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二 近代教育制度の確立と整備

初代文相森有礼の教育政策

 明治十八年十二月近い将来の立憲体制の発足に備えて政府の機能を強化するために、太政官制に代えて内閣制度が発足し、その最初の内閣において内閣総理大臣伊藤博文のもと文部大臣に森有礼が起用された。森は幕末に渡欧して以来、政府部内きっての欧米通の外交官として活躍する一方、福沢論吉らと明六社を創設するなど当時の最も著名な開明主義者の一人であり、元来教育に深い関心を持っていた。

 十七年以来文部省御用掛の任にあった森は、文相に就任するや再改正されたばかりの教育令を廃止し、十九年学校種別にそれぞれの学校令を制定して、今後の国家及び社会の発展動向に柔軟に対応し得る教育制度の構築を期した。帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令、及び諸学校通則など五種の学校令を公布した。それらにおいては、東京大学を軸とし他の官省設立の専門教育機関を統合した帝国大学を設置し(帝国大学令)、それへの入学者を育成する高等中学校を全国に五校設け、各府県一校の公立尋常中学校と(中学校令)、各郡一、二校の高等小学校と各町村の尋常小学校とを配して(小学校令)、国民教育の基盤の上に各段階の学校制度を体系付けたことと、教員養成制度については、高等師範学校(全国に一校、官立)、尋常師範学校(府県に各一校、府県立)の二段階から成る独自の師範学校制度を設立したことが、注目に値する。また、森文相は開明主義の立場から従前の儒教的徳育中心主義を批判し、体育による集団性と知育による合理性とを基盤とした社会的倫理性の形成を重視した。海外生活の経験から当時の我が国の国際的位置を向上させるために、教育による愛国心の育成を特に重視し、その手段として学校における軍隊式教育や軍事訓練を積極的に奨励した。このほか、男女平等的な観点から女子教育を重んじ、効率性を高める学校管理(学校経済主義)や教育費の受益者負担方式を広く採用するなど、異色の方策を展開した。

 森文相の死後、二十三年十月には新しい小学校令が、二十七年には高等学校令が公布され、また三十年代には、中等学校についても新しい諸学校令が公布され、さらに高等教育の部門も整備されて近代学校制度の完成を見ることになった。このように近代学校制度の完成までには、なお幾つかの改革がなされなければならなかったが、十九年における諸学校令によって成立した制度を大観すると、この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された我が国学校制度の基礎を確立したものである。

立憲制と教育勅語

 大日本帝国憲法の発布により、我が国は非欧米世界における最初の立憲制国家を形成することになった。公教育を含む国政の全般が憲法の規定に従って運営されることになったのだが、この憲法では直接教育に関する条文は設けられず、天皇の大権事項中の「臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ」発する「必要ナル命令」の中に教育が含まれているとされた。これにより、憲法上の立法事項以外の教育に関する基本事項は勅令により規定されるという、教育法規の勅令主義方式が成立することとなった。

 立憲制成立への対応措置として、政府は徳育方針の確定化を軸として「学制」以来の公教育理念を一定化し、国家体制の安定的な発展を期すこととした。議会の開設を前にして、時の総理大臣山県有朋は、軍内部の思想統一に貢献した「軍人勅諭」(明治十五年)に倣って教育の根本を勅諭で定めることが必要であると考えた。二十三年二月地方長官会議が政府に提出した「徳育涵(かん)養ノ義ニ付建議」を契機として、徳育の基礎となる箴(しん)言の起草が始められた。文相芳川顕正は帝国大学教授中村正直にその起草を依頼したが、その案文を閲読した法制局長官井上毅は、枢密顧問官元田永孚と協力しつつ、自ら「徳教ニ関スル勅論」の起草に当たった。井上案を骨子とした「教育ニ関スル勅語」は、国務大臣の副署を付さない勅語の形式で、二十三年十月三十日宮中において芳川文相に下賜された。文相は翌三十一日その奉承方を訓示し、二十四年二月ごろまでにその謄本を全国の学校に交付した。各学校では奉読式を挙行し、以後国家の祝祭日などにおいて、前後して公立学校に下賜され始めた「御真影」(天皇・皇后両陛下の公式肖像写真)への拝礼とこの教育勅語の奉読とを主内容とする、厳粛な学校儀式を挙げることとした。

 教育勅語は、本文三一五字の短文であるが、これが発布されると、国民道徳及び国民教育の基本とされ、やがて国家の精神的支柱として重大な役割を果たすこととなった。

日清戦争前後の教育

 森文政の末期に立憲制や地方自治制の成立を前提とした諸学校令の改正が計画され、明治二十三年前半には文部省内で小学校令・中学校令・師範学校令・専門学校令・大学令の五学校令案が準備された。しかし教育勅語の発布に代表されるような新たな政策動向の下でこの構想は根本的に再検討されることとなり、地方制度の確立に伴って改編が不可欠とされた小学校制度について当面まず改正し、他の学校制度は明治二十年代を通じて逐次再編成する方策が採られた。

 小学校令は二十三年十月に公布されたが、これは森文相期の小学校令を廃止して新たに制定し直したものであり、地方自治制と教育との法制的関係を明確にするとともに、小学校制度の全般的な整備を図ったものである。教育は本来国の事務であり、自治体は国からの委任により小学校の維持や管理に当たるとされた。翌二十四年中に施行上の諸細則が数多く整えられ、この第二次小学校令は二十五年四月を期して実施されたが、これにより小学校は制度的に一新されることになった。次いで二十四年に中学校令が部分改正され、府県立中学校の一府県一校の制限が廃されたほか、高等女学校が中学校の一種として制度的に確認された。二十五年に師範学校に関する諸規則が一括改正されてその教員養成学校としての独自性が確定化された。

