第五節 産業教育

実業学校の拡充

 第二次大戦期まで実業教育に関しては、教育内容の改善と学校の量的拡大とが主に進められ、大きな制度改革は行われなかった。

 大正九年十二月実業学校令が部分改正され、これを契機に同年から翌十年にかけて実業諸学校の規程が一斉に全面改正され、農業学校と商業学校では従来の甲種・乙種の別が廃止され、徒弟学校は工業学校に改編されたほか、学科の改正、実習の充実などの措置がとられた。その際注目されるべきことは、十年一月の職業学校規程の制定であった。これは、産業の発展に伴って従前の実業教育の範疇(ちゅう)に含まれ難い、写真・通信技術・タイプライティング・手芸などの技術教育を行う学校に適用される規程であり、従来法制上「徒弟学校」に指定されていた女子職業学校などが、この規程により「職業学校」と認定されるようになった。

 十三年三月文部省は実業学校と実科高等女学校卒業者に中学校・高等女学校卒業者と同じく専門学校入学資格を認めた。これにより、実業学校から実業専門学校への進学の道が広く開かれるとともに、中学校等と実業学校とを同格と見る機運が生ずることになった。

 昭和五年四月工業学校規程・農業学校規程など一連の実業諸学校の規程が部分改正され、尋常小学校卒業者を入学させる二年制の課程が認められ、学科目に公民科が新設されたほか毎週教授時数の減少、長期にわたる実習の低学年での承認などの改訂のほか、工業・農業・水産各学校に中学校・高等女学校卒業者を入学させる第二部の設置が認められた。翌六年には実業学校公民科教授要目が制定された。十二年三月諸実業学校の規程を改正して修身・公民・国語などのほかに歴史・地理を必須学科目に加え、それらの学科目に関する諸実業学校共通の教授要目として実業学校教授要目が制定された。

 この期では実業補習学校が、農業補習学校を主体として急速に増加した。大正九年実業補習学校規程が改正され、従前の小学校教育の「補習」主体から、職業教育と公民教育とに重点を置くように改編された。また二年の前期と二~三年の後期の各課程が設置され授業時間の標準などが定められ、次第に学校としての性格を明確にしていった。十五年に男子青年に軍事訓練を行う青年訓練所が制度化され、実業補習学校と青年訓練所とが教員(指導員)や設備において重複する事例が多くなってきた。この重複を解決するために昭和十年青年学校が発足することになった。

戦時下の実業教育

 昭和十八年の中等学校令に基づき、中学校・高等女学校などと同格の中等学校としての実業学校が発足することになった。同年実業学校規程が制定され、その構成・教科・編制・設備・管理などの基準が示された。学校の種類には従前の農業・工業・商業・水産各学校のほかに拓殖学校が加えられ、職業学校は「其ノ他実業教育ヲ施ス学校」に改められた。修業年限は、他の中等学校と同じく国民学校初等科修了程度を入学資格とするものは四年、同高等科卒業程度を入学資格とするものは三年とし、夜間課程は高等科卒業程度を入学資格とし修業年限は男子四年・女子三年とした。また、実業学校卒業者のために修業年限一~三年の専攻科、国民学校高等科卒業者のための簡易課程として修業年限二年以内の専修科をそれぞれ設置し得ることにした。教科も他の中等学校と同様に国民科・実業科・理数科・体錬科及び芸能科とし、女子には家政科を加えた。

 この新しい実業学校は十八年四月から実施されたが、戦局の深刻化に伴いその趣旨の十分な実現を見ることはできなかった。とりわけ、軍需生産と食糧生産とに集中化した戦争遂行政策に沿って十八年十月の閣議決定「教育ニ関スル戦時非常措置方策」において、男子商業学校の改廃が決定された。すなわち十九年度から、男子商業学校を大規模に整理縮小して可能な限り工業学校・農業学校・女子商業学校などへ転換させることとし、全国四五〇校のうち、二七四校が工業学校に、三九校が農業学校に、五三校が女子商業学校にそれぞれ転換され、三六校が廃校となり、男子商業学校にとどまり得たのはわずか四八校に過ぎなかった。

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