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結語

 一 いつの時代もそうであるが、この二十年の間の我が国教育の歩みを今改めて振り返ってみると、やはり、常に教育改革論議を伴いながら発展してきたことが分かり、それと同時にこの二十年、我が国の政治、経済、社会は国際的な変動とも連動しながらかつてない大きな変貌(ぼう)を遂げた時代であったことが痛感される。教育改革を伴いながら発展する教育の歩みをどのように見るかはその視点によって異なるが、教育政策の立場からは次のいくつかの側面から見た教育発展の総体と見ることが可能であろう。一つは、現在のように社会が急激に変化しつつますます複雑化してくると、直接、間接これが教育に大きな影響を与える。教育は一面では社会の進歩発展に対応しつつも、他面では社会変化の好ましくない影響を防ぎ、時にはこれを克服しなければならない。二つは、教育はできるだけ多くの人々がこれを享受することが望ましいので、当然教育制度は量的に拡大する。三つは、教育は単に量的に拡大すればよいのではなく、教育の質的な向上、充実が図られなければならない。四つは、教育の量的拡大と質的充実を支えかつこれを推進するために教育制度の整備と改善が必要である。五つは、これらの諸側面を含めた教育の発展はこれを導く理念や目標を確実に持っていなければならない。それは教育本来の目的である人間の育成とともに国家、社会の形成者の育成を目指すものでもある。そして一国の教育制度はこれらの諸側面が相互に因となり果となりつつ複雑に関連しながら発展していくものである。

 二 学制百二十年史を結ぶに当たり、このような視点に立って戦前、戦後の教育の歩みをとらえつつ、この項においては戦後四十五年を視野に入れ、特に最近二十年の教育の歩みをまとめ、かつ若干の将来展望を試みることとする。

 戦後、我が国は、明治の学制発布以来初めての根本的な教育改革を断行し、教育は民主的で平和な文化国家建設のための原動力として重要な役割を担うこととなった。従前の複線型から極めて徹底した民主的な単線型の学校制度に改め、教育の機会均等を指導理念として発足した新教育制度は、戦後の疲弊した経済、財政、国民生活にもかかわらず国民の強い教育意欲に支えられて発足当初の予想をはるかに超える発展を遂げた。すなわち、昭和三十年には、既に戦後の復興を終えた我が国の経済は次の成長の過程に発展するのである。九年に延長された義務教育は完全就学を遂げ、高等学校への進学率も五〇%に達しそれ以後は十年に二〇%ずつ進展する勢いを示した。単一化された高等教育も三十年代後半から進学率は一〇%台に上り、なお進展の傾向を見せていわゆる高等教育大衆化の段階に入った。

 三 このような傾向の中で戦後の新教育制度は急速な量的発展を遂げたが、その内実においても社会との関連においても、もはや戦後教育改革の単なる延長線上を進むだけではすまされない新しい変化が起きていることが認められてきた。このことは既に中央教育審議会(以下「中教審」という。)の三十八年答申「大学教育の改善について」及び四十一年答申「後期中等教育の拡充整備について」において種々指摘されその改善のための提言も出されたが、これらを集大成した形で四十六年に「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」の答申が行われた。また同じ四十六年には、社会教育審議会より「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」の答申があり、学校教育と同様に戦後の社会教育も社会の急激な変化に対処するため、新たに進むべき方向について提言がなされた。くしくもこの年は今日から見れば戦後の新教育が発足してからほぼ半ばに達し、また学制発布百年を迎える時期であった。従って、この二十年の教育の発展と変化は二つの審議会からの二つの答申を出発点とすることとなった。ところが、いわゆる四六答申から十年余経った五十九年、臨時教育審議会(以下「臨教審」という。)が設置され、広く教育に関連する社会の諸分野にかかわる諸施策を含めて総合的に検討を加え、六十二年までに教育改革について四次にわたる答申を行った。このことは四六答申が指摘した社会の変化の実勢がより顕著に進み、教育の内在的問題も一層厳しくなってきたことを物語っている。このように最近二十年の教育の歩みは、二つの大きな教育改革の提言を柱として、文字どおり教育改革論議を伴いながら発展してきたのである。このような状態をさきに触れた枠組みに一応即しつつ以下主要な流れを概観する。

