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第七節 教育行財政

創設直後の文部省の組織

 創設当初文部省の機構はしばしば変更された。それまで文部省の所掌事務であった出版の許認可事務や衛生行政事務が明治八年六月内務省に移管され、文部省は学務課・会計課・報告課のわずか三課構成になった。その間各大学区の教育を指導・監督するために督学局が置かれることになり、六年七月各大学区合併督学局を省内に設置し翌七年四月これを文部省の外局の督学局とした。また、六年六月文部省顧問(初め督務官、後に学監)として米国より招聘したダビッド・モルレーのために督務詰所を設け、後にそれを督学局に合併したが、十年督学局の廃止に伴い学監事務所が特設され、それも十一年十二月モルレーの解任により廃止された。

 教育令の下、十三年には官立学務局・地方学務局・編輯(しゅう)局・報告局・会計局・内記所の五局一所となり、翌年十月官立学務局を専門学務局、地方学務局を普通学務局と改称したが、太政官制末期の十八年学務一局、学務二局に再改称され、さらに内閣制の発足に伴いそれらは学務局に統合された。

 文部省は、文明開化の推進に資することを目指して、広報活動に力を尽くした。五年八月地方の学務担当官に文部省の行政意図を伝えるために「文部省日誌」を創刊し、翌六年三月新たな雑誌の出版を計画してその刊行をいったん中止した。しかし十一年四月復刊し、「官報」の発行を目前にした十六年二月その刊行は停止された。他方六年四月ごろから十六年四月ごろまで文部省は、教育関係者一般向けに「文部省雑誌」や「文部省報告」を刊行した。「文部省雑誌」は九年四月「教育雑誌」、十五年十二月「文部省教育雑誌」へとそれぞれ改称されたが、日本最初の教育雑誌であり、「教育雑誌」と改題されてからは特にその誌面の多くを海外教育情報の紹介に当てていた。また、六年度分から「文部省年報」が刊行された。これは、文部省の年間活動状況と日本全国の教育状況とを記録した公式の年次報告書である。第二年報(明治七年度版)から第五十九年報(昭和六年度版)まで、少数部数ながら英文版も刊行され、海外諸国に我が国教育近代化の進展状況を知らせたのであった。

内閣制下の文部省の組織

 近い将来の立憲制発足を見越して政府の行政権限の強化を目途に、明治十八年十二月太政官制に代わり内閣制が採用された。内閣の一員としての国務大臣であるとともに、教育文化行政機関としての文部省の長でもある文部大臣が設置され、初代文部大臣には国際通の開明主義者として著名な森有礼が起用された。

 内閣制度施行当初の文部省の機構は、大臣官房・総務局・学務局・編輯局・会計局から成っていたが、二十年学務局が再び専門学務局と普通学務局とに分かれた。その後編輯局、総務局、会計局などが行政整理によって廃止され二十四年には大臣官房のほかは、専門学務局と普通学務局との二局だけとなった。三十年に専門学務局を高等学務局と改称し新たに実業学務局と図書局とを設置したが、翌年には旧に復されてしまった。三十三年に実業学務局、四十四年には図書局が、それぞれ復活されたが、大正二年には再度その両局は廃止となり、代わって宗教局が新設されるという目まぐるしいばかりの変動が続いた。

 視学制度は内閣制度施行以降の文部省において確立された。明治十年督学局の廃止以来文部省には督学や視学の職が設けられなかったが、十八年からは全国を五地方部に分かち省内の視学部に視学官五人を置き、各地方部の教育視察と指導とを分担させることとした。二十四年からは視学部に視学官のほか視学委員を置くこととし、二十六年視学規程を定めて視学官・視学委員の職務内容を明確にした。この後視学官の定員は行政整理の影響を受けて変動するが、三十二年視学官及視学特別任用令を公布し文部省をはじめ府県などの視学官・視学委員・視学などの任用上の資格条件を定めた。四十一年には文部省視学官及文部省視学委員職務規程が定められた。大正二年従来の文部省の視学官が督学官と改称され、三年文部省督学官及文部省視学委員視察規程が新たに制定された。

 明治後半期からの教育政策立案手続きに、一つの重要な変化が現れてきた。それは、立憲体制の発足と照応して教育政策の形成を省内の協議にゆだねるだけではなく、広く「公議」を組み込みつつ推進しようという動向である。

