第八節 体育・学校保健・学校給食

終戦直後の措置

 戦前社会体育は厚生省が所管していたが、終戦直後の昭和二十年九月文部省に体育局が復活し、翌二十一年一月厚生省の社会体育行政が文部省に移管され、我が国の体育行政は文部省に一元化された。

 文部省ではまず、学校体育については、銃剣道、教練、武道(剣道・柔道・なぎなた・弓道)を禁止するなど軍事的色彩を除去した。また、社会体育については、二十一年八月「社会体育実施に関する件」を通達し、同時に「社会体育実施の参考」を公表した。学校保健については、応召・勤労学徒の身体検査の実施や学校衛生の刷新を指示した。学校給食については、終戦直後の食糧不足が児童の体位に及ぼす影響の重大性にかんがみ未利用の食糧源の利用や食糧自給等による学校給食の普及・奨励を指示した。

体育・スポーツ・レクリエーションの振興

 体育局は、昭和二十四年六月いったん廃止された。これは、体育の重要性を強調しながらも体育行政を一局にまとめて取り扱う必要がないというCIEの強い指示によるものであり、占領軍当局が軍国主義の復活をおそれたためとも言われている。したがって、体育行政事務は、各局に分属され、学校体育と社会体育の所掌が分かれた。

 戦時中の体錬科から体育科に改められた学校体育は、二十二年六月の「学校体育指導要綱」により、「運動と衛生の実践を通して人間性の発展を企画する教育」とされ、運動の内容については、徒手体操・器械運動中心から遊戯・スポーツ中心へ大きく転換した。

 さらに、二十三年に発足した新制大学においても二十四年から「一般体育」(講義及び実技)を必修させることとなった。その結果小学校から大学までの各学校段階を通じて体育が必修となった。なお、体育の内容から除かれた武道は、その後、競技方法を改革して民主的なスポーツとしての性格・内容を備えるようになったので、順次新しいスポーツ教材の一つとして取り扱われることになった。

 敗戦と戦災によって全国民が衣食住のすべてにわたって困窮を極め、意気消沈していた二十一年、大日本体育会(日本体育協会の前身)の主催によって国民体育大会が京都市を中心に開催され、以後毎年地方持ち回りで開催された。国は第一回大会以来その運営費の一部を補助し、第五回大会からは主催者に加わった。また、二十四年六月全米水泳選手権大会で「フジヤマの飛び魚」と呼ばれた古橋選手らの活躍は、当時の国民の士気を高める役割を果たした。

 二十四年六月社会教育法により社会体育及びレクリエーション活動が社会教育の一分野に位置付けられ、国及び地方公共団体は社会教育行政の一環として社会体育振興のための条件整備を図ることとなった。

学校保健への転換

 学校教育において、「健康」が教育そのものの目的、目標となり、積極的に健康を保持・増進することが重視されるようになって、疾病、傷害の予防と処置に中心が置かれていた従来の学校衛生のとらえ方が改められた。この新しい学校保健の在り方は、昭和二十四年十一月「中等学校保健計画実施要領」(試案)に示され、これによって我が国の新しい学校保健の輪郭がほぼ定まった。

 学校の保健管理の面については、二十一年二月「学校衛生刷新に関する件」の通牒に続いて、翌三月「学校伝染病予防に関する件」の通牒により痘瘡(とうそう)、発疹(しん)チフス等の流行に対する対策が指示された。翌二十二年学校教育法は保健管理を学校教育活動の基礎に位置付けた。

 また、二十四年五月制定の「教育職員免許法」により従来の養護訓導又は養護婦は、養護教諭又は養護助教諭と名称も資格も改められた。

 保健教育の面については、二十二年六月刊行の「学校体育指導要綱」において体育科の内容に衛生の項目が設けられた。二十四年には中学校・高等学校の体育科の名称が保健体育科に改められ、二十四年度からは大学の一般体育科目の講義の中でも、保健の内容を取り扱うようになり、中学校から大学まで、教科としての保健の学習が行われるようになった。

学校給食の普及・奨励

 我が国の学校給食は、明治二十二年十月、仏教慈善団体が山形県鶴岡市の私立小学校において、貧困児童に対する就学奨励のために実施したのが初めであるとされるが、国が学校給食に関与したのは、昭和七年経済不況による欠食児童救済のため、国庫から補助金を支出して学校給食を奨励したことに始まる。

 その後、学校給食は、貧困児救済から栄養不良児・身体虚弱児に対する保健施策的性格へと変わるが、第二次大戦中に食料不足のために中止された。終戦後、二十二年一月から極度の食糧不足に対処し発育の助長と健康保持を目指して、全校児童を対象とする学校給食が、アジア救済連盟(ララ、LARA)の寄贈食糧、元陸海軍用缶詰放出により全国の都市小学校児童に対し毎週二回実施された。さらにこの年の秋には、米国援助の脱脂粉乳が配給された。

 二十三年には都市・町村を通じて週五回の給食が実施され、ようやく給食が恒常的教育的に施行されるようになってきた。さらに二十四年十月から国際連合児童緊急基金(ユニセフ、UNICEF)寄贈の脱脂粉乳による給食が各都道府県単位に実施校を指定して開始され、二十五年末まで続けられた。パン・ミルク・おかずの三種による完全給食は、米国政府寄贈の小麦をもって、二十五年七月から東京・大阪など八大都市の児童に対して開始され、二十六年二月には、それは全国の市制地域一都二四六市の児童を対象とするまでに発展した。

 ところが、二十六年講和条約の調印に伴い、完全給食実施の基本となっていた占領地域救済資金(ガリオア、GARIOA)による小麦の贈与が同年六月末で打ち切られることになり、学校給食の継続が困難となったため、政府はその必要財源を国庫負担することとしたが十分ではなく、学校給食費の保護者負担額が上がり給食中止のやむなきに至る学校も多く、給食継続校においても給食費未納者が増加した。そこで学校給食を法制化し、制度の安定を図る機運が急速に高まった。

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