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第三節 高等教育

大学令と新高等学校令

 臨時教育会議の答申に基づいて、大正七年十二月大学令と改正高等学校令とが公布され、ここに我が国の高等教育制度は大規模に刷新されることとなった。

 大学令は従前の帝国大学を含む大学一般についての総合規程として制定されたものである。大学の目的は「国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スル」と定めた。大学の基本組織を従前の「分科大学」から「学部」に改め、「数個ノ学部ヲ置クヲ常例」として大学の総合制を重視したが、特別に必要な場合には一学部から成る単科大学をも認めた。学部には研究科を置き、総合大学では研究科間の連絡調整を図るためにそれらを総合して「大学院」にし得るとした。大学には、従来の帝国大学などの官立のほかに公立、私立を初めて認めたが、公立大学の設置主体は北海道及び府県に限定し、私立大学は必要十分な資金及び基本財産を持つ財団法人であってその維持費用を支出し得る基本財産の文部大臣への供託を義務付け、公私立ともにその設置廃止は勅裁を得て文部大臣が認可するなど、厳重な制限を設けた。大学への入学資格は、大学予科修了者、高等学校高等科卒業者、それと同程度の学力あるものとし、学部に三年以上在学し一定の試験に合格したものには学士の称号を与えるとした。大学予科の修業年限は、中学校第四学年修了者には三年、同卒業者には二年とした。大学の教員は、従来帝国大学の分科大学職員であったのをすべて大学に属することに改め、人的にも大学の総合化を期した。なお、私立大学教員の採用は文部大臣の認可を要することとし、その教育・研究の質の保障に配慮した。

 この大学令に応じて、大正八年二月官立総合大学の通則として改正帝国大学令が、三月大学令の施行規則として大学規程が、それぞれ制定された。このほか、官立大学では従来の学級制が科目制に改められ学生の自主選択的な学習の可能性が高められ、教員の定年制が各大学で自主的に採用されて教育・研究の新陳代謝の促進が図られ、さらに十年度から帝国大学・高等学校において、伝統的な九月学年始期が他の学校と同じ四月学年始期に改められて、幼稚園から大学まで学年始期の統一による接続関係の円滑化が実現されるなどの改革が施行された。

 大学令と同時に高等学校令が全面改定され、新たな高等学校制度が発足した。高等学校は「男子ノ高等普通教育ヲ完成スル」ことを目的とし、従来の大学予科ではなく高等普通教育完成の場であると規定された。官立校のほか公立・私立校が認められたが、大学同様に公立校の設置者は北海道・府県に限り、私立校は財団法人とし、設備資金のほか五〇万円以上の基本財産を持ち文部大臣に供託し得るものとの限定を設けた。高等学校の修業年限は七年とし高等科三年・尋常科四年とに分かつのを本体とし、高等科だけの学校も認めるとした。高等科卒業者のために修業年限一年の専攻科を置くことができるとし、その修了者には得業士の称号を与えることにした。尋常科は中学校の課程に相当するので予科の設置を認めた。高等科の入学資格は尋常科修了又は中学校第四学年修了程度とした。これは当時の学制改革論における修業年限短縮と英才速進の要望にこたえたものであった。また高等学校教育の効果をあげるために、課程及び学級規模の生徒定数に制限を設けた。翌八年三月高等学校規程が制定され学科課程・編制・設備などの諸事項が詳細に定められた。

高等教育機関の拡充

 臨時教育会議の高等教育改革諸答申の趣意を受けて大正七年、原敬内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が、四、四五〇万円余の莫大な追加予算の要求を伴って帝国議会に提出され、可決された。そのうち一、〇〇〇万円は御内帑(ど)金により賄われた。

 これは、八年度からの六年計画をもって官立の高等学校一〇校・高等工業学校六校・高等農業学校四校・高等商業学校七校・外国語学校一校・薬学専門学校一校・帝国大学学部四学部を新設し、医科大学五校・商科大学一校への昇格、及び実業専門学校二校・帝国大学学部六学部の拡張を実行しようというもので、第一次大戦後の経済好況を背景に、明治末期から増加の一途をたどってきた高等教育機関への進学希望者に対して広く門戸を開放し、併せて産業界からの人材需要にこたえようとする、戦前における最大規模で最も組織的な高等教育拡張計画であった。この計画はほぼ所期のとおり実現され、拡大された教育機会が新たな教育需要を掘り起こすことにより、産業の発展に見合う高等教育機関形成の基盤を作り出したのであった。

 従来の帝国大学とは異なる官立大学の形態として官立単科大学が設置された。九年まず最初の官立単科大学として東京高等商業学校を改組して東京商科大学が設置され、次いで昭和四年神戸高等商業学校が神戸商業大学に改組昇格された。同年に、工業関係では東京高等工業学校が東京工業大学に、大阪高等工業学校が大阪工業大学に改組昇格され、また東京・広島の各高等師範学校を附置する形で東京文理科大学・広島文理科大学がそれぞれ設置された。大正十一年官立医科大学官制の公布によりまず新潟・岡山の各医学専門学校が医科大学に改組され、翌十二年千葉・金沢・長崎の各医学専門学校がこれに続き、昭和四年には熊本医科大学、六年に名古屋医科大学がそれぞれ県立医科大学から官立医科大学に移管された。帝国大学も、大学令以前の東京・京都・東北・九州・北海道の五大学に加えて、文政審議会の答申に基づき昭和六年に大阪帝国大学が設置され、十四年には名古屋帝国大学が設置されて計七校となった。

