一 学術行政体制の改革と発展

新しい学術体制

 敗戦を契機として、学術体制についても民主的改革を求める運動がまき起こった。この運動は、昭和二十一年三月、学術研究会議部長会が、当時のわが国の学界の中心的な機関である帝国学士院(のち二十二年十二月、日本学士院と改称)、学術研究会議および日本学術振興会の三団体の改組案を文部大臣に建議したことを発端とし、二十四年一月「日本学術会議」の設立となって結実したものである。

 この間、種々のうよ曲折はあったが、二十二年八月、それ自身全国の各分野の研究者から民主的に選出された一〇八人の委員で構成する「学術体制刷新委員会」が成立し、政府は、わが国における新学術体制の立案について、同委員会に調査立案を委託することとなった。同委員会は、審議の結論を、二十三年四月、政府に報告したが、その骨子は次のとおりである。

 (一)わが国科学者の内外に対する代表機関として、新たに全国各分野の科学者から民主的に選出された二一〇人の会員で構成する日本学術会議を法律に基づいて設立すること。これに伴い、学術研究会議は廃止し、また、日本学士院は碩(せき)学優遇の栄誉機関として日本学術会議に含ませること。

 (二)内閣に科学技術行政協議会を設け、政府と日本学術会議との連絡および各省間の科学技術行政の連絡に当たらせること。それとともに、わが国における基本的諸科学の振興に対し責任を負うべき行政機構を整備・強化すること。

 (三)日本学術振興会は、私的性格を有する学術奨励団体として存置すること。

 学術体制刷新委員会の以上のような結論を尊重し、二十三年七月には「日本学術会議法」が制定され、約四万三、○○○人の科学者による前例のない大規模な選挙が行なわれ、二十四年一月、内閣総理大臣所轄のもとに日本学術会議が設けられた。また、「科学技術行政協議会」も同月、同じく総理大臣所轄のもとに設けられて、戦後わが国の基本的な学術体制はここに確立されることとなった。

 なお、二十二年七月から二十四年一月の間に、総司令部の招きにより、米国科学学士院の一行から成る学術顧問団、米国人文科学顧問団および米国科学使節団の三団体が来日したが、いずれも学術体制刷新委員会の立案に直接の影響を及ぼすことは避け、各地における視察、懇談あるいは調査報告書等を通じて、彼我の科学者の理解の増進に寄与した。

 その後、日本学術会議に附置する機関となった日本学士院については、その会員の選定に関する自主性の回復を主眼として日本学術会議から分離・独立しようとする要求が院内に高まり、日本学術会議もこれを了解するに至ったので、三十一年三月制定された「日本学士院法」によって、日本学士院は、「学術上功績顕著な科学者」を優遇するための機関として文部省の所轄機関となり、日本学術会議から独立するに至った。

 次に、科学技術行政の発展について付言する。三十一年五月、総理府の外局として新たに科学技術庁が設置された。これは、科学技術行政協議会、総理府原子力局等を吸収して、科学技術に関する行政を総合的に推進することを主たる任務とし、科学技術に関する基本的な政策の企画・立案、関係行政機関の科学技術に関する事務の総合調整等を行なう行政機関である。しかし、文部省の学術行政との調整から、その所掌に係る科学技術からは、人文科学のみに係るものおよび大学における研究に係るものは除かれている。次いで、三十四年二月、総理府の附属機関として科学技術会議が設置された。この会議は、科学技術に関する基本的・総合的な政策の樹立、長期的・総合的な研究目標の設定等の科学技術(人文科学のみに係るものを除く。)に関する重要事項について、関係行政機関の施策の総合調整を行なうために設置された内閣総理大臣の諮問機関である。これらの機関の設置は、わが国の産業・経済の発展と国民福祉の向上を図るため、いわゆる科学技術の振興に対する強い要請にこたえるものであったが、一方、学術研究それ自体の推進を主眼とし、人文科学をも含めて大学を中心とする学術研究を一体的に振興することを目的とする文部省の学術行政の施策と前述の科学技術振興の施策との間の調和調整を図るうえに、複雑な関係と問題がもたらされている。

文部省の学術行政機構の整備と学術行政の進展

 終戦当時、学術行政を所掌する文部省の内部部局は三課制の科学局であったが、昭和二十年九月技術院が廃止されるとともに、その機能および職員の一部を吸収して、二部六課制の科学教育局に拡大された。その後、科学教育局は、行政簡素化の線に沿い、二十一年一月、科学教育課、人文科学研究課、自然科学研究課および調査課(後に科学資料課と改称)の四課制に改組された。そのうち人文科学研究課は、戦時中、極端な言論の圧迫によって自由な発達を阻害されていたわが国の人文科学を積極的に振興しようとする意図から生まれたものであった。

