第三節 高等教育

大学制度の整備

 新制大学の発足以来、大学の設置認可に当たっては、大学基準協会の定めた「大学基準」が大学設置審議会における審査基準として用いられてきたが、文部省は、昭和三十一年十月「大学設置基準」を制定し、以後大学の設置認可はこの基準に基づいて行われることとなった。その後、四十五年八月主として一般教育に関する部分の改正を行い、各大学がそれぞれの教育方針に基づいて一般教育の教育課程をより弾力的に編成、展開することができるように改めた。

 国立大学のうち一四校に設置された文理学部は、当該大学の一般教育と教員養成のための教科に関する専門教育とを担当するとともに、文理学部としての専門教育を行うことを使命として発足したが、学部本来の目的が明確さを欠き所期の教育効果をあげることができなかったため、四十年度以降、各大学の実情に応じ、文理学部を二学部に分けるか、あるいは文理学部のまま充実させることとし、合わせて、教員養成学部の整備と一般教育の実施体制の確立を図った。これは当時の大学入学志願者の急増対策にも役立つこととなった。

 次に、新制大学の重要な理念の一つである一般教育は、大部分の大学において文理学部又は学芸学部に設けられた教養課程で実施されたが、学生に対する教育上の責任所在が必ずしも明らかでなく、専門課程との連絡も十分でないなどの問題を抱えてその改善が望まれた。そこで文部省は各学部に共通する一般教育を一括して担当する教養部を三十八年度から設置することとした。

 また、国立の教員養成大学・学部の中には、分校を持つものが多かったが、二十八年度から各府県の教員需給事情を考慮しつつ、逐次、分校を統合・整備した。

 三十二年度及び三十六年以降の二次にわたって推進された理工系学生の増募は、従来からの学科のほか、エレクトロニクスや原子力等の新しい部門においても活発に行われた。その後、都市工学等都市問題あるいは公害問題を対象とする新しい学科や情報化時代の到来に対応した学科が新設され、また、文科系の分野においても、人間又は人間関係を統一的に研究・教育しようとする人間科学、人間関係学をはじめ、国際関係学、図書館・情報学、観光学等時代の要請に応ずる新しい学科が誕生した。

 国立の医科大学・学部は、公立大学の国立移管を除き、二十七年以来新設されなかったが、医療需要の増大や医師の地域的偏在などにより、医師増加の要望が高まったので、四十五年度から医科大学・医学部の新設及び学生定員増を行った。新制大学発足当初から、医学及び歯学教育の修業年限は実際は六年であったが、医学・歯学以外の学部に二年以上在学し、一般教育を履修した者を修業年限四年の専門課程に入学させていた。二十九年三月の学校教育法改正により、医学及び歯学の学部の修業年限を六年とし、そのうちに二年の進学課程と四年の専門課程とを置くこととした。これにより、進学課程・専門課程を通じて六年の一貫教育が行えるようになり、教育効果を高めることができるようになった。

 なお、二十一年に創設された医学実地修練制度は、実地修練生の身分、処遇や実地修練施設における指導体制等に問題があったため、四十三年五月医師法が改正され、医学部卒業と同時に国家試験の受験資格を認めて、義務的な実地修練制度を廃止し、これに代えて任意の臨床研修制度が創設された。

新制大学院の発足と整備

 大学院の基準については、大学基準協会が作成した「大学院基準」を大学設置審議会が採択し、これを適用して、昭和二十五年度から私立の四大学に新制大学院の設置が認められたのを皮切りに、新制大学の学年進行に伴い、二十八年度には国・公立大学にも大学院が設けられた。また、二十八年四月学位規則が公布された。

 なお、大学院の修士課程には高度の研究能力を備えた専門の職業人の養成という役割が期待されるようになったので、三十年に修士課程の目的規定が改正された。また、修士課程と博士課程の最低在学年限を二年及び五年に高めるとともに、並列方式と同時に修士課程二年、博士課程三年、計五年の積上げ方式も認められた。医学・歯学に関する大学院の基準については、三十四年六月に基準が定められ、修士課程は設けず、最低在学年限四年の博士課程だけとされた。

