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第九節 教育行財政

中央における教育行政関係機構の改革

 昭和二十七年の機構改革以後四十六年度までに文部省本省、外局の内部部局において行われた機構改革を要約すると、1)三十三年五月の体育局の復活、2)三十四年四月の官房長の設置、3)四十一年五月の文化局の設置、調査局の廃止及び官房機能の強化、4)四十三年六月の行政制度の改革による文化局と文化財保護委員会の廃止と文化庁の設置、5)三十六年五月以降の審議官の設置などがある。なお、四十六年六月の中央教育審議会の「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」の答申に伴い、教育改革の総合的推進を図るため、事務次官を本部長とする教育改革推進本部が同年七月に設置された。

 また、所轄機関及び附属機関等については、二十七年八月日本ユネスコ国内委員会と国立近代美術館が、三十四年四月国立中央青年の家が、同年六月国立西洋美術館が、四十年七月国立社会教育研修所が、四十二年六月登山研修所が、四十六年十月国立特殊教育総合研究所がそれぞれ設置され、三十一年四月日本学士院が文部省の所轄機関となった。また、三十七年四月従来の国立自然教育園が国立科学博物館の附属自然教育園とされ、三十九年四月図書館職員養成所が、四十年四月国民体育館がそれぞれ廃止された。

国庫負担制度・国庫補助制度の整備

 昭和二十八年四月から義務教育費国庫負担法が復活施行され、義務教育職員の給与費の実支出額の二分の一と、教材費の一部の国庫負担制度が実施された。このうち給与費の国庫負担については、同法に基づく政令第一〇六号が制定され、いわゆる富裕団体又はいわゆる比較的富裕団体については、一定の基準により算定した額を国庫負担の最高限度とすることとされた。

 同年八月には、これまで予算補助で行われてきた学校施設関係の整備に法的根拠を与える法律が制定され、この年において、義務教育を実施する上での主要条件である給与、施設及び教材に要する経費についての国庫負担制度が確立し、将来の義務教育水準の維持・向上に大きく寄与することとなった。なお、三十年には前述の政令第一〇六号の改正が行われ、国庫負担の限度はいわゆる富裕団体のみに限られた。

 この二十七、八年を境にして教育費に係る国の補助政策は一段と積極化された。すなわち、それまで十分手の回らなかった学校教育振興のための教材・教具等の設備、保護者負担軽減の措置、保健・体育、社会教育さらには私学の振興等各領域にわたって国の財政援助を中心とした教育振興の諸立法が制定施行された。

公立学校施設の整備

 昭和二十三年制定の地方財政法では、公立学校施設整備について別に法律を定めて基準等を明確化することとされていたが、その実現は延び延びとなっていた。二十八年度に至って、「公立学校施設費国庫負担法」「危険校舎改築促進臨時措置法」などの施設関係法が制定された。さらに三十年には、ベビーブームによる小学校児童の急増を迎えて、「公立小学校不正常授業解消臨時措置法」が制定された。

 これらの法律は三十三年に整理・統合されて、「義務教育諸学校施設費国庫負担法」、「公立学校施設災害復旧費国庫負担法」、「公立高等学校危険建物改築促進臨時措置法」となり、さらに三十五年にはベビーブームの波が中学校に押し寄せることに対処して、「公立の中学校の校舎の新築等に要する経費についての国の負担に関する臨時措置法」が公布された。

 逐年の高等学校進学率の上昇に加えて三十八年からベビーブームの波が高等学校に押し寄せることに対処し、国は三十六年度から公立工業高等学校の新設に対して補助を行うこととし、他の急増対策は地方債により実施することとなった。

 一方、三十年代の後半以降、大都市周辺地域の人口急増現象と、人口流出地域の過疎化が顕著になってきて、人口急増地域の小・中学校の校舎建築と過疎地域の分校や小規模学校の統合整備が重要になり、これらに対処するための各種補助事業が行われた。