 公立大学の最初は、大正八年十一月に設置された大阪府立大阪医科大学であった。以後九年に愛知県立愛知医科大学(後に名古屋医科大学と改称)、十年京都府立医科大学、十一年熊本県立熊本医科大学などが相次いで設置されていった。文政審議会の答申を得て昭和三年一月大学令を一部改正し道府県のほか市にも大学の設立を認めたが、その最初の市立大学として同年三月大阪市立高等商業学校を改組して大阪市立大阪商科大学が発足した。

 私立大学は、大学令での厳しい条件にもかかわらず、大正九年二月慶応義塾大学と早稲田大学が最初に設立認可されたのに続いて、同年四月明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・國學院大学・同志社大学が認可され、以後堰(せき)を切ったように次々と設立認可を得て、大正期だけでも計二二大学が発足するに至った。その母体は、多く明治以来の伝統を引く法律学校系統と宗教系の専門学校であった。

 高等学校は従前官立の第一高等学校(東京)から第八高等学校(名古屋)までの八校が存在するにとどまっていたが、大正八年新潟・松本・山口・松山の官立四校の設置を皮切りに、十二年までに一七校が新設され、合計二五校を数えた。公立高等学校は十二年富山高等学校の設立認可を最初に、十五年大阪府立浪速高等学校、及び昭和四年東京府立高等学校の三校が設立されたが、このうち富山高等学校は十八年官立に移管された。私立高等学校は大正十年の武蔵高等学校(東京)を皮切りに、十五年までに甲南高等学校(兵庫県)・成蹊高等学校(東京)・成城高等学校(東京)の計四校が設立された。高等学校令では上述のように高等学校は高等科と尋常科とから成る七年制を本体としていた。新規に認められた公立三校・私立四校はすべてこの七年制校であったが、官立校では新設の東京高等学校一校だけが七年制校で(昭和十八年以後は富山高等学校の官立移管により二校となる)他はすべて高等科だけの三年制校であった。

 専門学校はこの期以降に著しく拡張された。大学の専門部を除く単独の官立専門学校は従前、五つの医学専門学校のほかは東京外国語学校・東京美術学校・東京音楽学校の三校だけだったが、大正九年以後大阪外国語学校・富山薬学専門学校など五校が新設され、五医学専門学校が医科大学に昇格した後、官立校は八校となった。公立専門学校は従前の一校が八校に増加した。新設七校のうち、岐阜薬学専門学校を除く他の六校はすべて女子専門学校であった。私立専門学校は、大学の専門部を含めて八年以降五七校新設されたが、そのうち女子専門学校が二八校と半数近くを占めた。公立校と同様私立校においても専門学校は、当時女子の高等教育需要に応ずる主要な施設となっていたのである。

 このほか、実業専門学校の増加率は大学に次いで高かった。なお、昭和十八年一月専門学校令が改正されて、従前の専門学校と実業専門学校との区別が廃止され、すべて専門学校に統一された。

 大正中期から昭和十年代にかけて我が国の高等教育機関は飛躍的に拡大し、産業社会の発展にふさわしい教育体制の基盤を形成するに至った。大正七年度と昭和十五年度との高等教育機関の量的変化をみると、学校数では、二・五倍に増加し、学生生徒数では、約三・七倍に増加した。この増加の趨(すう)勢は、専門学校と大学とでは主に私立校により支えられていたが、高等学校と実業専門学校においては官立校が主体となっていた。総じて官立校の増設が公私立校の増加をリードしており、大正期の文部省による高等教育機関拡張計画がその後の高等教育発展を先導したことは明らかであった。

戦時体制下の高等教育

 日中戦争の拡大する昭和十二年以降、高等教育においても戦時体制化が強められた。十五年十一月高等諸学校教科書認可規程が制定され、従来高等学校と大学予科とに限られていた教科書の認可制を高等師範学校や専門学校にも適用することとした。その結果理数科関係を除き教科書を採用するには、文部省の認可図書目録のうちから選ぶか又は事前に文部省に認可申請しなければならないことになった。

 十六年十月勅令により大学・専門学校等での修業年限を一年間臨時に短縮し得ると定め、ここに高等教育機関の修業年限短縮が開始された。十六年度は三か月、翌十七年度は高等学校高等科・大学予科などをも含めて六か月それぞれ短縮し、これは十九年度まで毎年施行された。この臨時短縮と並行して、十八年高等学校令と大学令を一部改正し高等学校高等科と大学予科の修業年限自体を一年短縮して二年に改め、同年四月入学生から適用した。

 戦局の進行とともに、戦時措置が一層強められた。十八年三月戦時学徒体育訓練実施要綱によって大学をも含めた学校体育が軍事的観点から一段と強化され、六月学徒戦時動員体制確立要綱により学校報国団を隊組織に編成して勤労動員の強化に即応し得るようにし、九月研究科及び大学院に特別研究生を設け研究費を支給して戦力増強に役立つ研究に従事させることとした。さらに十月勅令により高等教育機関在学者に対する徴兵猶予の特典が廃止され、理工系・医学系・教員養成系などを除く男子学生の徴兵が十二月を期して実施された。学園から兵士として戦場に赴く「学徒出陣」であった。一方、十月閣議は「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を決定し、文科系学校・学生生徒の理工系への転換をはじめ、大学・専門学校等の大規模な転換・整理・統合を実施した。これにより文科系学校入学定員の大幅な縮小、理工系学校の整備・拡充が進められた。十九年度には学生生徒の通年動員が実行され、学校施設が軍需工場・軍事施設や緊急用途の施設などに転用される場合もあった。二十年三月の閣議決定「決戦教育措置要綱」により、国民学校初等科を除くすべての学校の授業が同年四月から停止され、すべて動員任務に従事することとなって、学生たちの消えたキャンパスのまま終戦を迎えるのであった。

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