| 学術審議会 学術研究体制特別委員会 人文・社会科学研究に関するワーキング・グループ((集中審議)議事録) |
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学術審議会学術研究体制特別委員会 人文・社会科学研究に関するワーキング・グループ(集中審議)議事録 1.日時 平成12年8月31日(木)16:30〜21:00 〜 平成12年9月1日(金)10:00〜16:00 2.場所 学術総合センター特別会議室1階 3.出席者 (委員)石井主査、池端、高橋、蓮實、薬師寺、脇田、井村、末松の各委員、猪瀬会長 (専門委員)稲垣、似田貝、村松の各専門委員 (科学官)位田、勝木、宮島、吉田の各科学官 (事務局)学術国際局担当審議官、学術課長、研究助成課長、国際学術課長、高等教育局企画官、他関係官 橘淹洌舗科学技術庁計画・評価課長、他関係官 4.議事 人文・社会科学研究及び統合的研究の推進方策について、各委員より意見発表の後、質疑応答、意見交換が行われた。 (1)人文・社会科学の特性について、資料2「人文科学の定義は可能か」及び机上配付資料に基づき、蓮實重彦委員より意見発表の後、質疑応答、意見交換が行われた。その内容は以下のとおり。 (○・・委員、専門委員、科学官□・・意見発表者△・・事務局の発言。以下同じ。) 意見発表概要 (ソーカル事件について) ・1996年の「SocialText」誌にアラン・ソーカルという物理学者が「境界を侵犯すること−量子重力の変形解釈学に向けて」と題する人文・社会科学の影響をあたかも受けたような論文を投稿し、採用された。 ・しかし、その後彼は「LinguaFranca」誌に「物理学者がカルチュラル・スタディーズで実験する」と題した論文で、前述の論文はウソで、「レフリーがしっかりしてないからウソと見抜けなかった。」と発表した。 ・また、「『知』の欺瞞−ポストモダン思想における科学の濫用」という科学用語の濫用を指摘した書物を出版した。 (社会構成主義批判の問題点) ・アメリカにおける人文科学は独創的なものがなく、ほとんどの研究者がフランスの冊子から語彙を引用して簡単な論文を書いている。 ・アメリカの人文科学系、数学、物理系には左翼の研究者が非常に多い。旧社会主義国の解体にあわせて、アメリカの学者達は例えばポストモダニズムに転向している。それが新保守主義に転向することによって、左翼を裏切ったという考え方が人文科学や自然科学において強い。 ・今日バイオサイエンス、ライフサイエンスといわれている研究領域はある時期まで産業化できないと思われていたので、その間政府の資金だけがこの研究領域を支えていた。30年間国家が基礎科学として支えてきて、今日応用科学となり得たことを踏まえずに、バイオは金になるといっている日本の状況をコーンバーグ氏は皮肉っているのではないだろうか。 ・今日様々な財政措置等の一番大きな痛手を受けるのは純粋科学としての理学部と人文系の文学部であろう。予算、振興の観点から考えると文学部系と理学部系をともにどのようにプロモートしていくかが重要である。工学部系、医学部系、薬学部系等はさほど問題にならないが、問題は、理学部と文学部であることがアメリカではっきりしている。凋落の気配を財政支援の面から示し始めている。 (無意識の反復) ・人文科学の堕落を最初に指摘したのは、1965年のレイモン・ピカールの「ヌーヴェル・クリティックまたは新たな欺瞞」という書物である。これは、ある作家について一種の批評の対象として捉えたロラン・バルトのRacine論を、これこそ欺瞞であるといって攻撃した書物で、「ものの考え方には正道と邪道があり、私は正道におり、学生諸君、読者諸君は邪道にだまされてはいけない」ということを指摘したものである。しかし、その後知的な覇権を得たのはロラン・バルトであった。自分はあらゆるものを学問的に討議できると思っている人が、いきなり特権を失ったという事件であり、学問研究における国民国家の枠の緩やかな解体の始まりを意味している。権威はあるが、優秀な弟子の再生産が段々できなくなってしまうという状況に似ている。 ・邪道的な危険性をはらむロラン・バルトの著書「批評と真実」は世界の様々な国で翻訳され、アラン・ソーカルを苛立たせている。前述のソーカル事件はレイモン・ピカールの反復に過ぎない。 ・アラン・ブルームの著書「アメリカン・マインドの終焉」では、アメリカの学生が悪しきヨーロッパに侵されていると書かれている。悪しきヨーロッパとは、ヨーロッパの正統的な知の歩みをことごとく覆したニーチェを指している。これは、そのニーチェコネクションをアメリカから追い払うために書かれた著書だったが、何の効果も果たせなかった。 ・テリー・イーグルトンはイギリスの文学研究の権威だが「ポストモダニズムの幻想」という著書で、フランスのポストモダニズムに対して、原理もなく、あらゆるものを容認してしまい、「批判能力をいたるところから失わせてしまう悪しき陰謀」と厳しい批判をしている。これは最近のフランスの思想に対する反発である。 世界の人文科学の大きな流れをたどると、米仏戦争であり、英仏戦争であり、英独戦争である。日本の人文科学者は先に挙げた人たちを批判的に捉える傾向が非常に強く、アメリカのようにフランス語で書かれた書物を、誰でも読める簡単な要約にしなかったので堕落しなかった。日本はそれぞれの書物を研究対象として取り上げ、しかるべきものは評価している。 (二元論的な定義の試み) ・ヨーロッパの伝統において有名なデカルトの繊細の精神(Espritdefinesse)、幾何学の精神(Espritdegeometrie)という分け方がある。繊細の精神は微妙な問題を語る人文科学の方へ流れていった。 ・19世紀になるとWindenwaldは法則定立的なもの(Ideographic)と個性記述的なもの(Nomothetic)の対立を作り上げ、人文科学は法則定立的なものではないといっている。現在の世界システム論者のウォーレステインは、IdeographicとNomotheticの対立を超越するところに新しい人文・社会科学が出てくるだろうといっている。 ・フランスの哲学者Bergsonは質(Qualite)、量(Quantite)を強く主張している。人文科学は質を扱うものであり物を数えることが重要なのではないという人文科学と自然科学の対立を指摘している。 ・イギリスの言語哲学者Austinは行為遂行的(Performative)と、事実確認的(Constative)の対立を指摘している。行為遂行的とは、言っていることが相手に伝わる以上の何かをするもので、事実確認的とは、真か疑がすぐに問題になるようなもののことである。