第二節 文化財保護と文化行政

文化財の保護

 明治維新による文明開化の急進展は、我が国古来の伝統文化を「旧物」として軽視する社会風潮を作り出した。とりわけ神仏分離令による廃仏毀釈の進行が、歴史ある寺院の仏像・古文書・建造物・美術品などの大量の破壊や海外流出を生み出した。政府は明治四年五月「古器旧物保存方」の太政官布告を発する一方、内務省は十三年ごろから二十七年まで全国の主要な古社寺に保存金を交付して文化財の維持保存に当たらせた。十七年ごろから文部省は独自に古美術の保存状況調査に着手し、後には宮内省の臨時全国宝物取調局と協力して調査を進めた。

 日清戦争後の国家意識の勃興を背景にして、三十年古社寺保存法が公布され、歴史的・美術的に価値の高い建造物や宝物類を内務大臣が「特別保護建造物」「国宝」などに指定し、保存のための補助金を支出することとなり、伝統的文化財の保護の進展が見られた。しかし古社寺保存法は対象を社寺に限っており、国・地方公共団体・個人などの所有する貴重な物件を保護し得なかった。昭和四年従来の古社寺保存法を廃止して新たに国宝保存法を公布し、社寺のみならず広く「建造物、宝物其ノ他ノ物件ニシテ特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範トナルベキモノ」を国宝に指定して保存措置をとることにした。国宝に指定された場合原則として輸出・移出することを禁じ、現状変更も内務大臣の許可を要するとした。八年四月「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が公布され、従来の国宝のほかに重要美術品等の指定がなされ、国宝同様に輸出・移出に厳重な制約を課すこととした。

 なお、明治末期には鉄道・道路の建設などの国土開発の進行に伴い史跡名勝などの保存が課題として意識され、大正八年六月史跡名勝天然記念物保存法が施行された。内務大臣の指定により、現状変更や保存に影響を及ぼす行為には地方長官の許可を要することとし、国はその管理費への補助をなし得るとした。

 古社寺保存法に基づく保存行政は大正二年宗教行政が内務省から文部省に移管されるのに伴って文部省の所管となったが、史跡名勝天然記念物の保存行政は昭和三年十二月に至って内務省から文部省に移管され、この時以降文化財保護行政はすべて文部省において一元的に所管することとなった。

国語調査の事業

 国語改革問題は明治維新の当初から国民文化の改革と普及にとっての重要課題として意識されてきた。漢字制限論、言文一致論、ローマ字採用論、仮名文字表記論、共通語論など様々な論議が明治初年から民間で繰り広げられてきた。明治三十三年の第三次小学校令と小学校令施行規則による平仮名字体の標準化、字音仮名遣の採用、及び使用漢字数制限は、文部省によるこの国語改良施策の最初の施策であった。

 文部省は三十五年国語調査委員会を設置し、漢字の制限、字音仮名遣の改訂等の調査検討を委嘱した。大正二年同委員会を廃止して、十年臨時国語調査会を設置し、常用漢字表、仮名遣改定案、字体整理案などを作成したが、昭和九年にこれを廃止し新たに国語審議会を設置した。この審議会は、漢字字体整理、標準漢字表、新字音仮名遣、国語の横書き等、戦前における国語改革問題を総括するような審議を行った。なお、ローマ字の表記法については、昭和五年設置の臨時ローマ字調査会の調査結果に基づき、十二年九月内閣訓令により、従来のいわゆるヘボン式ローマ字とは異なる訓令式ローマ字を制定した。十五年十一月文部省は図書局内に国語課を設置し、国語の調査、日本語教科書の編纂、国語審議会の事務などを担当させた。

芸術文化の行政

 文部省が芸術の振興を目指して最初に試みた事業は美術展覧会であった。明治四十年六月美術審査委員会を設立し美術展覧会規程を定めて毎年一回日本画・西洋画・彫刻の三部から成る展覧会を開くこととし、十月その第一回文部省美術展覧会(文展)を東京上野で開催した。これは大正七年の第一二回をもって終了した。審査委員の任命や運営をめぐって美術関係者の間から不満が高まったためである。文部省は、美術の振興について審議する機関として、八年新たに帝国美術院を設立し、同年その美術院の主催による展覧会、第一回帝国美術院展覧会(帝展)が開催された。昭和二年従前からの三部制に美術工芸の第四部を加え、また会員定数も当初の一五人から五年には三〇人と倍増した。文部省は、美術のみならず文芸・音楽などの分野をも含む、帝国学士院と同様な総合的な機関の設立を構想し、十二年六月帝国芸術院官制を公布した。これは、芸術に関する重要な事項を審議し、その発達に必要な事業を行い、文部大臣に建議し得る機関で、院長の下会員八〇人以内、第一部美術、第二部文芸、第三部音楽、雅楽、能楽の構成とした。その事業の一つとして芸術院賞を定め、十七年五月小磯良平・高村光太郎・川田順の三人に対して第一回授賞式を行った。帝国芸術院の設立により美術展覧会は再び文部省の主催するところとなり、十三年第一回の「新文展」を開催し、これは十九年第七回まで継続された。

著作権の保護

 我が国における著作権法の萌芽は、明治二年の出版条例である。それは元来、書籍出版の取締規程であったが、出版の免許によって出版者に「専売ノ利」を取得させる旨の保護を定めた。この条例は、五年、八年、二十年と改正されるが、特にその二十年の改正において、版権保護の部分を出版条例から切り離して、別に版権条例とした。

 この版権条例は、文書図画を出版して利益を専有する権利を版権と称し、その版権の保護を得るためには内務省に版権登録しなければならないこと、版権は著作者に属することなどを規定しており、二十六年四月若干の修補を加えて版権法となった。この版権法は、三十二年に至って、二十年に定められた脚本楽譜条例、写真版権条例とともに著作権法に統合整理された。

 我が国は条約改正の交換条件として著作権の国際的保護を図るベルヌ条約への加入を求められていたので、三十二年の著作権法は、従来の版権に代えて著作権の語を用い、ベルヌ条約の保護の水準を満たすように制定され、優れて近代的な著作権保護法として国際的にも注目された。その後ベルヌ条約の改正に応じて逐次同法は改正されて行った。なお、著作権事務の所管は、明治二年当時は太政官の昌平・開成両学校、翌三年二月太政官大史、四年八月文部省、そして八年六月内務省へと移り、以後戦前を通じて内務省の所管であった。

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