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文化審議会

2001/06/18 議事録

文化審議会第6回総会議事要旨

文化審議会第6回総会議事要旨

1.日時

平成13年6月18日(月)10時00分〜13時00分

2.場所

霞が関東京會舘シルバースタールーム

3.出席者

(委員)

高階会長、北原副会長、市川、井出、岡田、北川、関口、津田、乳井、野村、藤原、黛、渡邊の各委員

(文部科学省・文化庁)

池坊大臣政務官、佐々木文化庁長官、銭谷文化庁次長、林文化庁審議官、遠藤文化部長、長谷川文化財部長、鈴木文化財鑑査官、高塩文化庁政策課長ほか関係者

4.概要

(1)池坊大臣政務官より挨拶があった。

  文化審議会で審議されることは、日本の、世界の、あるいは21世紀の柱になっていくものと信じている。大阪の池田小学校で悲しい事件が起こったが、これは社会病理といえる。人間の精神生活が貧困であることに起因しているのではないか。本審議会において有意義な議論が行われることを期待している。

(2)配付資料についての確認があり、前回議事要旨については、意見がある場合は1週間以内に事務局に連絡することとされた。

(3)佐和隆光氏(京都大学経済研究所所長、国立情報学研究所副所長)より意見発表があり、その後、意見交換が行われた。

【佐和隆光氏の意見発表の概要】
(市場主義とリベラル)

□  98年10月のドイツ総選挙では社会民主党が勝利し、また97年4月のイギリス総選挙でブレア政権が、97年6月のフランス総選挙でジョスパン政権が誕生と、現在、欧州連合(EU)15カ国中11カ国が中道左派政権である。2000年11月のアメリカ大統領選挙でも共和党のブッシュ候補は「思いやりのある保守主義」とのスローガンを掲げざるを得なかった。時代が変わってきているといえる。
  ソ連解体により社会主義が崩壊し、それに代わるものとして市場主義が強く唱えられてきているが、サッチャーが推し進めたこの市場主義(サッチャリズム)の結果として、所得格差の拡大や公的医療・教育の崩壊が起こった。サッチャリズムへの反発としてイギリスでの総選挙の結果がある。ノーブレス・オブリージュという言葉があるが、地位の高い人や豊かな人が弱者を思いやるのはヨーロッパにおける一つのプリンシパルである。
  一方、我が国の政界を見てみると、混迷状態が続いている。保守とリベラルの対立軸に沿った再編成を待たねばならない。
  保守とリベラルの政策レベルでの差異は、決して一義的ではなく、時や場所に応じて変遷するものである。20世紀における保守とリベラルを概説すれば、自己責任・自助努力をモットーとした低福祉低負担志向で、社会的異端に対して厳しいのが保守である。一方、市場は万能ではないから、経済安定化のためには政府の市場介入が必要不可欠だとし、相対的には高福祉高負担を志向し、経済的弱者をも含めて社会的異端に対して寛容なのがリベラリズムといえる。21世紀においては、環境保全、人権、消費者保護、清潔な政府を重んじるのがリベラルであり、それらを省みないわけではないが、あくまで経済を優先するというのが保守といえるようになるのではないか。
  改革について言えば、自由・透明・公正な市場を作れば(市場主義改革を断行すれば)それで万事片づく、というのが保守の改革であり、それを成し遂げた上で、改めて政府の役割を見直そうというのがリベラルの改革といえる。しかしながら、今必要なのは、市場主義改革と「第三の道」改革の同時遂行である。

(「第三の道」改革)

