一 新しい教員養成制度の発足

終戦直後の教員の状況

 終戦直後の学校教育は、校舎の焼失、破損等による教育環境の荒廃のみでなく、教員の不足や無資格教員の悩みも深刻であった。敗戦による価値観の倒錯と社会生活の混乱と窮乏とが、多くの教師に不安と動揺を与え、食糧難や生活苦も加わって教職を離れる者、また教職への魅力や自信を失いその職を去る者が少なくなかった。教員は、当時の制度下の有資格教員のほか、高年齢の退職教員の再採用によってもまかなえず、教員免許状を所有しない中等学校卒業者等を助教として多数採用したが、そのなかには高等女学校卒業者が多かった。特に北海道、東北などのへき地においては、いわゆる「豆訓導」と称して国民学校高等科の卒業者を教壇に立たせるというような事態も生じていた。昭和二十五年当時の助教諭相当の教員数は、全教員数の約四分の一に達し、その約七〇%近くは女子であった。また、中堅層の教員を欠くゆがんだ教員構成の学校が多く、しかも、助教等の定着率は低く依然として教員不足の状況が続いた。一方、占領政策としての教育関係者の適格審査と不適格者の教職追放に関する指令に基づく措置がきびしく、教育界は大きな不安につつまれながら、新教育への道を歩まなければならなかったのである。教育刷新委員会の建議

 教育刷新委員会は、第一回建議の中で「教員の養成は、総合大学および単科大学において、教育学科を置いてこれを行なうこと。」を提案し、新学制の実施とあわせて教員養成制度の抜本的改革の基本を示した。その後委員会は、特別委員会を置いて、引き続き専門的な審議を重ねたが、この審議においては、過去の経験や新教育の理念にかんがみ、教員養成のために師範大学あるいは教育大学は特設すべきでないという意見に対し、新学制実施に伴う教員の需要に対応する計画的養成の必要、教員としての専門的な教育のため目的的な教育大学特設の主張も強かった。委員会は、結局、昭和二十二年五月の総会においてようやく結論に達し、同年十一月に建議したが、その要旨は次のようなものであった。

 (一)小学校・中学校の教員は、主として、1)教育者の育成を主とする学芸大学を修了または卒業した者、2)総合大学および単科大学の卒業者で教員として必要な課程を履修した者、3)音楽・美術・体育・家政・職業等に関する高等専門教育機関の卒業者で教員として必要な課程を兼修した者のうちから採用する。

 (二)高等学校の教員は、主として大学を卒業した者から採用し、幼稚園・盲学校およびろう学校の教員ならびに養護教員はだいたい(一)に準ずる。

 (三)現在の教員養成諸学校中適当と認められるものは学芸大学に改める。ただし、臨時措置に関しては、別に対策委員会を設けてこれを審議する。

 (四)従前の教員養成諸学校の教員養成のための学資支給制、指定就職義務制は廃止する。教員の配当計画については別に考慮する。(五)教員の養成に当たる学校は、官・公・私立のいずれとすることもできる。

 (六)教育者の育成を主とする学芸大学の前期を終了したものは、小学校教員となることができる。

 (七)教員資格に関しては別に考慮する。

 この建議の主旨に基づき、わが国の教員養成は、今後は大学教育により行なうものとし、特に教員養成を主とする大学・学部のほか、国・公・私立のいずれの大学においてもできることとする方針が確立された。

教育職員免許法の制定

 新しい大学における教員養成に必要な教育課程は、教員の資格付与の条件と関連するので、資格制度を定めることが先決問題であった。そこで文部省は鋭意検討を進めていたが、昭和二十四年四月に「教育職員免許法」の政府原案がまとまり、同法案は第五回国会において可決成立し、同年九月から施行されたが、制定当時におけるそのおもな点は次のとおりである。