 (一)三十年代後半から我が国の社会は急速な経済の高度成長を遂げて来たが、四十年代後半からは安定成長の時代に移行した。この間、科学技術革新は顕著に進み経済成長の原動力となり、経済のソフト化や就業構造の変化を生み、我が国経済の世界的な規模拡大に伴い国の内外にわたり情報化、国際化の新しい動きも活発となってきた。一方、人、金、情報の大都市集中や全国的な都市化の進展に伴い伝統的な社会規範や連帯意識が弱まり、また核家族化や少子化そして長寿化の傾向が進んでいる。この時期には、人々の生活水準は向上し価値観も多様化し、また科学技術の革新や社会経済の高度化に伴い新たな人材需要が強まったが、他面地域や家庭の教育力の低下などが訴えられた。このような状況はそれまでの教育の在り方に種々の批判を生み、変化に対応し得る多様性や柔軟性を持った教育の改革が強く求められてきた。

 さらに、この時期の教育政策に大きな影響を与えた社会的要因に教育人口動態の大きな変化がある。戦後の第一次ベビーブームは三十三年に小学校児童数でピークを迎え、その後四十三年までは減少を続けたが、再び増加に転じ第二次ベビーブームは五十六年に最高に達した。これは中学校に連動し、三十七年及び六十一年に二度生徒数のピークを迎えた。また、高等学校についてはベビーブームの影響に併せて経済成長と生活水準の向上を背景とし、進学率は三十年に五〇%に達した。それ以降ほぼ十年に二〇%の割合で上昇し五十年には九〇%を超えて、高等学校は国民的な教育機関として定着した。特にこの二十年間は第二次ベビーブームの波が、小学校、中学校、高等学校さらには高等教育に順次波及し、いわゆる急増急減対策として教育政策に大きな影響を与えた。

 また、教育発展にとって極めて重要な要件である国の財政に大きな変動が見られた。国の一般会計予算額も文部省所管の予算額も五十四年度までは一〇%台の増加を続けたが、四十八年の石油危機後の不況で租税収入は減少し、赤字公債依存を余儀なくされた。この状況に対し五十六年の臨時行政調査会の財政再建の方針に従い、五十七年以来いわゆるゼロないしはマイナスシーリングに方針が転換された。その結果、五十七年度から平成四年度までの十年間文部省所管予算額は年平均一%台の低い伸びに落ち込んだ。このことは教育発展にとって大きな制約となった。

 (二)教育発展を量的側面から見た場合、さきに触れたようにこの時期第二次ベビーブームの波が小学校、中学校、高等学校を駆け抜け、文部省は教育施設の整備や教職員定数の充実に対応を迫られたが、これらの対策は量的整備と同時に教育の質的充実を図る側面を持っている。まず四十年代後半以降、公立学校施設整備のために国庫負担(補助)制度が逐次改善された。一つは負担率の引上げであり、二つは対象とする施設の拡大である。特に四十六年度から校地取得、四十八年度から児童生徒急増に伴う校舎新増設について、さらに五十一年度から高等学校進学率の急上昇に伴う公私立高等学校建物の新増設についてそれぞれ新たな財源措置を行った。このように教育施設の量的整備に努めるとともに、五十七年度からは、教育内容、方法の改善に対応する学校施設、地域住民の利用を考慮した学校施設さらには潤いのある教育環境等を目指して質的整備の補助事業を始め、また施設設計についても機能的な多様化の指導が進められた。

