第七節 社会教育

社会教育行政の進展

 昭和二十四年に制定された社会教育法は、戦後の社会教育の振興に大きな役割を果たしてきたが、その後の社会の変化、社会教育の進展に伴って、三十四年四月、一部改正が行われた。改正の要点はおよそ四点で、第一は、社会教育主事を市町村でも義務設置とするとともに、社会教育主事講習実施者の範囲を拡大したこと、第二は、社会教育関係団体に対する補助金の支出禁止規定を削除し、社会教育関係団体の活動の助長に資する道を開いたこと、第三は、公民館の基準設定等に関する規定の整備、第四は、社会教育委員の職務の追加などであった。この第二点については、憲法第八十九条との関連で問題とされたが、社会教育関係団体に対する補助金は憲法の禁ずるところではないとされた。

 三十年代の後半から、我が国の社会構造は急速に変化し、国民の日常生活にも大きな変貌(ぼう)が起こった。他方、社会の進展に伴って、国民の生涯教育への欲求が高まるとともに、経済的・時間的余裕が増大し、新しいコミュニケーションの技術が開発されて、社会教育を振興する条件は次第に熟してきた。こうした情勢の中で、社会教育審議会は、四十六年四月「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」答申を行った。答申は、学校教育・家庭教育・社会教育三者の有機的役割分担による生涯教育という視点に立っており、中央教育審議会が四十六年六月に答申した「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」と対応している。この答申を受けて、文部省では、新しい社会教育振興方策の具体化に着手した。

社会教育指導者の養成

 昭和・三十四年の社会教育法改正により、市町村の社会教育主事は義務設置とされた。

 社会教育主事の専門性を確保するため、その任用資格は社会教育法に定められ、大学で社会教育に関する所定の単位を修得した者以外は、社会教育主事講習を修了しなければならないこととなっている。この講習は、二十六年度に第一回が実施されて以来、文部大臣の委嘱する全国各地の大学で毎年実施され、四十六年度までに修了者数は一万三、〇〇〇人を数えた。

 また、市町村で社会教育主事の設置が困難な場合、府県がその市町村に社会教育主事を派遣するいわゆる派遣社会教育主事の方式が、四十一、二年度ごろから若干の府県で始められた。

 なお、時代の進展に即した社会教育研修事業を実施するためには、それに専念する独立の機関を設置して、専門的・計画的にこれを行う必要があることから、四十年七月、文部省は国立社会教育研修所を東京都に設置した。

社会教育施設の整備

 公民館は、昭和二十四年の社会教育法制定によって軌道に乗り、農村だけでなく、都市にも普及していった。三十四年には、公民館の設置及び運営上必要な基準が告示された。三十五年ごろから、施設費に対する助成も年々増額され、また起債も認められることとなったため、施設の整備にはかなりの進展が見られたが、社会の激動期を迎えて、運営は必ずしもそれに適応できなかった。四十六年の社会教育審議会答申は、そうした情勢の中にあって、改めて公民館の持つ新しいコミュニティーの形成と人間性の伸長に果たす役割を強調し、施設の整備を更に促進するとともに、その効率的な運営の在り方の検討を要望した。

 図書館、博物館はそれぞれ二十五年の図書館法、二十六年の博物館法制定以後、その発展が促進されることとなった。図書館については、文部省では公立図書館の施設費、設備費などに補助を行い、図書館の数は、戦後一時減少したが、三十年代後半から漸次増加の傾向を示し、その内容も充実の度を高めており、地域性に応じた特色ある奉仕活動が各地域で繰り広げられた。博物館については、図書館と同様、国庫補助が行われたが、社会が安定するにつれて、博物館の数も漸次増加した。三十年には、一層実態に即するような博物館法の改正が行われた。

