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概説

占領下の教育

 昭和二十年八月、敗戦に伴い我が国は連合国の占領管理の下に置かれた。この占領は二十七年四月まで継続されたが、この間の教育改革は二つの段階に大別される。第一は教育における終戦処理と旧体制の清算が精力的に進められた段階である。第二は新教育制度の基礎となる重要な法律が相次いで制定・実施された段階である。両時期を通じて占領下の教育改革には、懲戒的な措置や我が国の教育的風土に即し難いものも含まれており、また、敗戦に伴う荒廃のさなか、諸条件の整わないままに実施されたため、困難と混乱を生み出した場合も少なくなかった。しかし、近代教育史の系譜に立って見るならば、大筋においてその後の発展の基盤を形作ったものと言うことができる。

教育の平時復帰

 前編で述べたように第二次大戦末期の我が国の学校教育は全面的に戦争に奉仕する体制に没入していた。昭和二十年四月からは国民学校高等科以上の学校において授業を一切中止して全面的動員体制に入っていたし、中等学校以上では文科系が理工系に転換されたり、能力ある男子生徒が競って軍関係学校に進学していた。終戦はまず、これらの体制の中止、つまり平時の体制への復帰を必然にしたのである。文部省は、二十年八月十六日学徒動員の解除を通知し、二十四日学校教練・戦時体錬・学校防空関係の諸法令を廃止し、二十八日九月中旬をめどに授業を再開することを指示した。続けて九月、中等学校以下の教科書からの戦時教材の削除、高等学校理科生徒の文科への転科承認、疎開学童の復帰などを通知した。この中で九月十五日文部省は、「新日本建設ノ教育方針」を新聞を通じて発表した。それは、連合国軍の方針や指令が発せられる以前の文部省の教育政策を示すものであった。「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシテ謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ科学的思考力ヲ養ヒ平和愛好ノ念ヲ篤クシ智徳ノ一般水準ヲ昂メテ世界ノ進運ニ貢献スル」ものとの基本方針に始まり、一一項目にわたって新しい教育の推進を期していた。

連合国軍の教育改革指令

 敗戦を契機として我が国の国政全般は連合国軍最高指令官総司令部(以下総司令部という。)の占領の下に置かれることとなり、教育文化などを担当する民間情報教育局(CIE)が総司令部の特別参謀部の一つとして設立された。

 総司令部は昭和二十年中に教育の改革に関するいわゆる四大改革指令を発した。

 第一は、十月二十二日の「日本教育制度ニ対スル管理政策」で、教育内容、教職員、及び教科目・教材の検討・改訂についての包括的な指示と、文部省に総司令部との連絡機関の設置と報告義務とを課したものである。

 この指令に沿って、十月三十日に第二の指令、「教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」が発せられた。これは、軍国主義的、極端な国家主義思想を持つ者の教職からの排除について具体的に指示したもので、これによりいわゆる「教職追放」が施行されることになった。第三の指令は、十二月十五日に発せられた「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」である。これは、信教の自由の確保と、極端な国家主義と軍国主義の思想的基盤をなしたとされる国家神道の解体により、国家と宗教との分離と宗教の政治的目的による利用の禁止という原則を実現させようとしたものである。そして十二月三十一日に第四の指令「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」が発せられた。これは、軍国主義的及び極端な国家主義的思想の排除を教育内容において徹底しようとするもので、修身・日本歴史・地理の授業停止とそれらの教科書・教師用参考書の回収とを命じたものである。

 二十一年五月必要な法規を整備して「教職追放」のための教職者の適格審査が全国的に開始され、二、六二三人が不適格者と判定され、別に審査によらない不適格者とされた二、七一七人とともに、公式に教職を追われた。教科目・教科書については、総司令部の指令以前の九月に文部省は独自の判断で軍事・戦争に関する教材の省略・削除を指示していたが、二十一年一月改めて国民学校後期使用教科書中の削除訂正箇所を通達した。文部省は鋭意新教科書の編集に努め、暫定教科書により二十一年六月地理科の授業再開が、同年十月新教科書「くにのあゆみ」による日本歴史の授業再開が、それぞれ総司令部から許可された。修身は再開されず、文部省は修身に代わる公民科の設置を計画したが、教科目の特設は実行されず学校教育全体の中で公民的指導がなされることになり、二十一年九月から十月にかけて「国民学校公民教師用書」「中等学校・青年学校公民教師用書」が出版された。二十二年四月新学制の発足とともに、歴史・地理・公民教育はいずれも新設された「社会科」に吸収包含された。国家神道禁止については、指令の直後に通達を発して、公立学校における、「国体の本義」「臣民の道」などの教材使用、神社参拝や神道儀式の執行などの禁止と校内の神社・神棚・しめ縄や奉安殿の撤去などを指示した。