国立学校の財政と施設

 高等教育機関に対する社会的要請の増大と、特に昭和四十一年度においては、戦後のべビーブームの余波を受けて、国立大学についても学生定員の増加率が戦後最高となる事態を生じ、急速にその規模の拡充の必要に迫られた。この時期を迎え、急速な整備拡充が緊急の課題になり、加えて国立大学財政の在り方の改善が急務となった。

 国立学校の財政に関しては、三十八年中央教育審議会から、教育・研究の長期計画に即応する予算措置、予算執行上の弾力的運営、教育研究費等の拡充及び寄附の受入れ、使用についての改善方策を内容とする答申が出された。このような事態と意見に基づき、特別会計制度によって、その整備・充実を図ることとし、国立学校特別会計法が制定され、三十九年度から実施されることとなった。

 以来、国立学校の予算は年々充実の道をたどり、特に国庫債務負担行為の活用により大規模な施設の統合・整備が促進されていった。

私学振興

 昭和二十七年以来、国の私学に対する助成は私立学校振興会を通じて行う融資が主体であって、私学に対する補助金は、産業教育、理科教育の振興及び科学技術教育の拡充等国の政策推進に即応する分野について、三十年ごろからようやく実施を見るようになった。その後、特に高校生急増期、それに引き続く大学生急増期において、私学の果たす役割が向上するのに対応して、融資や補助の拡大が図られてきた。しかし、私学に対する積極的・全面的な助成は、四十五年度における私立大学等経常費補助の創設を待たなければならなかった。

 私立学校に対する国の助成は逐年拡大してきたが、その私立学校経営に占める割合は少なく、私立学校は、依然としてその経費の主要部分を学生納付金によって賄わざるを得なかった。一方、諸経費、特に人件費の上昇と学費の値上げの限度から、殊に大学の経営は四十四年ごろからとみに悪化し、教育・研究条件も低下し、国立大学との格差は拡大するばかりであった。

 このような深刻な事情にかんがみ、ついに四十五年度人件費を含む私立大学等経常費補助が創設された。この補助金は、私立の大学、短期大学、高等専門学校の教育の充実・向上と、その経営の健全化に寄与するため、これらの学校の専任教員の給与費を含め、教育・研究に要する経常的諸経費について、学校法人に対し補助を行うもので、従来の私立大学教育・研究費補助等を吸収・拡充して、前年度予算額の二倍以上一三二億二、〇〇〇万円が計上された。この経常費補助では、人件費を対象としたこと、及び補助対象の経常的経費は実際の支出に当たって、学校法人に対し自己負担義務を課さない定額補助であるということにおいて、画期的なものであった。

 なお、私立大学等経常費補助の創設に当たり、この補助金の交付及び従来私立学校振興会の行っていた各般の業務を総合的・効率的に実施するために、私立学校振興会を発展的に解消して、新たに特殊法人日本私学振興財団が、「日本私学振興財団法」によって設立され、四十五年七月から業務を開始した。

 私立大学等経常費補助金の創設に関連して、私立学校法第五十九条の一部改正が行われた。その内容は第一に、国及び地方公共団体の学校法人に対する助成措置の拡充に対応して、学校法人の公共性を更に高め、助成効果の確保を図るために、経常費補助を受ける学校法人は、文部大臣の定める会計基準に従って会計処理を行うべきものとしたことである。文部省は、この改正規定に基づき、四十六年四月、学校法人会計基準(四十六年文部省令第十八号)を制定公布した。内容の第二は、経常費補助を受ける学校法人の公共性の確保を図るため、所轄庁の権限を必要最小限度に定めようとするものであった。

教科書行政

 学校教育法では、教科書について、民間の創意によって教科書に多様性を持たせ、教師の創意・工夫による教育を伸張させる見地から、従来の国定制度を廃止して、原則として検定制度によることとした。