 文部省が教育政策立案を諮問する合議制機関の設立を検討し始めたのは明治二十五年ごろからであり、「教育高等会議」「高等教育会」などの構想が検討された末、二十九年十二月高等教育会議規則が公布され、翌三十年七月第一回会議が開催された。ここに我が国最初の文部大臣の教育施策に関する諮問機関が設置された。当初の議員はほとんどが文部省関係者であったが、その後三回にわたって規則が改正され、議員の範囲が軍人・他省庁関係者・私学関係者・学識経験者などへと拡大され、諮問事項の範囲も広げられた。大正二年六月教育調査会官制が公布され、高等教育会議に代わって、文部大臣の諮問機関として教育調査会が設置された。この教育調査会は、学制改革問題の焦点とされた高等教育制度改革を中心的に審議したが、十分な結論が得られず、六年臨時教育会議にとって代わられることになった。

初期の地方教育行政

 先述のように「学制」では学区制が採用されたが、この学区は学校の設置単位であるとともに地域教育行政の区画でもあった。地方教育行政機関としては、大学区には督学局、中学区には学区取締が置かれたが、大学区は府県の連合から成り、中学区は府県区域内で区分されており、学区取締は地域の名望家層が地方官により選抜任命され、小学区は人口六〇〇人を基準とはしたものの二、三の小学区を連合した連区の方式を採る場合があり、小区又は町村を基礎に小学区の構成されることが多かった。したがって実際には、一般行政機関である府県と町村とが、教育行政の多くを担当していたのである。明治八年府県に学務課が設置され学務専任吏員が増員された。小学区には、戸長を助けて小学校の管理運営に当たる学校役員あるいは学校世話役が住民の間から選出された。

 教育令以降は、上述の実態に合わせて教育行政区画としての学区を廃し、教育行政機関と一般行政機関との一元化が進められていった。十一年七月郡区町村編成法、府県会規則、及び地方税規則のいわゆる地方三新法と十三年の区町村会法とに基づく地方制度改革により、府県、郡、区町村の機構が確定され、それに対応して従来の学区取締に代わって、「町村内ノ学校事務ヲ幹理」するために学務委員が置かれた。この学務委員は第一次教育令では「町村人民ノ選挙」によるとしたが、第二次教育令において「町村人民其定員ノ二倍若クハ三倍ヲ薦挙シ府知事県令其中ニ就テ之ヲ選任」するよう改正された。第三次教育令により学務委員制度は廃止され、町村の学校事務はすべて戸長が掌理することとなった。地方長官の教育行政に関する権限も第二次教育令以降強化された。十九年の小学校令にあっては小学校の設置区域やその位置までも「府知事県令ノ定ムル所ニ依ル」とされた。

地方制度の確立と地方教育行政

 立憲制の成立に前後して公布された市制及町村制(明治二十一年)及び府県制、郡制(同二十三年)によって戦前における我が国の地方行政制度の骨格が決定された。これに伴い二十三年第二次小学校令及び地方学事通則が公布され、地方教育行政の機構並びに地方団体及びその所掌事務などが詳細に規定され、戦前における我が国地方教育行政制度の基本的枠組みが成立した。

 この小学校令と地方学事通則とにより、教育は本来国の事務であり市町村は国からの委任によってその事務を行う責任があるものとされ、教育行政における文部大臣・府県知事・郡長・市町村長などの各権限と責任が具体的に規定された。初等中等教育の場合、教育の目的・教育課程・教科書・教員の服務などの原則的事項については文部大臣が権限を持ち、学校の設置と維持・教員への給与等・学務委員及び郡視学の教育事務などの経費については、地方団体がそれぞれ分担して責任を持つとされた。府県の教育行政は、府県知事が文部大臣の指揮監督を受けて管掌したが、その補助機関は地方官官制等により規定され、当初の十九年には第二部学務課としその課長は尋常師範学校長が兼任し得るとした。その後、二十三年には内務部第三課となって課長は行政官専務に復したが、三十二年課長には道府県視学官を充てることとなった。三十八年学務専管の第二部が設置されたが、四十年には再び内務部中の一課に戻るなど、しばしば変転した。郡長は、府県知事の指揮監督を受けてその郡内の教育行政事務について町村長を指揮監督するとし、その補助機関として第二次小学校令により郡視学が置かれた。

