四 学校施設の整備

終戦直後の学校施設の状況

 戦災による学校施設の被害面積は、国・公・私立合わせて約九三〇万平方メートル(表45参照)、被災学校数は三、五五六校で、当時の保有面積の約一二%強に当たると推定されている。このうち公立学校の被害は約六八六万平方メートルにも及び、約二〇〇万人以上の児童・生徒が学ぶべき教室を失ったことになる。しかも、その復旧は遅々として進まず、ようやく昭和二十一年度下半期に至って、当時、経済安定本部所管であった公共事業費の中から学校の戦災復旧事業費が計上されたが、困難な財政事情と建築資材の不足のため、本格的な復旧計画は実現されず、わずかのバラック応急校舎を建てるのに過ぎなかった。すなわち、戦災復旧事業は二十七年度までに国立学校において被災面積の五八%、公立学校において四一%が復旧されたに過ぎず、完全な復旧までにはその後なお十年の歳月を必要とした。

表45 教育施設の罹災状況

表45 教育施設の罹災状況

 このような状況であったため、終戦直後の学校施設の不足ははなはだしく、特に二十二年に義務教育年限延長をじゅうぶんな施設の対策をたてることなく実施したため、その直後の数年間は旧軍施設の転用をはじめ、占領軍払い下げのカマボコ兵舎の利用、焼け残りの客車、バスを利用した教室での授業のほか、実際に青空教室まで出現し、二部授業で急場をしのぐ有様であった。

 一方、占領に伴い、国・公・私立の学校施設四八、社会教育施設二四、計七二の施設が占領軍により接収されたが、二十七年の平和条約発効までにその約半数が解除され、残余については閣議決定に基づく補償等が行なわれた。

 また、戦時中から校舎を軍施設や工場に転用したり、校舎に罹災者を収容するなど、教育目的以外に使用する例が多かったが、この状況は戦後まで持続していた。一方、疎開児童の復帰、新学制の実施等で校舎の不足はいよいよはなはだしく、校舎の不当使用が教育上に与える影響が大きかった。このような状況に対し二十三年十一月総司令部は日本政府に対し、教育施設の不当使用の禁止について覚書を送り、政府は翌二十四年二月「学校施設の確保に関する政令」を公布した。この政令は、二十七年四月に法律に改められたが、二十六年十一月までに四、一五四教室、約二三万平方メートルの不当使用が解除された。

六・三制校舎の建設

 昭和二十二年三月、新たに学校教育法の施行によって、三年間の義務教育の延長がなされ、いわゆる新制中学校が誕生した。木来、制度に先行して施設費は予算化すべきではあったが、発足した年の当初予算では、わずかに男女共学となるための便所の改造費程度しか計上されなかったため、新制中学校は発足当初から施設問題を背負いこんでしまった。

 その原因としては、従来の中学校、高等女学校が予想したほど新制中学校とならずに、新制高等学校に移行したことや、青年学校の保有面積の過大見積もりがあったことなどがあげられるが、結果として新発足した中学校はもとより、同じ市町村の小学校の授業をも圧迫し、二部または三部授業を行なっている学級数は、二十二年七月現在で一万三、〇〇〇学級にも及んだ。

 このような事態に対処して二十二年度補正予算で七億円が中学校建築補助金として認められ、二十三年度予算には約五〇億円が計上された。しかるに、二十四年度の当初予算では、超均衡予算政策のため、六・三制施設予算は全額削除されることとなった。このため、六・三制予算が当然継続されるものとの見込みで、待ったなしの増加生徒を収容するために、校舎建築費補助金を見返りに借金までして工事を計画し、実施していた市町村当局に大打撃を与え、全国一七〇に上る市町村長の引責辞職やリコール問題にまで発展し、非常な混乱を引き起こした。かかる事態を打開するため、全国一せいに詳細な「全国公立学校施設実態調査」を実施し、学校建物の不足の実態を明らかにした。その結果、二十四年度補正予算に一五億円、二十五年度予算に四五億円が計上され、児童・生徒一人当たり二・三二平方メートル(〇・七坪)までの補助が予算化された。