 次は、学級編制及び教職員定数の「義務標準法」の運営によって児童生徒の急増・急減に対処し併せて教育水準の確保、向上に努めてきた。三十四年度に発足したこの施策は五か年計画の積み重ねによって進められ、第二次計画(三十九年度)において従来の一学級五〇人が四五人に引下げられ、第三次計画(四十四年度)において複式学級、特殊教育学校の基準が改善される等の進捗(ちょく)を見せた。教育界多年の要望であった四十人学級の実現は当時既に深刻化しつつあった財政事情の下で、後年度に負担が続くこともあり政府部内で厳しい論議が交わされた末、ようやく第五次計画(五十五年度)において実施に向かうこととなったが、厳しい財政事情や児童生徒の急増の推移を考慮しながら漸進的に実施することとなり、十二年をかけてようやく平成三年当初計画を実現し、教育の質的充実に貢献することとなった。また高等学校の「高校標準法」は三十七年度から第一次五か年、第二次七か年、第三次五か年、第四次十二か年の計画によって実施された。四十二年度の第二次計画において普通科が四五人へ、定時制が四〇人へ引下げられたが、その後は生徒急増を考慮してこの数値は改善されなかった。しかし習熟度別学級編成、小規模校・課程、職業学科等に対する特別な定数措置が講じられて平成三年に至り当初計画は実現された。

 さらに、高等教育の全体的規模に関しては五十一年に戦後初めて計画的整備が始められた。これにはいくつかの理由がある。高等教育への進学率は、四十年代の初めごろから高等学校卒業生の漸減にもかかわらず急速に上昇し、五十年には三七・八%に達し十年で二倍強の急激な増加を示した。しかし、この間大都市と地方の高等教育機関の収容力の不均衡、私学の定員超過入学による教育条件の低下等多くのひずみが指摘された。一方高等教育において私学の占める比率はますます増大しその健全な運営を図るため、かねてから懸案の経常費助成が立法化された。これを機に前述のひずみを是正する目的で、五十年代前期・後期及び六十年代のそれぞれの整備計画によって、大都市は原則抑制の方針で高等教育全体の整備について規模の目途が定められた。ただしこの計画は前記の学校教育の標準法のように行財政面での担保の措置はなかったが、一種のガイド・ラインの役割を果たすこととなった。

 中教審四十六年答申で提言された幼稚園教育の拡充振興については、入園を希望するすべての四歳児及び五歳児が就園できることを目標に四十七年度より、さらに父母等の強い要請を踏まえて、平成三年度より対象を三歳児に下げて、幼稚園教育の振興が進められている。これに併せて就園児父母の経済的負担の軽減、施設・園具整備のために助成を行い、また個人立幼稚園の学校法人化を促す措置が進められている。同じく四十六年答申で、それまで延期されていた養護学校の義務制の実施が提言された。文部省はこれを受けて義務教育を五十四年度に実施することを決定し、そのために必要な施設、教職員定数、訪問指導、介助職員等の整備充実につき助成を行った。併せて特殊学級の整備や障害の種類と程度に応じたきめ細かい教育指導のための諸措置を行っている。このような幼稚園教育や特殊教育の拡充発展は機会均等の理念による教育機会の拡大であるが、それぞれの教育の質的側面に配慮した諸措置を伴って進められている。

 (三)教育の質的発展はもとより量的拡大と深く関連し、またこれらを支え促進する諸制度の改善を伴わなければならない。教育の質的充実については、つとにOECDの教育大臣会議においても教育の量的拡大との関連において取り上げられてきたが、ここではそのための教育政策を特に次の三点を中心に概観する。一つは、教育課程の改善で、これには教科書、教材、教育方法等が深く関連する。二つは、教員の質の向上である。養成、採用、研修、待遇等が含められる。三つは、学校運営の改善で、教職員組織、管理体制等が大きくかかわる。