これも人文科学と自然科学との対立を示しているように見えるが、ジャックデリダは対立はあり得ないと突き止めた。 ・フーコーはヒューマンサイエンス(Sciencehumaine)とサイエンス(Science)は違うとしている。人文科学は科学であってはいけないし、科学たり得ない。その理由は、人間が無二の存在であるということではなく、人間というものがごく最近の発見だからである。人間に関する科学が成立したということは、自らが思考し、その思考でも自らがその思考の対象でもあるような、一方で超越論的な存在であり、同時に経験的な存在でもあるということである。この超越性と経験性を備えたものに関して、果たして科学は成立するだろうかという問いを出している。対象としての人間が自ら認識の主体であると同時に、認識の対象でもあるということが人類の思考の中に現れたのが18世紀の終わりくらいであって、考える主体と対象が同じであることによって、科学たることが非常に難しくなったとしている。人間は認識の対象であり主体でもあるが、フーコーは生命を持ち、言語を持つ、労働することができるという3点によって自らを定義するとしている。従って、生命科学は人文科学ではなくて、自然科学の方に入っている。 (人文科学擁護のための試み) ・(21)は非常に独創性に富んだ、文化人類学の著作である。歴史と文字の関係を西欧社会は強く考えすぎていたが、モシ族には文字がない。しかし、その国の言い伝えを太鼓言葉によって伝えているという著書である。 このような書物が出る意味は、国際的に評価されると同時に優れた後継者を引きつけて、その後継者が彼を超えるなり、彼と違った仕事の方向に進んでいくことにあり、単に国際的に有名になることでない。人文・社会系における仕事は時間との戦いである。人文・社会は時間がかかって、自然科学的な時間との競争には耐えられないのではないかという意見があったが、まさに時間そのものを有効に使っていくという点において長い時間が必要なものである。 ・(22)は、旧ソ連の辺境地帯におけるイスラム系の指導者がロシア革命にどう絡んだかという著書であるが、先駆的な書物である。 執筆直後にソ連は崩壊して旧ソ連の周辺地域のイスラム的な動きが重要になってきたが、そのことを予見するような仕事を無意識のうちにやっており、世界的に通用しているものである。 ・(23)はボードレールについて、日本人として何が言えるかということが問題になっていた時期の作品である。グローバルな時代においては、国民国家の枠が非常に緩やかに崩れてきている。国民国家を成立させる要因は、同じ言葉、同じ文化的な過去、同じ伝統を共有する人たちが、ある一つの閉ざされた国境線の内部で共存し合うことで成立する。ところが、植民地主義は国民国家を壊す最初のきっかけである。今日の多国籍的な金融やIT革命も国民国家を崩している。崩れる以前は外国文学というものは、その国の人にしか分からないと思われていたが、外国文学をめぐるすぐれた研究が日本から出ることは一つの歴史的な必然である。頭のいい研究者は自国の文学にとって大したことはできないと思い研究しなくなる。逆に外国の研究者達は彼らが放棄した後を取って詳細な肯定等をしており、今ではフランスの19世紀から20世紀にかけての作家達の編集は、その大半が日本人研究者がいないとできない状況になっている。しかし、阿部氏は単に詩人としてのボードレール研究ではなく、絵画の中に彼がどのように位置するのかなど、文学だけではない様々な方向からのアプローチをしており、単なる文学部的なフランス文学とは異なる方法を日本人が作り出したという点で重要である。 ・(24)はエッフェル塔というフランス人には当たり前なものを、美学的、工学的、伝記的と様々な方向からアプローチした、表象文化論的な研究を記した優れた書物である。これも世界に通用するものの例である。 ・(25)は今日では二流作家であるマクシム・デュ・カンは、生前はアカデミフランセズにも所属していた一流作家であった。当時は一流だったが時間が経ってみると三流以下というような例が他にもたくさんあり、歴史とその時代のズレについて調べたものである。 ・人文科学の領域で優れた作品は、その国の言葉で書かれても必ず引用され、翻訳される。自然科学における英語のグローバリゼーションというものとは若干違った方向にある。今後、優れたものを外国語に翻訳していくこと、そしてそれをどのように評価するかということが重要な仕事になってくるのではないか。国際的な競争の中に入っていくという点からすると、日本語で書くことは若干不利だが引用される。多くの場合、優れた論文を英語で自分で書こうとしても、コンスタチブなものはできてもパフォーマティブなものはできないので、時間の無駄である。最近は原稿の依頼が外国からあっても日本語で書いてよいということが増えている。パフォーマティブなものがインパクトを持つのだから、論文は慣れない英語で書くより日本語で書いて、それを上手く訳せる翻訳者を育てた方がよい。 (今後の方向性と課題) アメリカの人文科学はそれぞれの領域はまだあるがほぼ潰れていて、ヨーロッパの方が優れている領域が多い。おそらく今後はじり貧状態になり、人文科学は要らないといい出すであろう。しかし、日本は人文科学を振興しなくてはならない。また後継者がいなければできないことだから、後継者をどのように育てるのかが問題であろう。それとほぼ同じ状態が理学部系の領域についてもいえる。アメリカが1993年に議会によってプロジェクトを潰されて以来、巨大科学としての物理を放棄している今こそ日本は巨大科学を推進すべきだと思う。 質疑応答、意見交換 ○ 人文・社会科学を振興させるには、何かのプロジェクトを立ち上げて進めていけばよいと考えていたのだが、資料の3ページにある「人文科学擁護のための試み」にある書物はプロジェクト研究から生まれたものではないのに非常に優れている。これを考えると人文・社会科学の振興はどうすればこのように優れたものが出てくるのだろうかということをジレンマのように感じてしまう。日本としても巨大でなくても何かプロジェクトを立ち上げるべきだとおっしゃっていたが、そこをどう考えているのか。 □ ここで紹介した作者の世代的な過渡期性によると思っている。この人達にある大きなプロジェクトに参加してもらうことで優れた成果も生まれるのではないだろうか。例えば、川田氏の場合、アフリカプロジェクトの中で現地の通訳を雇わずに全部自分で習ってやった時間を、大きなプロジェクトの中であればもっと有効に使うことができたと思う。 ○ このような方は、プロジェクトに適しているのでチームに加わってほしいと思ってもなかなか出てくれないという傾向が強い。これは、人文・社会科学に特徴的なのか、自然科学においても同じなのか。 ○ そのような傾向は、自然科学においてもあるだろう。