 (一)大学以外の学校の校長、教員および教育委員会の教育長、指導主事は、すべて免許法により授与された各相当の免許状を有するものでなければならないこと。

 (二)免許状の種類は、普通免許状、仮免許状および臨時免許状とし、普通免許状は一級および二級とすること。

 (三)普通免許状は、原則として大学において教職専門科目にかかるものを含む所定の単位を修得することを授与の要件とすること

 (四)現職教育によって修得した単位により上級または異種の免許状の授与を受けることができること。

 (五)免許状の授与権者は、国・公立学校の教育職員の場合は都道府県教育委員会、私立学校の教育職員の場合は都道府県知事とすること。

 さらに、免許状を取得するために大学において修得しなければならない一般教育科目、教科専門科目についての最低単位数等の基準については、免許法の施行規則で詳細に定められた。また従前の免許状を所有していた者および従前の学校を卒業した者などに対する新免許状の授与に関する事項については「教育職員免許法施行法」で規定され、免許法と同時に施行された。このように新制度においては、国立の学芸大学・学芸学部等はもとより、一般の大学・学部においても、免許法に定める基礎資格と単位を修得すればそれぞれの特色ある学問を修めながら教員の資格を取得することができるいわゆる開放制度となった。このような新しい教員養成制度は、免許法の施行によっていよいよ二十四年から発足した。それはまさしく明治五年以来の画期的な改革であった。

新しい教員養成機関

 旧制度下の各種の教員養成学校については、昭和二十一年四月これらの学校についての規定が整備され、教員養成諸学校官制が制定され、続いて起きる制度改革に備えた。

 新しい教員養成はすべて大学教育によって行なうという原則が確立されたが、一方、文部省においては、国立大学設置十一原則を立て新制の国立大学設置の準備に当たった。この原則に基づいて、各都道府県に置かれる国立大学には、必ず学芸学部または教育学部を置き、単科の場合には学芸大学とする方針がとられ、従前の師範学校および青年師範学校がその母体とされた。

 かくて、二十四年五月に国立学校設置法により、教員養成を主とする学芸大学(七)、学芸学部(一九)、教育学部(二〇)が設けられた。学芸学部は、小学校・中学校の教員養成に必要な課程のほか、当該大学のすべての一般教育を担当する建て前とされ、教育学部は、旧制高等学校を包括した大学に置かれ、小学校・中学校の教員養成に必要な学科目のうち教職および芸能、体育関係等のものを用意し、その他の科目については他学部の協力を得るものとした。また、義務教育年限の延長に伴う教員需要の急増に対処して、教員資格取得の臨時的年限短縮のため、これらの大学・学部に二年修了の教員養成課程も設けられた。なお、高等師範学校等の中等学校教員の養成諸学校もそれぞれ新たに設置された総合大学に包括され、または単科大学に昇格した。

 小・中学校の教員については、主として国立の教員養成大学・学部において計画養成が行なわれることとなり、その入学定員は各都道府県の教員需給関係を考慮して設定した。高等学校教員については、一般の大学・学部のほとんどがその学科の専攻に即した教科についての中学校・高等学校の教員の免許状を取得させる課程を設ける等の事情にかんがみ、この卒業者を主としてその供給源とした。二十七年以降において音楽・美術工芸・書道・体育などその養成確保が比較的困難な教員の養成を図るため教員養成大学・学部に特別教科教員養成課程が設けられた。また産業教育の教員についても特に計画養成はしていないが、国立大学の農学部・工学部・水産学部等にそれぞれ教員の養成を特別に委嘱しその需給の円滑化に資した。特殊教育の教員の養成については、二十五年から教員養成大学・学部に盲学校の二年課程(二)、聾学校の二年課程(六)が設けられたほか、東京教育大学には、二十六年に特設教員養成部が附設され、さらに翌年特殊教育学科が設けられた。幼稚園教員については、二十五年からお茶の水女子大学と奈良女子大学に二年課程による養成を委託したほか、一年課程の指定教員養成機関が一二か所に設置された。養護教員の養成についても二十六年度から各地に公立の指定養護教諭養成機関が設置されるに至っている。

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