 教育課程の改善に関してはこの二十年間に二度にわたりその基準の全面改正が行われた。その理由は社会の変化と教育の量的拡大に伴う児童生徒の多様化に対応するためであり、改善の方向は基準の緩和により画一性を是正し学校や教師の創意と工夫に大きく期待するものである。この間、四十六年の中教審の答申及び六十年から六十二年にかけての臨教審の四次にわたる答申では、共通して教育内容と教育方法等の改善について提言している。まず五十年代の教育課程の改善は、それまでの学習内容が高度であり、量的にも過大であり、知識伝達に偏りがちであったとの指摘にこたえ、児童生徒が自ら考え主体的に判断し行動できるよう、教育内容の精選と授業時数の大幅な削減を行い、「ゆとりと充実」がキーワードとされた。高等学校についても、例えば卒業に必要な単位数を八五単位以上から八〇単位以上に、必修単位数を卒業必要単位数の三分の一にそれぞれ削減し、習熟度別学級編成についても戦後初めて措置された。次に平成元年から再度全面改訂された教育課程の基準では、生涯学習の基盤を培い、二十一世紀を目指して社会の変化に主体的に対応できることをねらいとし、心豊かな人間の育成、基礎・基本の重視と個性教育の推進、自己教育力の育成、文化と伝統の尊重と国際理解の推進の四点を重視した改善が行われた。特に小学校低学年では従来の理科、社会科に代えて直接体験を基本に据えた生活科が新たに設けられ、また国語教育の充実が図られた。中学校については生徒の個性を生かす教育を一層充実するための選択履修の幅を拡大し、高等学校についてはこれを受けて選択履修の拡大と生徒の能力、適性、進路の多様性に即するよう多様な科目が用意された。また小学校、中学校、高等学校を通じて国旗の掲揚と国歌の斉唱が従来の「望ましい」から「ものとする」と、その取扱いが明確にされた。これは国際化の進展の中にあって国旗、国歌の指導を一層充実する必要があるとの臨教審答申及び教育課程審議会の答申に基づくものである。

 教育課程と深い関係を持つものに教科書がある。戦後は学校教育法の規定に基づき教科書検定制度が二十三年から始まった。その後三十一年及び五十二年に検定制度の改善が図られたが、臨教審の答申に基づき平成元年には戦後の一番大幅な改正が行われた。特に検定手続の簡素化、審議会の役割の明確化、検定の公開等により国民に分かりやすい教科書検定の運営が図られた。ここで教科書に関してこの間の二つのことに触れておく。一つは、五十六年度の高等学校用教科書の検定に関連し、中国及び韓国から記述の一部について史実の改ざんや歪曲が行われたと批判が寄せられ外交問題となった。文部省は教科用図書検定調査審議会に諮った上、その答申を得て検定基準に「近隣アジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」の一項を加えた。この新しい基準による検定を次期改訂検定を一年繰り上げて実施してこの件について対処した。二つは、四十年代から五十年代にかけて検定をめぐるいわゆる教科書裁判が世間の注目を集めた。法律上の争点は教科書検定が表現の自由や学問の自由を侵害するか否か、教育行政は教育内容に及び得るか否か、教科書検定は教育に関する不当な支配に当たるか否かなどとなっている。一審、二審、最高裁と裁判は長期にわたったが、現在はいずれの件についても検定制度の合憲、合法性は確認された。

 教育課程の基準の改善に伴って教材の整備とともに教育方法も児童生徒の能カ・適性に対応し、かつ自主性を重んずる方向に改善されるよう指導が進められたが、ここでは情報化及び国際化に向けての教育指導に触れる。

 四十年代後半から児童生徒一人一人に学習を確実なものとするため各種の教育機器を活用して情報の提示や処理など指導方法に工夫改善の動きが高まってきた。臨教審はその答申で高度情報社会に生きる児童生徒に必要な新しい資質を「情報活用能力―情報リテラシー」と定義し、読み、書き、算数と並ぶ基礎・基本としてこれを育成することを提言した。六十二年の教育課程審議会の答申も情報の理解、選択、処理、創造などに必要な能カ及びコンピュータ等を活用する能力と態度の育成が図られることを提言し、平成元年の学習指導要領では、各教科、科目の中に情報処理能力の育成をはっきりと位置付けた。これと関連し文部省は研究指定校、教員研修さらにコンピュータ購入のための財政措置等必要な施策を行っている。

