一 教科書検定制度の改善

検定制度の整備

 戦後の教科書検定制度は学校教育法の規定に基づき、昭和二十三年から始まった。三十一年には教科書制度の整備を目指した「教科書法案」が審議未了で廃案となったが、教科用図書検定調査審議会(以下教科書検定審議会という。)の委員の大幅増員、専任の教科書調査官の設置などの実現を見て教科書検定制度が整備された。その後、五十二年に、教科書検定審議会の建議を受けて検定制度の改正が行われた。この改正は検定制度発足以来の検定実施の経験に基づき行われたもので、教科用図書検定規則を改正して、1)従来慣行的に行ってきた各種手続を規則上明記し、検定手続を体系化すること、2)検定申請原稿本の誤記・誤植の防止措置を設けること、3)不合格処分に関する救済措置を設けること(不合格理由の事前通知と反論書の提出及び再審査、修正意見に対する意見申立て)などが図られた。また、同時に教科書内容の精選の観点から教科用図書検定基準も大幅に改正された。

 五十八年に第一三期中央教育審議会は「教科書の在り方について」答申した。この答申は教科書制度全般にわたるもので、検定制度に関しては、教科書検定審議会の機能の充実、検定基準の改善、検定周期の延長などについて提言している。答申を受けて、教科書制度に関する整備を図ろうとしていた折、五十九年に臨時教育審議会が発足したことなどから教科書制度の改善は臨時教育審議会の答申を待つこととした。

 六十二年の臨時教育審議会第三次答申では、初等中等教育改革の一環として、著作・編集、検定、採択・供給、無償措置など教科書制度全般にわたる改革提言がなされた。このうち検定制度に関しては、教科書の質的向上と創意工夫の促進、個性豊かで多様な教科書の発行などを改革の基本方針とし、具体的には、文部大臣が検定の責任を持つという基本を維持しながら、検定の機能は教科書としての適格性の判定に重点を置くものとし、審査手続の簡略化、検定基準の重点化・簡素化、検定の公開などの改善が提言された。

検定制度の全面改正

 この臨時教育審議会答申を受けた検定制度の改正は平成元年四月に行われた。これは戦後の検定制度において、昭和三十一年の改善に次ぐ、大幅な改善であった。検定の手続を定める教科用図書検定規則及び検定審査の基準となる教科用図書検定基準が全面的に改正され、1)三段階審査の区分の廃止、2)審議会による修正審査、3)改善意見・修正意見の一本化、4)申請図書の公開、5)検定基準の大幅な重点化・簡素化などが盛り込まれた。特に、検定手続の簡略化、審議会の役割の明確化、検定の公開などの改正は国民にとって分かりやすい教科書検定制度の運用を図るものであった。

 新しい検定制度は、平成元年告示の学習指導要領に基づいて著作・編集された教科書の検定から本格的に適用になった。すなわち、二年度は小学校用教科書(四年度使用)、三年度は中学校用教科書(五年度使用)が適用を受けた。

 なお、新しい制度では検定周期を四年と改め、教科書の使用結果が次回の教科書編集に生かされるようになった。

中国、韓国による教科書問題

 昭和五十六年度の高等学校用教科書の検定に関し、教科書検定が外交問題となった。いわゆる中国、韓国による教科書問題である。五十七年六月に前年度の検定結果の新聞報道に端を発し、中国、韓国両国から我が国の歴史教科書の記述の一部について、史実の改ざんや歪(わい)曲が行われたなどとして批判が寄せられた。政府はこれらの批判について検討をした結果、同年八月「歴史教科書」についての官房長官談話を発表した。同談話では、近隣のアジア諸国との友好、親善を進める上で教科書の記述をより適切なものにするために、政府の責任において、検定制度の枠内で是正する旨が述べられた。

 文部大臣はこれを受けて教科書検定審議会に諮った上で、我が国と韓国、中国をはじめとする近隣のアジア諸国との過去における不幸な関係にかんがみ、これらの諸国の国民感情等にも今後一層配慮する必要があるとする同審議会の答申を得て、教科用図書検定基準に「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」の一項を加えた。この新たな検定基準による検定をできる限り早く行うため、次期改訂検定を一年繰り上げて実施した。

 その後、六十一年六月に、検定中の高等学校用教科書「新編日本史」の内容が新聞報道されたことから、再度、中国、韓国から批判や懸念が表明された。文部省は五十七年の官房長官談話等を踏まえ、再度教科書検定審議会に諮るなどの措置をとって、同年七月に検定合格とした。

教科書検定訴訟

 昭和四十年代には各種の教育裁判が起きているが、中でも検定をめぐるいわゆる教科書裁判が世間の注目を集めた。家永三郎元東京教育大学教授が自著の高等学校用日本史教科書に対する検定を不服として、国を相手として提起した一連の訴訟である。これには三十七年度の不合格処分及び三十八年度の条件付合格処分に関して提起した損害賠償請求(第一次訴訟)、四十一年度の改訂不合格処分の取消しを求めた行政訴訟(第二次訴訟)、五十五年度の検定及び五十八年度の改訂検定に関して提起した損害賠償請求(第三次訴訟)の三件の訴訟がある。これら三件の訴訟を通じて、原告(家永元教授)は憲法論を全面に出し、教科書検定制度及びその運用が違憲・違法であると主張するとともに、戦後の教育政策の在り方についてまで、その争点を広げている。主な法律上の争点としては、教科書検定が表現の自由や学問の自由を侵害するか否か、教育行政は教育内容にも及び得るか否か、教科書検定は教育に関する不当な支配に当たるか否かなどとなっている。

 四十五年に第二次訴訟について東京地裁判決(いわゆる杉本判決)が出され、検定処分を違法として取消しを認めたため大きな反響が起こった。控訴審でも五十年に国側の敗訴となったが、最高裁ではその後の学習指導要領の改訂により訴えの利益が消滅した可能性があるとして、五十七年に東京高裁に差し戻し、平成元年の差戻し審判決は訴えの利益の消滅を確認して訴えを却下したため、原告側敗訴で終結した。

 第一次訴訟については、四十九年に東京地裁がほぼ国側の主張を認め、さらに六十一年の控訴審判決において国側の主張が全面的に認められ原告の請求は棄却された。また、平成元年には第三次訴訟の第一審判決があり、ここでも、検定制度の合憲、合法性が再確認された。第一次訴訟(原告上告)と第三次訴訟(原告控訴)は四年現在まだ審理が継続している。

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