 大学院制度の改革に伴って、学位制度も大きく改められた。旧学位制度と異なり、新しい学位は各大学が授与し、文部大臣の認可を必要とせず、また博士のほかに修士の学位が設けられた。修士及び博士の学位は、大学院にそれぞれ二年又は五年以上在学して所定の単位を修得し、かつ論文の審査と最終試験に合格した者に授与される(いわゆる課程修士・博士)とし、博士についてだけは大学院に在学しなくても博士論文の審査に合格し、かつ課程博士と同等以上の学力を有することを確認された者にも授与される(いわゆる論文博士)とした。

 国立大学の新制大学院については、文部省は、研究水準維持のため旧制大学の系譜を持つ大学又は学部の上に置くことを原則とし、かなり制限的な方針を採ってきたが、三十八年一月の中央教育審議会の答申に基づき、修士課程については、従来の研究者養成の目的のほかに、社会的要請の高まりつつある高度の専門的な職業人の育成という目的を加味するため、教員組織、施設・設備等が特に充実しているいわゆる新制の学部の基礎の上にも設置を認めることとした。

短期大学制度の確立と発展

 短期大学は暫定的な制度として発足したにもかかわらず、その後著しい発展を遂げ、我が国の高等教育機関として独自の重要な地位と役割を占めるに至った。そこで、短期大学を恒久的な制度として学校体系の中に位置付けるよう各方面の要望が強まってきた。文部省は、当初はいわゆる専科大学として短期大学の恒久化を図ることとしたが実現するに至らず、昭和三十九年六月学校教育法の改正により短期大学は恒久的な制度となった。

 二十五年度に発足した短期大学はその後増加の一途をたどり、地域的にも当初大都市とその周辺が中心であったが、逐年地方都市にも発展し、三十八年度にはすべての都道府県に設置されるに至った。

高等専門学校制度の創設

 産業の復興と経済の発展に伴い、産業構造に見合った基礎学力の充実した専門的職業人の養成が社会各方面から要望されるようになった。中央教育審議会の前後四回にわたる答申等に基づき、昭和三十三年三月、いわゆる専科大学の創設を内容とする学校教育法の改正法案が国会に提出されたが、短期大学の恒久化を技術者養成機関の創設に含め専科大学に吸収しようとする同法案は、ようやく独自の存在意義が定着ししつつあった短期大学の関係者に強い反対を招いて審議未了となり、その後も再三国会に提案されたが成立するに至らなかった。

 一方、我が国経済の発達、産業構造の高度化、科学技術の進歩等に対応して、技術者の量的不足と質的向上が問題化し、三十五年の国民所得倍増計画の策定をめぐって、技術者養成に対する要望はますます活発になった。ここにおいて文部省は、短期大学の恒久化の問題と切り離し、新たに工業教育を主体とする高等専門学校の創設を構想し、三十六年四月、学校教育法の改正法案として国会に提出し、同年六月公布、施行され、三十七年度から工業高等専門学校が発足した。高等専門学校は、中学校卒業程度を入学資格とする修業年限五年の一貫教育を行う高等教育機関であり、また、その卒業者には四年制大学への編入学の道を開いた。

高等教育の量的拡大

 戦後の教育改革により、我が国の学校制度は民主的な単線体系となり、大学に至るまでの上級学校進学に関する制度上の障害は一切除かれた。他方、昭和三十年ごろまでに我が国経済の復興と再建が進み、その後の経済の高度成長に伴って国民の所得水準も上昇し、さらに、伝統的な学歴尊重の傾向とあいまって、国民の高等教育への進学希望は著しく高まった。さらに、科学技術の急速な進歩や情報化の進展が高等教育卒業者に対する幅広い産業社会の要請を生み出すに至った。