青年学級振興法の制定と青少年教育の充実

 青年学級が全国に普及するにつれて、その多様性は生かしながらも、学級運営上の基準を法定し、併せて国庫補助の道を開くべきであるという要望が強まり、文部省は法制化に着手し、昭和二十八年「青年学級振興法」が公布された。これにより、青年学級は市町村の事業として、その基本方針、開設及び実施機関、管理運営及び財政援助など必要な事項が定められ、制度として確立した。

 その後、農村青年人口の都市への流入、高等学校進学率の上昇などの社会情勢の変化もあって、三十年を頂点に、学級数、学級生数も漸減の傾向をたどることとなったが、文部省は勤労青年教育の中核的役割を担うものとして、その内容改善に努力し、また特に都市における学級の拡充のため各種の施策を講じた。また、文部省は、後期中等教育の拡充の一環として、青年学級では把握しにくい十八歳未満の年少青年を対象に、より系統的・継続的な「勤労青年学校」の開設を三十八年度から奨励し、また、青年学級制度には当てはまらない小規模の学習グループのために四十一年度から「青年教室」の開設を委嘱するなど、社会の変化に対応して、弾力的な青年教育施策を進めた。

 平和条約発効と前後して、新しい青少年団体の結成が目立ち、その活動も活発化してきたが、地域青年団とその全国組織である日本青年団協議会は、三十年ごろを境に、結成基盤である地縁社会の崩壊や農村青年の離村に伴って退潮を見せた。この時期の青少年団体の活動の特色としては、国際的な活動、同好会的な活動、奉仕活動あるいは団体相互の協力提携などが挙げられる。

 青少年の指導者研修としては、従前からの青少年団体指導者研修に加えて、青年国内研修や新就職者研修など、新しい面に着目した研修が始められた。青少年指導者の海外派遣は、文部省が三十年度から経費の一部を補助して実施したほか、総理府の中央青少年問題協議会(現在の総務庁青少年対策本部)が、三十四年度から皇太子殿下御成婚記念事業として「青年海外派遣」を、また四十二年度から、明治百年記念事業として「青年の船」をそれぞれ開始した。

 三十年以降の我が国青少年教育の流れの中で特筆すべきことは、青少年教育施設の整備である。これは、公立青年の家、児童文化センター、少年自然の家などの設置に対する国庫補助の開始と、国立青年の家の新設とであるが、青少年の社会性訓練を求める時代の要請にこたえた新しい青少年教育の現れと言うことができる。

 青年の家は、当初、青年学級生などの職業教育を行う場として、実験・実習の施設・設備が重視されたが、皇太子殿下の御成婚を記念して三十四年に国立中央青年の家が設置されるに及んで、集団宿泊訓練を行う施設としてその性格が定着した。公立青年の家は、初め収容定員五〇から六〇人程度のものから出発したが、四十一年度から二〇〇人以上を収容する中型の青年の家の設置が始められた。また、激増する都市青年を対象として、簡易に利用でき、しかも宿泊を伴わない施設の設置が要望され、三十九年以降いわゆる都市青年の家が設置されることとなった。

 少年教育施設としては、少年に対する科学知識の普及、情操の涵(かん)養、生活指導の場として、児童文化センターの設置が三十四年度から始められた。

成人教育の発展

 戦前の社会教育が、学校教育の補充的な役割を担うものとして、主として青少年教育と婦人教育とに傾斜しがちであったのに対し、戦後は男子成人を含めて一般成人教育に焦点が合わされたが、それが成人自身の自覚的な学習活動となり始めたのは昭和三十年代に入ってからである。趣味・教養に関するものから生活上・職業上の知識技術に関するものなど、各種の学習の機会が商業ベースでも開設されるようになり、それに従って、一般成人の学級諸講座についての文部省の委嘱あるいは補助事業は、むしろ年を追って減少したが、これは成人教育そのものの後退ではなく、民間における自主的な教育事業や学習が高まっていることの反映であった。その中にあって、文部省では委嘱費を計上して大学の開放講座の促進を図った。

