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文化審議会

2002/02/20  議事録
文化審議会第20回総会議事要旨

   
文化審議会第20回総会議事要旨
   
1. 日   時 平成14年2月20日(木)12時〜14時10分
           
2. 場   所 霞が関東京會舘 シルバースタールーム
           
3. 出席者    
    (委   員) 高階会長、北原副会長、市川、井出、内館、岡田、川村、北川、関口、富沢、中村、乳井、野村、藤原、黛、森、渡邊、の各委員
    (文部科学省・文化庁) 河合文化庁長官、御手洗文部科学審議官、銭谷文化庁次長、丸山文化庁審議官、遠藤文化部長、木谷文化財部長、鈴木文化財鑑査官、高塩政策課長、片山国語課長ほか関係者
           
4. 概要    
    (1)前期に引き続き高階委員が会長に専任された。
    (2)配付資料についての確認があった。
    (3)事務局より,「文化審議会運営規則(案)」についての説明があり,了承された。
    (4)事務局より,「文化審議会の議事の公開について(案)」についての説明があり,了承された。
    (5)河合文化庁長官から、審議会に対し「これからの時代に求められる国語力について」諮問が行われ、引き続き挨拶が行われた。挨拶の大要は次のとおり。

 諮問内容は大きく3つに分かれており、1これからの時代における国語の重要性と役割、2これからの時代に求められる国語力とは何か、3そのような国語力を身に付けるための方策などである。特に、「これからの時代に求められる国語力とは何か」の審議においては、どの程度の国語力が求められるのかという具体的な目安を示唆いただきたい。
 また、「国語力を身に付けるための方策」については、特に子供達の国語力の育成のための取り組みについて審議いただきたい。
 なお、今回の諮問にかかる審議の進め方については、国語に絞って審議をお願いするものであるので、国語分科会において、様々な分野からの臨時委員も加えて審議していただき、総会にも適宜審議状況を報告することとしてはどうかと考えている。
    (6)その後、次のような意見交換が行われた。

   日本人は、国語が大事だと新聞に載ると、受験の中で国語にウェートがかかるのではないかと誤解しやすい。報道の方たちにも、何故国語に重きを置いて考えようとしているか、本質を伝えていただきたい。
   
   国語分科会でこれから審議する必要があるようなことを総会から出していただきたい。例えば、方言を大事にすること、方言と標準語との関係をどうするかということがある。また、日本語は話し言葉と書き言葉の距離が大きいという問題もある。和語と漢語の混じり方といった問題もある。沢山の宿題をいただければ、分科会は仕事がし易くなる。
   
   私は英語よりまず国語だろうと思っている。子どもたちには国語をきちんと教えておきたい。先日、新聞に日本人スポーツ選手は、欧米の選手に比べて自分の意見や思いを話すのが圧倒的に下手だという報道があった。一方、若い芸能人は、往々にして自分をアピールするのがうまい。自分を印象づけるために、どうやって自分の思いを話すかを一生懸命考えて訓練しているからだろう。読み書きと同時に、言葉で自分の意志を伝えることを訓練すれば、出来るようになる。公の場での話し方の訓練を学校なり、家庭なりで見直すべきではないか。
   
   これは言葉だけではなくて、言葉の発言の場の問題もある。プライベートな場と公の場での言葉の使い分けということだろう。また、相手に自分の考えを通じさせるということには、価値観の問題や文化的背景の問題も絡まってくる。これから特に国際的に発言しなくてはいけない時には問題になろうかと思う。
   
   国語力、読み書きというのは論理的思考に繋がると思う。論理的思考が出来なければ自分の意見を公の場で語ることも文章にすることもできない。一方、日本人の国民性として自己主張することが和を乱すことだという誤った考えがあるが、それを解いていかなければいけない。そのためにも小学生のころからディスカッションやディベートなど、論争させる訓練をした方が良いと思う。
   
   論理的思考、ディベートの重要性ということは是非ご検討いただきたい。自己主張をしながら和を保っていくやり方というのもあるはずである。
   
   今回の諮問は大変重要な諮問であるが、この諮問で言っている国語を使う人は一体だれを想定しているのか。国の統計では50年後には出生者数が現在の半分くらいになっていると言われており、今後、日本の経済力を維持していくためには急激な勢いで外国人を受け入れなくていけない。その際は、外国人労働力の問題とか経済の問題ではなくて、文化の問題そのものとして国語力を捉えるべきだと思う。今回の国語の議論をする時に外国人の国語力の問題をどう考えるのかということもご審議いただきたい。
   
   これは今後大きな問題になってくる。日本語もブロークンイングリッシュのように分かりやすくしようという試みも無かった訳でもないが、賛否両論であった。全く母語でない人に対する日本語は、教育という観点からも無視する訳には行かない。その方策をご議論いただきたいと思う。
   
   規範性のある言葉という問題もある。法律用語など、規範性のある言葉が広がっており、そうした言葉は我々を拘束するのでその点を少し考えていくべきではないかと思う。また、外来語の表記の問題もある。例えば「デジタル」など、全国民が外国に行って通用しない言葉を覚えるというのは大変で、それを切り替えるというエネルギーも大変である。
   
   最近の学生を見ていると、ワープロを多用するためか非常に漢字の能力が落ちていると思う。漢字の能力の低下は造語の貧困さにも繋がる。そういう意味でも漢字の能力というのがこれからも重要ではないか。また、臓器移植に関し、英語の「ドナー」を「提供者」という言葉で表現しているために、ニュアンスがずれるいうようなこともあり、造語には限界がある。このほか、作文教育が重要である。我々は思ってもいないことを書くことができないところがあるが、こういう立場だったら、どう主張をするかということを訓練する必要がある。
   