 この一人当たり基準までの整備補助は、はじめは市町村単位ごとのプール計算であったが、通学困難な地域を別単位としたり、独立中学校を別単位とするなど、しだいに学校単位にまで単位の合理化が進められていった。

 戦争直後は資材・労務の確保が困難な時期であり、建築用の資材は「臨時物資需給調整法」および「臨時建築等制限規則」等に基づき統制されたが、文部省では必要な学校建築ができるだけ計画的に実施できるよう資材の確保に努め、このためその取り扱う資材関係事務は一時膨大な量に上った。なお、施設整備関係の予算は、戦災復旧、災害復旧を含めて各省の公共事業とともに経済安定本部所管の公共事業費に一括計上され、文部省が各四半期ごとに予算の移し替えを受けて執行していたが、直接文部省予算に組み込まれることとなったのは二十六年度以降であった。

 このように戦災復旧と六・三制実施のため、応急に大量の学校施設を整備しなければならなかったため、当時技術的に劣悪なものが数多く建築された。その間にあって学校建築の質的向上に資するため、二十二年度から二十九年度まで、モデルスクール二〇校を指定し、実際に建った新しい型の学校建築を通じてその普及に努めるとともに、二十五年度から二十七年度まで、地方公共団体の熱意と努力によって建設した優良施設校二一四校と、六・三制発足以来学校建築に功労のあった人々を表彰して、少しでもよい学校建築が建てられることを奨励した。また、学校建築技術の向上と全国的な質的水準の確保を図るため、二十四年四月、日本建築規格として、木造小・中学校建物が告示され、さらに鉄筋コンクリート造校舎の標準設計については、二十五年日本建築学会の協力によって、四種類の構造標準図を作成し、その普及に努めた。また、二十五年には「建築基準法」が制定されたが、その中で学校建築は特殊建築物としてその設計計画について詳細な規定を設けて、技術水準の確保を図った。

国立大学の施設整備

 国立学校の施設整備については、まず昭和二十四年度から発足した新制大学に対する施設をどうするかということが問題であった。戦災により保有面積の約一六%に当たると推定される一三三万平方メートルの校舎を失った国立学校の復旧・整備は遅々として進まず、やむなく若干のバラック建築を行なうことと、約九六万平方メートルに上る旧軍施設の転用を受けて応急の補修を行なうことにより、とりあえず、教育と研究の場とした。

 新制大学に移行してもその大部分は旧制の国立学校の数校が名目上一大学を構成したものであり、管理上および教育上施設の再組織を必要としていたが、とうていそのような施設整備までは手が及ばなかった。それどごろかそのままの状態でも、特に戦時中県立から国立に移管された旧制師範学校、旧青年師範学校、戦時中新設された旧医学専門学校および戦後他省から移管された学校の施設などは、いずれも不足がはなはだしく、ほとんど創設に等しい整備を必要とするものが多かったから、整備を機会に分散した施設の統合の推進が試みられたが、地域社会との関係もあってその整備方針の確立は非常に困難であった。

 このような状況に対して文部省では、二十五年十月、大学設置審議会に第九特別委員会を設けて、国立大学の総合整備計画の基本方針を諮問した。同委員会は各大学の施設の状況を個別に検討し、二十六年五月その結論を答申した。

 この方針に基づいて、従来、それぞれの現在地において行なわれていた国立学校の戦災復旧が再検討され、単純な旧施設の原形復旧ではなく、新しい構想による総合的な整備計画が三段階に分けて進められることとなった。しかし一方には、義務教育である六・三制校舎の緊急整備の問題があったため、国立学校の施設整備は意のごとく進まなかった。当時の施設整備の大部分は木造バラックと、旧兵舎等の改修であり、鉄筋コンクリート造はきわめてわずかな部分に限られていた。戦後二十七年度までに、国・公立学校の施設整備に投入された国の予算は合計約三一八億円であるが、国立学校分はそのうちのわずかに約四九億円に過ぎなかった。(表46参照)

表46 文教施設整備に対する国庫支出予算額の推移

表46 文教施設整備に対する国庫支出予算額の推移

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