四 社会教育の諸活動

学校開放と学級諸講座

 民主主義についての理解をできるだけ早く国民に普及、徹底させることが、戦後の政府に課せられた命題であったが、緊急措置として社会教育行政が担当したものに公民啓発運動と新憲法普及運動とがある。前者は、昭和二十年十二月に公布された衆議院議員選挙法によって、選挙権年齢が二十五歳から二十歳に引き下げられ、また婦人にはじめて選挙権が与えられることとなったため、その新しい有権者層を主たる対象として政治教育を行なうものであり、文部省では、公民教育講師講習会を大規模に実施するとともに、総選挙に対する心がまえを教えることを眼目とした母親学級を当時の国民学校を中心として開設するよう奨励した。後者は、二十一年十一月に公布され翌二十二年五月に発効する新憲法の精神を、国民のひとりひとりに浸透させることを目的としたもので、文部省では、新憲法公布記念公民館の設置を奨励したり、公民館に新憲法普及講座の開設奨励金を交付したりする一方、当時の大学・高等専門学校に新憲法の解説などを内容とする文化講座の開設を委嘱した。

 これらの施策の中にすでに見られるように、社会教育の方法として学級・諸講座が取り上げられているが、特に、いわゆる学校開放講座が活発に進められたことは注目に値する。学校開放の事業は、米国教育使節団の報告書にも成人教育の大きな推進力として掲げられていたが、文部省もこれを強力に奨励し、小・中学校において母親学級、社会学級・謹座などが実施されるとともに、大学等においては文化講座、専門講座、夏期講座などが大学人の意欲的な協力によって実施され、学校教育と社会教育との密接な提携が実現を見たのである。社会学級の中でもやや組織的、系統的な形態をとる成人学校はおもに都市に発達したが、二十四年に神奈川県川崎市にはじまり、やがて全国に普及した。その他さまざまの名称の学級や講座が成人教育として行なわれるようになったが、公民館の設置が進むにつれ、それらは学校開放としてだけでなく、公民館で開催されることも多くなった。

 教育内容として戦後特に強調されたものの一つに、科学的な判断力を養うということがあったが、文部省では二十二年度から国民科学講座を各都道府県に委嘱して実施し、三十四年度まで継続した。文部省が労働者教育として最初に行なったのは、二十一年度の産業講座の委嘱であるが、翌二十二年度からは労働文化講座と名称を改め、三十五年度まで継続実施している。その間、二十三年七月には労働省と文部省との間で労働者教育に関する分担事項について了解が成立し、労働省の行なうものは健全中正な労働組合運動の発展を図り、併わせで合理的、平和かつ迅速な労働関係の調整に資するものとされ、文部省の行なうものは「公民教育の一環として社会の一員たる労働者が健全な社会人乃至公民として必要とする教養の向上、知識の涵養、人格の陶冶に資する。」ものとされた。また、戦後の混乱の時期において、教育上憂慮すべき事象として青少年の不良化および男女の不純な交遊の問題があり、文部省では二十一年十月次官から「青少年不良化防止について」、二十二年一月社会教育局長から「純潔教育の実施について」の通牒をそれぞれ出した。純潔教育については、その後純潔教育委員会が設置され、その目標、実施の方針、行なう場所、方法その他をまとめて「純潔教育基本要項」として二十四年一月に発表した。二十四年には、衆参両院でそれぞれ「青少年犯罪防止に関する決議」、「青少年不良化防止に関する決議」が行なわれたが、それを契機に、政府は青少年問題に関係のある各省庁間の連絡、調整を行ない、青少年対策を推進するための機関として、内閣官房に青少年問題対策協議会(のちに中央青少年問題協議会と改称)を置くこととなり、同協議会は、二十四年六月に発足した。その後、都道府県・市町村にも同種の地方機関として地方青少年問題協議会が設置された。

青年学級と婦人学級

 新教育制度が実施されるとともに、従前の青年学校は昭和二十三年三月限りで制度的になくなったが、事実上は戦後はすでにないと同様で、社会教育における勤労青年のための制度は空白状態にあった。そうした中で、二十二年末ごろから、特に東北地方などで農村に働く青年たちの自発的な学習活動が活発に行なわれるようになり、これらの学習活動は青年学級と呼ばれて、しだいに全国に普及することとなった。その後、社会教育法の成立によって公民館が制度化されると、公民館の定期講座として開設されるものも多く、青年学級は急速に発展するのである。二十六年には、学級数一万をこえ、文部省も指定研究青年学級を開設するまでになった。

 婦人のみを対象とする教育としては、先に見たようにすでに二十年に文部省は母親学級の実施を奨励したが、婦人だけを特別扱いすることは差別することになるというCIEの示唆もあり、二十二年度には両親学級に改め、さらに二十二年十月からは社会学級と改称して、成人教育の一環に組み入れることとした。しかし、地方の現場においては現実の必要から婦人のみによる学級が設けられ、それぞれ任意に婦人学級、生活学級、婦人教室等と名づけられて順調な展開をみせ、今日の婦人学級の萠(ほう)芽となった。

社会教育指導者の養成

 社会教育と社会教育行政の大転換に当たり、その指導者の新たな養成がきわめて重視された。昭和二十二年以降文部省と各都道府県とが共催して全国で実施した社会教育研究大会は、社会教育の全分野にわたって研究・協議を行ない、戦後の指導者養成に先駆的役割を果たした。二十三年からは、文部省は教育指導者講習(IFEL)の一環として青少年教育指導者講習会を実施し、都道府県においてもその伝達講習を行なって、青少年団体指導者などの養成に努めたが、その他、社会教育委員大会、公民館職員講習会など、さまざまな養成・研修が分野別にはじめられた。

 社会教育主事については、教育委員会法、社会教育法の規定がふじゅうぶんだったが、その任務が重視されるに伴い、二十六年六月社会教育法の一部改正により関係規定が加えられ、その職務や資格要件が明らかにされた。それに基づいて、二十六年以降、文部大臣の委嘱する各大学において社会教育主事講習が開催されることとなった。

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