   最近テレビを見ていてもディベートになっていないディベートが多い。言いたいことだけを言うだけで、後が進まない。
   
   江戸の市民が大喜びした芝居の台詞も今の我々では分からない。当時は寺子屋で武士などが史記とか論語を用いて教えていたので、江戸の市民は理解できたのである。言葉はその教科書と教える人の態度によって、方向性が違ってくることに留意する必要がある。また、私たちの言葉には覚える言葉と考える言葉の2通りある。覚えるということでは、演劇を取り入れるということは良いことではないか。それから、言葉というのは全部相手に伝わるものではなく態度によって変わる。これからの教育においては、態度と言葉のバランスを考慮しなければならない。
   
   外国の俳優へのインタビューを見ていると、見事に自己アピールしている。教育の違いを感じる。また、後の時代に生まれたということは、長い歴史で培われた日本語の美しさ、良い作品を享受できる訳であり、古典をもっと朗読し、暗記するということを基本にしなければいけない。地域の中にも古典を教えるような場があったら良い。文語文の美しさというようなものを伝えていくべきと思う。
   
   この諮問は非常に時機を得ている。今春から、国語の授業時間が大幅に減らされる。教育の場における国語力が相当落ちてくるということが懸念される訳で、そこを社会全体でどのように補填していくか、或いは向上させていくかということが非常に重要な議論になる。色々な立場での意見を戦わせていけば、工夫によって国語力を持ち上げていく、押し上げていくということも出来る。
   
   表現力を身に付けさせるのは訓練だと思うが、ベースとなる活字・活字文化が非常に大事だと思う。小中高校生にも本を読んでもらいたい。活字にどう親しませるかということをこの審議会で考えていきたいと思う。また、方言の問題だが、地域の文化において地域と方言は一体のものであり、方言が失われることで列島全体の文化としての膨らみ、厚み、多様性などが失われていくと思う。
   
   技術用語などで新しい言葉が入ってくると、以前の言葉と混乱してしまう。また、不正確に造られる造語も大変問題で、これはカタカナだけではなくて、漢字でも同じことが言える。明治時代にはしっかりした漢字学、漢語学などの素養があって直されていたが、段々日本の中で独自の発展、展開をしていくと、その中で分かりにくい言葉ができてくるのだろうと思う。
   
   私は仮名まじりの文語体が非常に好きで、特に今昔物語とか平家物語とかの表現というのは実に素晴らしいと思う。普通の文体では表現できないものを伝えられる文語というのを十分評価されるべきだと思う。また、漢文、漢語というものも非常に重要だと思う。
   
   国語の重要性を訴えても、現実には文部科学省は国語の時間を減らしている。また、現代の子どもたちの言語にテレビは大きな影響を与えているが、テレビにおける問題というのは、言論の自由により一種の触ってはいけない領域のような形になっている。この2つの大きな問題を抜きに話しても意味がない。
   
   授業の時間の削減が学力の低下に繋がるのではないかという批判があるということは十分承知している。しかし、子どもの1日の生活、或いは6年間なり9年間なり12年間の生活の中をどう整理していくかということの1つの結果として、新しい学習指導要領ができている。国語の授業時間数は減ったが、学校の教育活動全体を通じて国語力が育まれるという部分もある。制約の中で何をやるかということを考えていることをご理解をいただきたい。
   
   私は文部科学省の考え方は全く受け入れられない。他の科目と国語は対等の関係にないと考えている。文化審議会においては、国語学上の国語の問題に議論を終始させてはならない。国語の重要性は2つある。まず、第1に国語は思考と言語の両方を司る。言語というのは思考を表現する手段であると同時に言語を用いて思考するという側面がある。国語は、全ての知的活動の基礎であり、教養の獲得の第一手段である。第2は、文学的側面、日本人としてのアイデンティティということがある。私たちは、文学作品などから、アイデンティティを獲得できる。或いは、美しいものに感動する情緒は、美しい詩や文学作品を読むことによって得られる。これがないと、大人になってから総合判断力が身に付かない。独創力も同様で、最も重要な要素は、美しいものに感動する力である。したがって、国語教育については、文化政策として考えていく必要がある。
   
   言葉は日本人の特有の感性であり、日本人がこの風土の中で何百年、何千年という歳月の中で蓄積してきた美意識、感じ得る心だと思う。伝達する機能や論理的な思考のためでなく、心の豊かさを育む言葉が日本語にはたくさんある。そのような言葉に出会ったときの喜びを子ども達に教えなくてはいけない。そのためには魅力的な先生を育てていかなくてはいけない。
   
   国語力というのは、まずその定義、範囲から入っていかなければいけない。国語の運用能力とか国語的思考能力とかを総合して国語の力だと思うが、「読み」「書き」「話し」「聞く」それだけではなく「教養力」「文化力」みたいなことになると、これは国語分科会を超えて、総会で議論した方がいいのではないか。
   
   今回の諮問は最終的には総会で答申と言うことなるが、まずは国語分科会の方でお願い申し上げたい。
   
   これからの審議は国語分科会が中心になるが、総会においても議論していきたい。国語力というのは、論理的思考力、感動する能力で、共感する能力、伝達能力などすべてを含めたものだと思う。特に教育に関しては、国の文化政策にも関わるので、忌憚ない意見をいただきたいと思う。
   
   
  (7)事務局より、次回総会の日程についての説明があり、閉会した。
   

 

(文化庁政策課)

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