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第三節 宗教行政

明治期の宗教行政

 明治元年政教一致の観点から太政官と並ぶ神祇官が政権の中心に据えられ、また神道の優位性と独自性を明らかにするために神仏の分離が強行された。

 四年に神祇官は神祇省に格下げされ、更に教部省に改組された。大教宣布運動のために大教院・中教院などが設置されたが、運動内部での神・仏二派の抗争に加えて、仏教者の間から信教の自由論が提唱され、国家による宗教教化の強制への批判が提出されて、八年大教院は解散された。キリスト教についても、それへの抑圧政策が欧米諸国から非難されたので、政府は六年二月宣教を黙認した。

 十年一月教部省を廃止し、宗教行政は内務省社寺局が担当することになった。大日本帝国憲法の発布により、信教の自由が「臣民の権利」の一つとして承認されたが、それは「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という限定付きであった。条約改正の条件としてキリスト教の適正な処遇が外国から求められたので、政府は三十二年五月その宣教を正式に認めるとともに、同年八月文部大臣訓令により公認の学校において正規の授業時間内における宗教教育及び宗教儀式の施行を禁止した。

 他方政府は、神社神道は「国家の宗祀」であって「宗教」ではないとの原則を確認して、三十三年内務省の社寺局を廃止し、神社局と宗教局とに区分した。

文部省の宗教行政と宗教団体法

 神社と宗教との分離を更に明確化する必要から、大正二年六月内務省の宗教局は廃止され、宗教行政一般が文部省に移管された。文部省は新たに宗教局を設置し、神社を除くすべての宗教団体を管轄することとした。

 明治初年以来宗教行政上には多様な法規が存在していた。それらの総合的な整備と、宗教団体への監督と指導のための、宗教法立法化の動向は内務省所管の時代から存在していた。明治三十二年最初の宗教法案が議会に提出されたが、仏教側の反対で成立しなかった。文部省は、大正十五年宗教制度調査会を設置して宗教法案の調査審議を進め、昭和二年、四年と二度にわたって議会に提出したが、いずれも異論があって成立を見なかった。このような曲折を経て、戦時体制下の十四年四月ようやく宗教団体法が公布を見た。

 同法は、明治以来の宗教上の諸法規を整理し、宗教団体に対する保護と監督を強化しようと図ったもので、キリスト教の包括団体を「教団」と名付け、他の「教派」「宗派」と同格とし、また宗教団体と法人との法的な関係を明確にした。宗教団体の認可に当たって、教派・宗派の合同が進められ、神道教派はそのままの一三派であったが、仏教宗派は五六派から二八派へと半減し、キリスト教関係ではプロテスタント系約三〇団体が一つの日本基督教団に統合された。

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