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第四節 教員及び教員養成

教員養成制度の整備

 諸般の教育制度の充実に伴い、教員に対して高い専門学力と教職教養が要請されるようになり、昭和二十八年には教育職員免許法の一部改正が行われ、一般の大学における免許状取得に必要な単位は文部大臣が認定した課程で修得しなければならないこととされた。引き続いて、二十九年にも免許法の一部改正が行われ、免許法に定められる修得単位数を増加させると同時に、従来の仮免許状と校長、教育長、指導主事についての免許状とを廃止した。その後、中央教育審議会は三十三年七月の答申で教員養成のための具体的提案を行い、教育職員養成審議会も、三十七年、四十年、四十一年と相次いで建議を行った。

 これらの趣旨に基づき、学芸大学・学芸学部の名称をその目的と内容に即するよう教育大学・教育学部に改め、また、指導的立場に立ち得る教員を養成するため、教員養成大学に大学院修士課程を設置した。しかし、教員免許制度の改善・充実を図るための免許法の改正案は、四十一年の国会に提出したが、審議未了に終わった。

 四十六年六月の中央教育審議会答申においては、教員養成に関する基本的施策を重要事項の一つとして取り上げ、教員養成大学・学部の整備充実、免許基準などの改善、初任者研修の充実、現職教員の研修を目的とする高等教育機関の設置、教員給与の大幅な改善などの諸施策の推進について提案した。

 また、特殊教育の振興に伴い、その教員養成の拡充が大きな課題となってきたので、従前の二年の臨時課程のほか、盲・聾学校教員養成のための四年制課程の設置が進められ、養護学校教員養成課程を国立の教員養成大学・学部のすべてに設置する計画も進められた。一方、幼稚園の就園率の上昇に伴い、幼稚園教員の量質両面の拡充を目的として、四十一年度から国立の教員養成大学・学部に幼稚園教員養成課程の設置が開始された。

 さらに、中学校及び高等学校の教科担当の教員のうち、供給が困難なものの計画的養成を図るため、二十七年度から、国立の教員養成大学・学部に特別教科教員養成課程を設置し、また、工業教員の需要の増大に対応するため、三十六年、「国立工業教員養成所の設置等に関する臨時措置法」を制定し、臨時に九つの国立大学に、工業教員養成所を設置した。このほか、小学校、中学校の養護教諭の安定的な供給を図るために、四十年度から、修業年限三年の国立養護教諭養成所が、全国九大学に附置された。

 こうした教員養成制度の改善・充実により、正規の資格を有しない教員の占める割合は急速に減少し、また、四年制大学卒業者の占める割合が当然のことながら増加したが、新制度発足時における教員の大量採用により、年齢構成上の偏りが生じた。

教育研究・研修機関の整備・拡充

 教育に関する実際的・基礎的な研究調査を行う中心機関として、昭和二十四年六月国立教育研究所が設置され、その後逐次組織の充実が図られた。

 一方、文部省は、理科教育の振興を図るため、三十五年度から各都道府県が設置する理科教育センターの施設費の補助を行ったが、その後、教員の研修活動一般を促進するための中心的な施設の設置要望にこたえ、四十年度から教育全般にわたる研修を目的とする教育研修センターの設置に国庫補助を行うこととして、本格的な教育研究・研修センターの設置を奨励した。

 なお、三十九年六月、全国の教育関係者のための研修会場となり、また教育に関する内外の資料の展示等を行って、教育研究活動の促進を図ることを目的として、特殊法人国立教育会館が設立された。

教員の現職教育

 戦後、教育制度の全面的改革に伴い新教育の理念と方法の徹底を図るとともに、教職員の資格、資質を高めるための再教育が全国的な規模をもって実施された。

 それらを大別すると、一つは、教職員の資格向上を目的として昭和二十五年度以来実施された免許法認定講習等の現職教育である。これは三十三年度をもって一応完了したものの、なお、免許状上進を必要とする者が相当数いたので引き続いて三十四年度から三か年計画で実施した。

 他の一つは、教職員に研修の機会を与え、また教育課程の改訂に当たってその趣旨の徹底を図るとともに、資質の向上に資するため実施された各種の講習会、研究協議会、指導書の作成等である。

 これらの講習会等のうち、文部省が全国的規模で実施した主なものとしては、教育課程の改訂に伴いその趣旨徹底と教育の改善・充実に資するための教育課程講習会、各種指導者講座、内地留学制度などがある。このほか、三十五年度から開設した「校長指導主事等研修講座」を四十五年度から「教職員等中央研修講座」と改め、宿泊研修として充実・強化した。また、校長等の識見を深めるため、三十四年度に海外の教育事情を視察調査する海外派遣制度を設けた。

 講習会等の開催に加えて、文部省においては教職員の研修に役立てるため、各種の指導書、手引書等の編集・刊行を行い、広く関係者の利用に供した。

教員の服務と処遇

 昭和二十五年の「地方公務員法」により、新しい公務員制度下における公立学校教員を含む地方公務員の一般的な服務の在り方が明らかにされた。

 その後、二十八年の「山口日記事件」や「京都旭丘中学校事件」などのいわゆる偏向教育事件が契機となって、教員を党派的勢力の不当な支配から守り、その政治的中立性と自主性を擁護することを趣旨とする「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」及び公立学校の教育公務員の政治的活動の制限を一般の地方公務員と異なり、国立学校の教育公務員と同様とする「教育公務員特例法の一部を改正する法律」のいわゆる教育二法が二十九年六月に公布・施行された。また三十一年には「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が制定され、市町村立の小・中学校教職員の任命権は都道府県教育委員会に、服務監督権は市町村の教育委員会に属するものとされた。