□  「第三の道」改革のねらいは、「平等」な「福祉社会」をつくることである。ただし、「平等」と「福祉」という言葉の意味を再定義する必要がある。「平等」な社会というのは、所得分配がフラットな社会ということではなく、「排除される者がいない社会」という意味であり、「福祉」社会とは「福祉のお世話にならなければいけない人」の数をできるだけ少なくする社会という意味である。
  そのためには、公的教育の改善やシニアなレベルでの職業訓練などが重要である。日本の公教育について言えば、画一的との批判を受けつつも、一通りのことはしっかり教えることをモットーとしてきたが、バブル経済時に価値が大きく変わり、努力、まじめさ、勤勉さなどの日本古来の徳目が軽んじられるようになってしまった。現在大学生の学力低下が懸念されているが、これはゆとり教育に起因するものではない。公的教育の改善は重要である。
  「第三の道」改革については、まず市場主義改革を完遂した上で「第三の道」改革を、とする「二段階改革論」があるが、改革の苦手な我が国が一通りの市場主義改革を成し遂げるまでには、少なくとも10年の歳月を要するであろうから、それを経たうえでというのでは、日本は世界の趨勢に取り残されてしまう。のみならず、改革の副作用や犠牲を傍観して済ます政府は、無責任とのそしりを免れない。市場主義改革に後れをとった日本だからこそ、「同時改革」が必要なのである。
  「同時改革」を必要とするもう一つの理由は、日本型システムが過度に競争回避型(反市場主義的)に設計されているという点にある。たとえば、規制緩和が思うように進展しないのは、規制緩和を跳ね返す力学が、日本型システムに内蔵されているからに他ならない。そうした力学の存在を所与のものとすれば、市場主義改革を推進するためには、日本型システムに潜む「反作用」を緩和することがどうしても必要となる。たとえば、完全雇用を維持しようとする力、給与面での格差をできるだけ小さくようとする力などが、市場主義改革の反作用として働く。そうした「反作用」を力尽くで抑え込むのではなく、作用・反作用の調和を図ることこそが適切な対応なのである。

(ポスト工業化と日本型システム)

□  平成不況(1991年3月〜93年10月)は戦後日本経済の第三の転換点といえる。第一の転換点はなべ底不況(1957年7月〜58年6月)、第二の転換点はオイルショック不況(73年12月〜75年3月)である。平成不況があり、日本は工業化社会が成熟し、ポスト工業化社会への移行期、すなわち階段の「踊り場」に差し掛かったといえる。
  それではポスト工業化社会とはどんな社会なのか。今のアメリカを見ればわかるが、1製造業が高度情報化技術を採り入れて生産プロセスと経営プロセスを抜本的に改編し、見事によみがえり、2ソフトウェア産業(金融、通信、映画、情報等)が経済の中枢部に躍り出るというもの。80年代のアメリカはポスト工業化社会への踊り場にあったといえる。
  日本型システムは工業化社会に「最適」である。だからこそ日本は成功した。しかし、ポスト工業化社会には、日本型システムは「最不適」ではなかろうか。これが、「今なぜ改革なのか」を説明する第一の理由である。
  日本型システムの改編を不可避とする第二の理由は、終身雇用、年功序列等の日本型システムは経済の持続的拡大という前提のもとで初めて維持可能であるが、明らかに持続的拡大は止まり、日本型システムの見直しが余儀なくされていることである。
  第三の理由は、日本型システムは不公正であり、そのことは許されなくなっているということである。日本型システムは、インサイダーには競争がなくカムファタブルだが、アウトサイダーにはアンフェア極まりない。世界経済における日本経済のプレゼンスが高まるにつれ、アンフェアネスが許容されなくなった。
  経済システムの良し悪しは時代文脈に依存するものである。電子部品を作り、それを組み込んだ電子機器を作るという工業化社会の最終段階の時代文脈には日本型システムが最適であり、ポスト工業化社会の黎明期(90年代)の時代文脈にはアメリカ型システムが最適だった。
  21世紀の最初の10年は、所得格差の拡大、リスクと不確実性の拡大、自由競争における一人勝ちなど、ポスト工業化社会の「矛盾」が顕在化する時代になるものと予想される。そうした時代には、いかなるシステムが最適なのか。既存のシステムはいずれも最適とは言えず、時代文脈の変化に「適応」する新しいシステムの構築が求められる。様々な変化を先取りし、それに対し迅速に適合するような新しい視点の構築が必要である。

(文化、学術、科学と市場)

