があると思う。

  二つほどお話ししたい。今,教科書のことが話題として出ていたが,学校教育の中での言葉の教育,要するに国語科という教科の中での言葉の教育は,学習指導要領によって,規範的な日本語の使い方を訓練するようにしていることはきちんと承知しておく必要がある。だから,小学生から高校生までは,教科書を通しながら,規範的な言葉遣いの在り方は学習しているという上で,実践としてそれが具体的に表れているか,いないかというようなことになってきて,社会現象的にはテレビなどに流される形が起こってきている。したがって,基本的なところは一応学習しているので,身近な人と話す場合と疎遠な人に対する場合とでは使い分けがあることは知っている。実際に,私に対して言うときは,学生同士で話をしているときの言葉遣いとは明らかに違う。そういうことのできる学生がいるわけで,夢も希望もないというような実態ばかりが出てくるけれども,必ずしもそうではないだろうということが一つ。
  それから,過去,国語審議会をずっと続けてきた中で,この問題は繰り返し検討され続けてきて,その時代,その時代において常に問題化していたということは承知しておきたいと思う。昭和47年の「国語の教育の振興について」という建議があるが,そこでは,学校教育,社会教育,家庭教育のそれぞれで,どうあるべきかということが検討されている。そして,平成12年12月に答申された「現代社会における敬意表現」で,現代社会における言葉遣いの在り方を検討してきている。したがって,国語審議会でも,その時代の中において,現象的に起こっている様々な問題をつつくと同時に,規範的なものはどういうものであるのかということの警鐘は常に掘り起こしながらやってきているわけである。今回もその一つであると私は考えている。
  もう一つ,『文學界』の5月号の教科書に対する感想については,教科書のリストは挙げてあっても,アンケートにお答えになっている先生方は具体的に教科書それ自体を手に取っていない。リストだけでアンケートに答えている。私もざっと見たが,編集者自身が国語科教育は文学教育なのだという思い込みがあって,それに即したアンケートのように見えた。だから,国語科教育自体を学習指導要領や教科書を通して正確に認識した上で,アンケートに答えているとは思えなかったという私なりの見方も申し上げておく。

  二つある。一つは,これだけの方々がお集まりになっているので,身に付けさせたい言葉の力をどのようにお考えになっているのかを皆さんに是非伺いたいということである。小学生,中学生,高校生に分けると細か過ぎるとすれば,小学生段階ないしは高校卒業段階で身に付けさせたい言葉の力とは何か。私たち教員は研究会で考えているけれども,教科書や学習指導要領だけで考えると,どうしても範囲が狭くなるので,もっと大局的に,どういう言葉の力を身に付けさせたいのか。単に現状分析でなくて,現状分析の次に,こういう力を最低身に付けさせたいという具体的な力を,是非お伺いしたい。
  もう一つは要望だが,この10年間ぐらい,小中高の学校現場レベルでは大分,音読,朗読,暗唱,群読,劇化等をやっている。さらに発声,発音,滑舌,声の大きさのコントロール,スピーチ等も広がってきている。これを何とか教室レベルを超えて,もっと全国的な動きにするような催しみたいなものが,文化庁辺りの音頭取りで何か考えられないかということである。全国高等学校文化連盟というのがあって,そこで演劇とか放送のコンクールはある。ほかに漢字検定や英語検定という検定試験が全国的にあることによって,そういう活動が教室に随分入ってきている。読書と言っても,ただ黙読をして読解するという方法だけではなくて,音声化して表現することが今学校に入ってきているので,更にそれを広げていくようなものができるといいなと願望も含めて考えているところである。

  私も,御意見を伺っているうちに,焦点を絞らないと議論が発散してしまうと感じた。その意味で,当分の間ということになるかもしれないが,やはり初等教育の問題にまず焦点を絞って議論すべきではないかと思う。
  初等教育の間における国語力に関して,自分自身が経験したこととして,中国から年配の方が研究員として来られたときの言葉遣いが非常にきれいで,本来の日本語を話しているということがあった。聞くと,やはりその方は小さいときに日本の統治下の中で小学校教育を受けている。また,私がカナダにいたときに,日本からカナダに行った家族がいわゆる英語のネイティブスピーカーになれるかどうかは,中学校までにあちらに住むようになったかどうかであった。それから,京都に18年間住んでいたときに,私の存じ上げている年配の方で,謙譲語,尊敬語,そういうものを非常にきれいに使い分ける方がいたが,これはやはりその方のおばあさんが宮中に仕えた方であるということで,小さいときからその言葉を聞いて育っている。
  そういうことで,正しく話せることも含めて,国語力を持つというときに,初等教育の間でほぼ根幹が作られてしまうのではないか。だから,先ほどから,民放の問題だとか,いろいろ出ていたけれども,個人としての国語力の根幹を作るのは,多分初等教育の時代である。そういう意味で,例えば10分間の読書運動というのも,私の姉が今飛騨の高山で初等教育の教師をしているが,国語を教える上で非常に役立っている。だから,初等教 育の間に,今の10分間読書も含めて何かやれることがないのか,きらりと光る国語力を養う上で何かできることがないのかを集中的に議論するのは意義があると思う。

  私からお配りした本についてであるが,3色のボールペンが付いている本は,3色の線を引くことにより,客観的な要約力を鍛えることと自分の感性で感じたところをコメントできるというところとをバランスよく組み合わせて学ばせることの大切さを述べたものである。それは,自分で話すよりも先に,書き言葉に線を引くという形で学ぶのがいいと思っている。話し言葉を論理的あるいは意味のあるものにしていくには,書き言葉で修練するのがいいと思うので,前回の提案を繰り返すけれども,総ルビにした推薦の図書をこの分科会から発信することを提案したい。それから前回も,小学校の教科書を配ってほしいと申し上げたが,次回は是非お願いする。
  もう一つ,お配りした「理想の国語教科書」という本は,タイトルは大変図々しいけれども,それはそれとして,収録してある作品は私がすべて小学生に試してみたものである。先週『マクベス』をやったら,大変な人気で続けて読みたいという小学生がたくさん出た。小学生というのは,こちらがなめないでちゃんと対すれば幾らでも力が出る。ここに収録したような作品を読むことも全く問題がない。このような具体策について議論していくことを提案する。


(文化庁国語課)

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