四 青少年教育の充実

青年学級振興法の制定

 青年学級は、その発生の経緯から各地で各様の形態で発展したが、当時の地方財政の貧困のために、学級の運営は容易でなかった。そこで、青年学級が全国に普及するにつれて、その多様性は生かしながらも、学級運営上の基準を法定し、あわせて国庫補助の道をひらくべきであるという要望がしだいに強まり、文部省も法制化に着手した。その間、法制化によってかえって青年学級における青年の自主性がそこなわれるのではないかという反対論もあったが、昭和二十八年「青年学級捩興法」が成立、公布を見た。これにより、青年学級は市町村の事業として、その基本方針、開設および実施機関、管理運営および財政援助など必要な事項が定められ、制度として確立した。

 その後、農村青年人口の都市への流入、高等学校進学率の上昇など社会情勢の変化もあって、三十年を頂点に、学級数、学級生数も漸減の傾向をたどることとなったが、その中にあって、文部省は勤労青年教育の中核的役割をになうものとして、その内容改善に努力し、また特に都市における学級の拡充のため各種の施策を講じた。三十二年社会教育審議会の答申「青年学級の改善方策について」、三十三年中央教育審議会の答申「勤労青少年教育の振興方策について」等を見ても、青年学級に寄せられたなみなみならぬ期待をくみとることができる。しかし、都市においては青年学級はじゅうぶんな展開をみせるには至っていない。一方、文部省は、後期中等教育の拡充の一環として、青年学級ではは握しにくい十八歳未満の年少青年を対象に、より系統的・継続的な「勤労青年学校」の開設を三十八年度から奨励したり、また、青年学級制度にはあてはまらない小規模の学習グループのために四十一年度から「青年教室」の開設委嘱を行なったり、社会の変化に対応して、弾力的な青年教育施策を進めている。

青少年団体の活動

 平和条約発効と前後して、新しい青少年団体の結成が目だち、その活動も活発化してきた。ただ、戦前はもちろん、戦後の混乱期においても、青少年団体の中心的役割を演じてきた地域青年団とその全国組織である日本青年団協議会は、昭和三十年ごろを境に、結成基盤である地縁社会の崩壊や農村青年の離村に伴って退潮を見せ、苦難の道を歩みはじめた。

 その他の青少年団体は多彩な活動をそれぞれ独自に展開したが、この時期の団体活動の特色として、国際的な活動、同好会的な活動、奉仕活動あるいは団体相互の協力提携などがあげられる。全国的組織をもつ青少年団体を構成メンバーとして二十六年以降結成されでいる中央青少年団体連絡協議会は、海外との指導者の交流や世界青年会議総会の開催、東京オリンピック世界青少年キャンプや青年の船実施への協力、メキシコオリンピック世界青少年キャンプへの代表団派遣や万国博青少年のつどい開催など、海外との交流、国内の青少年団体相互の連携強化の推進役となった。現在、全国的組織をもつ青少年団体に参加する青少年(十五~二十五歳)の割合は約一三%であり、全国的組織をもたない青少年の団体・グループを含めてもその加入率は約二~三割と推定され、欧米のそれに比べてかなり低く、社会連帯性の欠如や人間疎外の声が高まっている時、青少年期における団体活動のいっそうの推進が期待されている。

 青少年の指導者研修としては、従前からの青少年団体指導者研修に加えて、青年国内研修や新就職者研修など、新しい面に着目した研修が始められた。国内研修は、勤労青年を県外あるいは県内の他の地域に派遣するもので、三十四年度以降各都道府県で実施され、毎年三、〇〇〇人の参加をみている。新就職者研修は、中学校卒業後直ちに就職する青年に青年の家での集団宿泊を体験させ、職業人・社会人としての自覚をつちかうもので、四十年度から実施され、参加者の数は毎年一万人を数えている。青少年指導者の海外派遣は、文部省が三十年度から経費の一部を補助して実施したほか、総理府の中央青少年問題協議会(現在の青少年対策本部)が、三十四年度から皇太子殿下御成婚記念事業として「青年海外派遣」を、また四十二年度から明治百年記念事業として「青年の船」をそれぞれ開始し、成果をあげている。

