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文化審議会

2001/07/23 議事録

文化審議会第9回総会議事要旨

文化審議会第9回総会議事要旨

1.日時

平成13年7月23日(月)14時00分〜17時00分

2.場所

霞が関東京會舘シルバースタールーム

3.出席者

(委員)

高階会長、北原副会長、市川、井出、内館、岡田、齊藤、関口、津田、富沢、乳井、野村、黛、森、脇田の各委員

(文部科学省・文化庁)

佐々木文化庁長官、銭谷文化庁次長、天野文化庁審議官、遠藤文化部長、木谷文化財部長、鈴木文化財鑑査官、高塩文化庁政策課長  ほか関係者

4.概要

(1)  配付資料についての確認があり、前回議事要旨については、意見がある場合は1週間以内に事務局に連絡することとされた。

(2)  品田雄吉氏(映画評論家)より意見発表があり、その後、意見交換が行われた。

【品田雄吉氏の意見発表の概要】

  外国から輸入される映画の裸体描写は、関税定率法(第21条)により、輸入禁制品に該当しないか税関で審査されている。そして輸入禁制品と判断されれば没収・廃棄か、積戻しとなるが、その処分に不満があれば、関税等不服審査会において不服申し立てを行うことができるという制度になっている。
  過去、外国映画で税関において輸入禁制品に該当すると判断されたもののうち、不服を申し立てたものはなかった。それは申し立て手続き、審査等で時間がかかり、映画の公開が遅れ、経済的な損失が生じる可能性があったからである。そのため、映画会社は税関で指摘された箇所を自主的にカットをするなどして修正し、通関していた。
  「オルランド」という映画が8年ほど前に輸入され、時間にするとわずか5秒ほどの裸体の描写であったが、税関で輸入禁制品であると判断された。それに対し、映画を輸入した会社は、当該描写は映画が成り立つためには不可欠であるとして、外国映画ではじめて不服申し立てを行った。そして審査の結果、関税等不服審査会は「輸入禁制品には該当しない」との結論を当時の大蔵大臣に対して提出したのである。この程度の表現で通関させるべきかどうかを議論しなければならない文化の程度とはどのようなものなのか。この前例もあり、現在では税関での審査は解釈上緩やかになり、性的な行為を連想させない裸体は認められることとなっている。
  関税等不服審査会の輸入映画部会では、映画や出版物を対象にしているが、DVDなど対象とすべきものが格段に増加し、また、インターネット等を通じて情報が自由に流れているなかで、水際で阻止することにどれだけの有効性があるのかという議論も出てきている。
  税関で輸入の適否について厳格に審査している一方で、街のコンビニで購入できるグラビア雑誌の方がよほど内容が過激である。海外から輸入されるものについては関税定率法が適用され、国内で販売されるものについては刑法が適用される。しかし警察庁と財務省との間で規制の基準についての連携は図られてはいない。現状は国内で販売されているものの方がはるかに過激である。
  税関における映像表現に対する審査は緩やかになり、現在は望ましい状況だが、解釈によって緩やかな方向へと方針が変わったように、同じく解釈次第で違う方向へ向かう可能性もある。表現の自由は重要であり、この自由さがなくならないような時代が続いて欲しいと望んでいる。

【品田雄吉氏と委員との意見交換】

【委員】

  文化的な表現に関する許容の程度について国際的に基準が異なっており、文化が普及していくときに様々な問題が生じている。また、国内に限っても、財務省と警察庁というように縦割りの問題がある。統一的な文化政策の実現のためには横の連携を図っていくことが重要である。

【委員】

  インドでは、芸術は性と不可分であり、人間の根本に関わる問題として非常に高度に展開している。しかしながら、大学の講義で性も含め取り上げるにはためらいがある。

【委員】

  日本の浮世絵も同様に性と不可分であるが、最近は教室で扱う教官も出てきた。アメリカでは、春画の講義を始める前には講師が講義の内容を予告し、抵抗がある人は出て行って下さいということを言っている。文化交流の場合、理解だけではなく、抵抗を感じたり衝突することもある。それをどうするかは大きな問題。