 国際化への対応については、戦後ユネスコを中心に提唱された国際理解教育が我が国においても重視されてきたが、昭和四十九年の中教審の答申や六十二年の臨教審の答申において、国際社会においてその一員として積極的に貢献し、また国際的に信頼される日本人の育成が強く求められることを提言した。このことは各教科、道徳、特別活動を通じて総合的に推進されている。さらに平成元年の教育課程の改善では我が国の文化や伝統の尊重と国際理解教育の推進を基本方針の一つとして掲げて各教科の内容の改善を行った。これと関連し、特に外国語教育についてはコミュニケーション手段としての外国語能力を育成するため内容、方法等の改善が図られている。昭和五十二年度からネイティブ・スピーカー招致事業を開始し平成三年度には世界八か国から二、七〇〇名を招致し、また高等学校においてはアジア諸国の言語を含めて英語以外の外国語教育の推進を図っている。さらに国際化の一つとして児童生徒の国際交流が重視されて、六十三年度から高校生の留学を制度化し、また外国への修学旅行や外国の学校との姉妹校交流も活発化している。海外子女教育も年々規模が拡大し、文部省は国際化への対応の重要課題として必要な措置を行っている。

 教員の資質向上は教育の質的充実に関する課題として極めて重視されてきたが、四十六年の中教審答申は、義務教育の教員の俸給の改善、採用後一年程度の研修、教員経験者の再教育のための大学院設置の三点を特に提言した。教員俸給については四十七年の教職調整額の支給に始まり四十九年にはいわゆる「人材確保法」の制定により画期的改善が実現した。大学院については五十三年から五十六年にかけ兵庫、上越、鳴門の新教育大学が創設された。六十年の臨教審答申に基づき、六十三年教員免許制度の改正を行い、修士課程修了を基礎資格とする専修免許状、特別免許状による社会人の学校教育への活用、免許基準の引上げ等従来各方面からの提言を集大成し免許法制定以来の最大の制度改正を行った。同時に永年の懸案であった採用後一年間の初任者研修制度も実現した。制度改正とは別に、教員採用方法についても知識、学力のみに偏ることなく、実技、適性、教育実習の実績、ボランティア活動などの経験、面接等を考慮した選考方法の多様化が進められている。

 教育の営為は教育現場と言われる学校の生き生きとした経営にかかっている。学習指導要領においても教育課程の編成、教育方法について学校の創意工夫の余地を大きくしている。学校規模、教員定数の標準も学校経営への配慮に基づいている。また学校の経営管理の複雑化に伴い校長を補佐する教頭職の設置や管理・指導のため校務を分担する主任制度が四十九年から五十一年にかけて整備された。これには学校に命令体制を持ち込むものとして日教組等の一部の教職員団体の強い反対もあった。臨教審は、学校が活力と規律を維持するため若手教員の管理職登用の促進を提言したが、文部省はこの趣旨の徹底に努め逐次その実現を見ている。

 (四)これまで学校教育の量的及び質的発展について述べる中で、これを支えあるいは推進する教育の制度や仕組みの改革についても触れてきた。ここでは高等教育について量、質両面の発展を主として制度改革を通して概観する。