  サッチャーは、「ギリシャ哲学」を専攻していると答えた学生に対し、「ずいぶん贅沢ですね」と話したと言われる。その学問観に、文化を市場主義に委ねることの意味が象徴されている。つまり、彼女にとっては、経済的なベネフィットを生まないものは「贅沢」なのである。
  学術と産業経済の関連性がはじめて公式に認知されたのは、1960年の「所得倍増計画」においてのことである。この「計画」のなかで理工系分野の学術研究の振興がはじめて公式に謳われ、以来、「有用性」という尺度で学術研究の価値をはかるという風習がこの国に根付いたのである。
  その一方で、芸術を学術と区別して総合大学から切り離し、人文科学を軽視し続けた結果、ソフトウェア分野の人材の貧困という由々しき事態を招いてしまった。目先の経済的利益の重視が長期的な経済的損失をも招くのである。
  市場競争にさらすことが望ましい分野と、望ましくない分野とがありうる。わが国では、本来、市場に委ねることが望ましい分野に、長らく公営の機関が参入し続けてきたし、また様々な規制により政府が自由な市場競争を阻害してきたことは、紛れもない事実である。しかし、市場は万能ではないのだから、市場から隔離することが望ましい分野もある。
  国立博物館が独立行政法人化されたが、そのことがもたらす帰結としては、次のようなものが予想される。1入館料が途方もなく高くなる。2収蔵品のメンテナンスに割く費用の節減により、収蔵品の老朽化が進む。3人員削減の結果、警備や案内が手薄になる。「文化財に類するものを工業製品と同じに扱うことは人間の精神性に対する重大な侵犯になる場合がありうる」という堤清二氏の言葉には全く同感である。

(国立大学の独立行政法人化)

  日本の大学の学術研究のレベルは低く、世界の大学の研究分野別ランキングをみると、日本の大学が50位以内に登場する分野はほとんどない。しかしながらその理由は国立大学という設置形態ゆえのことではない。1年功序列、終身雇用という日本的雇用慣行の徹底、2研究よりも学内行政、対外活動等を重視する風潮、3研究成果の価値が正当に評価されないため、学術研究のインセンティブが欠如、4人文社会系分野における「学の制度化」(研究が有用であると認められ、評価されたものに対し、予算がきちんと配分されること)の不徹底、などの理由によるのである。これは日本の風土の問題である。国鉄の民営化と国立大学の民営化を混同してはいけない。
  研究成果、業績の評価は、大学の組織全体ではなく、個々の研究者のレベルにおいて学会という組織体が下すべきものである。人間は万能ではなく、理性の濫用を慎むべきであり、人間による大学の評価という不可能を要求してはいけない。大学は、その構成員一人ひとりが「学界での評価」を気にかけるように仕向けることが必要である。こうした観点から、現在進行中の大学改革には弊害が多いと思われる。

【佐和隆光氏と委員との意見交換】

【委員】

  少子化の進行が、競争に大きな影響を与え、大学に非常に深刻な問題をもたらしているのではないか。

【意見発表者】

  大学生の学力低下は少子化のため入試が易しくなったからではないと考える。受験の難易が大学生の質を低下させることはない。

【委員】

  市場主義における文化振興について消極的な御意見であったが、「第三の道」においてはどうか。

【意見発表者】

  第三の道とはすべてを市場に任せるのではなく、そのときの世論、為政者の考えに則り、市場から隔離したほうが望ましいものは隔離するということ。よって、直ちに文化や学術の振興に結びつくものではないが、世論や為政者が文化を大切にすべきだと判断すればそれが可能な社会である。

【委員】

  日本の場合エリートが評価されにくい。場合によっては足を引っ張られることもある。優れたものを認めると、平等でないという議論が出てくるが、文化の面から危険なことではないか。

【意見発表者】

  決定的な勝者と決定的な敗者を出さないという日本人のメンタリティーの問題であり、ここを変える必要があろう。また、排除のない社会を実現し、子どもたちに一定程度以上の教育を与えることを可能にすれば、機会が広まり、優れたエリートが輩出される可能性も高まるのではないか。

【委員】

  学校においても昔は、誰が優れたものを持っているかを常に校長をはじめ周囲が気にかけていたが、現在は管理能力ばかり求められており、これは問題である。

【委員】

  市場主義は消費者(=国民)のためという大義名分の図式がなりたっているが、消費者というのは国民のほんの一側面に過ぎない。文化を享受したい、美しい自然の中で暮らしたい、など様々な希望があり、側面がある。このことにも目配りをして市場改革を行っていく必要がある。また、市場主義とは異なる価値観を有しているアジア、欧州等と連帯して共闘していく手立てはないのだろうか。

