第一節 初等教育

小学校の改良と義務教育年限延長問題

 臨時教育会議では初等教育について、義務教育費国庫負担問題のほか道徳教育や体育の重視、詰め込み主義や画一化の是正など教育内容・方法の改善が論議された。これを受けて、大正八年理科と地理・日本歴史を重視する教科課程の改正が実施され、また国定教科書においても国際協調を盛り込み、国語読本の複数種が刊行されて選択の余地が与えられるなどの措置がとられた。文部省は昭和二年に「児童生徒ノ個性尊重及職業指導ニ関スル件」を訓令し、児童生徒の個性に即した学習指導と進路指導とを進めることとした。

 大正七年市町村義務教育費国庫負担法が公布され、尋常小学校への財政支援が拡大された。さらに、昭和三年学齢児童就学奨励規程が制定され、貧困のために就学困難な児童に対する援助措置が成立するなど、経済不況の続く中で初等教育の維持・発展を図る方策が様々に採用された。

 他方、国内の経済社会体制の展開と第一次世界大戦後の国際的な教育改革動向とに対応して、義務教育年限延長の必要が論じられるようになった。臨時教育会議では時期尚早としたが、大正十三年高等小学校の義務制化による義務教育八年制が構想され文政審議会に諮問されたものの内閣の更迭により撤回された。昭和十一年文部省は義務教育八年制を十三年度を期して施行する計画を公表したが、これも内閣の更迭により未発にとどまった。

高等小学校の改革

 初等教育の発展と産業の高度化による質の高い労働力への需要増大とを反映して、高等小学校への進学者は増加の一途をたどった。そこで大正十五(昭和元)年四月小学校令及び同令施行規則の改正により、高等小学校の性格にかかわる重要な改革が行われた。教育内容面では、農業・工業・商業の一又は数科目から成る実業と女子には家事とをそれぞれ必修とし、また算術に珠算と代数及び幾何の初歩とを加え、教員配置については学級担任制に加えて教科担任制をも導入し得ることとした。これは、高等小学校の完成教育機関としての性格を明確にし、卒業後の実務生活への準備教育を強めようとしたものであった。

国民学校の成立

 昭和十六年三月、教育審議会の答申に基づき小学校令を改正して国民学校令が公布され、同年四月一日から施行された。明治初年以来我が国の初等教育学校の名称として用いられてきた「小学校」に代わって「国民学校」が登場した。国民学校では「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とし、皇国主義的な教育観を鮮明にしたが、同時に国際的な改革動向をも踏まえ懸案の打開を目指して、次のような制度改正を行った。国民学校の課程を初等科六年・高等科二年とし、高等科修了者のために特修科一年を置き得るとし、義務就学期間を国民学校全課程八年とした。ただしその施行は昭和十九年四月からとした。就学義務の免除・猶予事由から「貧困」を除く一方、養護学級・養護学校の設置を認め、就学機会の拡大を図った。また、家庭において就学義務を履行し得る従来の規定を廃止した。国民学校の設置主体を市町村又はその学校組合に限定した。高等師範学校・師範学校などの附属校は「国民学校」と称し得たが、私立校は私立学校令による学校とされ、国民学校と称することはできなかった。国民学校職員組織に新たに教頭と養護訓導とを置き、また校長・教頭を奏任待遇とすることができることとし、処遇の改善を図った。

教育内容・方法の改革

 国民学校の改革において最も注目されるものに、教育内容と方法の変革があった。

 教育課程において、従来の教科目が国民科・理数科・体錬科・芸能科・実業科の五「教科」に統合され、それらを構成する「科目」に位置付けられた。例えば、国体に対する信念の育成に直接関係する国民科には、修身・国語・国史・地理の四科目が、理数科には算数と理科が、芸能科には音楽・習字・図画・工作・裁縫・家事が、それぞれ配置された。これは、従来の教科目構成を見直し、「皇国民の錬成」という観点から新たに再編成したものであった。なお、理数科において「数理及自然ノ理法」の学習が強調され、芸能科音楽において輪唱・音楽鑑賞・器楽などが導入され、さらに低学年に「自然ノ観察」として理科教育が設置されたほか、第四学年では国史と地理とを統合した「郷土ノ観察」が設けられた。「算数」・「音楽」・「工作」など現在も用いられている科目名称は、このときに生まれたのであった。

 国定教科書制度は徹底され、郷土に関する図書や校歌・郷土歌などごく一部の教材を除いて、すべての教科書が国定によることとなった。昭和十六年度から使用開始された新教科書は、科目相互の有機的な教材連関を慎重に考慮し、児童に理解しやすいよう配慮した単元構成と表現を大胆に採用し、かつ明るい色調と装丁のもので、新鮮な印象を児童に与えた。

 教育方法上の基本概念として「錬成」が重視され、主知的な教授に偏することが戒められた。儀式・行事などの団体訓練が重視され、教授・訓練・養護を統合した「実践」的方法が求められた。また、映画や放送などの新しい教育メディアが活用されるようになった。

幼稚園令と幼児教育

 文政審議会の答申に基づいて、大正十五年四月幼稚園に関する最初の独立勅令である幼稚園令が公布された。それは、幼稚園の目的を「幼児ヲ保育シテ其ノ心身ヲ健全ニ発達セシメ善良ナル性情ヲ涵養シ家庭教育ヲ補フ」と規定し、家庭教育の補充としての機能を重視していた。入園児は、三歳以上六歳未満の幼児を原則とし、特別な場合には三歳未満も入園し得るとした。保育項目は、遊戯・唱歌・観察・談話・手技等とし、保母・園長の資格を定め、保母は原則として保母免許状を有するものとした。この幼稚園令により、幼稚園は昭和初期まで都市部を中心に著しく増加したが、当初に意図した家庭教育補充の性格は次第に薄められ、幼児教育機関としての性格を顕著にしていくことになっていった。

 教育審議会は簡易な季節的幼稚園の設立や保母養成の整備などを提唱したが、戦時体制下の生産増強が重視されるに伴い、幼稚園と保育所との一体化の機運が高まってきた。府県では、季節保育所や戦時保育所の設立が進められ、幼稚園をそれらに転用する事例が見られるようになった。既に昭和十六年十月文部省は学校防空対策の一環として、空襲の危険の切迫に伴い一定期間幼稚園の保育を停止することを示唆したが、十九年それは現実化した。空襲被災地域では幼稚園や戦時託児所の閉鎖が進められ、例えば東京都区部では二十年に幼稚園が皆無になってしまった。

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