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第四節 教員及び教員養成

師範学校の充実

 大正十四年四月師範学校の予備科を廃止し、当時小学校教員養成の本流をなしていた本科第一部の修業年限を下に一年延長して五年制とした。これは、従前本科第一部入学には三年制高等小学校卒業もしくは二年制高等小学校卒業後に一年制の予備科修了を資格要件としていたが、予備科の設置は全師範学校の四分の一程度で、かつ学齢を一年超過する三年制高等小学校はごく少数であったので、師範学校に優れた人材を得るために二年制高等小学校との接続関係の円滑化を図ったものであり、文政審議会において答申された事項であった。ほかに、師範学校に専攻科を置き、中等学校卒業者を入学させる本科第二部の男子の修業年限を一年に限定し、一年延長し得るとした従前の規定を廃した。本科第二部男子二年制は当時全国で長野県師範学校一校だけの例外的存在になっていたからである。これに伴い師範学校の学科目や教授要目に改訂が加えられた。

 文政審議会の答申に基づいて昭和六年一月師範学校規程が改正され、本科第二部の修業年限が男女を問わず二年とされ、文部大臣の認可を得て第一部、第二部のどちらかを置かないことができるとした。これは、小学校教員の質的向上を求めたものであり、本科の第一部と第二部とを制度上同等に師範学校の本体と認めたことは、この後の師範学校昇格に事実上の道を開くことになったのであった。本科第二部だけの師範学校を設立することに文部省は慎重な考慮を求めていたが、十三年最初の第二部単独校として東京府大泉師範学校が設立された。この改正に伴い六年師範学校教授要目が全面改定された。

 中等学校教員の養成については、臨時教育会議の意向に沿って、帝国大学文科大学(文学部)に教育学講座を置くこととし、東京帝国大学文学部の教育学一講座を五講座に拡張し、東北・九州・京都の三帝国大学の法文学部又は文学部に教育学各一講座を新設した。高等学校の普通教育機関化に伴い大正八年高等学校教員規程を定め、その免許資格を定めた。また九年に実業補習学校教員養成所令が公布され、既存の実業補習学校教員養成所に基準を与えた。

戦時下の師範教育

 第二次大戦下において、初等教育・中等教育とともに師範教育にも重要な制度改革が加えられた。教育審議会答申を参考として、昭和十八年三月師範教育令が、全面改正された。

 この改正師範教育令では、師範学校の目的を「皇国ノ道ニ則リテ国民学校教員タルベキ者ノ錬成ヲ為ス」、高等師範学校のそれを「皇国ノ道ニ則リテ中学校及高等女学校ノ教員タルベキ者ノ錬成ヲ為ス」と規定し、明治以来の師範教育において強調された「順良信愛威重」の三気質又は三徳性の規定を除いた。教育審議会答申を修正して、師範学校は官立とし、本科三年と予科二年とから成り、予科には国民学校高等科修了者及びそれと同等以上の学力ある者、本科には予科修了者、中学校・高等女学校卒業者及びそれと同等以上の学力ある者を入学させ、専門学校程度の学校とした。師範学校の学科課程などは文部大臣が定め、教科書は初めて国定制となった。高等師範学校及び女子高等師範学校はもとより官立で修業年限は四年とした。師範学校が専門学校程度となったので、高等師範学校・女子高等師範学校の目的規定から師範学校教員養成の文言が除かれた。この改正に伴い、師範学校規程が全面改正され、また高等師範学校及女子高等師範学校規程が制定された。

 改正師範教育令が施行された十八年四月、全国に五六の官立師範学校が発足し、我が国の師範教育は原則として国の機関により施行され、しかも初等教育教員が高等教育機関において養成されるという、画期的な事態を迎えることになった。

 十九年二月師範教育令の一部改正により、従来の青年学校教員養成所が官立の青年師範学校に改組された。青年師範学校は師範学校と同様に、修業年限三年の専門学校程度となり、男子の義務就学制が施行された青年学校の教員養成に当たった。同年四月全国都道府県に各一校ずつの全四七校の官立青年師範学校が設置された。

 また、明治後半以後全く増設されなかった高等師範学校について、十九年に金沢高等師範学校、二十年に岡崎高等師範学校、同年広島女子高等師範学校と三校が新設され、中等学校教員養成の充実が図られた。

 戦時体制の下に、懸案とされてきた教員養成制度の改革が実行に移されたのであったが、戦局の激化はこの改革が有効に進展することを許さなかった。

教員の資格と待遇

 教員の処遇は、第一次大戦後の不況や昭和初年の大恐慌の時期には、給与の遅延や強制的寄附などにより劣悪な状態に置かれたことがあったが、大正七年市町村義務教育費国庫負担法の公布以降の国庫負担金額の増額と、昭和十五年義務教育費国庫負担法での小学校教員給与の国庫と府県との分担支弁制の成立などにより、徐々に改善されていった。中等学校教員に対しても、大正九年公立学校職員年功加俸国庫補助法と公立学校職員年功加俸令とが制定された。十二年恩給法の成立により、公立小学校・中等学校教職員はすべてその適用を受けることになり、老後の生活保障を得ることになった。昭和十三年教員保養所の設置が公的に図られ、十六年には教職員共済組合令が制定され教職員の福利厚生が一層促されることになった。

 教員の資格制度は基本的に従来の規定を継承していたが、昭和期に入って小学校・中等学校において試験検定又は無試験検定による正格教員の比率が、次第に高まってきた。しかし第二次大戦の激化につれて、軍に徴集される有資格の男性教員が続出し、その不足を補うために短期間の講習を受けただけの中等学校卒業の女性や傷痍(い)軍人などに教職を委嘱する例が多くなっていった。

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