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七 学生運動と学生活動

学生運動

 昭和二十八年から二十九年にかけての、学生運動を指導した上部団体の分裂・抗争と有力な上部団体の日常平和闘争路線は、学生運動に大きな影響を与え、それまで過激行動をとっていた学生活動家の動揺を招き、活動を放棄する者が続出した。このため全学連は一時、崩壊の危機にひんした。その後、三十年末の国立大学授業料の値上げ反対に対する取り組みを通じて、組織面、理論面で再建に乗り出し、その後の砂川基地拡張反対闘争などでは、行動面でも顕著な立ち直りを示し、以後、政治闘争路線を踏襲し、勤評反対闘争、警職法反対闘争などに際しては、上部団体とは別に独走することがたびたびあった。この間、上部団体として、「トロッキスト連盟」(三十二年一月)および「共産主義者同盟」(三十三年十二月)が結成され、武力革命による「革命前衛党」と称し、いわゆる第一次安保闘争からの学生運動に影響を与えることとなった。

 三十四年にはいると日米安保条約改定問題が政局の焦点となり、左翼諸団体の共闘体制が進む中で、全学連は、実力行動を強く主張して共闘体制から逸脱し、街頭過激行動の傾向を深めた。特に翌三十五年五月、衆議院本会議で新安保条約が可決された後は、国会包囲デモ、首相官邸突入、国会構内乱入など過激な戦術を展開した。

 いわゆる武力革命を指向して、この第一次安保闘争に組織をあげて取り組んだ全学連は、その後、指導理論をめぐって、分派抗争を起こすに至り、さらには闘争後の挫(ざ)折感もあって破壊状態になり、三十七年後半からの国立大学管理法案上程の動きを契機として組織の再編統一を図ろうとしたが、同法案が国会上程に至らなかったため、執行部は再び分裂することとなった。

 この間、民青系集団は、上部団体の全面的指導のもとに、日常闘争路線による勢力拡大を基盤として、三十七年八月、「安保反対、平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(「平民学連」)を結成し、三十九年十二月には、いわゆる民青系全学連を再建した。一方、これに対抗する過激派三派(中核派、社学同諸派、社青同解放派)も、四十一年十二月末、いわゆる三派系全学連を発足させ、これにより、従来の全学連の執行部を掌握していた革マル系とあわせて、大きく三つの全学連に分裂した。

 その後、三派系全学連は、三十八年から三十九年にかけての日韓条約反対闘争など政治闘争に対して大きな盛り上がりをみせることができなかったことから、以後の政治闘争についてはかつてない過激な方針を強く打ち出し、四十二年にはいってから街頭で武装闘争を展開するに至った。すなわち同年十月八日、三派系全学連は、「総理のベトナム訪問阻止」と称し、羽田空港付近において大量の角材、石塊等を使用して警備の機動隊と衝突し、警備車を放火、炎上させるなど、いわゆる第一次羽田事件を引き起こした。三派系全学連は、引き続き、「第二次羽田婁件」(四十二年十一月)、「エンタープライズ寄港阻止闘争」(四十三年一月)、「王子野戦病院開設阻止闘争」(四十三年二~五月)、「新宿騒擾事件」(四十三年十月)、「四・二八沖縄闘争」(四十四年四月)、「総理訪米阻止闘争」(四十四年十一月)等においても、大量の火炎ビン、石塊を使用して機動隊、警察施設を始め、交通機関など一般市民にも大きな危害を加えた。また、最過激派といわれた「赤軍派」は、四十五年三月、乗客を人質にして日航機を乗っ取り、「朝鮮民主主義人民共和国」に渡航するという暴挙に出て困難な国際問題にまで波及した。

 一方、民青系全学連は、日韓条約反対闘争後の四十一年ごろから、学園問題に対する取り組みを通じて、その勢力拡大に努めており、反民青系の諸集団も、これに対抗するため、学園問題に取り組むに至り、四十一年の早稲田大学の学費値上げ、学生会館紛争、さらに同年末から翌年始めにかけての明治大学、中央大学の学費値上げ紛争においては、全学バリケード封鎖、占拠等、全学生をまき込んでの紛争を起こすに至った。これらの行動により、その後の学園紛争の多発期にもみられるように、政治闘争の停滞の中にあって、学生運動は再建、強化されていった。