青少年教育施設の整備

 昭和三十年以降のわが国青少年教育の流れの中で特筆すべきことは、青少年教育施設の整備である。これは、公立青年の家、児童文化センター、少年自然の家などの設置に対する国庫補助の開始と、国立青年の家の新設とであるが、青少年の社会性訓練を求める時代の要請にこたえた新しい青少年教育の現われということができる。これによって、青年学級や団体に依存しすぎていた従来の青少年教育から脱皮することとなったともいえる。

 大自然の中に浩然の気を養い、共同生活の経験を積むことは、健全な心身の発達を促すにはきわめて重要なことであって、その拠点としての青少年教育施設の設置助成が三十年に始められたが、三十二年にそれは青少年野外訓練施設と呼称され、三十三年からは青年の家に改められることになった。青年の家は、当初、青年学級生などの職業教育を行なう場として、実験・実習の施設・設備が重視されたが、皇太子殿下の御成婚を記念して三十四年に国立中央青年の家が設立されるに及んで、集団宿泊訓練を行なう施設としてその性格が定着した。国立青年の家は、その後、阿蘇、磐梯、大雪、江田島、淡路、赤城、能登、岩手と次々に設置され、引き続き愛媛、岐阜両県と沖縄復帰記念事業として沖縄にそれぞれ設置が予定されているが、規律・協同・奉仕などの精神をかん養するのに適切な場であるとして、その成果は高く評価され、現在は、勤労青年だけでなく、学生・生徒にも活発に利用されている。国立青年の家の収容定員は四〇〇人ないし五五〇人である。

 公立青年の家は、はじめ収容定員五〇~六〇人程度のものから出発したが、国立青年の家の成果の影響と、在学青少年の研修増加による利用効率の問題などから、・規模の大きいものを求める声が高まり、四十一年度から二〇〇人以上を収容する中型の青年の家の設置が始められた。現在では、従来の地方型のものから中型のものの整備へと重点が移っている。また、激増する都市青年を対象として、簡易に利用でき、しかも宿泊を伴わない施設の設置が要望され、三十九年以降いわゆる都市青年の家が設置されることとなった。四十六年度現在の整備状況は、地方型一三六か所、中型一五か所、都市型四三か所である。

 少年教育施設としては、少年に対する科学知識の普及、情操のかん養、生活指導の場として、児童文化センターの設置が三十四年度から始められ、四十六年度までに三〇か所整備されている。一方、都市化の進展に伴って、少年の健全な発達に欠くことのできない自然項境が失われつつあることから、四十五年度から、恵まれた自然環境の中に少年自然の家を設置し、集団宿泊訓練とともに野外活動や自然探究を行なうこととしたところ、タイムリーな企画であるとして、各地から設置が要望され、翌四十六年度とあわせてすでに一〇か所が誕生した。これは、学校教育と社会教育を結ぶものとしても、これからの発展が期待されている。

少年の生活指導

 少年教育は、戦後、児童愛護班の結成の奨励や全国児童文化会議の開催など教護対策の色彩が強かったが、昭和三十年代にはいってから、子ども会など少年の組織活動を重視する方向へ変わってきた。三十年代後半には、少年教育指導資料として「家庭および社会における生活指導」を作成配布、四十年代には、市町村への補助事業として、子ども会等少年団体指導委員の委嘱や、いわゆるカギッコの生活指導等を行なう留守家庭児童会育成事業や、校庭等を子どもの遊び場に開放する校庭開放事業などの施策を進めてきている。少年の生活が学校、家庭、社会の三者にまたがるという認識に立ち、学校教育、家庭教育、社会教育が有機的連携を保ちながら役割を分担すべきだという考え方がようやく固まってきたということができる。

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