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第八節 教育行財政

文部省機構の変化

 文部省の機構改革としては、まず大正八年四月実業学務局が新設され、大臣官房・専門学務局・普通学務局・実業学務局・宗教局の五部門構成となった後、翌九年四月図書局が復活された。次いで、社会教育関係部局の整備が行われ、昭和四年七月社会教育局が新設された。

 大正デモクラシーのもと社会主義思想の浸透に対し、文部省は知識人や学生の思想問題に対処するため、三年十月専門学務局内に学生課を新設し、翌四年七月それを拡大強化して局に準ずる学生部に昇格させた。七年八月官制をもって国民精神文化研究所を設置し、国民精神文化の研究と普及活動などを実施した。九年六月学生部を思想局に昇格改組し、学校だけではなく社会一般に対する思想の指導・監督・調査などに当たることとした。十二年七月教学刷新の一層の強化を目指して思想局を廃止し、新たに文部省の外局として教学局を新設した。教学局は思想情報の収集調査、教員の再教育、日本文化の講義・印刷物の刊行頒布、良書推薦、及び学会の開催まで思想・文化の統制・善導に関する広範な業務を担当した。思想局の「国体の本義」に引き続いて、教学局は「臣民の道」(十六年)「国史概説」上・下(十八年)など国体論の典拠となるものを刊行した。戦局の急迫を告げる十七年十一月行政簡素化により、教学局は内局に改編された(文部省教学局)が、社会教育行政をも担当し、翌十八年には宗教行政や文化行政をも広く所管することになった。なお、関連して十七年一月国民錬成所を設立し、十八年にはこれと先述の国民精神文化研究所とを合併して教学錬成所とし、日本独特の教学に関する研究と、普及のための要員の錬成とに当たらせた。

 昭和戦前の文部省に新設された重要な部局として教育調査部があった。二年十一月に初めて設けられた調査部は八年五月、教育調査部として正式の内部部局となり、内外の教育制度の調査と比較研究とを行い、数多くの貴重な調査研究の成果を刊行した。これは、直接には当面の教育制度改革に備えたものだったが、国際的・国内的に確実な資料を系統的に調査することなしには、もはや教育制度改革を構想し得ない状況となっていたことを示していた。教育調査部は十七年三月廃止された。

 この期には体育行政が重視されたことも重要な特色であった。大正五年大臣官房に学校衛生官が置かれ、十年学校衛生課が復活され、十一年文部大臣の諮問機関として学校衛生調査会が設置された。昭和三年五月学校衛生課は体育課と改称された後、翌四年文部大臣の諮問機関として体育運動審議会が設置され、以後体育行政は学校衛生行政をも含んで推進されることになった。十二年学校衛生官に代わって体育官が置かれた。十三年厚生省の新設により従来文部省の所管だった体育運動行政は学校関係を除いて同省に移管されたが、文部省は国民体位と国防能力との向上を目指して学校における保健衛生・体育の振興を一層強力に進めることとし、十六年一月体育局を創設した。しかし学徒動員が強められて体育活動が衰微し体育局は二十年七月新設の学徒動員局に併合されてしまった。

 自然科学研究の急速な進展により国家的観点からその統合調整が必要とされた。文部省は十三年に科学振興調査会を設置したが、戦争の進行は科学動員を必須としこの見地からも科学行政の整備が求められた。十五年二月専門学務局内に科学課が、十七年三月科学官がそれぞれ新設され、同年十一月科学局が設置されるに至った。

 この間教育政策を審議するために数多くの諮問機関が設置された。内閣総理大臣の教育政策諮問機関としては、大正六年十月から八年五月まで臨時教育会議、十年七月から翌十一年九月まで臨時教育行政調査会、十三年四月から昭和十年十二月まで文政審議会、十二年五月から同年十二月まで文教審議会、十二年十二月から十七年五月まで教育審議会などが設けられた。また昭和十年から十一年にかけて内閣審議会において教育改革が検討され、十七年に内閣に設置された大東亜審議会においても「大東亜建設」に処する文教政策が策定された。文部大臣の諮問機関としては、大正八年五月から十年七月まで臨時教育委員会、引き続いて同月から十三年四月まで教育評議会が、それぞれ高等教育機関拡張に関する施策を審議した。さらに国体明徴問題に対処して昭和十年十一月から十二年六月まで教学刷新評議会が設置された。このように数多くの審議機関が相次いで設置されたのは、教育政策の立案が総合的な国家政策の有機的な一環としてとらえられてきたことを示していた。