 このような高等教育に対する個人的、社会的な要請に対応して、我が国の高等教育機関は拡充・発展の一途をたどり、四十六年度における大学及び短期大学の入学者の同一年齢層に占める比率は、二六・八%に達し、四人に一人強という高等教育の大衆化の段階に至った。

 戦後のべビーブームの影響により大学入学志願者の急増する四十一から四十三年度の対策として、文部省は、入学志願者の合格率を急増期以前と同じ六〇%に維持することを基本目標として、入学定員の大幅な増加を図った。この対策は、既に存在する浪人の解消、教員の事前の確保などのため四十年度から実施された。

育英奨学と厚生補導

 昭和十八年創立の大日本育英会は、二十八年名称を「日本育英会」に改めるとともに、学術研究者及び教員の確保のための奨学金返還免除の制度を創設し、一転期を画した。その後、三十三年度に特別貸与奨学生制度を創設し、この特別貸与奨学生は、三十九年度に至り、義務教育の教員養成課程の学生について定数に特別枠が設定され、義務教育諸学校の教員の人材確保に資することとなった。また、四十二年度からは、私立大学の学生について、その学校納付金の実態にかんがみ高額な貸与月額が定められるなど、きめ細かい配慮が加えられるに至った。

 この間、三十四年三月の中央教育審議会答申「育英奨学および援護に関する事業の振興策について」において、育英奨学事業の今後の方向が示され、以来、おおむねこの基調に従って進められたと言えるが、三十年代後半から始まった高等教育機関への進学の急速な増大と学生生活費の上昇に際し、育英奨学事業は、必ずしも事態に即応し得ないうらみがあった。

 大学の厚生施設も、社会の安定と経済の発展に伴って次第に整備されてきた。国立大学の学寮については、新制大学発足当初は、当時の経済・財政状況を反映して極めて不適切な状態であった。文部省は、三十七年の学徒厚生審議会答申に基づきその整備・充実を図るとともに、管理運営の改善を図ったが、学生側は、学寮の自主管理と学寮経費の全額国費負担を要求し、大学の管理運営上困難な問題を生ずることとなった。また、三十四年度から、学生相互の日常的人間関係を緊密にすることなどを目的として、学生会館の設置が進められたが、四十年ごろから、学寮同様にその管理をめぐって学園紛争の一因となることも多かった。

 さらに、学生の心身の健康の保持管理を目的として、四十一年度から保健管理センターを全大学に設置する計画が進められた。

学生運動と学生活動

 昭和二十八年から二十九年にかけての上部団体の分裂・抗争と有力な上部団体の日常平和闘争路線への転換の影響を受けて、一時崩壊の危機にひんした全学連は、その後、三十年末の国立大学授業料の値上げ反対に対する取組を通じて、組織面、理論面で再建に乗り出した。

 三十四年に入ると日米安保条約改定問題が政局の焦点となる中で、全学連は街頭過激行動の傾向を深め、特に翌三十五年五月、衆議院本会議で新安保条約が可決された後は、国会包囲デモ、首相官邸突入、国会構内乱入など過激な戦術を展開した。この第一次安保闘争に組織を挙げて取り組んだ全学連は、その後指導理論をめぐって分派抗争を起こすに至り、さらには闘争後の挫折感もあって壊滅状態になった。

 この間、民青系集団は三十九年十二月、いわゆる民青系全学連を再建した。一方、これに対抗して中核派、社学同諸派、社青同解放派も、四十一年十二月末いわゆる三派系全学連を発足させ、これにより、従来の全学連の執行部を掌握していた革マル系と合わせて、大きく三つの全学連に分裂した。

 四十三年に入り、東京大学においては、医学部の研修医問題に端を発した紛争が無期限ストに発展し、安田講堂占拠などの状態となった。大学当局は機動隊の出動により封鎖を解除したが、大学全体の秩序は回復せず、ついに四十四年度の入学試験は中止された。東京教育大学においても封鎖、占拠を伴う紛争のため、東京大学と同様、同年度の入学試験は一部を除き中止された。日本大学においても、学園民主化問題で封鎖、占拠が行われ、機動隊による封鎖解除等大学の秩序が回復するのに十一か月を要した。