 この時期の政府の積極的な教育施策として注目されるものの一つに、二十年十二月閣議了解の「女子教育刷新要綱」がある。これは「男女間ニ於ケル教育ノ機会均等及教育内容ノ平準化並ニ男女ノ相互尊重ノ風ヲ促進スルコト」をねらいとして、女子大学の創設と大学における男女共学制、中等学校における男女間の教科の平準化などの実施を決定したものである。これにより、従来女子の入学に制限を設けていた多くの高等教育機関に二十一年四月から女子が公式に入学し得ることとなった。さらに、文部省は総司令部の指導を受けながらも、二十一年五月に教師たちへの最初の手引書として「新教育指針」を配付した。これは日本側で編集した最初の体系的な民主教育の手引書として、当時の教員たちへの指針となった。

米国教育使節団の勧告

 総司令部は日本の教育改革の基本方針を策定するために、CIE成立の直後から連合国あるいは米国より教育専門家の教育顧問を招聘(へい)するよう計画した。昭和二十一年二月前半には国務省において全二七人の人選を終え、団長にはジョージ・D・ストッダードが就任した。なお、日本では総司令部の指示により、米国教育使節団に協力するための日本側教育家委員会が組織された。

 使節団は三月初めに来日し、三月三十日報告書を提出し、その全文は四月七日に総司令部から公表された。

 報告書は、日本教育の目的及び内容、国語改革、初等及び中等段階の教育行政、教育活動と教師教育、成人教育、高等教育の六章から成り、全体として日本の過去の教育における問題点を指摘しつつ、これに代わるべき民主的な教育の理念、方法、制度などを提言している。基本的人権を軸とした教育における民主主義と自由主義の理念を強調し、教育制度では個人の能力と適性とを十分に発揮させる教育機会の均等化、教育の内容や方法では画一化の排除、及び子供たちや教員の自主性の尊重などを重視していた。新しい学校制度としては六・三・三制と、特に六・三の九年間に及ぶ無償の義務教育と男女共学、四年制を主体とする開放的な大学制度、大学での教員養成などを提唱し、教育行政面では国家主義的な中央集権制を批判し、公選制の教育委員会制度に基づく地方分権的システムを勧告した。また、民主社会における成人教育の発達を重視し、ローマ字の採用・漢字の制限・仮名文字の汎(はん)用などの国語改革を文化の民主化を目指す重要手段として勧告した。その後この報告書は、CIEによる教育改革政策指導上の指針としての役割を果たし続けることになった。

 なお、米国教育使節団は、第一次訪日団勧告の実施効果を検証するため二十五年八月から九月にかけて再び来日した。

教育刷新委員会・教育刷新審議会

 米国教育使節団に協力した日本側教育家委員会を母体として我が国の教育改革につき自主的に検討する合議制機関として昭和二十一年八月内閣に教育刷新委員会が設置された。同委員会では学校教育、社会教育、国語改革、教育行財政など教育文化に関する重要問題をほとんどすべて取り扱うこととし、自主的審議を進める必要上、この委員会とCIE、文部省との連絡調整のために、その三者の代表各三名から成る連絡調整委員会が定期的に開催された。なお、二十四年政府の審議機関の名称を「審議会」に統一することが定められ、六月教育刷新委員会は教育刷新審議会と改称された。

 教育刷新委員会・教育刷新審議会は、二十一年十二月教育基本法や学制等に関する最初の建議をしてから、二十六年十一月中央教育審議会についての建議をしてその任務を終えるまでに、三五の建議を内閣に提出した。戦後日本の教育改革に関する基本法令や制度は、ほとんどすべてここでの審議を経て実施されたのであり、我が国戦後教育改革に果たしたこの委員会・審議会の役割には極めて大きなものがあった。

日本国憲法・教育基本法の公布と教育勅語の排除・失効

 戦後の民主的教育体制の確立と教育改革の実現にとって最も重要な意義を持つものは「日本国憲法」とこれに続く「教育基本法」の公布である。憲法の改正準備は昭和二十年秋から開始されたが、様々な曲折をたどり、二十一年第九〇回帝国議会での審議を経て同年十一月三日、日本国憲法として公布され、翌年五月三日に施行された。旧憲法では教育に関する条項は独立に規定されていなかったが、この新憲法では第三章「国民の権利及び義務」中の第二十六条において国民の基本的人権の一つとして「教育を受ける権利」が規定され、「保護する子女に普通教育を受けさせる義務」と義務教育の無償原則とが憲法に明文化された。