例えば、ヒトゲノムが解析されて、これからはたんぱくの研究が重要になるが、プロジェクト研究にはたんぱく質の構造を網羅的に解析する研究者が必要になる。しかし、自分の興味があるテーマについて研究したい研究者は、そのようなプロジェクトに入るよりも自分で研究費を獲得して研究をするのではないだろうか。 我々の学生時代には、例えばフランス文学だと、担当教授はフランスの文学を日本に紹介することが仕事だったが、今は日本人がフランス人と違った形でフランス文学の研究ができる時代が来た。その場合に言葉のハンディーキャップはあまりないとのことだが、やはりそこが大きな問題ではないか。例えば、有名な研究者だったら、日本語で論文を書いたとしても、海外の研究者は翻訳して読んでみようという気になるかもしれないが、それでは若手の研究者はなかなか評価されないのではないか。 □ それぞれの国の言葉(フランス文学だったらフランス語)で博士論文を書くことが前提となる。続く10年間は、様々な学会発表、学会論文の投稿もその国の言葉でせざるを得ない。そのときに、どんなにいいことが書いてあっても、人を引きつける力がなければだめである。日本でこれをもっと教えた方がよいのではないか。 英語の翻訳者は少ない。完璧に日本語に訳すよりは、その内容を汲んで完璧な英語にできなくてはいけない。訳させる場合にそのことを十分言わないと日本語に引きずられた訳になり、全く通じなくなる。若干の間違いは大目に見ないと、外国語への翻訳は非常に難しい。 ○ 異端でないと科学は進歩しない。ところが、日本は異端に対して許容度が小さい。異端の許容度をもっと大きくすることがこれからの問題である。 □ 自分よりも優れた研究者を育て上げることに対する喜びをどれほど日本社会が共有してくれるかということだと思う。自分を脅かすような研究者が出てくることが教育の成功であるということが、理系、文系ともに必ずしも十分共有されていないので、まずそこから始めていくことが必要ではないかと思う。自分が超えられた場合に、アカデミックマネジメントに携われるようなポスト等に転身できる仕組みを大学の中に作り、それを許容する雰囲気が必要ではないか。 ○ 社会科学の研究には時間が非常に重要である。優れた研究者の研究時間を確保して、その時間を有効に活用してもらう仕組みを意図的にデザインすることが、大物の社会科学者を育てるためには不可欠であると考える。 「ヒューマニティーズ」という言葉を使ったが、人文科学という意味なのか。さらにその中に歴史学は含まれているのか。「ヒューマニティーズ」という言葉は、どこまで含んでいるのか。 □ アメリカの研究者に聞いたら「ヒューマンサイエンスは現在はゲノム研究を指す」と言われた。「ヒューマニティーズ」という言葉は英語の過渡的な使用がグローバライズされたのだと思う。 フーコーのヒューマンサイエンスの定義によると、歴史学と精神分析学は特殊なもので人文科学の外部に位置する。しかし、日本の大学の単位でいうと人文科学の中に入ってくるのが自然ではないか。 今後、学部という体制を考えることが必要になってくると思う。 ○ 資料の2ページの(09)のアーサー・コーンバークの発言は、まさに人文・社会科学は、国立大学に必要だと言っているのではないか。つまり、学問を育てていく使命感が必要だと言っているのではないか。 □ コーンバーク氏の研究はたまたま成功しただけであって、成功しなかった人たちにも何百万ドルもの研究資金が出ていたことは間違いない。状況が若干違っている現在、日本がこれと同じことができるかというと必ずしもできないかもしれないが、日本の政策として、新しい学問を作ると同時に、アメリカが衰えたと思われる学問を振興すべきだと思う。 金融のグローバル化は、ネイションステイツの枠を壊しているが、そのようなときには文系の大きなプロジェクトとして、ソフトパワー、アトラクティブネスによって有効な構造化をしなくてはならないと考える。その意味での日本のアトラクティブネスを高めていかなくてはならない。その為の総合的な研究には精神分析も入れ、個人個人に終わっていた見えないソフトパワーを産業化しなくてはならない。 ○ 人文科学はどのようにトレーニングするのか。社会科学はフォーマルな情報でトレーニングするが、人文科学の場合、才能のようなものがあったときにどうやって教育するのか。 また、人文科学者は仕事をしているときはあまり時間を気にしないものなのか。 □ 潜在的な資質を見つけたと思ったら、その人に賭けなくてはならないと思う。30%成功すれば十分と考えるべきで、ある程度賭けないと、ほどよい人ばかりが集まってしまう。100m走で最後の10mで追い上げてくる人がいるわけだから、そこを見抜けなければ教育は失敗だと思う。 無駄を何%にするかということのコンセンサスが無く、全員無駄を無くそうとして、全てを無駄にしてしまうケースがあるので、どれだけ無駄を許容するかということについてコンセンサスが必要である。仮に、大学が独立行政法人化したときに、外部から無駄だと指摘されても、良いものを生み出すためのコストであると考えてほしい。 時間が緩やかに流れることも、早く流れることも大学は保護すべきだと思う。社会との関係で、大学における時間の流れ方を社会と同じにしてはならない。 △ トップダウンだけではなく、研究者がゆっくりと暖めていく学問の重要性は行政側も認識している。省庁再編に当たっても、我々はそのように主張していきたいと考える。 ○ コストをかければトップクラスのものが出てくるが、問題はいかに世間を引きつけられるように世の中に訴えていくかということだと思う。無駄はコストとして必要だと直説法で訴えてもなかなか上手くいかないので、工夫してアピールする必要がある。 (2)現実の諸問題への対応について、資料3「議論のためのたたき台」に基づき、薬師寺泰蔵委員より意見発表の後、質疑応答、意見交換が行われた。その内容は以下のとおり。 意見発表概要 (基本的スタンス) ・日本の人文・社会科学はフランス、アメリカに影響を受けた翻訳型である。フランスやアメリカは侵略主義だったが、結果として花開いた。その点日本はやや戦略的思考が足りないと思う。 ・国際的なレベルから見ると、人文・社会科学が戦略的に重視されないために、日本はは風格に欠けているのではないだろうか。経済停滞している今こそ、自然科学に比べて経費がかからない人文・社会科学を振興するべきではないか。 ・国際発信をする上で、媒介する機能をしっかりしておくべきではないか。マーケットを広げて、人文・社会科学を学ぼうという人をたくさん作ることが必要ではないか。 ・国際日本文化研究センターのような大学とは中立の機関をもっと設置する必要があるのではないか。 (文理融合型研究の可能性) 【留意点】 ・ニーズがarticulateされないところでの文理融合は難しい。 ・文理融合にはコラボレーションが必要で、それぞれの分野が独立して持っている必要な部分を出し合うことが重要。 【自然科学からの要望】 ・医科学には、人工的に体の一部分を作るような工学的な部分、テレメディスンのような情報を使った部分があるが、それと同時に、社会がひき起こしている病気を社会の中で治していくという部分も必要である。 ・理工学には、社会との接点を研究する分野が最近増えているが、例えば地域のことを看護医療学の中でやるのは難しいので、両分野のコラボレーションが必要である。 技術論を教えていたときに、理系の学生の社会科学に対する基礎知識があまりにもないのに驚いた。看護の気持ちを高校の時点で持っていないと、大学に入ってから世の中のために看護をやるのは無理とよく言われるのと同じで、高校の時点で社会の問題や人文科学についての教育が必要である。 【人文・社会科学からの要望】 ・経済学の研究者は数学者とのコラボレーションをした方がよい。 ・政治学は、データ分析の際に数理工学者との共同作業が必要。 (まとめると) ・人文・社会科学と自然科学を繋ぐ言語処理的なアプリケーションが非常に重要である。自然言語処理が人文・社会科学にも大いに使えるのではないかと考える。そのような融合の場を若い研究者のために作る必要がある。 ・境界領域をやっている学問分野を振興する必要がある。 ・人文・社会科学は自然言語を使っているから、自然科学者との言語的な間を触媒的に結ぶ科学、装置が必要である。 ・西洋美術館など表象文化における装置性は既に先行しているので、人文・社会科学者も見習うべきである。 ・現在人文・社会科学が進まないのは、コミュニティが強すぎるからである。それを何らかの形で解凍する必要がある。 (自然科学と社会科学の差異について) 【社会科学の対象について】 ・吉田民人氏は社会学会の演説において「社会科学者が対象にしているのは、社会と個人の関係である。その関係は法則で解明できるものではなく、それぞれの自制的な取り決めであって、プログラムによって成立しているものである。」と言っている。われわれ人間が、人間社会を見るというのは語義矛盾であり、自らがいる世界を自らが研究するつらさが人文・社会科学の中に存在する。それは法則定立型の物理的な発想ではなかなか難しいものがある。 【言語について】 ・国際政治から見ると、たとえば外交史をしている人が持っている辞書や、外交交渉を実際にしている人が持っている辞書があって、相手からどのような言葉がでてくるか予想しながら仕事をしているが、それが研究者の中に辞書、概念として蓄積されない。そのような辞書作りの研究に支援が必要である。 【方法論について】 ・自然科学の中にある演繹論的実証主義が細分化しているために、世の中が変わると大学の学科が硬直化してしまう。演繹論法で細分化していくのではなく、アブダクティブなところから明確な結論を出していかなくてはならない。 ・社会科学者は自然科学に影響を受けていて、自然科学者に反省されると困るところがある。ポリティカルサイエンスはサイエンスではないとは思うが、サイエンスにしておかないとアメリカの場合、助成金が出ないという事情がある。 ・経済学はホモエコノミカスという非常に空想的な前提があって、論理を作り上げるという点ではサイエンティフィックな論理が非常にしっかりしている。 ・現在、国際政治学の分野で構成主義という考え方が出ていて、ノルム、ディスコスはどうやってでき上がるのかという議論を交わしている。この議論が政策科学にも影響を与えている。 質疑応答、意見交換 ○ 日本人は戦略的発想に乏しく、状況の分析が十分できないという印象があるが、それは日本人特有の思考方法の欠陥なのか、あるいは教育の問題なのか。アメリカの行政と比較すると、日本の行政はもっと戦略性を持って、状況の分析をやっていかなければならないと感じる。今日本に問われているのは意思決定の方法であり、そのための状況分析が重要であると考える。 □ 分析能力の面では、教育の問題の方が大きいのではないだろうか。文章をきちんと書き表現するというトレーニングが欠落している。 ○ 日本の行政は今まで分析能力を必要としなかったのではないか。個人的な能力と瞬発力によって、その時々に起こる問題を解決したのだろう。各国では、政治学の専門家に対し行政から研究分析の依頼がある。 ○ 鎖国という多角的に分析し戦略をたてる必要性のない時代が二世紀半続いたのが大きく影響しているのではないか。教育も社会も戦略を必要としないし、逆に社会がそれを許容しないという面もあるのではないだろうか。 (3)現実の諸問題への対応について、資料4「意見発表要旨」及び机上配付資料に基づき、稲垣康善専門委員より意見発表の後、質疑応答、意見交換が行われた。その内容は以下のとおり。 意見発表概要 (言語と情報) ・自然言語、人工言語のモデルとしてオートマトンがあり、その中で形式的体系と演繹に基づいて結論を導き出すと曖昧性もなく、ある意味数学的な論理構造の中で無矛盾な世界を作り出して、定理を証明したり、計算の複雑さについて考えることができる。 ・プログラミング言語は、典型的な人工言語であり、プログラミングにおける人と機械のインターフェイスである。プログラミング言語は、人がやりたいと思ったことについて書きやすい形式的な言語を作りコンパイラ、インタプリタを通じ実際にプログラムされたものを機械で実行できるような仕組みを作ることを目的としている。最近のプログラミング言語は直感的に分かるものになり、ソフト類はツールを使えばプログラミング言語を意識しないでプログラムやデータ処理等ができるようになってきた。その中でプログラミング言語の設計、コンパイラの設計などを自動的に行うにはどうしたらいいかということまで考える。与えられた条件の中でしたいことをどう実現するかということを考えるとは、計算機工学的でありデザイン思考、創成的な思考分野である。 ・学校文法は、橋本文法、時枝文法などいろいろな文法論があり、対象とする日本語をどう解釈するか各文法論によって考え方が違う。サイエンスでものを扱ってきた者から見ると、物事の扱い方に大きな違いを感じる。 ・通商産業省のプロジェクトで作られたEDR電子辞書があるが、そこには何万語という単語が入っている。その根底にはデータベースによる資料の蓄積が必要である。一方、研究を振興する上でのこれらの著作物についての知的所有権の問題を考えなければならない。 (人文・社会科学と情報科学) ・情報科学の技術、成果が、人文・社会科学の研究を推進する上では、ツールや資料として提供できるような連携が必要。 ・情報科学が人文・社会科学に解決を期待する課題としては、例えばネットワーク経済がある。