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一 近代教育制度の創始

文部省の創設

 明治四年七月の廃藩置県は、幕藩体制を一掃して統一国家体制を創出した、明治維新における最大の政治改革の一つであったが、そのわずか四日後の七月十八日に文部省は設置された。

 従来の大学に代わって設置された文部省の職務は、全国の教育事務を「総判」し大中小学校を「管」すること、つまり学校を所管するだけではなく、全国の教育行政事務を総轄することと規定された。設置と同時に最初の文部大輔(後の文部事務次官に相当)に江藤新平が任命され、七月二十八日に就任した初代の文部卿(きょう)(後の文部大臣に相当)の大木喬任と協力して省内の職制や職掌の大綱等を定め新進有為の洋学を学んだ人材を集めて、文部省の基礎を固めた。

 大学の廃止と文部省の設置に伴い、従前の大学南校・大学東校は単に「南校」「東校」と改称された。また、府県の設置・改廃が一段落した四年十一月、太政官は改めて府県の学校が今後すべて文部省の管轄に属することを達した。同年十二月文部省は従前の東京府の六小学校を「共立」小学校に改編することを達したが、そこでは、「開化日ニ隆ク、文明月ニ盛ニ、人々其業ニ安シ其家ヲ保ツ所以ノ者、各其才能技芸ヲ生長スルニ由ル、是学校ノ設アル所以ニシテ、人々学ハサルヲ得サル者ナリ」と、後の「学制序文」の思想に連なる啓発的な学校観が表出されていた。

 文部省は直ちに全国規模の学校制度構想の立案に着手した。欧米学校制度に関する法規や文献の翻訳・調査に従事する一方、四年十二月箕作麟祥、内田正雄などの著名な洋学者を主体として、これに国漢学者の木村正辞、長ひかる(三洲)を加えた一二人の「学制取調掛」を任命して、学校制度法令の起草に当たらせた。その構成からしても、ここに立案される学校制度計画が欧米のそれをモデルとしていることは明らかであった。立案・起草は急速に進められ、翌明治五年八月我が国最初の全国規模の近代教育法令である「学制」として公布されるに至った。

学制の公布

 我が国の近代教育は、明治五年八月公布の「学制」により開始された。しかし欧米において形成されてきた近代教育を、歴史的文化的な伝統と風土を異にする東アジアの一角に定着させようとする前人未到の試みが一応の成功を見るまでには、当然のことながら、模索と試行の苦難の道をたどらなければならなかった。

 「学制」案の大綱は五年一月上旬に、その大綱に基づく条文案は三月に、それぞれ太政官へ上申された。「学制取調掛」の発令から約三か月で「学制」の原案が成立したことになる。ところが、太政官において、財政支出の増大を恐れる大蔵省の批判や、右大臣岩倉具視を特命全権大使とする遣外使節団の派遣中には重大な内政改革を行わないとする政府部内での取決めに反するという異論などが提出されて、確定は遅れた。学区補助のための国庫からの府県委托(たく)金額未定のまま、ようやく六月下旬に太政官の認可を得、七月付けで印刷され、五年八月二日(一八七二年九月四日)「学制」の趣旨を分かりやすく説明した太政官布告第二百十四号(当時「学制序文」と通称された)が発せられ、続いて翌三日(九月五日)文部省布達第十三号及び第十四号をもって「学制」が公布された。

 この「学制序文」は、従来の封建制下の教育の在り方を強く批判して、個人主義、実学主義などの教育を標傍(ぼう)し、基礎的な学校教育をすべての人々に付与しようとする制度構想とそれへの民衆の自発的参加を促していることにおいて、優れて近代的な教育宣言であったと見ることができる。

 人々の立身・治産・昌(しょう)業に役立つ教育を組織するところが学校であり、そこでの教育の内容は「日用常行言語書算」をはじめおよそ「人の営むところの事」すべてにわたるものであるとし、「自今以後一般の人民華士族卒農工商及婦女子必す邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」と述べている。さらに、「身を立るの基」であるこの教育に対し、民衆の自発的参加と教育費の受益者負担を原則とする方針とを示した。