 これらの改革の進行過程において、二十六年三月文相に就任した井上毅は特色ある改革を実施した。当時は、経済不況がほぼ収まって「企業勃(ぼつ)興」を迎えた時期であった。産業革命の前哨(しょう)をなすこの動向に沿って井上は、実用に即する人材を育成する観点から、教育制度全体の改革を図った。実業補習学校・徒弟学校・簡易農学校などの実業学校を制度化するとともに、その発展を財政的に支えるための実業教育費国庫補助法を成立させた。さらに、中学校教育において実科中学校の制度を設け、高等教育においても専門教育を普及するために、従来の高等中学校を専門教育を本体とする高等学校に改編した。一方、帝国大学令を大幅に改正し、その専門研究と教育との効率化のために、専門分野を明確化させた講座制を採用し、当時既に慣行化しつつあった教授会の権限を公認して大学の自治を法制化した。我が国における資本主義社会体制の成立を間近にしてのこの改革は、近代教育制度の基盤形成にとっての先触れの役割を果たしたと見ることができる。

学校制度の整備

 明治二十年代末から三十年代にかけて産業革命の急速な進行に伴い、「学制」以来教育関係者が創設に努力してきた近代教育は、ようやく社会的にも受容され定着を見るに至った。

 二十九年に小学校教育費への国庫補助金が十五年振りに復活したが、日清戦争で得た賠償金の約三%を教育基金としその利子を普通教育費に充てることとした後、三十三年には市町村立小学校教育費国庫補助法が公布され、義務教育費に対する国庫補助制度が整えられていった。

 小学校令は、三十三年に全面改正され、四年制で単一な内容から成り無償制を原則とする義務教育制度がここに確立するに至った。この第三次小学校令は、以後法制として昭和十六年の国民学校令まで約四十年間存続することとなるが、それは戦前における初等教育制度の基本がこの時に確立されたことを意味している。このような法制の確立と併行して、就学率も明治三十五年に男女平均で初めて九〇%を上回り、国民皆学の実態が生み出された。

 三十三年改正の際に構想されながらも実施を見送られた事項中に、義務教育年限の六年への延長と、小学校用教科書の文部省編纂(さん)による全国統一化とがあった。前者は、社会の近代化に対応して国民の知的技能的水準の向上を図るために必要とされたが、市町村の財政能力への懸念からなかなか実施に踏み切れず、日露戦争後の四十年に至ってようやく実現され、翌年度から逐年実施された。小学校教科書をめぐっては、かねてより府県での採択をめぐる贈収賄や不正問題が指摘されてきていた。その是正のために文部省は、学校単位での自由採択制の採用を考慮したこともあったが、三十五年十二月教科書採択をめぐる贈収賄事件が全国規模で摘発されたのを機として、三十六年小学校令を一部改正し、帝国議会からもしばしば要望されていた教科書の文部省による編纂、いわゆる国定教科書制度を三十七年度以後実施することとした。

 中等教育制度は明治三十年代以降に大きな展開を遂げた。既に井上文相期に実業学校制度が形成され、二十八年には高等女学校についての初めての独立法規である高等女学校規程が公布されていたが、三十二年二月男子の高等普通教育を行う中学校令、女子の高等普通教育を行う高等女学校令、及び諸実業学校を包括する実業学校令の三勅令が公布され、これにより第二次大戦終了時までの中等学校制度の基本型が成立した。

 高等教育においては、井上文相期に専門教育を軸とする地方大学として考案された高等学校が、予期に反して帝国大学への進学準備教育としての大学予科主体となってしまったので、文部省は三十六年新たに専門学校令を公布し、帝国大学以外の既に成立している専門教育機関を学校制度体系に位置付けた。これにより数多くの官公私立の専門学校が出現したが、帝国大学との制度上の格差をめぐって論議を呼ぶこととなり、高等学校の性格付けとともに、学制改革論の中心的論点とされた。なお、人材需要の高まりにこたえて、三十年京都に帝国大学が増設され、以後四十年仙台に東北帝国大学、四十四年福岡に九州帝国大学がそれぞれ設置された。

 教員養成をめぐっては、三十年師範学校令を廃止して新たに師範教育令が公布される一方、従来の高等師範学校、女子高等師範学校(共に東京)に加えて三十五年に広島高等師範学校、四十一年に奈良女子高等師範学校がそれぞれ設置され、また三十五年に臨時教員養成所制度が発足し、急増する中等学校、教員需要にこたえることとした。

 こうして、初等教育から高等教育まで近代学校制度の構築が、「学制」公布以来約四十年を経たこの期に至って定着を見ることになったのである。

教育諸施策の近代化動向

 従来小学校令に法令的根拠を持つに過ぎなかった図書館について、明治三十二年に独立の図書館令が公布され、次いで青年団の振興について文部大臣訓令が発せられ、四十四年省内に通俗教育調査委員会が設置されるなど、学校制度形成の陰で十分展開されなかった社会教育についての政策の進展が見られるようになった。

 学制改革論の盛行とあいまって、教育政策の形成に当たり、合議制機関の審議にゆだねることにより社会の広範な合意を得ることが望ましいと考えられるようになった。既にこれは井上文相期に構想されていたが、二十九年文部大臣の教育政策諮問機関として「高等教育会議」が初めて設置され、三十年代から大正初期にかけての重要な教育制度改革は多くこの会議の審議を経て実施された。この後も、短期間の中断はあるものの、内閣又は文部省に設けられた審議機関に教育政策の立案を諮問することが慣例化された。

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