情報が技術者から大量に発信されているが、それが経済の仕組みの中でどのように位置付けられているかについては、経済学、社会学の研究者に分析してもらわないといけない。その他知的所有権の問題、言語処理の問題などについては、人文・社会科学の研究者と連携してやっていく必要がある。 ・今のような情報学が生まれてくる歴史的な背景には、1930年代のA.チューリングによるチューリング機械の提案、N.ウィナーの「サイバネティクス」、C.シャノンの「通信理論」、J.モークレーとP.エッカートによるENIAC1号という世界初の電子計算機の作製、J.vonノイマンによるプログラム内蔵コンピュータと自己増殖機械の提案がある。そこからどんどん進歩し、最近では、チェスの世界チャンピオンに勝利したものすごい計算能力とデータベースを有したコンピュータ、2足歩行のできるヒューマノイドがあり、電子化、情報化といわれている技術として携帯電話、ゲーム機器などは社会現象として日常的に浸透している。そのような状況になってきているので人文・社会科学の分野できちんと位置付けてほしいこともたくさんある。(例えばネットワーク社会、サイバー社会における倫理、法律、政策など人間と社会が幸福に暮らせるためにはどうすべきかという問題) ・自然科学の知は人文・社会科学と違い一つの真理、体系の中でどんどん蓄積できる本性を持っている。その結果、人類の生存を脅かすような問題を提起することもあり得る。科学や技術は物事を上手に考えてコントロールすることが大事である。 ・人文・社会科学の怖さは時として人の生活に影響を及ぼすことである。それだけに学問をする人間の責任が重要。 (協力・融合の在り方) ・科学は無矛盾な世界を作り上げて次々に知の体系を作り上げて、知識の蓄積が無限に続く仕組みを科学自身のプロセスとして持っている。 工学の場合はもう少し目的志向で真理を探究し自然の中にある事実を法則化するということだけではなく、こういう仕組みを作りたいなどデザイン的な側面が強くある。人文・社会科学はどう特徴付けしたらよいのか、科学的な手法が適用できる、あるいはそれを援用することはできると思うが、それが本当にサイエンスなのかと考える。ただ、いろいろな意味で融合すると言うことが上手にできれば学問の進展に役立つことはたくさんあると考える。 ・人文・社会科学分野のデータ、資料、知的資産の蓄積、公開、共有を推進することは非常に大事である。データ等をデジタル化、アーカイブ化し、データベース化することによって、文書だけでなく音声、画像を用いて分析ができれば、研究推進の上で大変大きな役割を果たせるのではないか。 ・人文・社会科学だけでは実験ができないとすれば、精密なシュミレーションモデルを作るなどの連携によって、十分な成果が得られるのではないか。 ・産学連携といわれている今日の状況を見ると、産業界から大学に対して基礎研究の推進が期待されている。この状況の中で、国のサポートは大事であり、経済状況に応じて予算のコンセンサスを得ることが必要である。 ・工学、技術、化学関係の研究者と言語学をやっている文学系の研究者達と言語処理学会を作ったが、最後まで残ったのは自然科学系の研究者ばかりになってしまう。情報処理学会でも音楽とコンピュータなどの議論においても音楽の分野でコンピューターを扱っている人たちに来てもらいたいが、ほとんどのメジャーな出席者は技術系となってしまい、連携が大変難しい。 ・学部や学会の組織が、柔軟に分野を変えられるような体制作りが必要である。 質疑応答、意見交換 ○ 資料の共有化の重要性については認識しているが、データライブラリがなかなか作れない。自然科学では、データを容易に検索できるシステムを使っているのか。 ○ データベースの国際的比較を見ると、日本で使えるデータベースは相対的に減っている。日本では、ネットワークの高速化、インターネットの整備に比べ、データベース構築は、支援も評価も低い。メディアは広義の言語の伝達のためにある。言語をどのようにとらえるかが重要であり、意味論的なものでは辞書がその役割を担っている。辞書はまさにデータベースである。 また、戦前、戦略を立てる際にデータが意思決定に生かされなかったことがあるが、戦略はファクトに基づくべきものである。「病気は社会から生まれるので、治療は社会の中で行うべき」という考え方と同じで、技術の病根は社会が作り出しているので、その問題解決は社会の中で行わなければならない。 ○ 融合分野から人文系が減るのは、データベースを使わせてもらおうという程度に考えているからではないか。相互利用でうまいところだけ使おうというのではなく背景には哲学が必要である。自然科学の発展が世界の広さや考え方を規定しているので、それら全体の在り方を歴史的にも社会的にも社会科学者が押さえる必要がある。 □ データベース構築には費用と人力が必要である。技術者は情報伝達の道を作るが、そこに価値ある情報を流すためには、実際に情報を使う研究者の判断が必要になる。 ○ 韓国語、タイ語、インドネシア語等で機械翻訳を行っているが、データベースは人文社会科学の研究者に技術者が参加するという形で構築している。現在、互いに持っているデータベースを交換するという進化型のコントラクトを結ぶことを考えている。 辞書データについては是非国で公開し、皆で使えるようにしてほしい。そうしないと社会科学はなかなか進歩しない。これらのアプローチを戦略的に進める必要がある。 ○ データベース作成費用がなかなか伸びないことを心配している。また、専門家も少ない。データベースを使いたいという人は多いが、作りたいという人はなかなかいないのが現状である。 人文・社会科学、自然科学の融合の前提は、歴史に学ぶことではないだろうか。論理を越えた感情でデータを放棄してしまう歴史があった。データを意思決定に反映できなかった過去に学ぶ必要がある。 良いデータベースは専門家が使える辞書である。また、戦略性とはプラン・ドゥ・シーのことをいうと考えるが、プランのためにはデータは欠かせないことを認識すべきである。 ○ データベースの活用について考えると、歴史データベースに映像等を取り入れると効果的な教育などができるのではないだろうか。 ○ 日本の行政のみならず大学にも戦略性がない。データベース構築のための人材育成、ゲノムシーケンシングの技術者の育成は行われていない。学問の流れを見ながら、戦略的な人材の育成を同時に行う必要がある。 ○ 人材はあるが、それを登用していくシステムがないのではないか。 ○ 研究者個人では戦略性を持っているが、大学全体として戦略を持っていないのではないか。 ○ データベースの種類によっては、プライバシーの問題などもあり、データ活用にあたっての倫理上の問題も出てきている。 ○ 現在のデータベースは研究成果の副産物という位置づけのものが多いのではないか。作ることはできるかもしれないが、維持管理まではなかなかできない。 ○ 社会科学では、既存のデータの再分析により研究が行われる。データが蓄積され、他の研究者が利用できるようにしないと、社会科学はなかなか発展しない。 (4)人文・社会科学研究の振興方策について、資料5「人文・社会科学研究に関するワーキング・グループ」に基づき、似田貝香門専門委員より意見発表の後、質疑応答、意見交換が行われた。その内容は以下のとおり。 意見発表概要 (人文社会の知的関心と実践的対応の知について(学術戦略・制度論)) 【好奇心と実践的対応】 ・自然科学においても理学系に代表されるサイエンス志向と工学部に代表される世の中に役に立つ学問志向との間では、対話が非常に難しい。 ・人文・社会科学には、法律学・政治学・経済学・社会学・心理学・教育学等のように基礎分野、実践分野の双方を持つ部門と哲学・倫理学・美学・語学・歴史学・言語学等のようにもっぱらそれぞれの当該地域の文化の伝承、継続を担ってきた部門がある。自然科学系と違い、人文・社会科学系の知の継続と発展は、基礎部門を理解しないと応用に進めない。例えば、社会学的なことさえ知っていればいいというわけではなく、社会現象は複雑なため哲学、経済学など補助的な学問も知っていなければならない。そういう意味では、応用部門は基礎部門と結びつかなければならない。 ・この数十年で人文・社会科学系の学問のグローバリゼーションはかなり進んでいる。例えば、経済学の一般均衡理論のような、理系でいう線形型研究は進み、国際化していった。しかし、個別の領域における学問は発展はしたが、かえって専門領域があまりにも多く分化してしまって相互に会話ができなくなった。そのため現実的な問題に対して有効な全体的な連携を保てなくなり、人文・社会科学系の学問成熟の時間差の問題になった。 ・出版会の事情もあり、地味なアカデミックな研究書は売れないので出版されず、その代わりに新しい研究動向(言説紹介)が中心になった。その結果、経験的実証的な、あるいは、基礎部門と応用部門の間の連動性が非常に悪くなった。これを打破するためには、大学の学部の在り方、大学院の在り方を考えていかなければならない。学部や研究所を超えたテーマ別のネットワーク、リゾーム型の知の体系を自ら作っていくことが大学にできるかどうかが大きなテーマになる。 ・統計技術、コンピューターの発展により経験的研究が非常にたくさんできるような側面もあるが、現実的な問題をどう解決していくのかという実践的性格を持って経験科学を積んでいくことも必要である。かつて戦後の日本の社会科学は、共通の土俵の中で経済学・法律学・社会学・歴史学等学会が連合して日本の現実を解析し、きたるべき民主主義をどう作り上げていくかというテーマを持った時期もあったが、今はそういう意味での全体的な人文・社会科学の連合体の力はすごく弱くなっている。 ・1960年代の日本においては、批判科学としての人文・社会科学の役割があった。自然科学は近代科学になってから科学者自身が己の科学をするという行為そのものに対する反省を失ったからである。その意味では、人文・社会科学がそれにクリティカルに対応することが大事である。しかし、人文・社会科学は逆にそれを政策科学に展開していくことが上手にできなかった。 ・学問上の問題としては、自然科学の急速な発展と、それに対する人文・社会科学の展開の間には、明らかに時間的な成熟の差がある。これは現代的な問題だけではなく、つとに自然科学系と人文・社会科学系との間には、学問空間の中で学問形成、成熟の時に時間差があった。それは時には哲学の方が先行していてその後に科学が来るということもあった。これをネガティブに考えるか、ポジティブに考えるかということよりも、むしろ学問が完成されていく過程でそれぞれ成熟に時間差があるということを認識しなければならない。 【学術政策としての課題】 ・実験講座の取扱いが自然科学系と人文・社会科学系とは随分違うので、考え方を変えてほしい。自然科学系は機械を買い、それを維持することが重要であるようだが、人文・社会科学系はもちろん機械も買うが、むしろ現場に行ってそこで発掘や調査をすることに膨大な経費をつかう。今のところそれに対して科学研究費補助金しかつかえず、非常に苦しんでいる。これは制度的な利用さえ変えれば解決するので是非検討していただきたい。 ・東京大学の場合、十学部体制で、発展していく知の体系を全部吸収することはできない。例えば、新領域創成科学研究科は十学部体制ではできないということを念頭において、新たに全学支援のために作られたものである。新しいものを既存の学部の中に全部包摂していくという発想だけでは上手くいかない。どこかの学部を中心に拡大していくのではなく、学問の揺らぎの部分をどう吸収していくかということについて「学融合」し、研究が終わったらリシャッフルするというような組織が必要。 ・自然科学系と人文・社会科学系あるいは、自然科学系、人文・社会科学系のそれぞれの中でも互いの専門が違えば言語が違ってくるわけだが、全てを学融合する必要はなく、パラダイム革新が迫られている領域やテーマに絞り込んで自然科学と人文・社会科学の融合可能なプロジェクトを考えていく必要がある。しかし、このプロジェクトは、何度かにわたってそれぞれの領域の問題提起的なチュートリアル・レクチャーをしながら運営していく必要がある。「異なる学問間の接触」とは、「成熟度の異なる領域の出会い」であり、時間的経過を意識した組織化が必要である。例えば、新領域創成科学研究科には三つの大きな分野がある。一つは基盤科学研究系で、非常に高度な方法を有する物理学を基礎とした領域である。二つ目は先端生命科学研究系で、物理学と生物学の相互作用によるDNAなどの分子生物学や生命科学の新しいディシプリンの中の学問である。三つ目は環境学研究系で、人類にとって最も重要で困難な問題である。この三つを時間的に統合していくことが「学融合」であると考えられる。自然科学系と人文・社会科学系の融合においても時間的な成熟の差をコーディネートする人がどのように運営し組織化していくかということに熟知していないと、学問はただ横に並ぶだけである。 ・自然科学系のマスターの学生は、研究に対する関心を強く持っているが、それが社会や人間に対してどのような影響を及ぼすかということについては、非常に無頓着であり、学部教育、教養教育においてヒューマニティーズ、社会を知る必要がある。また、人文・社会科学系の学生も自然科学や技術の持っている利点、課題について理解しなければならない。これは、知の形態、形成、養成をするときに大学院に行ってから初めて知るようでは遅いからである。