 この憲法の規定を受けて、教育の基本となるべき理念及び原則を法律をもって定めようとする意向が、田中耕太郎文部大臣から表明され、教育刷新委員会により直ちに受けとめられて慎重に審議された結果、二十一年十二月の第一回建議に「教育基本法」要綱として採択された。これは、学校教育法案とともに枢密院と第九二回帝国議会(最後の帝国議会)との審議を経て、二十二年三月公布された。この教育基本法は、国の教育に関する基本的な理念と原則とを、戦前のように天皇の名において詔勅の形式により確定するのではなく、国民の代表により構成される国会において法律として定めたこと、日本国憲法の理念を踏まえて教育の理念を宣言した異例の前文を付していること、及び今後制定される各種の教育関係法の理念と原則とを規定することの三点において、教育関係法一般の上位に立つ基本法の性格を持っていた。

 この教育基本法の制定をめぐり従前の教育勅語の取扱いが問題となった。そこで文部省は、二十一年十月文部次官通牒(ちょう)「勅語及び詔書等の取扱について」を発し、教育勅語をもって我が国教育の唯一の淵源とする考えを排し、学校儀式でのその奉読の慣例をやめることを明らかにした。さらに、二十三年六月、国会の衆議院と参議院が、教育勅語などの排除ないし失効確認を決議したことを受けて文部省は全国の学校からそれらの謄本類の回収を通達した。

学校教育法と新学校制度

 教育基本法とともに昭和二十二年三月に制定された学校教育法により学校制度の改革が実行された。これは、従来の制度に比べて形式と内容の両面にわたって正に画期的なものであった。形式面では、従来学校種別の独立勅令により別個に規定されていたのが、幼稚園から大学まで総合して単一の法律により規定されることになった。内容面では、戦後改革の理念に基づき徹底した民主化が志向された。第一に教育の機会均等が求められた。教育における男女の差別が撤廃され、就学援助や奨学の方法の充実によって経済的理由による就学や修学の困難の解消化が図られ、心身障害児に対する特殊教育学校が学校体系の中に位置付けられた。第二は学校制度体系の民主的単一化が実現された。国民学校は六年制の「小学校」に改編され、中等教育段階は三年制の「中学校」と同じく三年制の「高等学校」の二段階に単純化された。高等教育段階も原則として四年制の大学(医学・歯学は六年制)に一本化され、その上に学術の進展に寄与する大学院を置くこととした。こうして、六・三・三・四の明確な単線型の学校制度が成立した。第三には、教育基本法で規定された義務教育九年制を小学校・中学校において実施することとした。

 この学校教育法は二十二年四月から施行されたが、新制の学校はまず同年四月に小学校と中学校とが、翌二十三年四月から高等学校が、そして二十四年四月(一部の私立大学は二十三年)から大学が、それぞれ発足した。

 小学校と中学校の二十二年四月からの新発足は総司令部からの強い要請のために、是非とも実施されなければならなかった。とりわけ義務制の中学校は、戦争の結果としての荒廃と窮乏のただ中での創設という史上ほとんど前例のない困難な大事業となった。このために設置者である市町村当局は最大の苦境に立たされ、全国で一七〇にも上る市町村長の引責辞職やリコール事件が生じたほどであった。そのような混乱を含みつつも新制中学校制度がほぼ計画どおりに実施され定着していったのは、中等教育を我が子に、という地域住民の熱意に支えられたからであったと見ることができる。

 小学校では主として教育内容面において、大きな改革がなされた。二十二年五月の学校教育法施行規則により、小学校の教科は、国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、家庭、体育及び自由研究を基準とするとし、教育課程、教科内容及びその取扱いは、監督庁(文部大臣)の定める学習指導要領の基準によることとしたが、それに先立ち同年三月には新学制の実施に合わせて先に「学習指導要領一般編(試案)」が刊行され、続いて同年十二月までに各教科編が整えられた。二十四年教育課程に関する重要事項を審議する教育課程審議会が文部省に設置され、そこでの審議を経て二十六年に学習指導要領が初めて改正された。教科書は、従来の国定制を廃し監督庁(実際には文部省)の検定を経て民間の出版会社が刊行供給する検定制を採用したが、移行期間の二十二・三年度では暫定的に文部省著作教科書が用いられ、新検定教科書の使用開始は二十四年四月からとなった。