【意見発表者】

  共闘については現実としてはなかなか難しい。アメリカの軍事力、経済力を背景にした影響力には抗い難いものがある。しかしながら、シアトルのWTO会議のように、環境・文化に好ましくないとしてアメリカ主導のグローバリゼーションに対するリアクションは起こってきていることも事実。欧州では脱物質主義的な考え方が明らかに力を持つようになってきている。

【委員】

  勤勉や努力が評価されなくなったことに関し、社会における価値観が金銭的なもののみになってしまった気がする。これが学生の質の低下につながっているのではないか。何か方策があるのだろうか。

【意見発表者】

  現在の知的荒廃を立て直すのは非常に難しい。70年代の荒廃からよみがえったアメリカの事例は参考になるかもしれない。いわゆる「失われた10年」において我々が失った最も大きなものは知的資産である。日本の再活性化を考えるなら、人材や教育の建て直しを抜きにしては考えられない。

【委員】

  日本型システムには、今後の改革のために手がかりになる側面もあるのではないか。

【意見発表者】

  日本という社会は、集団主義との批判もあるが、基本的には人に優しい社会といえる。格差、一人勝ち、リスク、不確実性の拡大などに一定の制御をかけるような原理を日本型システムは有している。日本型システムにもそれなりに良いところはある。

【委員】

  世界遺産が話題になっているが、当初の欧米型の世界遺産の基準は多分に物質的なものであったが、物質主義ではない遺産の価値が欧米でも評価されるようになってきた。日本として考えていくべき方向があるのではないか。

(4)田村哲夫氏(学校法人渋谷教育学園理事長)より意見発表があり、その後、意見交換が行われた。

【田村哲夫氏の意見発表の概要】
(子どもたちの現状)

□  第二次大戦に負けた後、我が国は文化国家論が強く言われた時期があったが、いつの間にか経済発展に切り替わり、その後、日本の進路が大きく変わってきた。この時期にもう一度、「文化を大切にする社会の構築」というテーマを考えることは、非常に大事なことである。文化に関し、最近、危機的状況だと感じることが二つあった。
  一つは、ある中学生の女の子が牛若丸を知らなかったことだ。これは、日本の文化の基本的なところを形作っているものが、若い世代に伝わっていないということだ。
  もう一つは、日本の文化を伝えるためには日本の小学校に通っていなければいけないと思うが、外国における日本人学校をはじめ、日本人の子どもが日本の小学校への進学を選択しなくなってきていることだ。これは、国際化の影響だと思うが、日本の高等教育に問題があるのではないか。日本の高等教育に進むことに価値を認めないから、外国の小学校に行くという選択をする。世界に勝てる、競争できる高等教育機関にしていかないと日本の文化を含めて危険な状況になる。

(文化の多様性と優劣)

□  そこで、文化ということを考えてみると、文化というのはマナー、様式、行動、考え方の方式が幾つも重なり合って創り上げているのだろう。
  「菊と刀」で有名なルース・ベネディクトは、多様なマナー、考え方が文化を形成しており、多様なことが意味があると理論をまとめている。
  数の数え方でも民族によって10進法だったり、2進法だったりするが、原始的な2進法のおかげでコンピュータができたのである。文化の形を考える場合には、どれが進んでいてどれが遅れているという考え方はできないのである。
  「菊と刀」で、日本文化は「恥の文化」であり、それに対して欧米の文化は「罪の文化」だという分類をした。これは「罪の文化」が優秀で、「恥の文化」が遅れているということを意図したものでは決してなかった。

(日本人の規範意識とその崩壊)