 二十四年六月、国家行政組織法に基づき制定された文部省設置法の施行により、科学教育局は廃止されて大学学術局が設けられ、従来学校教育局と科学教育局とで分離所掌されていた大学行政と学術行政との一体化が図られ、学術行政関係の課としては研究助成課および学術課が置かれた。二十七年八月には新たに学術情報室(のちに学術情報主任官と改称)が加わり、四十年四月学術情報とともに大学図書館に関する行政事務を処理する情報図書館課に改組された。さらに四十二年六月、南極地域観測事業を含む学術の国際的な協力事業の推進と、学術に関する協力や国際学術会議・研究集会への参加の拡大など、しだいに活発化する国際学術交流の促進を図るため、国際学術課が置かれた。また、学術行政の強化を図るため、三十四年七月高度の専門的知識・識見を有する科学官を大学学術局に配して、学術に関する重要事項の企画・調査に参画させる制度が開かれ、また、三十八年には、学術の振興に関する基本的施策の策定に参画を求めるため、碩学中から五人の非常勤の学術顧問が置かれることになった。

 さらに、三十年代に至り、急速に高まってきた学術研究の規模の拡大化と国際化に伴い、国の学術に関する施策もますます複雑多岐となり、国自らが直接行なうよりは民間機関に実施させるほうが適切とされる諸事業を、国からの補助金によって、財団法人日本学術振興会に行なわせてきたが、その後もいよいよ膨張する学術振興業務に対処するため、文部省は、国の学術に関する施策と密接な関連をもちながら、流動的・弾力的に運営する必要のある事業を実施する主体を確立し、あわせてこの種機関の国際的信用を高めるため、四十二年九月、財団法人日本学術振興会を発展的に解消して、新たに特殊法人「日本学術振興会」を発足させた。

 次に学術行政に関する審議会について概説する。

 昭和二十四年六月、学術の奨励および普及に関する事項の調査・審議を目的として学術奨励審議会が設置され、これは科学研究費補助金等分科審議会をはじめ八つの分科審議会で構成された。しかし、同審議会は、学術行政に関する特定の諸事業を実施するための諮問機関としての性格のものであって、学術全般に関する施策を総合的に調査・審議する機能を欠いていたので、研究所の設置等学術研究体制の整備を図ることを主眼に新たに「国立大学研究所協議会」が設置された。この協議会は、二十八年二月から四十年七月に至るまで、幅広い活動を続けた。

 学術奨励審議会については、その後、三十九年六月学術研究体制分科会が、また、四十一年七月には学術研究基本方策分科会が置かれて、学術に関する重要施策の総合的な審議を行なう試みがなされたが、その体制の抜本的な立て直しを図る必要があり、四十二年六月、学術奨励審議会を発展的に解消して「学術審議会」が設置された。同年九月文部大臣から「学術振興に関する当面の基本的な施策について」諮問を受け、以来、学術審議会は、科学研究費補助金の運用上の改善策、素粒子研究所の設立などについて重要な答申をしたほか、学術研究体制および学術研究条件の整備についてそれぞれ特別委員会を設け、学術研究の長期的・総合的な振興方策を樹立するべく審議を行なっている。

 明治以来の伝統をもつ測地学委員会は、二十四年六月測地学審議会と改組された。この審議会は、測地学および政府機関における測地事業計画に関する事項を審議することを目的とし、測地・気象・地震・火山・海洋・地磁気・陸水・超高層・大気圏外・地震予知等地球物理諸現象の研究および常時観測について、文部大臣のみならず関係各大臣に建議し、国内の体制を確立する上で多大の貢献をした。同時に、この審議会は、国際地球観測年へのわが国の参加について実施計画の策定に当たり、その成果の上に立って、その後も国際地球内部開発計画、地球大気開発計画、世界磁気測量、海洋調査、太陽極小期国際観測年等の国際共同観測への参加計画を次々に推進し、これらによってわが国の地球物理学の研究水準を高めるとともに、戦争により空白となっていたわが国学界の国際学界への復帰と、地球物理学における国際的な協力事業の促進に大きな役割を果たしてきているのである。

お問合せ先

学制百年史編集委員会

-- 登録:平成21年以前 --