 新制の高等学校は、一年の準備期間をおいて二十三年度から実施された。高等学校はおおむね従来の中等学校を改編して発足したが、その際に学区制、男女共学制及び総合制の三つを設置の原則とした。二十三年に発足した都道府県教育委員会はこの三原則に沿って公立高等学校の統廃合と整備を進めたが、占領軍地方軍政府担当官の方針の差異などにより、その設置をめぐって若干の混乱が生じた。私立校は三原則の制約外にあったので、旧制中等学校の系譜を継承し男女別学校が少なくなかったし、中学校を併設する場合も多かった。高等学校の編制には、通常の三年制の本科のほかに別科、専攻科があり、通常の全日制のほか夜間制・定時制・通信制などの課程があった。その教育課程では、生徒の個性に応じた学習の可能性を求めて、教科選択制と単位制を採用し、学科は「普通教育を主とする学科」(普通課程)と「専門教育を主とする学科」(専門課程又は職業課程)とを設けた。その後高等学校における職業教育の沈滞を懸念する意見が生じ、二十六年議員立法により「産業教育振興法」が成立して産業教育振興の観点から高等学校の職業教育への国庫補助が開始された。

 新制大学は、女子系・キリスト教系を主とする公私立一二大学が二十三年度より発足したが、国立大学を含んで本格的に発足するのは二十四年度からであった。国立大学の発足に備えて文部省は二十三年六月新制大学設置に関する十一原則を定め、大都市部を除き一府県一大学を目標に従来の帝国大学・単科大学・高等学校(旧制)・専門学校・師範学校等の統合を図った。この際、地域の事情、学校の性格、学校の伝統など複雑な要因によって改編は難航したものの、二十四年六月国立学校設置法に基づき国立大学六九校が一斉に開設され(十一月東京商船大学の移管により同年中に七〇校となる)、公立大学一七校、私立大学八一校も同年中に開設された。当時旧制専門学校の中には一挙に大学への改編が困難なものが少なくなかったので、それらへの対応策として二十四年五月学校教育法を一部改正して、暫定的措置として二年又は三年制の短期大学制度を設けることとし、それは二十五年度から発足した。大学の管理方式をめぐって、CIEの意向に基づき文部省は二十三年十月「大学法試案要綱」を公表したが、米国の大学において一般的な理事会方式の管理運営を導入しようとしたために大学関係者の激しい批判と反対に直面した。そこで文部省は二十四年その大学法案の国会への上程を断念し、改めて省内に設けた大学管理法案起草協議会の起草にかかわる国立大学管理法案と公立大学管理法案とを二十六年国会に提出したが、審議未了・廃案となった。

 私立学校は従来監督官庁の規制の下に置かれ、官公立学校に比して軽視される存在とされていた。学校教育法は設立形態による学校の差別を無論のこと廃止した。さらに、私学の自主性と公共性との確保を目的に二十四年十二月「私立学校法」が公布され、私立学校に対する所轄庁の監督権限を制限してその自主性を尊重するとともに、私立学校の設置者を学校法人に限定してその教育の公共性を確保することとし、憲法第八十九条との関係を調整して私学に対する公の助成に道を開いた。この私学助成は戦前には例を見なかった画期的なことであり、二十七年三月私立学校振興会法の公布により全額政府出資の特殊法人私立学校振興会が発足し、資金の貸付を開始した。

 新学制において教員養成は、従来の師範学校・高等師範学校など特定の専門的機関による養成を本体とする方式を改め、教育職員免許法(二十四年九月施行)に規定された必要な単位を大学において修得したものには広く教員資格を与える「開放制」の方式を採ることとした。このために、従前の師範学校を母体とした国立大学の学芸学部・教育学部などをはじめとする教員養成を主とする学部のほかに、教育職員免許法に定める教職科目履修のための教職課程が多くの国公私立大学・短期大学に開設された。

 なお、新教育の施行を円滑に進めるためにCIEと文部省との共催により「教育指導者講習」(IFEL)が、東京をはじめ各地の大学を会場にして、二十三年九月から二十七年三月まで九期にわたり実施された。

 また、教育職員免許法の施行に伴い資質の向上と上級資格取得のために、文部省・国立大学・都道府県教育委員会などの主催による現職教員を対象とする大規模な講習が二十五年度から開催された。