□  今日、日本の現状は、文化の形を考えた場合、非常に混乱していると言わざるを得ない。ある資料からは、日本の大学生とアメリカの大学生の質問に対する反応の違いには、日本文化はまだ残っているという結果を見ることができる。
  文部省委託による信州大学の調査では、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツに比べ、日本人は社会のルール、道徳心、生活規律などの規範意識に関わっては極端に親が子どもに伝えていないという結論が出てくるが、これは大きな問題である。また、家庭における躾の理念は、日本の親は子育てにおいて「明るく朗らかに」を目標にしており、行動の基準は「自分にとって得になるか損になるか」であった。判断基準の原理が損得だった訳で、これは非常にショックであった。
  私どもの学校では、校長と保護者の懇談会を開催しており、その中で、家庭教育において親が子どもに嫌がらずに必要なことを伝えなくてはいけないと話している。それをやらなかったために日本の文化の支えになるもとがどんどん失われており、その実態を皆が理解する必要がある。家庭教育の意識に関しては、基本的にはキリスト教社会は神に対する責任で成り立っているし、我々の世界は、家の意識、「恥の文化」が支えてきた。今や家がなくなり、お天道様がなくなった。しかし、規範意識というものを何とか学校教育、家庭教育、地域社会で意識的に育てる努力が必要である。例えば、細胞を堅いものに付けなければ細胞分裂が始まらないように、人間の意識も同様に、規範意識のような拠り所がないと活動が始まらないのではないか。

(教育と文化の教授)

□  論語において、孔子は人格完成の重要な部分として博文約礼を2,500年前に指摘していた。博文は知識を増やすこと、約礼は礼を守ることであり、礼は現代風に言えば、文化を支えるマナー、形だと思う。その礼をきちんと伝えていくことは非常に重要なことであり、そういう考え方で学校教育をしていかなくていけない。
  現在、12〜18歳の子どもたちと対応していて感じることは、一人一人の気持ちの中に文化の型を内面化させるという作業が必要だということである。内面化する作業を現実の学校の場でどうやっていくかが問われているテーマではないかと考えている。
  私は内面化させる手段として学校で校長講話などを行っているが、こういう作業を通して、少しずつ文化の形の内面化という作業を意識的にやっていかなければ大変なことになっていくのではないかと思っている。

【田村哲夫氏と委員の意見交換】

【委員】

  子どもたちのマナー、規範意識の欠如は、結局、親が教えていないからではないか。子どもの教育のための大人教育が重要ではないか。

【意見発表者】

  私の学校では定期的に親と懇談をしているが、とにかく、それぞれの場で、それぞれがやるより方法がないと思う。日本の古典芸能、古典文化を軽んじている世代が増えているが、日本の文化がなくなったら、日本の存在価値がなくなってしまう。

【委員】

  自分の子どもをインターナショナルスクールに通わせるかどうか迷っている人がいるが、それは日本の小学校に行かせる意味がなくなってきているからではないか。日本の教科書では夏目漱石などが消え、現代のものが掲載されるようになっているが、学校でなければ教えられないようなものを掲載すべき。

【意見発表者】

  エリクソンという心理学者の説によれば、6歳から12歳までは勤勉さを身に付ける時期である。また、中・高校時代は、アイデンティティ確立の時期であり、その時期に学校で伝統文化に触れさせることが重要。
最近の親は、損得で物事を考えている。子どもを叱るときも「それをすると、損するからやめなさい」と言う。電車の中での化粧について、子どもは誰にも迷惑をかけてないと言い、親は反論できない。そのような時には、「それは私が嫌だから止めなさい」と言えばよい。物事は理屈だけではないと言うことを教えることも重要である。そうしたことを教えられるのは、学校という組織ではなくて、学校の教師である。

【委員】

  文部省の調査結果からは、各国に比較して、日本の親は子どもに何も言わないというのがわかる。親は子どもに対して何をいうべきであろうか。

【委員】

  河合隼雄氏は日本の文化には将来があると言っていたが、そのために大学人の責任は重要である。文部省の調査結果については、欧米流の観点で調査しているのではないか。日本人には謙遜するという特徴があり、こうしたことを基準にして調査すれば、欧米は乱れているということになるのではないか。大学人は、欧米ばかり基準にしてはいけない。

【意見発表者】

  いつも親には家風を大事にしてくれと言っている。しっかりしたものを子どもに伝えないと動き出さないのである。また、調査については、日本人が自信なげに振る舞うという文化を持っているという人もおり、私も日本の文化がまだ根強く残っているという材料として紹介したつもりである。