 「学制」本文においては、全国を八大学区に分け各大学区に大学校一校を、一大学区を三二中学区に分け各中学区に中学校一校を、更に一中学区を二一〇小学区に分けて各小学区に小学校一校を、それぞれ置くとした。全国に大学校八、中学校二五六、小学校五万三、七六〇を設置しようという壮大な計画であった。もっとも、この八大学区は、翌六年四月七大学区に改正されて実施された。

 学区は学校の設置単位であるとともに地方教育行政組織でもあった。大学区には各本部ごとに督学局を置きその督学が文部省の意向を体して地方官と協議の上区内の教育行政を担当し、各中学区には地方官の任命する「学区取締」を置き、各取締は分担した小学区内の就学督励や学校の設立・維持などの監督・指導に当たることとした。

 学校制度は、学区制に基づき大学校・中学校・小学校の三種から成るとされたが、それらが基本的に身分・階層の別なくすべての国民に開放された単一の体系を採ったことは、当時米国を除けば国際的にもほとんど例を見ない画期的な特徴であった。小学校は各四年制の下等小学と上等小学とから成る尋常小学を本体とし、中学校は各三年制の下等中学と上等中学を本体とし、大学校は理学・文学・法学・医学の四科を置くとされた。このほかに、小学校教員を養成する師範学校を規定し、また進級試験制度、海外留学生、学校財政などについても規定している。

 五年八月公布のこの「学制」は言わば初編に相当するものであって、翌六年三月から四月にかけて、海外留学生規則などを規定し直した「学制二編」、貸費生規則や学士称号などを規定した「学制追加」、及び専門学校を規定した「学制二編追加」などが逐次公布され、全文は二一三章(条)を数えた。

学制の施行

 「学制」は、明治六年から全国的に施行された。施行に当たっての力点は、国民全般を対象とする初等教育の普及と、欧米の技術的文化的水準へ急速に追い付くための高等教育の設立とに置かれていた。

 国としての初めての教育制度施行となった「学制」の場合、法制と現実とのギャップが著しかったのは当然であった。大学区は七つ設けられたが、独自の教育行政機能を果たし得ずに形骸(がい)化し、府県が地方教育行政の最高単位となった。小学校は府県当局と学区取締の督励によって、施行二年後の八年には全国に、ほぼ今日と同数の二万四、〇〇〇校以上が設立されたが、それは「学制」の規定の半数にも満たないものであった。封建制下とほとんど変わらない当時の経済社会の状況にあって公教育制度を組織するには困難が多く、強力な督励にもかかわらず、八年度の児童の就学状態は、名目で男女平均三五%、出席状況を勘案した実質では二六%程度に過ぎなかった。師範学校は、初等教育を整備する上で特に重要であるととらえられたので、文部省は「学制」公布前の五年五月東京に官立師範学校を創設し、米国人スコットを教師に招いて欧米での公教育教授法の伝習や教科書の翻訳編集などに着手し、次いで各大学区本部所在府県にも同様な官立師範学校を設立した。各府県でも師範講習所、養成校などをまず設立し、それらを充実させて府県立の師範学校へと改編していった。

 中等教育や高等教育については、「学制」施行とともに文部省は従来の東校を第一大学区医学校と改称したが、南校は第一大学区第一番中学とし「外国教師ニテ教授スル中学」に位置付けようとした。しかし翌六年四月専門教育を重んじて同校は開成学校に改編され(七年五月以降は東京開成学校)、ほぼ併行して公布された「学制二編追加」に規定されている専門学校としての充実を目指すこととなった。文部省は官費による海外留学生の派遣を進める一方、八年から千葉県市川に「真ノ大学校」の設立を計画し、併行して十年東京医学校と東京開成学校を合併して東京大学とした。地方でも中学校や医学校の設立を見たが、私塾や私学と同様に、各地方の自主性にゆだねられた。注目すべきことは、五年文部省が東京に女学校を設置したのを皮切りに、少数ながら史上初めて女学校が設けられたことである。そのほか、新しい技術や制度の導入を目指して、開拓使の札幌農学校、工部省の工部大学校、司法省の法学校など、それぞれの業務を担当する省庁にも専門教育機関が設立された。