PTA・家庭教育・婦人教育・高齢者教育

 PTAについては、講和条約締結後、我が国の実情により良く適応させるために、昭和二十九年に小学校「父母と先生の会」(PTA)参考規約が改訂・作成され、全国に配布され、多くのPTAがこれに準拠した規約に基づいて活動を行った。三十五年「教育費に対する住民の税外負担の解消について」を次官通達して、地方公共団体にPTA寄附金などの軽減を呼び掛け、以後PTA寄附金の学校教育費に占める割合は、年々減少してきた。

 三十年代後半ごろから家庭教育への関心が高まり、それを受けて、文部省では成人教育の学習内容として家庭教育を積極的に取り上げることとなった。三十七年からの指導資料の作成、三十九年度からの全国の市町村に対する家庭教育学級の開設の奨励をはじめ、家庭教育の振興が進められた。

 婦人教育については、二十六、七年ごろからその振興の機運が高まった。文部省は二十九年度から婦人を対象とする実験学級を委嘱し、三十一年度からは全国的に婦人学級の委嘱を行うに至った。さらに、三十五年度には、委嘱学級の拡大、指導者研修、婦人団体への援助などを重点に、婦人教育費の飛躍的な増額が行われ、三十六年には社会教育課から独立して婦人教育課が設置された。

 三十年代の後半、平均寿命の著しい伸長や核家族化の傾向などの中で、老人の問題は脚光を浴びるに至ったが、医療保障や老人福祉等の施策だけでなく、高齢者自身による社会的適用の学習、精神的・情緒的な安定など、その生き方についての教育的な施策の必要が叫ばれるようになり、これを受けて、文部省では四十年度から高齢者学級の開設委嘱に着手した。

 なお、社会教育の各種の学習によって習得した知識及び技能について、その水準を審査しこれを公的に証明する、いわゆる技能審査の事業は、学習者の学習意欲や学習効果を増進し、学習者に対する社会的評価の向上にも役立つことから、四十二年に文部省は「技能審査の認定に関する規則」を告示して、社会教育上奨励すべきものを文部大臣が認定することとした。

視聴覚教育・社会通信教育の拡充

 教育映画について見ると、CIE主導によるナトコ映写事業の機材はほとんどそのまま我が国に譲渡されて、都道府県が自主的に社会教育活動の促進に利用できるようになった。文部省では、昭和三十年から優れた教育映画、スライドを無償で都道府県に配布し、三十三年からは青少年に優良な映画を鑑賞させる機会を提供する事業を行ったが、三十九年からは市町村立視聴覚ライブラリーの設置助成のための補助事業を開始した。

 我が国のテレビ放送は二十八年に開始されたが、その後放送網、受信設備ともに急速に伸びて、三十八年には電波のカバレージは全世帯の八七%に及び、その影響力は極めて顕著となった。文部省では三十三年、放送局に教育・教養番組の放送が条件付けられるに際して、制作者、利用者の共通理解に資するため、社会教育審議会の議を経て「テレビジョン学校放送番組ならびに社会教育・教養番組に関する中間試案」を作成し、公表した。また、同年から文部省企画の学校教育並びに社会教育向け番組を民間放送を通じて全国に提供する事業が始められた。その後四十二年に新たにUHF電波の使用割当てが定められようとするに当たって、文部大臣は社会教育審議会に対して「映像放送およびFM放送による教育専門放送のあり方について」諮問し、四十四年、放送を積極的に教育に利用すべき旨の答申を得た。さらに同年、文部、郵政両大臣の開催による「放送大学懇談会」から、放送を主たる教育手段とする放送大学を設立することについての意見書が出され、そのための研究と準備が進められることになった。

 三十六年の社会教育審議会答申「社会教育における通信教育の拡充の諸方策について」の趣旨を実現するため、文部省は、従来の「通信教育認定規程」に代えて、翌三十七年「社会通信教育規程」を定めた。その後、課程の拡充に努めるとともに、教育内容、学習方法、事業経営等に改善を加えて、質量ともにその向上を図った。

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