【委員】

  一流と言われるホテルにまで有害なビデオが流れているのは問題。

【意見発表者】

  求める客がいるから供給するのだろうが、ホテルの良識にも関わる問題であり、単にニーズがあるからそれに応えるということではいけない。

【委員】

  当然、映画も文化的な表現物であり、著作者の人格の発露である。著作物の無傷性、同一性を確保するという著作人格権の観点から考えると、それをカットなどによって改変することについては、適正に調整が行われるべきである。例えば、テレビで映画を放映する際にコマーシャルを挿入する場所も、本来は著作者自身が同意すべきことである。裸体のフレスコ画に教育的配慮から布をかけた事例について、これは著作権の侵害であるという判決が以前ドイツで出されたこともある。文化的表現については、著作権の観点からも気を使うことが必要である。

【委員】

  著作権は重要であるが、国によってその基準が違うことがあり、国際的な調整についても考える必要がある。

【委員】

  表現の自由は守られなければならないが、猥褻か芸術かという問題は昔からあり、その間の線引きは非常に難しい。コンビニの過激なグラビア雑誌にビニールをかけて販売すべきだとの議論もあるが、そのことについて意見を伺いたい。

【意見発表者】

  アメリカでは性的好奇心をあおる雑誌は、子どもが見ないよう、商品棚の高いところに置くなどの配慮をしている。自ら選択できる、判断力を持った大人については自由であるべきだが、子どもに対する配慮は必要である。

【委員】

  芸術か猥褻かという問題の立て方に限界がある。芸術かつ猥褻というものもあるし、芸術であれば許容されるのかという問題もある。

【委員】

  特に由々しき問題は、少年少女向けの雑誌に正視に耐えないものが多いということである。将来の文化を担う子どもたちがこれらにさらされているという事態を改善しない限り、本審議会における、文化を大切にする社会という議論も実態を伴わないものとなってしまう。

【委員】

  社会に氾濫している正視に耐えない写真集などを、野放しにしておくことには問題がある。表現の自由と単なる野放しを区分することは非常に難しく規制が強くなりすぎてもいけないが、犯罪にもつながりかねないものであり、何らかの対応を考える必要がある。

【委員】

  日本の映画界の状況や、フランスなど西洋における映画振興への行政の関わりなどの状況についてご教授願う。

【意見発表者】

  国家が最も映画支援に力を入れているのがフランスである。例えばテレビ局は売上の一定金額を映画の制作に還元することが義務付けられていたり、優れたシナリオ作品の映画化支援よりさらに踏み込み、映画をその企画の段階から審査し、それが優れたものであればシナリオを書くことに対しても助成をするなど様々な形で支援をしている。西洋ではEUと各国でそれぞれ映画に対する支援策があり、複数の支援を受ければ結構な資金が集まる。それゆえ各国合作の作品が多い。アメリカはハリウッドが目立っているが、それ以外の映画も多く、政府が基金等で援助を行っている。民間による支援も盛んで、サンダンス・インスティテュートなどが映画祭を行ったり、脚本家を世界から呼び集め、実際に映画の制作などを行ったりしている。日本は最も映画に対する支援が遅れており、まだまだ不十分である。

【委員】

  オープンに議論していく中で、好ましくないものがだんだんと姿を消していくようにはできないだろうか。

【意見発表者】

  好ましい文化と好ましくない文化との明確な線引きはできないし、また、国家権力で線引きしてはいけない。結局、議論を繰り返しながら、道が選ばれていくのであり、それが健全な方法であろう。誰かが方向を決めてしまうと、そこで思考が止まってしまう。それは創造活動にとっては危険なことである。

【委員】

  負の部分をどうするかの議論がないままに、多チャンネル化など技術が進んでいるのは問題である。

【委員】

  映画の制作に初めて挑戦しようという場合に、日本では過去の実績がないと支援が受けられない。

【委員】

  フランスは実験的なものや、初めて作品を作ろうとしている人への援助がある。映画を文化として捉え支援するという方向は必要。

(3)  鈴木忠志氏(演出家)より意見発表があり、その後、意見交換が行われた。

【鈴木忠志氏の意見発表の概要】
(舞台芸術の振興と劇場)