教育令による試行錯誤

 最初の試みである「学制」は実施経験に基づいて早晩に改正されねばならなかった。明治六年に文部省の顧問として招聘(へい)された米国人ダビッド・モルレーと文部省の実質的責任者であった田中不二麻呂とが中心となって、十年ごろから「学制」の改正作業を開始し、翌十一年五月「日本教育令案」として太政官に上申した。これは参議伊藤博文により「教育令」案に修正され、元老院の審議を経て、十二年九月太政官布告として公布された。

 この教育令は、法制を現実に適合させ教育制度の定着を企図したもので、当面の課題である小学校制度についてその条文の多くを費やしていた。米国に倣って地方分権化により小学校制度の地域への定着を目指した文部省原案は、伊藤博文の修正により一層行政的規制が緩和されて公布されるに至った。地方制度の改革に対応して学区制を廃し一般行政単位に即して教育行政を行うこととしたが、町村の教育行政実務を担当する「学務委員」は住民の公選により任命されるとした。また、児童の小学校への就学の期間や条件を緩和し、公立小学校の教育課程の編成権を学務委員にゆだね、さらに私立学校の設置を勧奨するなど、従来の政策を大きく転換したので、当時この教育令は「自由教育令」と評されることがあった。

 「自由教育令」が施行されるや、各地で児童の就学率が低下し公立小学校を廃止して寺子屋風の私学に改編するなど、初等教育の後退現象が見られた。

 教育令公布前に政府上層部内で教育近代化政策をめぐり論争が発生していた。明治天皇の侍講元田永孚を中心とする保守派は、急激な近代化が社会秩序の混乱をもたらしているとして、教育の欧米化を批判し、伝統的な儒教道徳の教育を復活強化するよう提唱した。これに対して伊藤博文を中心とする政府の主流派は、初等教育での秩序意識の育成は認めつつも、高等教育を軸として欧米文化の摂取を内容とする近代化方策を基本的に堅持すべきだとした。十二年八月ごろ天皇の御意向として政府上層部に内示された元田起草の「教学聖旨」、同年九月上奏された伊藤の反駁(ばく)意見書「教育議」及び元田の上奏したそれへの反論「教育議附議」などが、この論争を代表している。

 十三年九月政府は教育令の改正に着手し、十二月それを公布した。この改正はほぼ全文にわたるもので、学務委員を府県官による任命制とし、小学校への就学の督励を強め、小学校教育課程(教則)や学校の設置・廃止などについて文部省及び府県当局の権限を強化するなど、一転して公教育制度に対する国の要求基準を明確化した。併行して文部省は、教員の言動に対する規制、教科書の取調べと認可制の実施、教則における儒教的徳育の重視などの方策を採用した。

 この改正教育令(第二次教育令)が施行上の諸細則の制定を待って実施された十四、五年以降、就学率は幾分上昇に転じ、教育課程の段階に即した教科書が成立し、また師範学校や中学校などの整備が進むとともに、実業学校や「高等女学校」など新しいタイプの学校が出現するなど、公教育の新展開が見られた。この改正は、言わば「学制」以来の地方の教育実態を一新させるほどの規模を持つものとなった。

 ところが、西南戦争の戦費処理に端を発した経済不況により、緒についたばかりの公教育は、停滞から後退を余儀なくされることとなった。財政危機に直面した公教育の最低水準を維持するために、教育令は再度改正された。十八年八月公布の再改正教育令(第三次教育令)は、教育費の節減に重点を置いて、簡易な初等教育機関として「小学教場」を設け、また学務委員制度を廃して戸長(後の町村長)に教育事務を担当させ、一般行政機関と教育行政機関との一体化を図った。

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