 四十三年にはいり、東京大学においては、医学部の研修医問題に端を発した紛争が、無期限ストに発展し、安田講堂占拠、機動隊導入による占拠学生の排除、同講堂の再占拠を経て他学部へも波及し、本郷地区は、安田講堂を中核にしていわゆるバリケード封鎖の状態となった。大学当局は、翌年一月十八日、機動隊の出動により封鎖を排除したが、大学全体の秩序は回復せず、遂に四十四年度の入学試験は中止された。この事件は、他大学の学生運動にも大きな影響を与え、大規模な闘争が続発し、東京教育大学においても封鎖、占拠を伴う紛争のため、東京大学と同様、同年度の入学試験は、一部を除き中止された。日本大学においても、学園民主化問題で封鎖、占拠が行なわれ、機動隊による封鎖解除等大学の秩序が回復するのに十一か月間も要した。

 四十三年度から四十四年度にかけて東大事件や日大事件に象徴される学園紛争は、全国に波及し、四十三年度は六七大学、四十四年度は一二七大学で紛争が発生した。しかし、四十四年度の後半にはいってからは、同年八月、「大学の運営に関する臨時措置法」の施行を契機に学内外の努力によって、紛争はようやく鎮静化の方向をたどるようになった。なお、この間、革マル派を除く過激派諸集団は、各大学全共闘の全国的組織化を図って「全国全共闘連合」を発足させた。

 このように四十二年十月の第一次羽田事件以来、一部過激派学生によって大学の内外を問わず、暴力行為が繰り返されたことは、大学における教育・研究に支障をきたしたのみならず、社会的にも大きな不安を与えたため、前述のように、四十四年八月には「大学の運営に関する臨時措置法」が五年の時限立法として制定、施行されたが、文部省においても、四十二年以来、いくどか通達を発し、また、大学側でも学内の秩序の維持と暴力行為の根絶についての指導に特別な措置を講じた。

 四十五年六月の日米安全保障条約の改定期に当たってのいわゆる第二次安保闘争においては、四十四年秋の「総理訪米阻止闘争」などで大きな打撃を受けた過激派集団の行動は、組織の再建、拡大をねらいとした武闘抜きの大量動員方式となった。

 四十七年(一九七二年)に予定された沖縄の施政権返還に対し、「沖縄返還は、日本帝国主義のアジア再侵略をもくろむもの」と主張して反対する過激派集団は、四十六年十一月の沖縄返還協定の国会承認時を実質上の返還時と称し、闘争の頂点をここにおき、火炎ビン、手製爆弾等の凶器による警察官およびその家族の殺傷、警察施設等の破壊、放火など悪質狂暴な行動に出るに至った。また、沖縄返還闘争の間にあって、全国全共闘連合は、しだいに単なる体制否定と無拘束を行動理念とする過激派小集団に分裂していった。それら小集団の増加とともに、既成派閥間においても主導権争いによる抗争が激化し、「内ゲバ」と称される暴力事件をひんぱつするに至った。

学生活動

 学生の課外活動は、大学教育における人間形成に重要な役割を果たすものとして重要視されてきたが、その活動は、教養、スポーツ、芸術、趣味、社会奉仕等各方面にわたり、たとえば、昭和四十六年度の国立大学についてみると、学生の約六〇%が参加し、団体の種類は、文化系約一四〇、体育系約六〇、合わせて二〇〇種類にも及んでおり、学生生活の多様化等に伴い、今後、その範囲は、ますます拡大する傾向にある。四十七年度には、正課・課外を通じての全学的な体育指導の一体化を図るため、北海道大学と京都大学に体育指導センターが設置されることになっているが、これは、体育系の課外活動の充実に大きな役割を果たすものとして期待されている。学生の活動は、国際的範囲にも及んでおり、日本学生奉仕団は、世界大学奉仕団(WUS)加盟各国団体との協力のもとに学生生活の安定を図ることを目的として、二十三年に設立され、三十年七月には学生サナトリウムを開設し、また、在日外国人学生に対する修学援助、WUS主催の国際セミナーへの教官、学生の派遣、アジア諸国大学への専門図書、医薬品の寄贈等、学生への奉仕と国際理解の・促進に寄与している。このほか国際経済商学生協会(AIESEC)は、三十七年七月に設立され、経済・商学を学ぶ学生を海外の企業に研修のために派遣するとともに外国人研修生を受け入れるほか、国際セミナーへの参加者派遣等を行なっており、また、三十九年六月に設立された国際学生技術研修協会(IAESTE)は、国外の技術体験を望む学生にその機会を与えており、これらの団体は、世界各国の学生との国際的な理解と親善に寄与している。

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