  人間が集団で開かれた活動を行う場合には、最低限のグローバルスタンダードというべき考え方やシステムが必要である。世界水準の芸術文化の創造を考えた場合、グローバルスタンダードなシステムが備わっていない日本の現代演劇に限っていえば、現状のままではその実現は当面難しいだろう。
  グローバルスタンダードなシステムとは何か。それは、「劇場」の存在であり、日本には「劇場」がないのである。
  劇場は芸術活動の一番重要な拠点であって、劇場自体が一つの作品ともいえ、このことは国際的に常識的な基準となっている。日本には約3,300の自治体の中に2,600ほどの公共ホールがあるが、2、3の例外を除き、それらは劇場といえるものではない。それは、作品を自主制作できる事業集団がないからである。現在公共ホールにおいて自主事業と称して行われている、外部でつくられた作品の自主財源による招聘事業はここでいう自主制作には該当しない。事業集団は、演出家、振付家、プロデューサー、照明の専門家など10人前後の構成であってもよいが、そのような集団が施設を一定程度、優先的、独占的に使用でき、教育事業も含んだ文化活動ができるような制度が整っていないのである。
  事業集団が存在することにより、そこで芸術作品が作られ、そのプロセスに市民や一般の観客が接することで教育事業が発生する。また、事業集団がいるということは、それだけ就労の場の確保にも繋がる。専属の楽団や劇団は必ずしも必要ないが、ともかくそこで作品が制作されることが重要なのである。
  このような要件が満たされてはじめて劇場と呼べるわけだが、劇場の事業集団の責任者には行政官出身ではない文化関係者が就くべきであり、予算の執行・調整権や人事権が保障されていなければならない。
  日本では劇場が成立していないが、それは、日本の公共ホールが、集会場の確保などを目的として公共事業として建てられたものであり、文化政策として建てられたものはないという歴史的な背景による。したがって、その使用については、公の施設として差別的利用をさせてはならないという地方自治法による制約を受け、特定団体の優先利用、長期使用ができなくなっており、地方における劇団の設立や活動の妨げともなっている。
  現在求められているのは、劇場を文化政策の面からつくり出すことである。そのためには、劇場についての社会的コンセンサスを公的なレベルで作ることが望まれる。また、今後、市町村の広域合併が進み、余剰的公共ホールが多く出てくるが、ここに事業集団が置かれた「劇場」をモデルケースとして作ることなども考えられる。
  新しい政策として、一定のレベルを満たした公共ホールを劇場と認定し、事業、人材に公的な助成が行われるようなシステムへと切り替えて行くことが必要と考える。

(演劇の現状)

  演劇は、制度的な面で大変遅れているが、これは、演劇が歴史的に反権力、反行政的な側面があったということと同時に、劇団数も多く、莫大な収入を上げる劇団もあるなど、演劇界に力があったということでもある。
  今の演劇界の集団は、その多くが俳優だけの集団であり、稽古場などの施設を有しておらず永続性がないものとなっている。また、本当の意味で競争社会の中で水準を上げていくという意識が弱く、心情的に活動しており、プロとして自立していく気持ちがない団体も多い。
  現在、演劇界は二極分化が進んでいる。一方は市場経済の中で大きな宣伝力、資金力、国際的なネットワークとそれに伴う情報を有している。もう一方は、インターネットの発達によりますますその数は増えているが、趣味の延長と考える人たちだけが集まったものでその活動はアマチュア的であり、マスコミなどの情報に一方的に追従してしまっている。演劇界は確実に崩壊してきており、どのような基準で支援を行うのかが非常に難しくなってきている。
  演劇に対しては、現在、アーツプランや芸術文化振興基金などの支援策があるが、観客数、事業内容や予算規模等、一定のチェックを行う機関が必要となっているのではないか。

(人材育成)

  このような中にあって、今、教育が最も大きな課題となっている。つまり、演劇をやりたいという欲求があった場合、インターネット時代においては瞬時にコミュニティが形成されてしまうため、情報が整理されることなく結合してしまう。総合的に物事を判断した上で自分の意志が形成されずに、演劇を見ないままに演劇人が形成されているのである。インターネットは自分の都合で情報を取捨選択できるため、結論に到達するまでに議論というプロセスを省くことができるものであり、集団的、公共的な合意形成をする場合の危険性を感じている。
  生身のエネルギーである演劇には劇場が必要であり、教育も劇場という具体の場所で行われるべきである。教室において座学的な形でやるのではなくて、異質な人間が集まる空間での新しい教育システムを考えなくてはいけない。地域づくりという観点からも劇場は必要だろう。
  教育を行う際に重要なことは、世界水準の人材を育てるのか、人生を豊かにするために演劇の見方を教えるのかについての境界をはっきりさせることである。この部分を曖昧にしたまま、在外研修などで外国において少々勉強してきた者がワークショップや演劇教育を行っている。これは大変危険なことである。日本の伝統芸能や伝統文化に対する造詣や外国における演出実績など、教える側についても基準をはっきりさせるべきであり、その基準に達していない者は教えることをするべきではない。
  アメリカでは芸術家に対し、ある一定の時期にパトロン等が集中的な支援を行うことで、公共財といえるほどに芸術家が伸びるが、日本ではそれができない。それは、集中的に投資する時期を判断する者がいないことと、支援をするのなら貧しい者に対してすべきという、特定の個人への重点的な投資に対する抵抗が強いことによる。世界水準の芸術文化の創造を考えるのなら、これは今後の重要な課題である。

