二 第二次世界大戦下の教育

教育審議会等の教育改革方策

 昭和六年のいわゆる「満州事変」以後我が国の教育は戦争の影響を被り始めたが、教育全体の戦時体制化は十二年以降の日中戦争の拡大を契機に形作られ、戦局の激化に応じて二十年の終戦に至るまで著しく強められていった。

 戦時下の教育改革の基本構想を形作る上で大きな役割を果たしたのは、十二年十二月から十七年五月まで設置された教育審議会である。教育審議会は、さきの臨時教育会議などと同様に内閣総理大臣の諮問機関として設置され、初等教育・中等教育・高等教育・社会教育・教育行財政など広範な事項にわたって答申を提出した。教育審議会への諮問は、「教学刷新」の発展としての「皇国ノ道」を基本とする教育目的論の明確化とそれに基づく教育内容・方法の改革に重点が置かれていたが、これを審議していく過程において教育制度全体の改革へ進むこととなった。これらの改革方策は、十六年から十八年にかけて具体化されたが、戦局の転換による様々な条件の変化によって、答申の内容は必ずしもそのとおりには実施されず、提案のままにとどまったものも少なくなかった。

 教育審議会の廃止後、教育の更なる戦時体制化方策の立案が、十七年二月設置の大東亜建設審議会において行われることになった。そこでは、「大東亜共栄圏」建設を目指すという目的に沿った教育の方針・内容・方法などの運営が強調されるとともに、国防・産業・人口政策など国政全般の要請に対応した教育計画形成の必要性が提唱されており、総合国策計画の一環として教育政策が構想される端緒が生み出された。

戦時教育体制の進行

 日中戦争の全面化は国家総動員体制を必然化させたが、教育ももとよりその例外たり得なかった。戦争遂行のための志気の鼓舞や思想の統制、軍事要員にふさわしい教育・訓練、生産力増強のための技術技能教育などと並んで、総力戦の貫徹の必要から様々な教育上の合理化方策が採択された。

 昭和十四年五月「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が下賜され、文部大臣は同日その聖旨奉戴(たい)方を訓令した。この勅語の奉体方は、教育勅語と並んで重視された。

 教育審議会の答申に基づき十六年四月から国民学校令が施行され、小学校は国民学校に改編され国民学校高等科修了までの八年間が義務就学期間とされた。教育課程には教科の統合制が採用され、教科書の内容も一新された。続いて、十八年には中等学校令が制定され、師範教育令・高等学校令などが改正された。中等学校令は、従来それぞれ別の勅令により規定されていた中学校・高等女学校・実業学校を同格の学校と定め、修業年限を四年に改め、教科書を国定制とした。なお、青年学校の男子生徒について十四年から学年進行により、本科修了までの七年間を義務就学制とした。改正師範教育令は、師範学校をすべて官立に移管して三年制の専門学校程度とし、教科書を国定制に改めた。十九年には師範教育令が改正され青年学校教員の養成に当たる青年師範学校が新設された。高等学校と大学予科については、修業年限が二年に短縮され、学科課程は量・質ともに大幅に改訂された。ただし、教育審議会答申に見られた女子高等学校・女子大学などの設立は見送られた。また、永年の課題であった国の援助による公的な育英制度が、十八年大日本育英会の発足により実現することとなった。

戦争の破局と教育

 戦局の激化は学生生徒の動員、中等・高等教育機関の修業年限短縮を必須とし、教育資材の欠乏とあいまって、上述の教育改革の実現を妨げる結果となった。

 文部省は昭和十三年六月集団的勤労作業運動の実施を指示したが、翌年度からは恒久化し十六年度には年間三十日以内となり、十八年には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」により、勤労動員は「教育実践ノ一環」として一学年の三分の一程度実施されることになった。戦局の悪化が決定的となる十九年には「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」により「勤労即教育」「行学一体」の見地をもって通年動員体制が決定され、同年四月から中等学校以上のすべての学校における教室内での授業は事実上停止されて、学生生徒は軍需工場での生産活動又は農村での援農活動に動員された。二十年三月「決戦教育措置要綱」により、同年四月から向こう一年間国民学校初等科を除くすべての学校の授業を停止することとした。

 高等教育機関に対する修業年限の臨時短縮は十六年十月勅令により可能となり、まず同年度大学・専門学校等の卒業予定者に付き三か月、十七年度以後十九年度まで高等学校高等科・大学予科を含めて卒業予定者に付き六か月、それぞれ短縮した。なお、十八年度からは高等学校・大学予科について修業年限自体が一年間短縮された。また、十九年度から実施予定だった義務教育年限の二年延長も、十八年「教育ニ関スル戦時非常措置方策」により実施延期とされた。

 兵力不足を補充するために、十八年十月勅令により大学・専門学校等の在学生に対する徴兵猶予の特典が取り消された。これにより、理工系など特に徴兵猶予が認められたものを除き壮丁年齢に達している学生生徒は、同年十二月から陸海軍人として一斉に召集された。「学徒出陣」と呼ばれたのがこれである。

 十八年の後半から、予想される空襲への対策として都市の建築物及び老人・子供の疎開が開始された。人員疎開の場合、当初は家族制度の崩壊を憂慮して縁故疎開が奨励されたが、十九年六月本土への大規模空襲が必至の状況となったので、閣議は国民学校初等科児童の集団疎開の実施を決定した。文部省は七月東京のほか全国の工業・軍事の中心都市一二を疎開都市に指定し、翌八月東京都区部の三~六学年生の集団疎開第一陣が出発した。翌二十年、疎開都市が追加されたほか、沖縄・種子島・小笠原などが疎開地域に指定された。空襲の拡大に伴って、学童疎開は、全国の中小都市にまで及んでいった。集団疎開に対する経費のうち、保護者の負担分を除いた純負担額に対して八割、受入れ諸費の全額を国庫が負担した。多くの疎開児童と付添い教員たちは、異郷の地で孤独と飢餓とに悩まされる苦難の日々を過ごしたのであった。

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