地方教育行政機構の変化

 文部省の行政事項の拡大に対応して、地方にあっても教育行政機構が拡充整備された。大正十四年地方社会教育職員制の公布により道府県に専任の社会教育主事等が置かれることになり、昭和七年には全国の市町村に社会教育委員を置くことが勧奨された。十四年には各府県に青年教育官が新設された。学校衛生・体育については大正十三年地方学校衛生職員制が制定され道府県に学校衛生技師各一人を置くこととし、昭和五年には地方体育運動職員制により道府県に体育運動主事を置くこととした。視学については、郡制の廃止に伴う郡視学の廃止に対応して大正十五年六月定員外で府県視学三五〇人を設置したが、旧郡視学を含めた地方視学の総数は大幅に減少した。従来地方事務官が併任していた府県の視学官について、昭和三年三月各府県一人の専任地方視学官を置くこととした。十五年には府県に地方教学官が置かれ、さらに翌十六年地方視学が増員された。

 昭和三年、従来内務部が担当していた地方教育行政事務部門が学務部として独立した。しかし第二次大戦中の行政整理により、十七年十一月学務部は廃止され再び内務部に吸収され、教育関係職員も著しく減員された。

義務教育費の国庫負担

 明治初年以来市町村の負担とされてきた義務教育費について、この時期には大規模な国庫負担制度が成立し、市町村の財政負担が軽減されるとともに、義務教育の拡充が財政的に保障されることになった。

 大正七年三月臨時教育会議の審議を経て市町村義務教育費国庫負担法が成立した。これは、市町村立尋常小学校教員給与の一部を負担するために国庫は毎年一、〇〇〇万円以上の金額を支出するというもので、義務教育費を国が「補助」するのではなく、国と市町村との義務教育費の分担関係を制度的に確立した点において、我が国義務教育財政史上画期的な意義を持つ法律であった。この国庫負担金は、尋常小学校教員数と就学児童数とに比例して配分することを原則としたが、国庫負担金総額の一〇%以内を「資力薄弱ナル町村」に増額交付することができるとした。十二年三月同法を一部改正して市に対して薄く、町村に対して厚い交付方式を採用し、市町村間の義務教育費財源不均衡の調整を図った。国庫負担金額はその後、当初の一、〇〇〇万円が十二年から四、〇〇〇万円、十五年に七、〇〇○万円、昭和二年から七、五〇〇万円、五年から十四年まで八、五〇〇万円へと増額された。

 十五年度には中央と地方との財政制度が改革され、新たに地方分与税(配付税と還付税)による総合的な地方財政調整制度が成立した。従来義務教育費国庫負担制度が部分的に行ってきた地方財政調整の役割は今後配付税が果たすことになったので、十五年三月市町村義務教育費国庫負担法を改正し、新たに義務教育費国庫負担法と市町村立小学校教員俸給及旅費ノ負担ニ関スル件(勅令)とが公布された。これにより、市町村立小学校教員の俸給と赴任旅費とは従来の市町村負担から道府県負担へと改められ、その道府県負担額の半額を国庫が負担することとした。国庫負担が定額方式から定率方式へと変化したのである。これは、小学校教員の給与費の負担を市町村から道府県へと移すことにより、市町村財政への教育費の重圧を除くとともに、学校の施設設備などの教育条件の充実と、教員給与の全国的な平準化と向上とに道を開くものであった。十八年三月義務教育費国庫負担法が改正され、小学校教員の年功加俸・特別加俸・賞与・死亡賜金なども従来の市町村支弁から道府県支弁に移された上、国庫負担の対象に加えられた。

 このほか、大正十年三月、一年現役小学校教員俸給国庫負担法が公布され、一年間現役兵として軍務に服する市町村立小学校教員の俸給費全額相当額を国庫が負担し、代行教員採用の経費に充てることとした。昭和二年師範学校卒業者の現役期間が五か月に短縮されたのに伴い、三年五月この法律は短期現役小学校教員俸給国庫負担法に改正された。

 昭和三年文部省は学齢児童就学奨励規程を定め貧困児童への就学奨励費に充てるため道府県に一定額の国庫補助金を交付することとした。この補助金は上述の義務教育費国庫負担法が成立した後も併行して存続した。さらに七年九月から学校給食が部分的に実施されることになったが、この経費にも国庫補助金が支出された。昭和初期の深刻な経済不況を反映して、一部の町村では小学校教員給与の遅配・強制寄附・減額などが行われたので、七年九月市町村立尋常小学校費臨時国庫補助法が公布され、窮乏市町村への手当がなされ、これは十年度まで継続された。

 なお、青年学校については、発足の当初から公立学校職員年功加俸国庫補助法を適用していたが、青年学校の義務教育化に伴い十四年三月青年学校教育費国庫補助法が公布され、市町村立青年学校教員の俸給に充てるため毎年定額の国庫補助金が市町村に交付された。十九年二月同法が改正され、市町村立青年学校教員の俸給・年功加俸・賞与・死亡賜金・赴任旅費が道府県の支弁に移され、その経費の半額が国庫より道府県に補助されることとなった。

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