【鈴木忠志氏と委員との意見交換】

【委員】

劇場における事業集団について外国の成功事例をお教え願いたい。

【意見発表者】

  欧米の殆どの劇場が事業集団というシステムとなっている。ただし、どこの国も映画やテレビの影響で演劇の客が少なくなってきてはいる。
  また、第3回シアターオリンピックスがモスクワで開催されたが、経済的に厳しい状況といわれているモスクワ市がそのために2つの劇場を作り、若手演出家に企画も含め一任し、成功を収めた。彼らが、「このポストを誰かにとられないように頑張らなければいけない」と言っているように、制度としての場所があり、芸術家たちがそこをめぐって競争し合うことが重要である。

【委員】

  公的支援の場合は、監督の選び方が重要ではないか。

【意見発表者】

  地方自治体においては文化も政治家の政策の一つであるべきであり、内容には介入しないが、トップの人事は政治家が責任を持って決断し、そしてその責任は住民が追及するという形が望ましい。その際には任命時に解任の要件を明確にしておくことが大切である。

【委員】

  全国でどのくらいの数の事業集団が適正か。また、この種の劇場が、公共的である必然性がどこまであるのか。

【意見発表者】

  公設民営方式で、最初に自治体や国が方向性を示し、その方向で自立していくのが望ましいと考える。その結果、経営的にうまくいくのであればそのまま民営でやればよい。その際には、国もある一定の要件のもとに道州制に近い範囲に公的な劇場を認定し、自治体はこれに対し予算措置をし、予算、人事権のある管理者を就任させるとともに、事業スタッフについては就労の場として公募すべきである。
  今、日本にある公共ホールは宝の持ち腐れとなっている。その一方で、市場経済時代になって、需要があるならそれでもいいではないかと、株式会社が公共ホールを独占使用するような流れも出てきている。ここで再度、公共ホールや劇場とはどういうものかということを見直す必要がある。

【委員】

  地方に専門家集団が存在し、芸術が花開くのは大変素晴らしいことだと思うが、専門家集団は地方へ行きたがらないのではないか。

【意見発表者】

  私は比較的地方を拠点としているが、それは地域住民を対象とするということではなく、集中力を高めたり、ものを考えたり、国際的なネットワークを作るのに地方が効率がいいからである。スポーツ選手は東京で強化合宿を決してしないが、演劇人だけが東京に居たまま世界的なレベルの集中力を養えるのか疑問である。集中力を保つためには、一流の人はどんな場所にも行くし、行くべきである。
  アーツプランや芸術文化振興基金などは、東京に本拠地を置いている一流とはいえない劇団のための支援策となっているように感じる。地方の公共ホールで行っている自主事業も、結果として東京の劇団に財源を吸い上げられている構造になっている。この構造は打破されるべきである。現在の劇団の数は多すぎるのであり、淘汰されるべきである。その線引きは行政では難しいので、市場経済が行うことになるだろう。
  本来、地方に劇団を作ることは地元に経済波及効果をもたらすものであるとともに、若者の集団が存在するということ自体が地方の振興になるのである。しかし、こうした若者による精神的な公共事業が行われる土壌が日本になくなってしまっている。行政にも、反権力、心情主義でやってきた演劇界にもそのような意識がなかった。
  その結果、国立の劇場がなかったら成り立たない芸術家や、自治体の予算がなければやっていけない芸術家を大勢出してしまった。今、政策的な大転換が求められているのである。
  演劇界は、実力のある人は自立し生き延びることのできる社会であるが、それでは大資本の一人勝ちになり、芸術の分野も画一化されてしまい、行政の支援は一流以外の救済対策という形になってしまう。それで良いのかというのが私の問題提起である。