 教員の身分と待遇の改革として、二十四年教育公務員特例法が公布された。これは、国公立学校の教員についてその職務と責任の特殊性にかんがみ、採用・昇任・分限・服務・研修等に関して、公務員の一般法に対する特例を定めたものである。特に、大学の自主性と自律性とを尊重してその教員人事について自治に基づく選考方式を確認した。終戦直後からいくつかの教員組合が結成され、二十二年六月それらが日本教職員組合(日教組)として統一され、教職員の待遇その他の労働条件の改善を目指して活動するとともに、教育政策や選挙運動その他政治的活動に主力を傾注する傾向が強かった。

社会教育の改革と振興

 戦後社会教育においても、学校教育と同様に、極めて大きな改革が実施された。戦前・戦時期に教化的性格を強めていたのが、青年や成人の自発的・自主的な学習の組織化という本来の教育活動として展開されることになったからである。

 文部省は昭和二十一年七月公民館設置運営の要綱を通達し、地域における社会教育活動の拠点として公民館の設立を勧奨したが、この後公民館は図書館や博物館とともに、我が国の地域社会活動の重要な施設となった。

 教育刷新委員会での審議を経て、二十四年六月我が国で初めての社会教育法が公布され、続いて二十五年四月図書館法、二十六年十二月博物館法がそれぞれ公布され、社会教育法制が著しく整備された。このほか、青年団体、婦人団体、PTAなど自主的な社会教育団体が数多く設立された。また、二十一年大日本体育会(後に日本体育協会と改称)の主催の下戦災を免れた京都市を中心に国民体育大会が開催され、社会体育の振興に大きな役割を果たした。

教育行政制度の改革と教育委員会制度の発足

 昭和二十一年八月文部省は教育行政の画一性を排しその一般行政からの自立を目指した「教育行政刷新要綱案」をまとめ、全国を九学区に区分し各区に学区庁・区内の府県に学区支庁をそれぞれ置いて管内の教育行政を担当させるという学区制構想を提示したが、総司令部の承認が得られず未発にとどまった。また教育刷新委員会は、二十一年十二月「教育行政に関すること」の建議において、官僚的画一主義と形式主義との是正、教育における公正な民意の尊重、教育の自主性確保と教育行政の地方分権などの観点から、都道府県及び市町村に地域住民の選挙による教育委員会を設けて教育に関する議決機関とし、その委員会が教育総長(府県)・教育長(市町村)を選任し執行の責任者とするとの構想を示した。

 この建議を受けて文部省は、地方教育行政制度の改革法案の準備に入ったが、教育委員会の設置単位、委員の選任方法、教員人事などをめぐり文部省とCIEとの見解が一致を見なかったので折衝は難航し、ついにCIE側の強い要望に押し切られる形で教育委員会法案がまとめられた。国会での審議により一部修正されて二十三年七月教育委員会法は公布され、都道府県・五大市及び設置希望の市町村において十月第一回教育委員選挙が実施され、十一月一日にそれらの教育委員会が発足した。一般の市町村にも二十五年から設置される予定であったが、公選制の教育委員による教育行政という初めての経験の故に慎重な準備を要するとして二十七年まで実施を延期する措置がとられた。文部省は教育委員会制度協議会を設けてその準備に当たる一方、当面実施を一年延長する法案を国会に提出したが、衆議院の解散によりその延長法案が審議未了となったので、二十七年十一月全国市町村に公選制教育委員会が一斉に設置される結果となった。教育行政の自主性を掲げた教育委員会制度において当初から教育財政に関する権限やそれを裏付ける財源措置などの弱体性が問題とされ、やがて再検討が迫られることになるのであった。

 地方教育行政の改革とともに、中央の教育行政制度も改革の対象になった。終戦とともに、文部省は学徒動員局・教学局など戦時体制関連部局を廃止し学校教育局・教科書局などを設置するなどの改編を行ったが、二十三年七月の国家行政組織法に基づき翌二十四年五月文部省設置法が公布され、六月新しい文部省が発足した。当時は、大臣官房・初等中等教育局・大学学術局・社会教育局・調査普及局・管理局から編成され、権限はできる限り教育委員会に委譲し、専門的・技術的な指導・助言・援助を行うこと、及び全国的な教育水準の維持向上の見地から教育の基準設定とこれを裏付ける財政的援助を行うことを任務とすることとした。

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