六 学生の厚生指導と奨学援護

終戦直後の学生生活と奨学援護

 戦後、戦場や工場から学園にもどった学生は、その日から戦後の社会的・経済的混乱にまき込まれ、深刻な食糧難と住宅難に直面し、また、家庭からの仕送りもとだえて、多くの学生は、生活費をうるために街頭販売、行商から重労働まで行なわざるを得ない状態となり、学校への出席状況も悪く、昭和二十年の暮れには、臨時休校を行なう学校が各地に続出した。

 このような学生生活の危機に際して、学徒の援護を行なうため、戦争末期の二十年三月に創設された「動員学徒援護会」を改組した財団法人「勤労学徒援護会」は、国の補助を得て、二十一年三月にはアルバイトあっせんを開始し、同年五月には東京に学生寮を開設した。その後、二十二年にはいってからは、名称を「学徒援護会」と改めるとともに、地方主要都市にも順次学生寮を開設し、二十七年度には、全国九か所の学生寮で一、七〇〇人の学生を収容する一方、四か所の学生相談所でアルバイトのあっせんその他学生の援護のための業務を行なうに至った。

 他方、昭和十九年の「大日本育英会法」の制定により、大日本育英会を通じて実施されてきたわが国の国家的育英奨学事業は、終戦前においては、少数の英才を対象として手厚く援助することを意図していたが、戦後の社会的混乱に直面して、学徒の緊急な救済が当面の課題となり、同会の業務に大きな転換が要請されるに至った。すなわち、対象とすべき学生数の増加に対処するため、奨学生採用数を大幅に増員するとともに、奨学生の採用方式についても、従来の進学希望者から予約採用する方法を廃して、二十三年度からは在学生から採用することとした。また、創設当初は生活費の全額をまかなうことを建て前としていた奨学費の額についても、奨学生数の増加とインフレーションに対応できず、その一部を援助する程度の額となった。このようにして、二十一年度には約一万人であった奨学生新規採用数は、翌二十二年度には一挙に三倍の約三万人に、事業費においては十倍の一億円となり、その後も年々増加して、二十七年度には、奨学生新規採用数七万人、事業費総額三〇億円となった。

 なお、この時期には、医学実地修練奨学生、通信教育奨学生、旧制大学特別奨学生、大学院研究奨学生、教育奨学生等の一連の特別の目的に沿った奨学生制度が設けられたが、なかでも、高度の学術研究者の養成確保を目的として十八年十月から文部省が実施してきた大学院特別研究生制度を継承するものとして、日本育英会を通じて二十四年度から始められた「大学院研究奨学生制度」と、義務教育の教員の養成確保の施策として二十五年度から始められた「教育奨学生制度」とは、その後も大きな役割を果たしているものである

学生運動と学生補導

 学生生活の危機に対処しようとしたものは国や学校のみではなく、学生自身の努力にもめざましいものがあった。昭和二十一年から二十二年にかけて、学生生活協議会、学生食堂連合会、全国学校協同組合連合会などが相次いで設立され、なかには、在外父兄救出学生同盟のような活動にまで及ぶものもあった。

 このような学生生活復興運動としての活動とは別に、学園における民主的自治活動の訓練手段として組織された学生自治会の動きもしだいに活発になり、二十三年初頭の授業料値上げ反対運動を契機に、同年九月には全国的組織としての全国学生自治会総連合(「全学連」)が結成されるに至った。連合国軍の占領政策がしだいに変化して反共主義の立場をとるようになり、その大学に対する方針が二十四年から二十五年にわたる占領軍顧問イールズ博士の大学遊説において表明されるに至るや、学生運動は急速に反占領政策的な政治活動を指向するようになった。全学連は、二十五年一月のコミンフォルムの日共批判による上部団体の動揺を契機として過激な非合法活動に出るようになったため、学内外の批判を受け、二十七年秋には、学園の日常闘争を加味した学内での学園民主化闘争と学外での過激な街頭闘争という二面的傾向をとるに至った。

 このような学生運動の状況の中にあって、二十五年から全国三会場で開催された厚生補導研究会では米人講師団から学生補導に関する新しい考え方として、S・P・S(Student Personal Service)が紹介され、また、二十六年の第六次の教育指導者講習会(IFEL)においては、新しい学生指導のあり方として「厚生(Welfare)と「補導(Guidance)」の両面が説かれ、これらは、学生の指導、対処に当たっての指導理念として、その後における学生補導の考え方に大きな影響を与えることになった。

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