(2)日野原重明氏(聖路加国際病院理事長)の意見陳述の概要(中央教育審議会第19回基本問題部会(平成14年12月17日)より)

 
   
     自分は大学時代、いい先生には出会うことができたが、自分で勉強する方法はあまり教わらなかった。self-studyingとは何か、problem solvingの方法論はどのようなものかということについては、アメリカ留学中に身に付けた。
     アメリカの病棟を回診した経験から感じたのは、日本の大学教育は、アメリカに比べるとレベルが低いということ。日本の実習医はアメリカの医学部2年生レベルだし、卒後の研究については、日本で15~20年かけて到達する実力を5~6年で身に付ける。それは、アメリカでは、将来の自分の姿が明確であるため、目標を持って充実した学業生活を送っているためである。日本にはそのような明確な目標がないので、今ひとつ充実した勉強がない。
     日本では医学や看護を教える体制がまだまだ不十分だ。アメリカでは、学生を実習医が教え、実習医を少し年長の者が教える。早いうちから教えることで、自らも学ぶということがうまくいっている。日本にも病棟に給料をもらっていない医師が大勢いるが、彼らにとっては教えることが負担であり、優秀な才能が開花する機会を失っている。
     オルテガによると、「大学の使命」は「文化の伝達」「専門職教育」「科学研究と若手研究者の養成」であるとされているが、日本ではこれらが十分に認識されていない。また学校においては教師と生徒の間のコミュニケーションが不十分なのが問題である。
     
     中間報告を読んだが、緻密に考えられたものであると感じた。
     これまで、"Do not"ということばで強制する教育が子どもを追いつめたのではないかという思いがある。これからは"Let's do"に転換することが必要である。
     例えば、「命を奪うな」ではなくて「命を大切にしましょう」と訴えるべきであり、そのためにはまず動物愛護に取り組むべきである。また、10歳くらいの子どもにも聴診器を使って血圧を測ることを教え、これをきっかけに命を大切にすることを学んでもらう。このことが、平和運動に結び付くと考えている。
     命を大切にする運動が子どもの間で起こりつつある。子どもたちの世代には平和が訪れることを願いながら、75歳以上の老人の使命として、子どもに戦争の現実を伝え、命の大切さを語ることに取り組みたい。
     今年、サッカーのW杯が開催されたが、この機会をとらえて世界の国々の地理とか歴史とか産業とか宗教とかを学ぶような取組があれば、子どもはもっと張り切って勉強すると思う。だから、一般的に教育を改革するには、カリキュラムにこだわらず、子どもの興味関心が高い状態で学習を遂行できる柔軟な仕組みも大切だ。
     いまの日本の情勢を見ると、日本の将来については全く油断できないほど緊迫していると思う。それを救うには、教育以外にない。
     
     自分の教育改革に関する提案のエッセンスは1「人間性の豊かな日本人の形成」2「人間の才能を伸ばし、創造性に富む人間づくり」である。これらははっきり文章で書けるものの、「心豊か」とはどういうことかについてはなかなか明確にはならないと思うが、これらのために教育基本法が改正されるという道筋は立派であると思う。
     日本文化は貧しさの中に育ったが、現在、日本人は贅沢になりすぎてそれが壊れている。例えば、キャンプ生活をするとか、アフリカに行ってみるとかいう体験を通じて、貧しい生活とはどういうことかということを理解すべき。教室ではこういう教育はできない。
     日本のボランティア活動は阪神・淡路大震災を契機にして起こってきたが、そもそも日本では社会福祉が発達しすぎていることもあり、文化国家としてはボランティア活動の立ち上がりが遅く、まだ十分ではない。
     日本にも高い知能を持つ人が多くいるが、なかなかノーベル賞級の研究者が現れないのは、畑が悪いからだ。研究費が古い研究をしている教授のところにばかり行き、若手研究者にまわっていない現状がある。創造性のある人間を作るにはその畑(=土壌)が必要である。
     「愛国心=右翼」と感じてしまう日本人の精神構造は問題だ。国を愛することは立派なことである。国旗・国歌については、「君が代」は少し沈んだ感じがするので、マーチ風の第2国歌を作り、スポーツ行事の時と儀式の時で使い分けてもいい。そうすれば、日本人の意識は向上する。
     自分は今、病気の癒しに音楽を使う音楽療法の学会の会長をしている。薬で治らない状態が、音楽の働きにより癒される例も証明されている。キリスト教のゴスペルのように、歌の中に霊的なものを感じ取ることができるメディアが重要である。一緒に歌うことで日本人としての同質の気持ちを持てる、そういう国歌ができれば、日本人の意識に大きな影響を与えられる。
     たくましい人材とは、高い動機づけのもとに行動できる人のことだと思う。また、向かないものを無理に教える画一主義ではなく、重点的に才能を伸ばす教育を実施すべき。アメリカでは、重点的に才能を伸ばす部分については保護者による学校支援ボランティアが担っている。資格にこだわらず、本当に子どもに上手にアプローチできる人材を登用すべきだと考える。
     教育には、意欲と自発的な精神を引き出す人、モデルになる存在が必要である。遠い目標だけでなく、2~3歳年長の兄貴分のような人を近い目標にできるようにすることで、子どもは伸びていく。その年長者にとっても、未熟ながらも教えることで何をわかっていないかを理解することができる。そういう意味でも、もっと早くから教えることに取り組む制度になればいいと思う。
     心と体の相関の中に、もう一つ「精神力」という要素を加えて考えることが必要である。WHOも、健康の定義の中に従来の"physical""mental""social"な健康に加え"spiritual"な健康の要素を加えるべきと議論もある。東洋には「気」という言葉があるが、そういうものにドライブをかけるには何か儀式が必要である。教育でいろいろな行事に取り組む中でも、そういうことが必要であると思う。
     健康教育とは知識ではなく行動である。食べること、寝ること、運動することをどうするかを考え、どんな環境にも順応できることが健康であるということである。健康科学の中に、行動科学的アプローチをもっと取り入れるべきである。
     