(4)  太刀川瑠璃子氏(舞踊家)より意見発表があり、その後、意見交換が行われた。

【太刀川瑠璃子氏の意見発表の概要】
(戦後の日本におけるバレエ)

  焼け跡の名残がまだ消えやらぬ終戦の翌年に「白鳥の湖」が上演され、戦後の芸術に飢えていた観客の心を癒した。これが戦後のバレエのスタートであった。欧州においてバレエは、オペラ同様に、劇場に所属し、養成学校があり、観客がいて、そしてそれを国家や自治体が支援して成り立っている芸術であった。しかし、日本ではそのようなものが何もない状態で、バレエダンサーたちの情熱だけでスタートしたのである。
  昭和29年アメリカからアントニー・チューダーという振り付け師を招請した。彼の振り付けは人間の心理を描くものであり、その振り付けによって初めておとぎ話の世界ではない大人の世界を描くバレエに触れ、これが本当のバレエだと衝撃を受けた。これを見てバレエを一生の仕事としていくことを決意した。その後昭和40年にスターダンサーズバレエ団を組織することになった。バレエが一般大衆の支持を得ていくためには、「白鳥の湖」を繰り返し上演するだけでなく、創作を行っていくべきとの考えのもと、ナショナルのバレエを作ることがその究極の夢であった。チューダー氏からも、「日本の言葉でバレエを創ってこそ世界に並ぶことができる。」と激励されてのスタートだった。しかしながら、「白鳥の湖」には人が集まるが、創作バレエには客があまり集まらないというのが現実であった。

(バレエへの社会の関心)

  スターダンサーズバレエ団はその後財団法人となったが、企業のバレエに対する知識、関心は低く、法人化の際の資金集めには非常に苦労した。バレエという世界は一見華やかで、日本において盛んになっているように見えるが実はあまり知られておらず、資金集めどころか、その普及すら困難な状況だったのである。現在でも最も苦労するのは、公演の資金集めである。国の支援と切符代だけではまかない切れず、企業から寄付を集めるのだが、舞踊は企業メセナの対象としては考えられていないのである。

(今後に果たすべき役割)

  文化芸術の振興において、国や地方にできることは何か。それは、自然と社会の環境整備である。文化や文化人というものは作るものではなく生まれてくるものであり、そのための環境を整備していくべきである。
  例えば、ソフト面での環境づくりとしての芸術に触れる教育については、中学校からでは遅く、芸術の素晴らしさを感性として受け止められるよう、幼稚園、小学校の段階から始めることが大切である。
  ハード面については、戦後の日本は昔からの良いものを壊してきており、町並み保存など、古来の建造物や景観を大事にしていくべきである。
  また、創作活動における文化遺産も重要であり、バレエ、オペラや能、雅楽などの文化遺産は、国の内外を問わず補助育成が不可欠である。
  現在、生活者の心の糧、教養としての文化行政が求められており、いいものが理解できるような幼少からの環境づくりを文化行政として考えていくべきである。
  今、長期的な観点に立ち、より深いところから文化行政を考えていかなければ日本は衰退してしまうのではないかと考えている。

【太刀川瑠璃子氏と委員との意見交換】

【委員】

バレエの伝統を受け継ぎつつ、日本の言葉でバレエを創っていくことは重要であるが、新たな芸術の創造は、市場原理だけではうまくいかない。

【委員】

  日本にはバレエを鑑賞するという風土が育っていない。その中で芸術に対する理解を高めるためには、何歳ぐらいから芸術に触れさせた方がよいだろうか。

【意見発表者】

  日本は町のバレエ教室の数は世界で最も多い。世界には専門家を育てる学校はあるが、アマチュアを育てる学校は少ないのである。しかし、バレエ教室が多いことは鑑賞者の増加にはつながらない。人々は孫や子どもの発表会は見に行くが、それをバレエのすべてと認識し、本物の方には足を運ばない。だからバレエの先生としては生活できるが、プロのダンサーとしては生活していくのはかなり厳しいのが現実である。
  本物の芸術にはできるだけ小さいうちから触れさせるべきである。目に見せるものがいいものであれば、それは永久に心に残っていくものである。

【委員】

  小さいときから本物の芸術に触れることは大切なことである。

【意見発表者】

  バレエでもその他の稽古事でも、まず好きにならないと続かない。その年齢に興味を持つような作品を選んで子どもたちに触れさせることが極めて大切である。大舞台ではなくても、目の前で展開される人間の動き、そこから流れる情緒に対し、子ども達は大変喜び、興味を示すのである。相手に伝わるものをこちら側が提供するべきである。