 二十八年八月給与法の改正により、懸案となっていた教育職員の俸給表が一般職俸給表から独立し、義務教育学校、高等学校、大学のいわゆる三本建て給与が実施されることとなった。このときの切替えにおいて、教育職員の調整号俸は新俸給表の俸給月額に含めるよう措置され、号俸の金額はいわゆる通し号俸であったから、俸給表は別建てでも一般俸給表と比較した場合教育職俸給の有利性は明瞭であった。三十二年六月、給与法の改正により、等級別の給与体系へ移行することとなった。その後の俸給表の改正の過程で一般行政職と比較して、かつての教員給与の有利性が必ずしも明確ではなくなり、四十年代の超過勤務手当支給要求の一因となった。

 諸手当についても特に教員については、産業教育手当、へき地手当、多学年学級担当手当、定時制通信教育手当が新設され、また、三十三年校長に、三十五年からは教頭にも管理職手当が支給されることとなった。

 教員の超過勤務については、特定の事務に従事する場合のほか、これを命じないこととし、校長の勤務時間の割振りによりその職務を遂行する方針が採られてきた。しかし、公立学校教員には労働基準法が適用されているため、超過勤務の事実をめぐり見解が分かれたため、文部省は、四十一年度に超過勤務手当に代わるものとして「教職特別手当」を支給するための教育公務員特例法の改正案を国会に提出したが、成立に至らなかった。四十六年に至り、人事院の意見の申出により、義務教育諸学校等の教諭等について、その職務と勤務の態様の特殊性に基づき、新たに「教職調整額」を支給する制度を設け、超過勤務手当制度は適用しないこととする「国立及び公立の義務教育諸学校の教育職員の給与等に関する特別措置法」が五月に公布され、翌四十七年一月から施行された。これにより多年の懸案であり、また、学校の管理・運営上の大きな問題であった勤務時間の問題は解決し、同時に本俸相当の性格を持つ教職調整額の創設を見た。

 二十九年一月、永らく要望されていた「私立学校教職員共済組合法」が制定され、同共済組合が設立された。さらに三十七年九月、地方公務員についても国家公務員の共済方式に準ずる「地方公務員共済組合法」が制定され、同年十二月から新たに公立学校共済組合が発足した。公立学校共済組合は、従前の事業を吸収し、短期給付及び長期給付を行い、併せて公務の能率的運営を図るための給付事業及び福祉事業を行う特殊法人となった。同組合の発足により公立学校のすべての教職員は新共済退職年金制度に移行することとなり、多年の懸案であった国家公務員、地方公務員及びその相互間の在職期間は過去の在職期間も相互に通算されることとなり、人事交流等の上に与える影響は大きかった。

教員の団体

 昭和二十二年に結成された日教組は、我が国最大の教職員団体として、経済闘争、教育闘争、政治闘争を幅広く展開し、それらの運動を抜きにしては、戦後の我が国の教育界を論じ得ないほどの影響を与えた。

 二十七年六月の定期大会は、「教師の倫理綱領」を制定して階級闘争の立場を明確にし、以後の諸活動の基盤とするとともに、同年八月には日本教職員政治連盟(後に、日本民主教育政治連盟―通称日政連)が結成され、日教組と密接な関係を持って政治活動を行い、日教組推薦の議員を多数国会や地方議会に送り出した。

 日教組の運動方針は、二十八年以来、闘争重点主義(戦う日教組)が強く打ち出され、いわゆる教育二法反対闘争、「道徳」特設反対闘争、勤務評定反対闘争、学力調査反対闘争等を行った。

 他方日教組は、組合活動と結合した教育研究活動を重視し、二十六年に第一回を開いて以来、毎年教育研究大会を開催した。特に三十年の研究大会からは、その名称を研究集会と改め、父母や労働者の参加をも求めた。

 日本高等学校教職員組合(日高教)は、二十五年四月、日教組の小・中学校教員偏重の運動に不満の教職員が、日教組から離脱して全日本高等学校教職員組合(全高教)を結成した(三十一年日高教と改称)ものであるが、三十七年二月に至り、指導部の姿勢をめぐり左右に分裂し、左派は、日教組とほぼ同様の活動を、右派は、これとは別個の行動を取った。

 日教組、日高教(左派)の闘争方針に批判的な教職員が、日教組等から脱退し教育の正常化等を目標に結成した団体に、日本教職員連盟(日教連)、日本新教職員組合連合(新教組)があった。これらの団体は、勤務条件の改善とともに教育の正常化、教師の専門職の確立等を指向して活動を続けた。

 また、日本教師会は、三十八年二月、日教組から脱退した教職員等によって結成された教育研究団体であり、教師の使命を自覚し日本にふさわしい教育を推進することを綱領として、活動を続けた。

 なお三十四年その批准について閣議了承を得たILO八十七号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)は、その後種々の経緯を経て四十年五月に国会で批准され、同時に批准に伴う関係国内法の改正法案も可決・成立した。同改正法の成立に伴い総理大臣の諮問機関として総理府に公務員制度審議会が設置された。

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