自然科学系の非線形的な科学を議論している研究者は、「科学は厳密である」という考え方ではなく、「完全ではない」「不確実なことがあり得る」ということに対して許容度が高い。したがって人文・社会科学系あるいは、ヒューマニティーズが持っている不確実に対する責任の在り方(最も人間の根元的な在り方)についての議論との対話も可能であると考える。 質疑応答、意見交換 ○ データベースは何でもかんでも構築すべきであるというわけではなく、21世紀にもっていくべきものそうでないものを分ける必要があると思うが、その際、何をデータベース化すべきかという判断はどのような基準によってすべきか。 □ 日本文学の古典と思われるものは最低限必要と考える。また、社会科学関係では専門家の判断が必要だと思う。空間情報などについては、自然科学的なものと人文科学的な判断が必要であり、データの解釈と利用については人文・社会科学系の研究者がきちんと考える必要がある。また、残すべきデータベースの判断には、「無駄もあるかもしれないが20年後に必要になるかもしれない」という観点が必要である。 ○ 何をデータベース化すべきかは、その時々の学問の流れで異なってくる。しかし、データベースの元になる資料は全て保存しておく必要がある。 ○ 例えば、地図データベースは、当初ほとんど利用されなかったが、カーナビが出てきてから非常に利用されるようになった。ニーズ、目的がはっきりすれば、データベースは保守管理される。目的をはっきりさせることで基準が見えてくると思う。また、容量など技術的な進歩も考慮して基準を考えるのが良いのではないだろうか。 ○ 歴史学としては、どの資料が残って、どの資料が消えるかということが重要であり、主観を度外視して残すのが重要だと思うが、それは不可能であろう。日本、世界のどこかで資料が残るということが重要である。 □ せめて将来の学問に対するシーズは、きちんと残すべきではないだろうか。シーズはできる限り多様である必要がある。 ○ データベースは汎用性が重要である。しかし、データベース活用のためには、検索データベースの構築が必要であるし、重複してデータベースを構築する無駄を避けるために、戦略本部が必要である。また、特殊な目的のデータは研究者個人が持っているが、研究が終了するとデータは無駄になってしまうので、それを残していく方策を考える必要がある。 問題は、一体誰がデータベースを構築するのかということである。データの考証、評価は重要で、研究者が関わらなければデータベース化は進まないが、それらはある種の犠牲的精神をもった人がやることになる。誰が責任をもって、どのようにデータベース化を進めるのかについて方策を考え、施策として進める必要がある。 ○ 新領域を創成する際には、学問の寄せ集めになってしまい、なかなか融合できないという課題があるが、そこはどのように考えているのか。 □ 学融合に関しては、言葉だけがあって実態がない。分かったのは、学融合の方法が多様であるということである。ドレッシングに例えると、コアとなる学問同士を「振る」ことが重要で、そのための制度、仕組みを整える必要がある。また、プロジェクトへの一時的な参加ではなく、相互に語り合う場、フォーラムを持つことが重要である。ほかにもネットワーク型の知の形態もあるだろう。専門の領域によって多様な融合の在り方を考える必要がある。 ○ 科学研究費補助金等による研究成果の一部としてデータベースができた場合、それはどこに帰属するのか。データベースをいざ統合しようとしたときに、著作権等の関係でデータが集約できないということがないようにすべきである。 △ 昭和60年代の審議によると、プログラム及びデータベースの著作権については、国立大学の経費(データベース事業費)によって作られたデータベースは国の帰属とすることになっている。科研費によるデータベースは、教官のほか、大学のセンター等で使っても良いというルールになっている。付け加えて言うと、論文の著作権がいかにあるべきかについては、著作権審議会において継続的に審議されている。 ○ 後継者養成について、学融合の結果としてどのようになっているのか。基礎がない状態で広く浅い研究をしても、一代限りで後継者が育たないのではないか。 □ 新しい学問自体を作っていくので、後継者養成はこれからの問題である。学会等で全国的に新しい学問を作っていく必要がある。領域のリシャッフル、学部における人材の再配置については、大学全体として考えていく必要がある。 ○ 10年でリシャッフルするという方法は良いと思う。ファカルティ・ディベロップメントが重要であろう。 (5)人文・社会科学研究の振興方策について、資料6「Inquiryandsurveyon:Contractualresearch」及び机上配付資料に基づき、村松岐夫専門委員より意見発表の後、質疑応答、意見交換が行われた。その内容は以下のとおり。 意見発表概要 ・先日ドイツの研究者から、「商業的な調査に日本の社会科学者はどのくらいコミットしているか」という質問を受けた。その裏には「社会科学は金になる」という大前提があるのではないか。審議において出された「社会科学は現実に関係がないのではないか」という質問の方がおかしいと考える。社会科学は気を付けないとコマーシャライズされる。むしろ、そちらの方が問題である。 ・世界政治学会において倫理委員会を今年作った。生命領域等多くの領域でも盛んに倫理問題が議論されているが、プロフェッショナリズムとは何であるかについて新しい時代に向かって検討している。 ・商業化は研究を促進するのか、阻害するのか、あるいはどういう領域を促進するのかという問題がある。日本の場合は、ある課題についてちゃんと分析してくださいということについて、どこかでコントラクトするという経験がない。例えば行政改革に関連して外国の制度がどうなっているかとか、現実のインパクトがどうなっているのか等いろいろな研究があるが、純粋にアカデミックな研究を買い取ろうというタイプの依頼はないであろう。日本の社会科学者の場合は、政策自体に興味を持っていて政権に情熱的に献身する学者もいるが、どちらかというと行政機関に対して非公式なコンサルティングをしたり審議会に参加している。概していうとパートタイムであり、それほど本格的にコミットするわけでもない。研究者の現実へのコミットメントを見ると、人生の前半は外国の研究をしながら理論研究をして、人生の後半は審議会などでコンサルティングをやるというタイプが多かった。状況は随分変わってきたが、しかし前回の議論でも今回の議論でも「役に立たない」ということになっているのはおかしいと考える。 ・社会科学の基本作業は問題を自発的に発見することから始まる。1979年に日本に巨額の財政赤字が発見された。