 高等教育の改革については、中教審三十八年答申、同四十六年答申、臨教審六十二年答申さらにこれを受けた大学審議会六十三年及び平成三年の答申が骨子となっている。これら答申の内容は多岐にわたっているが、新制大学が、二十四年の発足当初から抱えていた未消化の課題、急速に膨張し大衆化した大学の実態とそれまでの大学の在り方とのずれ、社会の変化による大学への新たな期待等複雑な諸要件にこたえる大学改革について提言している。この間象徴的な事件は四十三・四年を頂点に全国的に多くの大学を巻き込んだ学園紛争で、これには様々な社会的、政治的要因が絡んではいたが、特に大学の在り方自体にも問題が内在していたことは否めない。これらの諸答申を受け、また学園紛争の貴重な経験を経て大学改革の諸施策が採られてきた。既に触れた五十一年から始まり現在に続く高等教育の規模に関する四次にわたる整備計画は、十八歳人口の増減、進学希望者の増加、地域間の均衡等を考慮した主として量的側面からの整備を意図したものである。また、大学教育の弾力化を図るため数次にわたり大学設置基準の改正が行われ、さらにいわゆる新構想の大学としては筑波大学、放送大学その他のいくつかのタイプの大学が設置された。大学審議会は、大学、短期大学、高等専門学校、大学院の在り方につき総点検を行い、全体として基準の大綱化を図り大学等の特色ある発展を促すことを提言した。このうち平成三年の諸基準改正の中核をなす大学設置基準の改正は、これが制定されて以来の根本的改正である。その眼目は、一般教育と専門教育の科目区分等を廃止して大学が自由に特色ある教育課程を編成することができるようにすること、また大学が自らの責任において教育研究の不断の改善を図るために自己点検・評価システムを導入することの二点で、我が国の大学制度にとって極めて画期的な措置で従来とかく批判の絶えなかった大学教育の質的充実を企図したものである。また学位の整理を行うとともに大学以外の多様化した高等教育機関の学習成果を評価して学位の授与を行う学位授与機構が設置された。私立大学については四十年代に飛躍的な拡大を見せ世界先進国に類を見ない大きな存在となった。私立大学はこのように我が国高等教育の量的拡大に大きく貢献したが反面その教育条件には問題を抱えるものが少なくない。その主たる要因は私学経営における財政基盤の弱さによる。これについては五十年の私立学校振興助成法の制定により改善の制度的仕組みは一応整備されたが、問題はこの仕組みを通じての国の財政措置にかかっている。なお大学入試については、我が国の雇用慣行や企業の採用方法の影響もあって、建前として同一の大学間に格差問題が生じ、これが大学入試問題の解決を困難にして受験競争の激化や高等学校以下の教育へ大きな影響を及ぼしている。大学入試制度については、戦後様々な改革が試みられてきており前述の審議会の諸答申においても度々改善策が提言されている。現在大学入試センター試験、国立大学の「分離・分割方式」、推薦入学等改善策が進められている。

 なお、我が国への留学生はいわゆる「留学生一〇万人L計画を機に五十年代後半から急激に増加し現在四万五、〇〇〇人に達しており、留学生の教育と生活の面で各種の施策が進められている。一方日本人学生の海外留学も三万数千人に及び、内外学生の交流は、大学の学術上の国際的な交流や共同研究の活発化と並んで大学の国際化の道を切り開いている。これに伴い大学の「内なる国際化」が新しい課題となっている。

 四 このように改革を伴いながらの教育発展を導いた指導理念とはどのようなものであるのか。中心をなした中教審四六答申と臨教審の四次の答申にこれを求めてみたい。中教審答申は、人間の可能性の開発を重視し、選択と問題解決の能力のある「自立的・創造的な人間の形成」が求められるとし、臨教審答申は、個人の尊厳、自由、規律、自己責任の原則すなわち「個性重視の原則」の確立を挙げている。そして両答申とも生涯学習(教育)を今後の教育の基本理念とし、そのための新しい生涯学習の体系化を提言している。我が国は明治以来の成長過程を通じて国民全体の資質向上を目指して平等・公平な教育を進めてきた。日本の成長過程ではこの方針はかなりの成果をあげてきたが、一時戦後の凋(ちょう)落を経てその後活力を回復し経済の高度成長と社会の複雑化が進むに従い、従来の教育の在り方が逆に画一的、硬直的との批判を受けるに至ったのである。さらに情報化や国際化の変化に対応するためにもこれらの目標、指導理念の確立が必要であり、そのため教育の諸制度の多様化や運営の柔軟化が強く求められているのである。

 五 我が国の学術、文化、体育・スポーツについては、前述の社会経済の複雑な変化と各段階の学校教育の多岐にわたる改革と発展の動きと連動しながら量的及び質的な発展を遂げ、これを支える制度の改善も進められてきた。