     中間報告には「子どもへの『死』の教育」が足りない。アメリカの国立精神保健研究所のレポートは、子どもに「死」を教えることが重要であると結論付けている。いま、核家族化により、日常生活で子どもは「死」から遠ざけられている。そのため、聖路加病院ではいつでも患者に面会できるようにし、亡くなる間際の患者の傍に子どもが行けるようにしている。そして、人間はいつか死ぬという運命を持っていることに触れてもらえるようにしている。
     「葉っぱのフレディ」などの教材を通じて死に関する教育を行うことも可能だ。この作品は、子どもに死を教えるだけでなく、子どもに「死とは何か」を教えられない若い親や、自らも死が近い老人のために書かれたものである。家族でこの物語に触れることで、「死の教育」(サナトロジー=thanatology)を易しく伝えることができる。
     医学では、例えば血圧を下げるかわりに人間としてくすんだような生活を送るのはよくない、特に、死が近いときには、死を延ばすことはできないけれど毎日を充実させる、痛みを止めて、ものごとを感じ、考えられるようにしようというQOL(QualityofLife)の考え方が重要になっている。普段から、命は長さではなく深さであると考えるの観点に立ち、日々の生活を充実させることを目指すべきであるし、自分のために質の高い時間を使うことがもっと一般的になってもいい。、
     宗教教育については、現在、医者が宗教的センスを持っていないから、末期の患者に対しても宗教的アプローチができない。キリスト教、仏教などについて比較宗教学的な知識を持ち、宗教を持っている人を大切にしながら、安らかにその人が死んでいけるようにすることが必要だ。どうしようもない不安状態の中で、人間は心の支えになりうるものの存在を求める。そのことを理解できるようになるための教育が必要だ。
     いま必要なのは「愛と恕」の教育だ。いまの世界では恕(ゆる)すことが失われ、恨みだけが増幅している。たしかに「汝の敵を愛する」ことは難しいが、例えば二国間の関係がうまくいかないのは条件付けをして相手をそれに従わせようとするからである。条件を付けて相手を変えるのではなく、自らが変わっていく努力をしなければならない。恕すというのは愛の裏返しであり、そのことについて教育でしっかり話し合うことが重要である。
     
【質疑応答】
  委員)
       宗教教育については、教える人がいないという議論がいつもでてくる。自分は宗教教育は大事だと思っているので、この状況を何とかしないといけないと考えているが、どのようにお考えか。
     
  日野原院長)
       教育は宗教的に中立であれというが、人類の歴史の中で続いてきた宗教を教育の場面で無視するわけにはいかない。よい人になろうと努力するための手段としての宗教は尊重すべきである。日本の仏教が葬式仏教になりつつあるという見方がある一方、トインビーは「21世紀は宗教の世紀になる」と予言しているように、人間とは困ったときに何かに頼りたいものである。慈善とか愛とかを尊重する気持ちがないと、人間は冷たく、非常識なものになってしまう。「星の王子様」の中に「本当に大切なものは目には見えない」という台詞があるが、われわれにはやはり目に見える形でのモデルが必要。私たちみんなが生まれてきたことを始め、人間の理性では解明できない奇跡があることを考えると、偉大なものに対して頭を下げる気持ちになると思う。文明人はもっと自然に還らないといけないし、相手を知らなければいけない。そのための入口として、宗教について知識として知ることも重要。
     
  委員)
       「最期に幸福だった人間が幸せな人間である」という考え方に感銘を受けたが、このことを教育に取り込むヒントをいただきたい。
     
  日野原院長)
       人間は贅沢になると感謝を忘れる。例えば最近では食事のときに合掌したり祈ったりしなくなり、豊かであることが当然の権利のように思われている。だからこそ、人生の最期に「ありがとう」と言えれば、それは素晴らしい人生であったと言えるだろう。そこから魂が伝播する。豊かさの中にあっても、感謝の念を忘れてはいけない。