四 学校給食の普及・奨励

 わが国の学校給食は、明治二十二年十月、山形県鶴岡市の私立忠愛小学校で、仏教慈善団体が貧困児童に対する就学奨励のために実施したのが初めであるとされているが、国が学校給食に初めて関与したのは、昭和七年経済不況による就学困難児童救済のため、「学校給食実施の趣旨徹底方並びに学校給食臨時施設方法」に関する訓令により、国庫から六七万円を支出して学校給食を奨励したのを発端とする。その後、学校給食は、貧困児救済から、栄養不良児、身体虚弱児を対象とする保健施策的性格を強めたが、第二次大戦の深刻化とともに中止された。終戦後、二十一年十二月、「学校給食実施の普及奨励について」の通牒が、文部、厚生、農林の三省次官名で発せられ、極度の食糧不足に対処し発育の助長と健康保持を目ざして全校児童を対象とする学校給食が、翌二十二年一月から、アジア救済連盟(LARA)の寄贈食糧、元陸海軍用かんづめの放出を得て、全国の都市小学校児童三〇〇万人に対し、週二回実施された。その内容は、一人一回の熱量一八〇カロリー、たん白質一五グラム程度の補食給食であった。また、この年の秋には、米国援助の脱脂粉乳が配給され、それが大いに普及された。

 二十三年には前記の脱脂粉乳と文部省のあっせん物資とによって都市・町村を通じて週五回の給食が実施され、ようやく給食を教育的に取り扱う風潮が盛んになってきた。さらに国際連合児童緊急基金(UNICEF)寄贈の脱脂粉乳による給食が各都道府県単位に実施校を指定して二十四年十月から開始され、二十五年末まで続けられた。

 パン・ミルク・おかずの三種による完全給食は、米国政府寄贈の小麦をもって、二十五年七月から六大都市に広島、福岡を加えた八大都市の児童一三五万人に対して開始され、二十六年二月には、全国の市制地域一都二四六市の児童四〇〇万人に発展した。

 ところが、二十六年講和条約の調印に伴い、完全給食実施の基本となっていた占領地域救済資金(GARIOA)による小麦の贈与が、同年六月末で打ち切られることになり、学校給食の継続が困難となった。そこで、政府は、学校給食を継続すべしという熱烈な世論にこたえて、学校給食継続の閣議決定を行なうとともに、その必要財源を国庫負担することとなった。しかし、二十七年度予算においては、従来行なわれてきた脱脂粉乳に対する国庫補助が中止され、小麦粉に対する国庫補助はいわゆる一〇〇グラム、一円補助となったので、学校給食費の父兄負担額が上がり、そのため、当時の給食実施校一万一、六〇〇校中約三、二〇〇校、給食実施児童数約八〇〇万人中約二〇〇万人が給食中止のやむなきに至り、給食継続校においても給食費未納者が増加したので、学校給食を法制化し、制度の安定を図る気運が急速に高まってきた。

 また、文部省は、二十七年三月「昭和二十七年度の学校給食実施方針」を示し、都市と町村を問わず、真に教育的な完全給食の励行に努めるよう要望した。さらに、同年十月「学校給食を中心とする学習指導」の手引を発行し、学校給食に関する指導の内容と方法を示唆した。

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