第六節 社会教育

草創期の社会教育

 文部省は創設以来、近代学校制度の建設に重点を置いたために、当初、社会教育の施策としては、わずかに、東京に図書館(書籍館)と博物館とを設立したにとどまった。

 明治五年文部省が設立した書籍館は、博覧会事務局や東京府に管轄が移ったこともあったが、十三年文部省の所管に復帰し東京図書館と改称し、三十年欧米諸国における国立図書館制度に倣って制定された帝国図書館令により、帝国図書館に改組された。

 教育令において初めて書籍館(図書館)を教育施設として学校とともに掲げたが、施策上の力点が学校にあったからその普及ははかばかしくなかった。第二次小学校令は図書館をその規定の中に加え、その制度化への方向を示した。三十二年図書館令が公布され、公立・私立の図書館に関する基本法制が示されたが、これは図書館のみならず、社会教育施設に関する最初の独立法規となったのである。これによって、公共図書館は急速に発達し、三十二年から大正五年までの十七年間に約三〇倍に増加した。

 博物館は殖産興業を目指す社会教育施設として早くから計画されていた。四年創設直後の文部省に博物局が置かれ、翌五年博覧会を開催するなどの活動を展開したが、いったん博覧会事務局に吸収された後、八年独立して東京博物館と改称、十年上野に移築して教育博物館と称した。同じ八年に博覧会事務局も内務省所管の博物館に改編され、ここに官立の二系統の博物館が存在するようになった。後者の博物館は十四年内務省から新設の農商務省へ、更に十九年宮内省へと移管され、帝国博物館(二十二年)、帝室博物館(三十三年)へと改称された。明治後半には、大阪・京都などの府県にも公立の博物館が設置されるようになった。

通俗教育の振興

 明治三十年代まで社会教育施策は図書館・博物館を主体に進められてきたが、日露戦争後の社会の急速な近代化の進展に伴い本格的な社会教育の整備が課題とされた。それは、「通俗教育」の振興と青年団の育成とをめぐって着手された。

 「通俗教育」とは、当時社会教育に対して与えられた法制上の表現であり、既に内閣制度の発足に伴う文部省の機構改革の際、学務局第三課の所掌事務に師範学校・小学校などと並んで「通俗教育ニ係ル事」が初めて掲げられ、以後普通学務局が通俗教育に関する事務を担当した。

 四十四年通俗教育調査委員会官制と文芸委員会官制とが公布され、文部省のこの二つの委員会によって通俗教育政策の調査検討と優良な国民文学の奨励とが開始され、ここに文部省の社会教育施策は軌道に乗ることになった。大正二年通俗図書認定規程と幻燈映画及活動写真フィルム認定規程とが制定され、書籍のほか当時登場し始めた映画など新しい情報手段への指導と改善策とが施行された。

青年団の発足

 近世から存在していた若者組・若連中などの地域青年組織は明治以後廃止され、青年会・夜学会などの自主的な青年団体が形作られてきた。明治前半期にはそれらは自主性にゆだねられていたが、日露戦争以後政府は社会教育の一環としてその指導・育成に着目するようになった。三十八年まず内務省が府県に対し地方青年団体の向上発達に関して通達し、次いで同年文部省も同様に地方青年団体の指導と奨励について通達した。四十三年文部省は優良青年団を表彰するとともに、内務省と協力して大正四年九月内務・文部両省により青年団体の指導・奨励・発達に関する共同訓令を発した。

 翌五年には全国青年団体の連絡機関として、中央報徳会を母体に青年団中央部が東京に設立され、以後青年団組織の飛躍的な普及が見られるようになった。

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