【委員】

  今の小学校の低学年の子どもは辛抱する、我慢するということが出来なくなっている。躾については親ができないので学校で教えるより仕方がないが、躾はある意味では強制的なことが必要ではないか。

【意見発表者】

  大変難しい問題であり、子どもの中には体罰が心に残る子もいる。体罰は行う側がその重みを考えると同時に、家庭の支えがなければならない。

【委員】

  人に対する思いやり、人の言うことを理解する心の準備体制が小さい時に育つはずが、テレビなどの影響により、発達しないまま成長してしまっているのではないか。そのことにより恥の文化がどう変容していくかという分析をし、その上でどう規範意識を伝えるかを検討することが重要である。

【意見発表者】

  学習のモチベーションの問題だが、戦後、日本の学校教育の目標が豊かさの実現にあった。1980年代に入り、我が国のGDPが英仏を追い越すなど、豊かさが達成された。しかし、学校の目標は本質では変わっていないことが問題である。文部省はそれに気がつき「ゆとり教育」という表現で変えようとしてきた。
  また、大学については、豊かさが達成されたことにより、大学への進学希望者が増え、大学に入学するのが非常に難しくなった。しかし、最近は、大学に入学しやすくなり、生徒の質が変わってきている。
  こつこつと働くことの意味が見失われている。そうした考え方の基軸にある部分をしっかり身につけなければならない。その伝え方はそれぞれの国が自分の国の文化の形を考えてやっていくものであるが、それは学校の問題であり、家庭の問題であり、そして地域の問題である。

【委員】

  日本は経済大国になったが、そうした状況に浸かった子どもに対し、勤勉などと言っても説得力がない。子どもたちに同じことを言うにしても文化の形が変容しているのである。学習のモチベーションを彼らが、どう構成していくかという工夫が非常に難しくなったといえる。

【意見発表者】

  学習のモチベーションを説明する一つが「生涯学習」である。自己実現をするということが学習のモチベーションにならないと最終的には解決しないのではないか。

【委員】

  子どもの教育には親の教育が重要であるが、学生時代にしっかりと勉強してこなかった親に子どもを教えるのは難しいのではないか。

【意見発表者】

  ケネディ大統領は演説で、「アメリカという国に何をしてもらうかではなく、何ができるかを考えよう」と言った。現在の日本においても、制度や方法の問題ではなく、まず一人一人が動き出さなければならない。

【委員】

  日本の文化の型と、評価をどのように調和させるのかという問題がある。日本の文化は、型を出しにくいというあいまいさを持っている。ヨーロッパ的な尺度に合わせるのは適切ではない。

【意見発表者】

  スイスの精神科医が、世界中の3千人の自殺者の手記をまとめたが、それらにはすべて自分のことしか書いていないという特徴があった。このことから、人は他人のために役に立っているということが重要だということが分かる。河合隼雄氏、阿部勤也氏が指摘しているように、日本人には個が確立していない。

【委員】

  最近、入浴しない子どもが増えているということに驚いている。これは、潔癖症の裏返しではないか。また、「雨」というのは、一般的には嫌な存在だが、かけがえのないものと捉える感受性豊かな若者もいる。どこかで渇望しているのだが、その入り口を大人が潰してしまっているのではないか。好奇心の芽とか欲求の芽を大人が摘んでしまっているように思える。

【意見発表者】

  今も昔も子どもは本質的に変わっていない。しかし、今は大人が子どもたちに大切なものを伝達する努力をしていない。そのことが現代の大きな課題である。

【委員】

  6歳から12歳までは非常に重要な時期だが、親・家庭に問題がある。文化の型を伝える方法を考えなければならない。親や家庭など、社会に対する指導・教育というものを強制的にでも行う仕組みを考えなければならないのではないか。大人がしっかりしないのに、子どもに言ってもうまくいかない。

【委員】

  文化の継承の問題として、大人から子どもに文化を伝えていくことは重要である。

(5)渡邊文化財文化会長より、文化財分科会(第5回)の審議状況について報告があった。

(6)事務局より、次回総会の日程についての説明があり、閉会した。

(文化庁政策課)

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