 近年、学問の専門分化と進展、境界領域・複合領域の発展、いわゆるビッグ・サイエンスの登場、学術の国際交流の活発化、学術情報の増大化など学術研究の内在的発展から生ずる学術研究振興の要請が強まってきた。一方、資源エネルギー、環境保全、海洋利用、人口問題、地震予知、がん対策など人類と地球規模の問題の解決に貢献するために学術研究に対する社会的要請が増大してきた。このような重要課題に立ち向かう学術分野にとって率直に言って五十年代後半からの行財政の合理化や予算のゼロ・マイナスシーリングは極めて厳しい制約条件であった。このような困難な状況の中で、基礎的研究費の確保、独創的・先駆的研究の助成の努力が続けられ、研究組織については大学の共同利用にも配慮し、さらに大学院の整備充実、フェローシップ制度の充実等により若手研究者の養成・確保を図っている。

 文化への国民の志向は生活水準の向上に伴って経済中心の考え方から精神的な充実やゆとり、心の豊かさを求める中で次第に高まってきた。人々の文化志向は芸術・文化の鑑賞にとどまらず積極的に自ら参加し、制作し、演じ楽しもうとする「参加する文化活動」へと発展していった。五十年代に入って「文化の時代」と「地方の時代」の合言葉が重なり各地で伝統文化の発掘、継承、発展をはじめ様々な文化活動が活発化し、それが「まちづくり」や「むらおこし」の柱となるような動きも見られるようになった。四十三年文部省の外局として文化庁が創設され文化行政の総合・一体化が図られた。これより先四十一年に古典芸能の保存継承のため国立劇場が設置され、それ以来の課題であった現代舞台芸術のセンターとしての第二国立劇場の設置が現在具体的に進められている。平成二年には広く芸術文化活動を助成する芸術文化振興基金が設置された。また各種開発事業の急速な進展や生活様式の変化等に伴い有形・無形の文化財の保護を強化し、これを整備・活用するため昭和五十年には文化財保護法の一部改正が行われた。文化庁はこれらのほか国語及び著作権に関する施策や宗務行政の推進に当たっている。

 体育・スポーツの振興が文教政策の重要な課題であることは言うまでもない。この時期の初めの四十七年には保健体育審議会から基本方策の答申があり、スポーツ施設の整備、指導者の養成・確保、研究体制の整備、必要な資金の確保等具体的な提言があった。文部省は地方公共団体やスポーツ団体と協力して答申に即した施策の推進に努めた。その後臨教審も生涯学習の見地からスポーツ振興につき提言し、さらに保健体育審議会は平成元年に「二十一世紀に向けたスポーツの振興方策について」答申した。この答申では生涯スポーツと競技スポーツの両面にわたり学校における体育・スポーツとの連携にも配慮した振興方策を提言した。特に「見るスポーツ」やプロスポーツをも取り上げ、文化としてのスポーツの視点を示したことは画期的なことで注目された。平成二年には念願のスポーツ振興基金も設置され、また国立スポーツ科学センター(仮称)の設立も具体的段階に入っている。さらにスポーツ振興に関する各種の団体の育成が図られている。また各段階の学校教育においても健康の増進と体力の向上を二大目標とし各種の施策が進められている。

 社会教育については社会教育審議会の四十六年答申が人々の生活や社会の変化と学習需要の多様化に対応して社会教育を幅広くかつ生涯にわたる営みとしてとらえることを提言している。これを受けて施設の整備や団体活動、地域活動、各種ボランティア活動を促進するなど内容、方法の多様化が図られた。臨教審が更に生涯学習を強く唱導するに及んで社会教育はその中核的役割を担うべくその発展充実が図られている。

 この二十年の教育の発展と改革は中教審の四十六年答申と臨教審の四次にわたる答申を大きな軸として進められてきた。その展開の道のりはもはや戦後の発展路線の単なる延長ではすまされないことを示している。内外にわたる変化に対応するためには、個性を重視し、自立的・創造的な人間の育成を目指した多様性に富んだ教育制度とその柔軟な運営が求められている。そして長寿社会を迎えた我が国において生涯にわたり心身ともに健やかに生きるためには、人間特有の学習能力によって人々が積極的に人生に挑戦することが必要となってきた。永い生涯と多様な生活環境を通じて生涯学習を可能にする社会システムの整備が強く求められている。

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