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第二節 中等教育

中等教育の創設

 明治三年の「大学規則」「中小学規則」以来、我が国の教育制度は大・中・小の三段階構成をもって構想されてきた。「学制」もその例外ではない。しかしこの「中」の内容を確定するまでには長い年月と幾多の試行錯誤の過程を経なければならなかった。

 「学制」では、「中学」について「小学ヲ経タル生徒ニ普通ノ学科ヲ教ル所」と規定したが、他方、中学の設置単位である中学区の規模を小学区二一〇を合わせた人口約一三万人程度と定めており、ごく限定された学校として構想していたと言える。下等・上等の二段階から成る中学のほかに、工業学校・商業学校・農業学校や中学私塾なども中学の種類に加えており、中学に多義的な性格を与えていた。五年文部省は、普通の中学のための「中学教則略」と併行して大学や専門学校への進学者のために「外国教師ニテ教授スル中学教則」を制定した。

 しかし、「学制」から「教育令」にかけての時期における文部省の施策の重点は初等教育と高等教育とに置かれており、中等教育については地域民衆の自主性にゆだねる方策が採られた。中学校設置についての基準がなかったために、教員の資質や教育内容においても不完全なものが多かった。

 第二次教育令以降、「高等ナル普通学科ヲ授クル所」と規定された中学校の標準化が志向された。文部省は十四年七月「中学校教則大綱」を公布して中学校の制度上の性格と教育内容とを明確化し、特に、中学校を「中人以上ノ業務ニ就クカ為メ又ハ高等ノ学校ニ入ルカ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノ」と、併行する二つの目的を持つ学校と規定した。この併行目的規定はその後の我が国中等教育の性格に大きな影響を及ぼすことになった。次いで十七年「中学校通則」が公布され、中学校の教員配置や施設設備の基準が定められた。これらの準則の制定と併行して、従来の不完全な公私立中学校の整理方策が推進され、また十三年文部省は中学校のモデルとして大阪中学校を開設した。

 この整理方策を徹底させたのが、森文相の中学校政策である。十九年の中学校令において、中学校を尋常(五年)・高等(二年)の二段階に区分し、府県立尋常中学校を府県一校に限定し、区町村費による設立を禁じた。尋常中学校の教育課程は著しく整備され、選択科目ではあったが第二外国語(独語又は仏語)と農業とを置き、兵式体操(軍事教練)を含む体操を必須科目に加えた。少数の府県立尋常中学校を整備することにより、将来の中等教育制度の範型たらしめようと図ったのである。

女子中等教育の開始

 女子の中等教育程度の学校は、文部省が米国人女教師を招いて明治五年二月東京に開設した「女学校」(東京女学校)を嚆矢(こうし)とする。もっとも、女子にとっては学校教育自体がこのときから事実上開始されたため、当初は初等教育と中等教育との区分はさほど意識されていなかった。

 「学制」は女子の就学を保障し、小学校には少数とは言え女子が就学しており、十年代にはこれらの生徒の一部が中等教育へ進学し始めた。その場合、近くに女学校がなければ、中学校へ入学していた。十四年中学校教則大綱を公布した際、文部省は「中学校」は男子の学校であり、女子の教則については後日別に公布する旨を各府県に通知した。十五年東京女子師範学校附属高等女学校の設立に当たり女子中等教育を担う「高等女学校」の学科課程を示した。それは中学校に比して英語・数学・理科などの内容を簡略化し、修身・国語・裁縫・家事などを多く加えて成立しており、その後の高等女学校教育の原型を形作ることになった。この高等女学校を範型として、京都、栃木などいくつかの地域において公立女学校が設立された。

 当時の女子中等教育において、キリスト教主義学校も重要な役割を果たした。横浜・東京・長崎などの都市部に主に設立され、外国人女教師による外国語教育を通じて、女性の啓発に大きな貢献をなした。

中等学校の基本型の成立

 初等教育の制度的整備に連動して、明治二十年代後半から中等教育の制度形成が急速に進められた。二十四年中学校令の一部改正により、府県立中学校の一府県一校の制限が撤廃され郡市町村も中学校を設置し得ることになった。二十七年井上毅文相は尋常中学校の学科課程を改正して、第二外国語を廃し国語漢文を重視するとともに「実科」を置き得ることとし、さらに「実科」中心の実科中学校を設置し得るとした。実用化することにより中等教育を普及させようとするこの改革は、わずか一、二校の実科中学校が設けられたに過ぎず、不首尾に終わった。

 三十二年二月新たに中学校令(第二次中学校令)、高等女学校令、実業学校令が公布され、この後永く存続することになる我が国中等学校制度の基本構成が示された。

 既に十年代後半から制度化が開始され二十年代後半の井上文相の施策の下実態を形成し始めた実業学校は、この実業学校令により中等教育レベルの独自な学校制度として確立されたが、これによって従来の中学校目的規定における「実業ニ就カント欲シ又ハ高等ノ学校ニ入ラント欲スルモノニ須要ナル教育」の前半部分が実業学校に担われることにより、中学校は単に「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」と規定されることになった。

 高等中学校が既に高等学校と改編・改称されていたから、尋常中学校はこの中学校令を機に単に「中学校」と称されることになり、入学資格は従来どおり年齢十二歳以上・高等小学科二年修了(小学校入学後六学年経過)で、修業年限は五年とされた。三十四年に中学校令施行規則が制定され、教員資格に関する規定を除く中学校制度についての諸規則が包括され、翌三十五年中学校教授要目が制定され、諸学科目の教授内容の基準が示された。

 二十八年高等女学校規程が制定され、入学資格は尋常小学科四年卒業以上、修業年限は六年から三年とした。三十二年二月第二次中学校令と併行して公布された高等女学校令においては、中学校との対比において高等女学校の目的を「女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」と規定したが、高等女学校が当時の女子にとって文字どおりの「高等」教育機関であったという現実に支えられて、その教育の独自性は中学校に比してはるかに明確となった。中流以上の階層の女性に必要とされる教養と技能について、すなわち「良妻賢母タラシムル」教育が、その内容であると確認されたのである。高等女学校の入学資格は、先の「規程」を改めて中学校と同様の年齢十二歳以上・高等小学科二年修了としたが、修業年限は四年を原則として土地の事情により一年の伸縮を認めた。中学校よりも一、二年短縮されたのに対応して、その学科課程も漢文・英語・数学・理科などの内容が簡略化され、代わりに作法・国語・裁縫・家事などを重視する内容になっていた。中学校令の場合と同じく三十四年高等女学校令施行規則が、三十六年高等女学校教授要目が、それぞれ制定された。

 これらの中等教育制度改革の後、日清・日露両戦争を契機とする近代化の展開を反映して中学校、高等女学校ともに、急速に普及していく。高等女学校は特に目覚ましく、大正二年には学校数において中学校を上回った(中学校三一七校、高等女学校三三〇校)。適当な教育機会を与えられてこなかった女子に対して、高等女学校制度は有効に機能したと見ることができる。

 明治四十三年高等女学校令を部分改正して、家政科目を中心とした「実科」と「実科」だけから構成される実科高等女学校の設立を定めた。実科の修業年限は、入学資格によって三種に分かち、尋常小学校卒業程度の場合は四年、高等小学科一年修了程度は三年、高等小学科二年修了程度は二年とした。この高等女学校実科及び実科高等女学校は、地域の状況に対応して家政を主とする女子の実務教育の普及を目指したものであった。

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