 四十三年度から四十四年度にかけて、学園紛争は全国に波及したが、四十四年八月「大学の運営に関する臨時措置法」の施行を契機に学内外の努力によって、紛争はようやく鎮静化の方向をたどるようになった。

大学紛争から大学改革へ

 大学紛争が深刻の度を加えつつある中で、政府は、昭和四十四年四月の中央教育審議会答申の趣旨に沿って、行政措置のみによっては十分な効果を期待し得ない事項について最小限必要な立法措置を要すると考え、同年五月「大学の運営に関する臨時措置法」案を国会に提案し、同法は同年八月公布・施行された。この法案は、大学による自主的な紛争収拾のための努力を助けることを主眼としたもので、五年の時限立法とされた。その後大学紛争が鎮静化したため、文部大臣が同法に基づく諸措置をとることは一度もなかったが、この法律の制定が大学関係者に大きな刺激となり、紛争収拾の促進に少なからぬ影響を及ぼしたことは言うまでもなかった。

 高等教育の目覚ましい普及は大学教育の大衆化をもたらし、伝統的な大学のイメージと実態とはその様相を全く異にするに至り、さらに科学技術の革新と経済発展に伴う社会の変貌は、大学が新しく脱皮することを強く求めるようになってきた。

 大学改革の動きとしては、中央教育審議会が三十八年一月「大学教育の改善について」答申を行い、さらに四十二年七月から文部大臣の諮問に応じ、初等中等教育の問題をも含めて、「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」検討に着手し、四十六年六月答申を行った。答申は、これまでの高等教育に対する考え方やその制度的枠組みが、高等教育の大衆化と学術研究の高度化の要請など高等教育の機能の全体にわたる新たな要請に対応できなくなったことを指摘し、これに対する解決策として、高等教育の多様化と開放、高等教育機関の規模と管理・運営体制の合理化、教員の人事制度・処遇の改善、私立の高等教育機関に対する国の財政援助の充実、入試制度の改善及び高等教育計画の樹立等全般にわたる改革の提案を行った。文部省は、この答申の趣旨を踏まえ、各大学の自発的な改革の努力を助長するために必要な法令を弾力的なものに改めるとともに、既設の高等教育機関の改組充実を図るばかりでなく、新しい構想の大学を創設する計画にも着手した。

高等教育機関入学者の選抜

 文部省は、毎年大学入学者選抜実施要項を各大学や高等学校等に通知し、公正妥当な選抜が実施されるよう指導を重ねてきたが、大学においては依然として学力検査偏重の選抜が行われ、その結果、高等学校以下の学校教育全般に様々な弊害をもたらしていた。昭和三十八年一月中央教育審議会が「大学教育の改善について」の答申の中で信頼度の高い結果を得る共通的・客観的テストの研究・作成及び実施とその主体となる専門の機関の設置を提案した。この答申に基づいて三十八年一月、財団法人能力開発研究所が設立され、三十八年度から四十三年度までの六年間、大学入学者の選抜と高等学校の進路指導に役立つ共通テストの開発と、それに関する専門的な調査・研究が行われた。文部省は、同研究所の事業の重要性を認め、国庫補助金を交付するとともに、四十二年度大学入学者選抜時からいわゆる能研テストの結果を入学者の合否の判定に利用し得ることとし、大学側にその実験的試用を勧めた。ところが、大学側の態度が極めて消極的であったこと、また同研究所の事業の目的に対しては、発足の当初から誤解と偏見があったことなどにより、各都道府県教育委員会や全国高等学校長協会などの熱心な協力、支援にもかかわらず、四十三年度をもって同研究所のテスト事業は休止した。

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