【委員】

  本物の場で芸術に触れることも重要であり、例えばドイツでは特別の日を設け、低年齢の子どもを劇場に受け入れるようなことがあったが、日本では低年齢の子どもは入場禁止となっている。足下の部分が弱いのではないか。

【委員】

  日本は芸術に対する認識が貧弱であるが、グローバル化社会の中で日本がしっかり生きていくために、この現状をどうすべきかを長期的に考えていかねばならない。知育・徳育ではなく、芸術の感覚で人間を養うアフォーダンスのための教育が必要であるが、受験につながらないものに対してはあまり力が入れられていない。これは、文化庁と文部科学省の縦割りの問題でもあるが、教育について根本的に考えていく必要がある。

【委員】

  日本には古来、家元制度があり、小さい頃から教わっていく過程で、名取り・師範など一つ一つ目標を設定している。するとその目標実現のために他人の公演を鑑賞しに行くものである。また、稽古の始めと終わりに、指導者に対し礼を尽くすよう指導しており、それが日本の文化の最も素晴らしいところであるが、バレエでの取り組みはいかが。

【意見発表者】

  生徒本人は実力向上のため、やはり公演を鑑賞しに来ているが、本人は鑑賞しに来ても、親が観客へとは繋がらない。バレエは親が子どものスポンサーになっており、子どもがいなくなれば、それで縁が切れてしまう。バレエ全体のスポンサーになっていただけるのが望ましい。
  また、バレエも指導者に対して礼を尽くすようにしているが、生徒の親の年齢以上の人々の礼儀は乱れており、その浸透は難しい。

【委員】

  バレエの稽古場や家庭のピアノ保有台数の多さについては、心の豊かさを育てるためというよりも親の見栄というものが関係しているのではないか。また、「劇場があるが劇場はない」というように本物の芸術が育っていない状況は、文化政策が欠けていたことに原因があったと考えられる。「心の糧としての文化行政」が、我々文化審議会に突きつけられた大命題である。子どもの心を豊かに育てることが将来の日本を文化国家として豊かに成長させていくのであり、ここに重点をおいて考えていくべきである。

【委員】

  欧米や中国では芸術分野の専門学校が充実しており、そこで芸術教育が行われている。日本にも芸術教育を行う専門学校は必要であろうか。

【意見発表者】

  一番必要なのは最初に学校である。欧米では、バレエに適した素材を集め、その中から専門家養成学校に入り、そこで優れた人材が育っている。日本でも、ある専修学校にバレエを取り入れていただいたが、高校卒業後では遅く、バレエを志す者は中学校卒業後に海外へ流出してしまう。日本人のバレエの水準は世界にひけをとらないが、海外で育った優秀な人材は、日本へは戻ってこないし、戻って来たくとも活躍の場が限られてしまうというのが現状である。

【委員】

  バレエなどを根付かせ、伝統芸能を存続させていくためには、行政や教育だけでなく、社会全体でそれらを大切にする機会をつくっていく努力をしなければならない。押しつけでは効果がないが、普及のための活動を根気強く頑張って、良いものを根付かせていくことが大切。

【意見発表者】

  アマチュアとプロのけじめをはっきりさせる必要がある。アマは自分が楽しむものであり、プロは人を楽しませることが目標であるから苦しさが生じる。日本はその辺が曖昧であり、プロが育つ上での課題となっている。

【委員】

  プロの育成で重要なことは、スターを育てるということである。スターの存在によってその道が盛り上がっていく。
  学校という面では、歌舞伎界全体が学校の役割を果たしている。そこでは先輩が他人の子どもを叱り、育てている。今、日本で足りないのは大人が子どもたちを叱るということである。勇気を出して文句を言うことが日本を変える原動力となるのではないか。専門家育成のための学校の創設については、学校を出た後の受け皿の問題も考え合わせながらその是非について論議しなければならない。

【委員】

  バレエの場合、スターが海外に行ってしまわざるを得ないことが問題であり、システムとして考えていくべき課題である。受け皿の問題についても社会全体で考えていかなけらばならない。

(5)  事務局より、次回総会の日程についての説明があり、閉会した。

(文化庁政策課)

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