 旧教育委員会法によれば、各都道府県教育委員会にその地区内の学校で使用する教科書を検定する権限が与えられており、用紙の割当制の廃止までの間は、文部大臣がこれを行うこととなっていた。しかし、この地方検定制度の実施には、技術的・経済的に困難があるばかりでなく、教育的に問題点が多く、国による中央検定を支持する声が強まった。このため昭和二十八年に法律の一部改正により、教科書の検定は文部大臣の権限とされ、地方検定の問題は解消した。

 その後教科書の発行者の増加に伴い教科書の売り込み競争が激化し、採択に関する不公正な競争の弊害等が表面化してきた。また、教科書の種類が多くなったにもかかわらず、検定機構の整備がこれに伴わないことなどもあって、検定事務が必ずしも十分に行き届かず、記述の誤りや内容の偏向が指摘され、教科書に対する批判が強くなった。

 このような情勢下にあって、文部省は「教科書法案」をまとめ、三十一年国会に上程したが、審議未了で廃案となった。このため、実施可能なものについては行政措置によって改善を図ることになり、教科用図書検定調査審議会の委員数を大幅に増員するとともに、専任の教科書調査官を置いた。

 一方、義務教育無償の内容の一つとして、教科書については、二十六年度から、部分的にではあるが無償措置が始まった。この給与は二十九年度以降は取りやめとなり、改めて社会保障的施策の見地から三十一年に、貧困家庭の児童生徒に対し、教科書を無償で給与することとなった。その後、義務教育無償の見地から教科書無償を国の施策として行うべきだとの機運が改めて高まり、三十七年「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」が制定され、義務教育の教科書は無償とする方針が宣言され、同時に臨時義務教育教科用図書無償制度調査会が設置され、無償給与の具体策について審議し、その答申に基づき、翌三十八年、「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」が制定され、完全な教科書無償給与制度が確立した。

地方における教育行財政制度の改革

 昭和二十七年十一月、すべての都道府県及び市町村に教育委員会が設置されたことにより、地方自治の理念に立脚した地方教育行政制度が外形的には実現され、地方公共団体の教育事務が教育委員会の手によって処理されることになった。しかし一方、地方教育委員会の全面設置により、従来から問題とされてきた設置単位や委員の選任方法、教育委員会の地位と性格など教育委員会制度をめぐる論議は一層活発になる一方、教育委員会制度に対する一般行政面からの批判も強まり、地方行政の総合的・効率的運営の障害となっていること、地方財政窮乏化の一因となっていること等の指摘があった。

 全面設置後三年を経てその実績も問題点もほぼ明らかとなるに及んで、地方教育行政の改善が日程に上ることになった。文部省は、教育委員会制度に大幅な改革を加える「地方教育行政の組織及び運営に関する法律案」を三十一年三月国会に上程した。この法案は、旧「教育委員会法」の根本理念を踏襲しつつ、地方公共団体における教育行政と一般行政との調和を進めるとともに、教育の政治的中立と教育行政の安定を確保することを目標とし、国、都道府県、市町村一体としての教育行政制度を樹立しようとするものであった。当時、教職員団体、学会等から強い反対が表明され、国会においても激しい論戦が交わされたが原案どおり可決され、同年六月公布され、十月一日から施行された。

 二十八年度から「義務教育費国庫負担法」、「公立学校施設費国庫負担法」などが実施されたものの、二十七、八年ごろから経済不況により地方税収入が激減し、二十九年度を最低として地方財政の著しい窮乏に見舞われ、これに対処するため、三十年には「地方財政再建促進特別措置法」が制定された。この地方財政の窮乏は当然教育費にも及び、中でもその相当部分を占める教職員給与費の基礎となる教職員の数については、計画的に削減する等のしわよせが行われたため、財政再建計画の策定をめぐって地方団体内外に大きな波紋を投げ掛けた。