これは財政と金融が大蔵省という同一組織にあることと、日銀の独立性が弱かったことに加え、政治が強い圧力を大蔵省にかけ、国債の発行を引き受けさせたことがかなり重要な要因であった。作業の第二段階では、ものすごく時間をかけて調査をすることになるが、一部に大蔵省における金融財政の分離という大きな政治的イシューができ上がって財政分離された。そういう現実的なインプリケーションを持った。この研究者は自発的に1979年辺りの日本における資金の流通を政治学者として研究したが、現実的なインプリケーションを持ってしまう。現代に関する研究は自然に現実との関連を持つと思う。政策志向とは第三段階で、財政赤字を解消しなければならないとしたらどうすればいいかということである。それがソリューションであるとは思わないが、財政、金融等を分離した方が、少なくとも貢献するのではないか。 ・実践という実務の世界に関わることとモラルハザードの問題はいろいろあり、なかなか社会科学が現実に政策提言するのは怖い面がある。現実に近いところでの活動が多いほど研究の寿命が短くて、遠い方が寿命が長い。自分の研究領域はアメリカの影響をかなり受けている。アメリカの政治学は、実践的なインパクトを持っているが、実践的なオリエンテーションをほとんど持っていない。むしろ自分の方が実務界とのつきあいが過ぎていて、研究者としても課題を広げすぎていると時々反省する。政策提言などは偶然やらなければならない羽目になって、自分が持っている知識を役立ててやろうという社会奉仕的な感覚でいて自然なのではないか。社会科学は知識の発見が目的であって、直接的な応用が目的ではないであろう。なぜならば、政治学においては知識の発見は滅多に起こらないからである。そんな不安な第二段階の状況でどうして第三段階(政策志向)に進めるのだろうか。 ・社会科学の中の融合も難しいが、経済学者はバブルの研究などで多くのサジェスチョンが得られるから一種の融合になるかもしれない。それぞれのディシプリンに役に立つような融合がある。自然科学との融合になると全体としては考えにくい。行政学の講義に都市工学の学生が聞きに来るが単位は取りにくい。逆に行政学の講義を受けている学生に土木、農業、都市工学などの講義を聴いてみろといってもそういう雰囲気と仕組みにまだなっていない。 質疑応答、意見交換 ○ 生命倫理、環境倫理など自然科学の発展が一方にあって、そこで引き起こされる問題に対して哲学、倫理学の立場からはあまり関心がないようである。例えば、既存の倫理学の半分は、基礎学から応用倫理にまわるなど学部、大学院の在り方を変えていくことが必要ではないか。しかし、一方で理学に対して社会へ目を向けるよう注意喚起をすることも重要で、それは人文・社会科学の役割であると考える。 ○ サイエンスが生み出した悪、影の部分を社会問題として処理していくために、自然科学と人文・社会科学の協力、フィージビリティを望みたい。 ○ 学会において情報倫理に関する研究会を作ったが、技術者によってある程度倫理コードができても、それが人文・社会科学の研究者となかなか結びつかない。社会の中でどう技術を位置付け、働かせるかという議論が必要なのではないか。 ○ フィールドリサーチの観点で言うと産業、行政から研究の場に戻る「キッシンジャー」のような例は増えてきている。政策研究者にも意思決定に関わるフィールドが必要だが、それを持ちにくい状況にある。半分基礎、半分フィールドというのが研究の上では重要であり、フィールドを怠ると新領域の創成は難しいと考える。 ○ 経済学では資源の有限性が大前提である。また、目的用途以外に社会的な利益や損失を伴うという外部性、公平性、ガバナンスのメカニズム、意思決定の手続き等についての前提があるが、その点が自然科学の研究者にはあまり認識されていない。 社会科学はコマーシャライズされる危険性だけでなく、ポリティカルに利用される可能性があることにも注意しなければならない。 ○ 法律学とは従来の法解釈学であるが、解釈にとどまらず、その解釈が裁判の判決や立法の段階で取り入れられることは研究者冥利に尽きる。法解釈は実際の社会に関わらないと良い研究とはいえない。法律学は社会に近づいていかないと進歩しているとは言えないのではないだろうか。 また、環境法などは、理系の知識がないと法解釈ができなくなってきているし、法律の知識がないと理系の研究もできない状況に変わってきている。 法律学の目から見ると、生命倫理はルールであると考えるが、文学部では学問としてとらえており、現実問題からは多少乖離している状況にある。 ○ 経済学においても目の前にある現実の問題について決断しなければならない場合があるが、それを法律学のように過去の事例をもとに判断力を行使することはなかなかできない。 □ 法解釈学のように判断を行使するような学問にあっては、常日頃から幅広く研究、分析を欠かさず行ってほしい。そうすれば、突然社会からの要請があっても対応できるのではないだろうか。 ○ 人文・社会科学は恐ろしい学問である。戦略を考えてはいけないし、それは卑しいことであると教えられ、今まで個人のやりたいことを研究してきた。世の中に全く無駄なものはない。人文・社会科学は、社会とどこかでつながっていればそれで良いのではないだろうか。 □ ただ、学会においても否応なく学問の流れが生まれる。そこでイノベーションをどのように起こすかが問われているのではないだろうか。 ○ サイエンスは客観的で永遠に続くものであるが、現実の人間社会には喜び、悲しみがあり、サイエンスだけではうまくいかないことを認識し、現実の問題に取り組むことで、サイエンスと人間社会をうまく結びつけることが大事であると考える。 ○ 自然科学では法則を方程式に集約して継承するが、人文・社会科学はそうではない。人文・社会科学はまさに自然言語によって研究をしている。現在、方程式による成果が直接モノや技術に移転されて人間社会に反映されて問題が起きている。そこで、方程式を一度言葉に置き換えて、モノや技術に移転していくということを考える必要があるのではないだろうか。言葉に置き換え、方程式の成果を伝えることがSTSなどの人文・社会科学の役割ではないだろうか。 (6)石井主査より集中審議に出席している委員に対して、集中審議の議論を踏まえて、以下の点について質問がなされた。 5.今後の日程 次回の会議開催については、以下の日程を予定して委員の日程を調整の上、開催することとされた。 <人文・社会科学研究に関するワーキング・グループ(第3回)> 日時平成12年9月26日(火)13:00〜15:00 場所学術総合センター特別会議室1階 <人文・社会科学研究に関するワーキング・グループ(第4回)> 日時平成12年10月25日(水)13:00〜15:00 場所未定 |