(6)中根千枝氏(東京大学名誉教授)の意見陳述の概要(中央教育審議会第23回基本問題部会(平成15年1月29日)より)

     
     中間報告は、全体的には賛同できる。具体の施策を総合的、体系的に位置付ける基本計画の策定によって実効性のある教育改革を進める必要があるとされており、大変期待している。しかし、同じフレーズの繰り返しが多く、気になる。全体構成や章立てを含めてもう少し整理が必要。大学の役割を位置付けたことは高く評価できる。
     教育の理念に関して、いくつか述べる。21頁の日本人のアイデンティティ、国際社会の一員としての意識についての部分は、いかがかと思う部分があり、以下のように修正すべき。「国際社会における自国の地位を高めようと努力することは自然な動き」は削除。「その前提として」以下は、「同時に、自らの郷土や国について十分な認識を持つことが重要となる。」とすべき。以下の3行は不要。その趣旨は、外国滞在経験を持って初めて愛国心を持つのであり、日本での教育のみで愛国心云々するのは言い過ぎ。日本は日本人ばかりが住んでいる島国であり、他国と国境を接しているわけでもないので、愛国心を感じる機会もない。「正しい理解」は、正しくない理解はありえないので不適切。
     38頁の「日本人のアイデンティティと国際性の育成」のところ、5つの○に加え、外国経験について加えるべき。全体の記述の印象が内向き。もう少し外に向くべき。
     40頁の「教育の国際化」の部分について、いくつか項目が挙げられているが、英語教育の充実や留学生の受入れよりも、むしろ外国の経験を持たせることや、留学及びそれ以外のことで外国に行くことが大事。また、一定レベルの英語力の達成とあるが、国民全体が一定の英語力を達成するのは不可能だし、その必要もない。必要な人は英語教育の特色を持つ学校に入るとか、個人で語学を勉強すればよい。国際社会で活躍できる人が増えるのは結構だが、必ずしも学校で一斉に取り組む必要はない。日本では英語を使う機会がほとんどないため、授業時数を増やしてもあまり効果はない。国民全体が英語ができないのは問題ではなく、できるべき人ができないのが問題である。
     41頁の「大学改革の推進」のところでは、国際的に開かれた大学や、海外経験の重要性を強調すべき。留学や、教授なら外国での客員教授として教える経験など、外向きの視点にすべき。全体として、「外に出ていく」という点が弱い。
     資料として配った国際教育協力懇談会の最終報告では、第1部では現職教員の海外派遣について述べている。教師が外国経験を持っていると、国を愛する教育も違ってくる。海外に出ることを希望する教員も多いので、もっと活発に派遣すべきだ。子どもが教師から外国の生活について聞くのもよい経験である。青年海外協力隊に現職の教員が参加できる方途も作っているところだが、留学や仕事で海外に出る制度をつくることで、国民参加型の国際教育協力ができていく。
     第2部では大学について述べている。現状では、大学が機関として外に向かう体制になっていない。そういう意味で、大学における国際開発協力を推進することの可能性について言及している。開発援助の視点が主ではあるが、外に向かって教育が活動しなければならないことは、対象が途上国でも先進国でも同様であり、この報告は参考になると思う。
     
     27頁の4社会教育について、ボランティアや生涯学習について述べているが、もっと積極的な方向を示すことが望ましい。例えば、夏休みや大学入学前の時間を使って、農家や工場などの生産現場等で働くなど、一定時間、学校外の経験を持たせること、組織に入って、働く人とともに物事を経験するような制度を作れないか。制度ができれば、そのような活動は相当進むと思う。
     同じく生涯学習に関連して、これを効果的にするには就学年齢の制限を緩めるべき。そうすると、年齢にかかわりなく、個人の選択でいつでも入学できるようになる。同年齢の者が一斉に進級する制度があるから落ちこぼれができるのであり、そうでなくなれば落ちこぼれの悲劇もなくなる。
     27頁の5学校・家庭・地域の連携について、意図はわかるが、「教育共同体」という用語は不適切。連携・協力は、開かれた中で柔軟に進めるべき。「共同体」というと、閉ざされた感じがする。「教育協力体制」程度の文言にすべき。
     