 その後三十、三十一年あたりから我が国の経済も回復し、成長期に入るに及んで、地方財政もようやく安定期に入ったのであるが、地方教育費についても、従来の教員給与費と学校施設費の国庫負担のみではなく、学校において確保・整備すべき人的・物的条件の基準や組織・運営の基準を示す教育の諸領域にわたる各種の振興法が年々制定され、その充実に要する経費について国庫補助が実施されることとなった。これらの施策により、地方教育費も地方財政の中で安定した位置を占めることとなり、教育諸条件も着々と整備されることとなった。

 地方教育費のうち国庫負担金、補助金以外の経費については、二十五年度創設の地方財政平衡交付金によって財源保障が行われてきたが、二十九年度からはこれが地方交付税制度に切り替えられた。前者の交付金総額は毎年国の一般予算と同様な運用で計上されたため、時の財政状況に左右される面が大きく、したがって地方財政の安定した計画的運用を阻害する面があった。地方交付税制度はこの点を改め、国税三税(所得税・法人税・酒税)の一定割合とされ、財源の確保が保障された。

 三十五年には地方財政法の一部改正により、市町村立小・中学校費のうち人件費と建物の維持・修繕費についての住民負担が禁止され、同三十八年には高等学校施設の建築費についての住民負担が禁止された。これらの措置に伴う財源補填(てん)については、地方交付税上の財源増額措置と各種国庫補助金の増額等によって賄われた。

沖縄の教育

 昭和二十年四月一日、沖縄本島に上陸した米軍は、同月五日に軍政布告第一号(ニミッツ布告)を発して、南西諸島における日本の施政権の停止と当面の占領方針を宣した。そして、このような占領下、いまだ沖縄戦の終息に至らない時期も通じて、県民の収容所では、半ば自然発生的に学校が開設され、教育を絶やさない努力が行われた。

 二十一年一月には、連合国軍最高司令官覚書によって、南西諸島を政治上・行政上、日本から分離する措置がとられた。そして学校制度については、この年、幼稚園(一年)、初等学校(八年)、高等学校(四年)の制度とされた。(初等学校のほか、幼稚園も義務制)しかし、本土の学制改革に対応して、沖縄でも、二十三年四月からは本土と同様に初等学校(六年)、中等学校(三年)、高等学校(三年)の制度とされた。(初等学校及び中等学校は、二十七年に小学校及び中学校に改称)

 高等教育については、戦前から沖縄には大学がなかったので、まず本土及び米国への留学生派遣が実施された。本土への留学制度は、二十八年以降、文部省の国費沖縄学生招致制度に切り替えられて復帰後も継続し、また、米国留学制度も復帰の直前まで継続された。しかし、沖縄に大学をという県民の願いは強く、二十五年に旧首里城跡(那覇市)に琉球大学が創設された。

 二十七年四月の平和条約の発効により、沖縄の施政権を、条約上米国にゆだねることとなったが、米国はこの年、それまでの奄見(翌二十八年二月本土復帰)、沖縄、宮古、八重山の群島別行政を改め、県民側政府として全琉統一の琉球政府を設立した。教育についても、同年、全琉統一布令として琉球教育法(米国布令)を制定した。

 しかし、このような米国施政に対し、日本国民たる県民の教育は、県民自体の立法によってこそ行うべきであるとする教育民立法(琉球政府立法院による立法)制度への県民の願いが高まり、そして三十年代に入って、教育基本法、学校教育法、教育委員会法及び社会教育法の四法が制定を見た。

 なお、四十七年五月の本土復帰に際しては、「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」等によって所要の経過措置を講じつつ、本土の教育諸制度を全面的に適用することとし、円滑に完全な一体化が実現された。

 しかし、復帰に際しては、なお学校施設の整備水準等、本土との開きは大きく、教育格差の解消が復帰施策の大きな課題となった。なお、琉球大学は国立大学として整備し、また、沖縄に国立青年の家を設置した。

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