 郡視学は各郡に一名、府県知事の任命により置かれ「郡長ノ指揮命令ヲウケテ郡内ノ教育事務ヲ監督ス」るものであった。給与その他の報酬は郡から支給され、当初の身分は官吏待遇であったが、三十二年に地方官として位置付けられた。府県には三十年地方視学が初めて設置された。それは全国一〇〇人を定員とし「地方長官ノ指揮ヲ承ケ小学教育二属スル学事ノ視察ヲ掌ル」として任用資格に一定の制限が設けられた。三十二年道府県に新たに視学官と視学とが置かれた。視学官は「上官ノ命ヲ承ケ学事ノ視察其ノ他学事ニ関スル事務ヲ掌ル」とし、また視学官は内務部第三課の課長を兼務することとされた。視学は「上官ノ指揮ヲ承ケ学事ノ視察其ノ他学事ニ関スル庶務ニ従事ス」るものとされた。府県の視学官・視学は、文部省視学官などと同じく、同年公布の視学官及視学特別任用令によりその任用資格が定められた。なお、地方官でありながら視学官・視学の俸給等は当初は内務省予算ではなく文部省予算に計上されていたが、三十五年度以降は内務省予算に移された。三十八年に視学官がいったん廃止されたが、大正二年理事官をもって充てることにより復活された。

 市町村長は国からの委任事務として教育事務を担当することになり、第二次小学校令によって教育事務に関する市町村長の補助機関として学務委員が置かれた。学務委員には小学校の男性教員を加えることとされたが、通常は小学校長や地域の名望家が選ばれた。

初期の教育財政

 「学制」においては教育費の受益者負担の立場から授業料徴収制を原則とした。大学校で月七円五〇銭、中学校で月五円五〇銭、小学校で月五〇銭という極めて高額な規定を設けたが、学校の普及のためにそれらが実行され得るはずはなく、実際には小学校の場合、約半数が授業料を徴収せず、徴収する際にも月一~三銭程度の少額にとどまっていた。

 教育の普及が最大の急務とされていたから、文部省は学区の経費を補助するために、府県を通じて小学委托(たく)金(明治十年小学補助金と改称)を支出したが、国庫の乏しい当時それは公学費総額の一〇%内外を占めるに過ぎなかった。教育費の多くは学区内集金を主とする民費に頼らざるを得なかった。この学区内集金の方法には、区内住民に個別割当てをする一種の教育税的な方式と住民からの寄附金方式とがあり、そこには地域住民の学校に対する意識の差異が反映されていた。当時の国民の経済負担能力にとってこの学費負担は過重にならざるを得なかったので、地租改正・徴兵令など新政府の政策への反発と絡み合って、就学拒否あるいは学校閉鎖、学校焼き討ちなどの事態を招来させたことがあった。

 教育令では、町村又は町村連合を学校設置単位とし財政負担能力を高める一方、巡回授業や家庭教育の承認などの経費節減策を考慮した。しかし、国庫支出の削減により小学補助金は明治十四年度で打ち切りとなり、また経済不況が深刻化したので、第三次教育令により小学校のほか簡易な小学教場を認めるなどの措置がとられ、さらに十九年の小学校令では正規の小学校は授業料や寄附金によって基本的に維持し、区町村費からの支出はその不足分に限られることと定められ、小学簡易科は全額公費負担とされた。この授業料徴収制の徹底により、この時期就学状況は著しく低下することになった。

教育財政の改善

 第二次小学校令の実施により小学校経費は市町村の負担とされた。授業料徴収は基本的に維持されたが、それは市町村の手数料収入に位置付けられた。明治二十六年財政力ある市町村に限り授業料徴収を停止することができるようになった。

 他方、公学費の多くを占める初等教育費が市町村の負担となったために、義務教育制度の整備とともに市町村の財政負担が過重化して、義務教育費への国庫補助の復活が求められるようになった。二十九年教育界の念願であった小学校教育費への国庫補助が、教員の年功加俸を対象に十五年振りに復活した。市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法がそれである。次いで三十二年、議員立法により小学校教育費一般を対象とする小学校教育費国庫補助法が成立したが、その施行に先立ち翌三十三年政府はこの補助法と教員年功加俸国庫補助法とを一体化して新たに市町村立小学校教育費国庫補助法を公布した。

 これらと併行して三十三年第三次小学校令により尋常小学校の授業料が原則として廃止され、義務教育における授業料非徴収制が広く実現した。なお、三十二年には日清戦争で獲得した清国からの賠償金の約三%に当たる一、〇〇〇万円をもって教育基金特別会計法が成立し、その利子を毎年普通教育費の補助に充てることとした。しかし日露戦争が始まってこの基金の原資は軍事費に転用され、代わって国庫からその利子相当金額が普通教育費に支出された。

 このように、義務教育費への国庫補助措置が進められたにもかかわらず、義務教育年限の延長などの制度の拡充に伴って、町村歳出に占める教育費の比率は高まる一方であり、明治末には四〇%を上回るに至り、義務教育費の国庫負担が要望されるようになった。

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