     28頁の2宗教に関する教育について、むしろ「教育における宗教の取扱い方」とすべき。「宗教に関する教育」は難しすぎるし、日本には当てはまらない。取扱いのアプローチの仕方として2つあり、1つ目は、宗教がいかに社会において重要性を持つか、それをどう取り扱うかというアプローチ。特に、諸外国における宗教と社会、文化の関係は日本人には想像できないものがある。2つ目は、日本における宗教の存在の仕方についてのアプローチ。それには、個別の集団の宗教(クリスチャン、仏教、ミッションスクールなど)と、一般の宗教のアプローチの仕方があるが、個別の問題と一般とは分けて考えるべき。また、信仰と宗教の関係についても明らかにする必要がある。日本人は信仰は持っているが、それが宗教というはっきりした形になっていない。いずれにせよ、この問題は難しく、宗教の専門家とディスカッションして固めるべき。
     
     以下、疑問点、気になった点について述べる。37頁の「豊かな心」のところ、「道徳教育の充実」があるが、道徳教育の内容は何か。道徳は、宗教や倫理、法とは異なり、民族や時代によって変わるものであり、把握しがたい。また、法的に許されても道徳的に許されないこと、あるいはその反対もあり、道徳はとても難しい問題。「道徳教育」とは、道徳規範を教えるという趣旨なのだろうが、それは戦前の強制的な教育を思い出させる。むしろ、基本的な道徳の在り方は家庭教育でなされるべきで、学校では、社会生活がいかにあるべきかについてのディスカッションを通じて考えさせることが大事。
     47頁について。各大学において教員や学生の多様性を高めることは重要だが、「数値目標」を定めることはよくない。人材のアベイラビリティ・有効な活用にもかかわること。数値目標を設定すると、嫌々ながら他大学出身者を採用することになり、問題がある。エンカレッジは大事だが、数値目標は安易に設定しない方がよい。32頁の政策目標の「数値化」や「達成度の評価」も、施政者サイドからすると便利だとは思うが、実際には難しいと思う。
     他に、強く考えている点について述べる。過度の平等主義、画一主義について記述があるが、画一主義の改善に最も効果があるのは、理数系、女子校、男子校など、各学校に特色を持たせること。私立学校ではずいぶん特色が出てきたが、特に公立学校ではどうしても画一化の中で序列ができてしまい、それが多くの人を苦しめるとともに、そのための妙なコンプレックスという弊害が生じている。成績ではなく、個人の指向で選べるように、また転校が容易にできるようにすべき。
     また、画一化は全体の底上げには貢献したが、落ちこぼれの問題、コンプレックスの問題とともに、エリート教育ができないことも弊害として挙げられる。「大競争」はいい言葉とは思わないが、国際競争時代にあってエリートは必要。しかし、日本のエリート層は、薄くて弱い。最近は全体のレベルも下がったようで心配。各学校に自主性を持たせ、文科省のコントロールを弱めることが必要。種類によって学校をエンカレッジする方向にできないか。
     
【質疑応答】
  委員)
       働くことと教育とをどうやって関係づけるかについて、私も悩んできた。今の若者は20歳を過ぎても社会を知らないことが多く、就職していきなり社会に出てカルチャーショックを受け、3年程度で転職する者も多いし、職業のミスマッチも多い。社会教育の中に職業との関連を位置付けて書き込むことは一つの観点であり、感銘を受けた。
     
  会長)
       イギリスでは、在学中、または入学試験後、大学入学直前の1年間のギャップイヤーを使って社会経験をする制度があり、中教審でもこれに関する意見が出されていたところ。貴重なご意見だと思う。
     
  中根教授)
       日本の学生は子どもっぽい。社会的な実体験が全然ないからだろう。
     
  委員)
       日本人のアイデンティティ、国を愛する心の意識については、基本法の中でも難しい点であり、もう少し掘り下げた意見をいただきたい。日本は、欧米諸国と違い、ほとんど日本人しか住んでいない特殊な国である。一方、日本でも特に自動車産業などにおいては、外国人労働者や日本国籍を持つ外国人が働いているが、彼らをどのように位置づけるかは悩ましい問題だ。「日本人」と言ったとき、日本国籍を持つ人を指すのか、この国に住む古来の大和人を限定的に指すのか、どう書き込むべきか。我々は、日本にいても日本人であることを感じる機会が増えている。また、日本国籍がある外国人も多い。
     
