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第三節 学術・文化の国際交流

研究者・教員の国際交流

 第二次世界大戦によって中断されていた研究者・教員の国際交流は、戦後漸次復活してきた。占領下において先駆的役割を演じたものが、米国占領地救済資金(GARIOA)による人物交流計画であった。この事業は昭和二十四年に発足して二十七年まで三年間継続した。二十七年の平和条約締結を契機として、ガリオア計画はフルブライト法による人物交流計画に引き継がれた。

 これと相前後して、ドイツ連邦共和国のフンボルト財団の奨励金、フランス政府給費留学生制度等による日本人研究者の派遣も次第に増加した。

 一方、フルブライト計画によってアメリカ合衆国からの研究者を中心とした教育関係者の来日者数も漸次増加した。

 平和条約締結以降、我が国の経済成長が進み、国力も充実し、我が国の社会が国際化の傾向を強めていく過程において、学術・文化の国際交流も占領期とは様相を異にしてきた。

 その第一は、諸外国との文化協定の締結である。これは、我が国の優れた学者・研究者を協定国に派遣するとともに、協定国からも招致することを内容とし、多くの国々と学術・文化の交流、協力関係の促進を図ろうとするものである。二十八年フランスと文化協定を締結したのを手初めに、四十六年までに一三か国との間で協定が結ばれた。

 第二は、アメリカ合衆国との間の交流の新しい展開である。三十六年には科学協力に関する日米委員会が設けられ、両国科学者の相互交換を行う事業が研究施設の相互利用、科学情報の相互交換などのプログラムとともに発足した。翌三十七年には、文化及び教育の交流に関する日米合同会議も発足し、文化と教育に関する人物交流の促進が他の学術・文化の交流問題とともに討議された。

 第三は、外国人流動研究員及び奨励研究員制度の創設であり、三十四年から日本学術振興会を中心に実施された。

 第四は、在外研究員制度の復活・拡大と教職員の海外派遣制度の創設である。前者は主として国立大学の教員などに対し明治の初期に開始されたものであり、戦時中の中断の後、二十五年に復活したが、学術の急速な進歩に伴い在外研究員の数も拡大し、四十一年には新たに国際研究集会に出席する研究員の派遣制度も創設した。また、教職員の海外派遣制度は三十四年に創設された。

留学生の招致・派遣と教育協力

 戦後の国際交流事業の中で注目すべきものに、文部省による多数の国費外国人留学生の招致と、発展途上国の教育発展のための協力・援助の二つがある。

 戦後の国費外国人留学生は昭和二十九年度に初めて二三人を受け入れ、一方、私費留学生の数も年々増加した。このほか、我が国の賠償金により、三十五年度から五年間毎年一〇〇人という計画でインドネシア政府派遣留学生を受け入れた。

 外国人留学生に対しては、三十二年から文部省の補助金を受けて財団法人日本国際教育協会が、留学生会館の運営、医療費補助、帰国後の事情把握そのほか留学生のための各種世話事業を開始した。また留学生に対する日本語教育のために、東京外国語大学附属日本語学校及び特設日本語学科、大阪外国語大学留学生別科などが設けられた。

 一方、文部省では、特にアジア諸国についての地域研究の振興に資するため、四十三年度から国費により、インド、ネパール、タイ、フィリピン等の諸国に、日本人留学生を二年間派遣する制度を実施し、地域研究者の養成を図った。

アジア・アフリカ諸国への教育協力

 開発途上国の人材養成とその資質向上を目的とする技術協力は、昭和二十九年我が国のコロンボ計画加盟により開始されたが、三十七年、技術協力の実施機関として、特殊法人海外技術協力事業団の設立以来、我が国の技術協力による援助努力は一層強化されることになった。東南アジア諸国の大学への協力のためには、文部省は、外務省に協力し、大学に日本研究講座を寄贈し、教員を派遣して、我が国の文化、経済、社会等に関する教育及び研究の指導に当たらせた。

学術の国際交流

 学術研究は本来国際性を有するもので、交流と協力によって発展するものである。我が国は十余年にわたる戦時下、国際社会から閉ざされ、世界の進展から取り残されていたが、平和の回復とともに再び国際交流が可能となった。日本学術会議は、かつての学術研究会議に代わって、学術の国際的な中枢機関である国際学術連合会議(ICSU)及び専門分野ごとの各国際学術連合に我が国を代表して加入し、これにより我が学界の国際的な連絡、協力の体制が整えられた。また我が国は昭和二十六年にはユネスコに加盟し、ユネスコを通じても科学に関する国際協力活動に参加する道が開かれた。その後も各専門の国際組織に関係団体が加入し、我が国は学術の面においても国際社会に復帰するに至った。

 以上のような国際的な機関を通じて、我が国の学術の国際協力は年とともに活発となったが、特に三十二年七月から三十三年十二月の間に実施された国際地球観測年の事業を通じて、その活動は本格化し、この事業の一環として、後に大きく発展する南極地域観測事業及び超高層のロケットによる観測事業を開始した。我が国は、三十年十一月、世界の一一か国とともに南極地域観測への参加を決定し、文部大臣を長とする南極地域観測統合推進本部を設けて、三十一年十一月、第一次観測隊が出発し、昭和基地の建設に成功した。以来連年観測隊を派遣したが、その後一時中止し、四十年以来再び毎年観測隊を派遣した。我が国はこの南極地域の活動により南極条約の原署名国となった。国際地球観測年以後も、我が国は、国際学術連合会議の発意による諸事業に参加し、国際的な活動はいよいよ盛んとなった。このほか、「科学協力に関する日米委員会」及び「文化および教育の交流に関する日米合同会議」の勧告に基づいて、それぞれの分野における日米間の協力が行われた。