  中根教授)
       今、日本で働く外国人は単純労働力を提供する立場であることが多いが、これからは日産のゴーン氏のようにトップや中間的なポストに外国人がいるようになることが大事。そうなると自然に同業者でない日本人よりも親しくなる。その時にはあくまで同僚としてつきあい、日本人・外国人という意識をしない方がいい。ある椅子のデザイナーは、「日本的なことを意識しなくても、自然に日本的なものは現れる」と言っていたが、日本人はどこまでいっても日本人である。外国人も、「日本人らしくない日本人はほとんどいない」と言っている。今、日本人に「日本人」の意識が強すぎる、「日本人」という表現を使いすぎると思うこともある。外での経験が増えれば自然になると思うが、「日本人とは何か」についてはあまり考える必要はない。民族学的にも、「○○人」の定義は難しい。あまり拘泥しない方がいい。
     
  委員)
       中間まとめが内向きの観点であったことを反省している。職業体験については、特に小さな私立大学でのインターンシップの導入が急速に進んでいる。ボランティア活動を単位にするなど、アカデミックでないもので単位を取ることも増えており、このように外国よりはまだ少ないが、育てるべき芽は出てきている。兵庫県の「トライやる・ウィーク」のような、現場で職業体験を積む試みも、大阪や京都で広く行われてきている。内から外へという流れをもっと強くすべきということは触発された。
     
  委員)
       疑問点が2つある。1つは、アイデンティティについて、そう楽観はできないと思う。意思、弁護士など日本のエリート層の多くの人が、自分の子どもに日本の教育を受けさせたくないと考えており、日本人であることに期待せず、日本人であることを放棄している状況にある。本来、嫌な面を含めた土着の生き方がそれぞれの国の文化であるはずだが、それを嫌がる蒸留水のような発想の人が出てきている。日本の文化は、日本の生活の基盤である日本語を話す我々でないと伝えていけない。このような現状からも、基本法の中にアイデンティティは積極的に書いた方がよいと思う。2つ目は、英語教育について。オリンピックの金メダル選手が、大卒であるのにもかかわらず、通訳を付けて取材を受けていたことがあったが、このような状況を放置し、必要な人だけ英語ができればいいというわけにはいかないのではないか。
     
  中根教授)
       オリンピックの金メダリストは英語を話さなければならない立場の者であり、英語ができないのは彼らの怠慢である。英語を話す立場に立ちそう、立ちたいという人ならば、自ら学ぶべきであり、その点、日本人は努力不足であり、相当怠慢である。他国では、英語が必要な立場に立ちそうな人は短期間で努力して語学を身に付けるが、日本の社会全体に英語ができなくてもいいという風潮がある。学校教育の問題ではない。アイデンティティは、自分たち以外の他者と接触して初めて出てくるものであり、孤島やジャングルの奥など他者がいない場では生じない。そういう環境で暮らす部族の名前は、彼らの言葉で「人間」を表す言葉であるケースがほとんどである。日本人がこれまで置かれてきた環境はこれを拡大したようなものであった。日本人が今しきりに「アイデンティティ」と言うのは、これまで他者と関わってこなかった証拠である。アイデンティティは、国際化が進む中、好むと好まざるとにかかわらず自然に出てくる。郷土や国を愛するのは自然のことであり、教育で教えるものではないし、教育により獲得されるものでもない。必要がないのにアイデンティティを深める必要はない。
     
  委員)
       国際社会の中でも、アイデンティティが必要な地域とそうでない地域がある。例えば台湾では、チャイニーズからタイワニーズへとアイデンティティが急速に変わりつつあり、アイデンティティを意味する「認同」という言葉が作られ、重要視されつつある。また、日本人は古くから同質性の高い社会で暮らしており、あまりアイデンティティ・クライシスを感じることもなかったが、その一方で最近の日本人からは「日本人らしさ」が失われつつあるという印象を持つ人も増えつつある。アイデンティティは、民族、文化、言葉のアイデンティティなど様々だが、アイデンティティを強調しすぎると社会の調和を欠く場合もあり、注意して使うべき言葉。この言葉をこのまま法律にする場合、よほど注釈を付けないと危ない。また、アイデンティティは和訳しづらく、基本法の中にカタカナが入ることの問題もあるが、御意見をいただきたい。
     
  中根教授)
       中国人は2~3つのアイデンティティを持っているが、日本人は1つしか持とうとしない。つまり、日本人は、何かに属するときの帰属先は1つしかないと考えてしまうので、苦しくなる。自分の考えでは、外国人学校に通っても日本人でなくなることはない。アイデンティティという言葉は、通常、政治的なニュアンスを伴う。特段の政治的意図がないのであれば、あまり使わなくてもよいと思う。「アイデンティティ」と言わず「日本人であること」とでもしてはどうかと思う。