OECD事業への参加

 OECD(経済協力開発機構)は、先進加盟国の経済協力を主眼とした組織であるが、経済発展のために不可欠な人材の養成、すなわち教育・科学の面においても、活発な活動を行ってきた。

 我が国がOECDに加盟したのは昭和三十九年であるが、以来、教育委員会及び科学政策委員会等においてその活動に積極的に参加し、四十五年には、教育委員会により我が国の教育政策を対象とした審査が行われた。また四十一年には科学政策委員会による我が国の科学政策の審査が行われた。

 またOECDは、教育研究革新センター(CERI)を四十三年に発足させ、四十五年夏には「教育におけるコンピューター利用に関するセミナー」を東京で我が国と共催した。

芸術文化の国際交流

 戦後、古美術展の国際交流は、年とともにその頻度を高めた。

 ユネスコの協力によって国際演劇協会(ITI)が設けられ、各国の伝統上演芸術の国際交流は急に脚光を浴びることになった。我が国の能、歌舞伎、文楽等は、それぞれ、強い興味と関心をもって諸外国によって受け入れられるようになり、財団法人国際文化振興会が、我が国の伝統上演芸術の海外派遣を活発に行った。

ユネスコへの加盟と国内活動の展開

 昭和二十年十一月、ロンドンで四四か国の代表が参加して国連憲章に従い教育・科学・文化の分野を担当する専門機関を設立するため、ユネスコ(UNESCO、国際連合教育科学文化機関)憲章を起草・採択し、翌年ユネスコは正式に発足した。

 ユネスコの誕生は、敗戦の荒廃と虚脱の中に置かれていた日本国民に大きな希望の光を投げ掛けた。新憲法の下に平和国家、文化国家として生まれ変わろうとする我が国にとって、ユネスコはまさしくその進路を示すものであり、また、国際社会から孤立させられた我が国にとって世界への窓を開くものとしてユネスコ加盟に大きな期待が寄せられた。

 このような背景から、我が国のユネスコ活動は民間有志の間から起こり、全国各地にユネスコ協力会が結成された。国会にも「ユネスコ議員連盟」が結成され、ユネスコ加盟促進の決議を行い、教育刷新委員会、日本学術会議等も、ユネスコ加盟促進と国内体制の整備を強調し、二十四年六月に、文部省大臣官房に渉外ユネスコ課が設置された。政府、民間が一体となって盛り上がったユネスコ加盟運動は、二十六年七月、我が国の独立回復に先駆けて、ユネスコに正式に加盟することにより実を結んだ。

 次いで「ユネスコ憲章」が条約として公布され、二十七年六月には「ユネスコ活動に関する法律」が公布された。この法律に基づいて、二十七年八月我が国におけるユネスコ活動に関する助言・企画・連絡及び調査のための機関として日本ユネスコ国内委員会が文部省に設置された。

 ユネスコの事業計画等は、加盟各国が出席するユネスコ総会で決定されるが、我が国は加盟が承認された二十六年の第六回総会以来、毎回有力な代表団を派遣し、また、二十九年以降はユネスコ執行委員会委員に選出された。

 国内におけるユネスコの民間活動は、二十二年に仙台、京都、大阪などにユネスコ協力会が発足し、二十三年には、全国組織として「日本ユネスコ協力会連盟」(後に協力会は協会となる。)が結成された。その後、各地にユネスコ協会が相次いで設立された。これらのユネスコ協会の活動は、我が国のユネスコ加盟後は、日本ユネスコ国内委員会と協力してユネスコ精神の普及、国際理解と国際協力の促進のための諸活動を展開することとなった。

国際協力活動の推進

 昭和三十六年から始まった国連開発十年計画に呼応して、ユネスコは、世界の発展途上諸国の教育発展に力を注いだ。アジアについては、アジア各国が五十五年までに七か年の無償の初等義務教育制度を確立することを目標とするカラチプランが三十四年に策定された。我が国は、このプランの実施を通じ、アジア諸国の教育発展に積極的に寄与することとなり、三十七年にはこのプラン実施上の諸問題について検討する第一回アジア地域教育大臣会議の開催国となった。

 また四十六年には、ユネスコと協力して、日本人専門家、ユネスコ専門家及び現地受入れ国専門家から成る巡回指導のチームのアジアの発展途上国への派遣事業に着手した。さらに、三十二年からユネスコが十か年計画で実施した「東西文化価値の相互理解」に関する重要事業計画の一部として、三十六年財団法人東洋文庫に、「東アジア文化研究センター」が設置され、ユネスコ援助金と国庫補助金により、調査・研究、連絡・情報交換、出版活動などが行われた。また四十六年四月に財団法人ユネスコ・アジア文化センターが発足し、アジアの文化の振興に関する施策についての情報交換、文化振興のための人物交流の推進などを行った。

 なお、四十四年にウ・タント国連事務総長が提案した国連大学構想に我が国は当初から関心を持ち、国連やユネスコによる国連大学設立可能性に関する研究・調査に呼応して、ユネスコ国内委員会及び文部省においても、国連大学の構想を研究・提案するとともに、その設立に向けて積極的な協力を行った。

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-- 登録:平成21年以前 --